散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

40平米のテラスに起こる出来事。

2005-04-05 16:48:02 | 自然観察
今朝、おきてテラスを見ると雨がやんで間もない様子を呈していた。
折角咲いているりんごや桜の花びらが水滴を担って重そうにしている。
我が家に庭は無いが40平米弱のテラスがあって、其処には今雪柳も、りんごも、桜や、ボケも咲いていたり、その上ライラックや4メートルの白樺2本まで植わっている。この白樺一昨年は6メートルくらいだったものを、危ないからといわれて半分近くに切り詰めたのだ。
見栄えはなんともよくない木になったけれど、元気に育ち今、萌黄色の細かい葉がなんとも美しい。
ここ数年は相棒が盆栽もどきに手塩をかけていて、それは増殖し始める気配があるし、ハーブや、その他をじっくり数えて見たら、軽く100は越える植物が存在していて、そう思うとなんだかたいしたもんだな。どういう意味にしろたいしたもんだ。
―ちなみに我が家は2階―
冬の間、全く廃墟化していたテラス。凍ってヒビが入った鉢が転がっていたり、大晦日にどこかから飛んできた花火のかすなぞが、長い間雪雨風にさらされて風化していたりしていたのだけど、春になるといっせいに、そして刻々と種や根も木の芽も活動をはじめる。大きな見えない手が見えない大きな螺子をギリギリギリッと巻き上げて、精巧な仕掛けが今動き出したかの様だ。

春になって、すかんぽが青々してくると、私は春のスープを作る。
すかんぽ入りクリームスープはほのかに酸味を含んで美味しい。タンポポのほろ苦い若葉を摘んで、にんにくといため、コリアンダーの実をつぶしたものなどで味付けして、レモンを振りそれを、ギリシャのヤギチーズに添えて食べたりもする。サルベイの葉を沢山摘み、熱くした油の中に放り込んで、ぱりっと焼きあげたものを、ベイクドポテトの上にどっさりかけて食べるのも実に美味しい。
新緑の元気を体に取り込む感じがまた良い。

春になって、自然のサイクルを実感するきっかけの一つは猫達の挙動だ。
我が家の左隣には一人住まいの婦人が3匹の猫を飼っている。逆方面の並びにも沢山猫がすんでいるらしい。
猫たち、それぞれの縄張の境界線は不幸にも我が家のテラスにある。
取っ組み合いの喧嘩をして、毛玉があちこちに巻き散らかっているのはまだしも、大切にしていた鉢なんかを時には喧嘩の弾みでこわしてくれるしね。
左隣の猫は、なんと言う種類だか知らないが、北欧のほうから来たという、毛がふさふさした、ふてぶてしい面の猫だ。名前をボビィという。
私は猫嫌いなわけではないのだけど、この猫だけはどうしても好きになれない。
夏、テラス側のドアを開けておくと、彼らは知らない間に我が家に入ってきて、我が物顔に振舞う。
一人で静かにしているときに、フッと目の端に猫が通り過ぎたりするのはドキッとするものです。
それはもう絶対、一人でいると思っているときにそれをやられると、本当に驚く。
かわいい猫ならそれもゆるすんだけど。こいつはね。
でも猫が近所に増えてから、野鼠は息を潜めた。野鼠は実にかわいいチビだけど、何しろBBCの細にいり、念の入った特集番組のねずみ害の話など見てしまった時には、彼らがまき散らかす、ばい菌や排泄物の映像が頭よぎるし、仕事場はかなり物が多くて入り込まれたら、大変な事だ。
どういうわけか、ここ2年続きで真夏になると1度は野鼠が部屋に迷い込んでくる。
それは通路側のドアをあけておく時に起こる。
外がむっと暑いときに、おいでくださいとばかりに開かれたドアを見て、それじゃあとその気になるのものかね? いや野鼠の体長からするに玄関のドアをドアと認知しないんだろうなあ、なんてことに思いを馳せている場合にあらず、何しろ敵はすばやいのでこちらもすばやく反応しないと追い出す事が出来ない。行く手をなるべく急いで塞ぐべく、しかるべきポジションに、手元にある何枚もの板切れを配置して行くのだ。
そして囲みを徐々に狭く、玄関にむけて移動してゆくのだけれど、これが案外テクニックを要するわけですね。
彼らのパニック振りもかなりだけど、キョロキョロしながら板振り回しているこちらの挙動もかなりおかしいだろう。。。ねずみにとっては恐怖そのものだろうなあ。。。

