散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

インスタントプリンを作る

2005-11-29 02:34:48 | 飲食後記
私は幼児的嗜好が残っているのか、ゼリーとかプリンの類が好きである。
ゼリーは夏で、冬はプリンが食べたくなる。
日本では洒落たお菓子屋に美味しいプリンが並んでいて、私に誘惑のまなざしを投げる事しきりであるから、なるべくそういう店の前は目をつぶるか、前もって調べてあれば通らずに済ますのが賢い。 いちいち誘惑に負けていたら、私の体はそのうちにプリンの定番フォームの如く肩から腰までくびれ、凹みの無い形態と化してしまう危険を感じるからだ。 恐ろしい事だ。
しかし日本にはコンビニエンスストアだのスーパーマーケットだのにも、プリンは売られているからこれを避けようと思えば、もう空を飛ぶしかない。 

昔、ドイツのスーパーマーケットでプリンによく似たデザートを売っていて、私は嬉しくなってそれを買った。 どう見てもそれは日本で見かけるプリンにそっくりで、それは美味しい筈だった。 ぺロッと蓋を剥がしていそいそと匙を入れると、手ごたえ、いや匙応えが違うのだ。 それはとろとろべとべととした出来損ないのカスタードクリイムのようで、それも薯澱粉でとろみをつけた物体であり、化学的フレーバーが鼻先を襲撃する、甘い甘い”黄色いのり”とも言うべき代物でなのだ。 これは出来損ないに違いないと思いたかったが、どれを試しても同じ事で、ドイツ人はそれを嬉しそうに旨そうにぺろぺろと掬って食べている。 これは一つのカルチャーショックだ。 その後スペイン、フランス、ポルトガルではそれぞれに美味しい焼きプリンに出会い食後にはそれが度々注文されたのは言うまでも無い事。

最近、隣街で月一回”フィッシュ・マルクト”という市が立つ。(この名前に反して魚はあまり出ていなかったのが不思議だ。)そこに出ていたスペイン人のタパス屋台でスペイン製インスタントプリンがどういうわけか一箱だけ置いてあるのを見つけた。 ディスプレィ用の小道具なのかと店員に聞けば売り物だというし、急にインスタントプリンが懐かしくなって、思わず買った。 もちろん自分で作ったプリンの方が美味しいに決まっているのだが、ジャンクフードの魅力に負けるのもたまにいいじゃないか。 
さて、今まで眠っていたそのインスタントプリンの事を思い出して、早速箱を取り上げるてよく見ると、そうだった、私はスペイン語はわからないのだった。
親切にフランス語でも書いてあるが、そうだった、私は昔フランス語を挫折したのだった。 一瞬箱を放り投げそうになったが気を取り直してもう一度眺める。
解らないとは言えこんなものたかが知れている。 短い説明文の中にほぼ分析可能な単語が見えるし、この手の説明には定型のスタイルがある。 ミルクだ、よくかき混ぜろ、火にかけろ、掻き回せだというそのくらいの事は解る。 そこに私の豊かな想像力という"つなぎ”を使ってそれらの単語をかき混ぜ火にかけ、かくして"Flan"は出来上がった。
大胆な私であるから、4人分を分けることなく、蚤の市で手に入れたガラスのゼリー型に流し込んだ。 表面はもう既に固まって、ちょっと突くとゆるゆると揺れる。

でも、これは多分食べる前の儀式であるイメージシュミレーションと私の妄想的な味への期待が膨らんでいる時が最高に美味しいのであって、一段口に入れたらすっかり目が醒めるというものなのだろうね。

再び雪の話

2005-11-28 19:16:51 | 思考錯誤
ホレおばさんは両手がぶっちぎれるかと言ういきおいで羽根布団をぶん回したに違いない。
どの車ものろのろ走るアウトバーンを走っていると白い雪が襲い掛かってくるように見えて思わず目をつぶってしまった。
もっとも私は助手席に座っているので目をつぶっても、頭隠しててうずくまっても危険は無い。まるで雪が私の目の中に向って集中攻撃をかけてくるかのように見えてきたのでもうたまらない。そんなことをイメージしてしまったら最後、顔全体がウズウズしてしまう。 
11月の雪なんて早すぎるし、この辺りはそれほど雪が積もらない地域なので驚いた。 ポルトガル辺りでも5度くらいに下がったというからやはり普通ではない。
ノルドラインヴェストファーレン州のある地域では電線ケーブルが切れたり、鉄塔が次々8本も折れたりと事故が相次いで停電。凍った雪の荷重は鉄塔をも折り曲げてしまう。まるで見えない巨人の巨大な手が鉄塔を飴の様にグニャリとへし折りながら通り過ぎたかの様だった。(私の記憶では"ランゴリアーズ”と言う映画の中でそれに近い映像があったと思うけど、どうだったかな?)
幸い私の住む極近所ではそんな災害もなく、個人的にスケジュールを乱されただけで終わったけれど、予想外の降雪を子供達は喜んで雪だるまがアチコチに出現した。





昨日は第一アドヴェント待降節第一回目の日曜日。クリスマスまでカウントダウンに入ったという感じだ。アドヴェントの事は過去記事でほんの少し触れた。隣近所のドアにはアドヴェントクランツ(リース)が飾られて、窓辺がキラキラと賑やかに飾りたてられてゆく