とにかく、そろそろ猫たちの戦いが始まる季節。

北ドイツのでの出来事を記憶の箱から。。。

2005-04-05 01:07:52 | 美術関係
少し昔の話になるけれど、2004年の晩夏に北ドイツのBuxtehudeという町で展覧会を行った。
ブクステフーデはメルヘン街道にある小さなかわいらしい街。
展覧会の打ち合わせで出かけたときにすぐに気がついたのが写真にある中古の電話ボックス。
外側に”交換図書”と書いてある。いらなくなった本を持ってきて、並べておくと、誰かが持ってゆくというシステム。私が眺めているときは、学生風の女の子が自転車でやってきて、長い事電話ボックスの中で物色していた。本好きの私はうれしくなってしばらく様子を眺めていた。
しかし、これはこの規模の小さい町だから出来るのであって、大都会ではたちまち破壊の運命をたどるのだと想像する。
そのほかは、街にちなんだハリネズミの物語などがあったり、メルヘン祭りなども開催して観光局をひこうという努力が見られるが、すぐ隣にハンブルクが控えているのでどうしても影は薄い。

そんな小さい街の美術館での個展だった。

展覧会のオープニングで作品について話をしてくれることになったキューレーターとは物理的距離が障害であったので、メイルにて続けられる事になり、長い10何通ものメイルのやり取りは、戦いに近いものがあった。
なぜ戦いか? 
ここで、たびたび遭遇してしまう事になるのだけど、多くの西洋人は日本―禅仏教―俳句―生け花―折り紙―着物 というような言葉が一連一巻きになって、彼らの頭の中の引き出しに納まっているのだ。(最近の若者には其処にアニメ、漫画、空手なんかが加わる)
だから、作品分析をする際にはそれらの言葉を使わざるを得なくなるのかもしれない。
かのキューレーター女史は禅についてもだが、特に俳句をもって私の作品を語りたくなってしまったわけだ。
もしかすると、私の仕事には言葉が一役買っているので、結びつけたくなるのかもしれない。
もしかすると、彼女の知り合いのドイツ人が俳句クラブにいるからかもしれない。
私の必死の抵抗はなかなか認めてもらえず、挙句日本文化論へと話題は展開し、日本文化を語るだけのきちんとした知識に欠ける私自身も勉強し無ければならなかった。

ここで、その長いやり取りの内容を書く気は無いけれど、最後には彼女も俳句の件は引っ込めてくれることにめでたく相成った。
もっとも、話の最後は彼女の俳句もどきでしっかり締めて居たけれど。
西洋人(ドイツ人)は情報、分析、仕分けをしなければ気がすまないようだ。その引き出しにあわないまたは入っていないものに出くわすと、混乱を起こす場合も多いように思う。
実はキューレーター女史はオーストリア人で、彼女いわくドイツ人の中で仕事をするのは最初難しかったそうだ。聞いて見ると、オーストリア人は、ドイツ語でも表現の仕方が独特で遠まわしな物言いをするようだ。其処を推し量るに、物に対する見方やり方の差は確かに大きそう。
言葉の持つ性格がその言葉をもって生活している者の大まかな性格を作るように感じる。
言葉って面白いなあ。
かなり疲れたけれど、結果面白く、良い体験だった。

しかしそこで、俳句について考えてみるに興味が出てきた。(私が必死で作品と俳句の比較に抵抗しなければならなかった理由は何か?これをはっきり語れない弱みがあったんだけど、考えて見なければ。。。)
俳句については学校でいくつかの作品を読んだ事くらいで、気にも留めていなかったものだ。近所にはたいていどこかに句を読む人がいたりしたが、私の中でどんな風に働いているのだろう?
”日本文化”と意識はせずとも、その中で育った私自身の土台であり、私の作品に透けて見えたとしても不思議はないのだよね。

俳句。俳句を作って見ようかな。




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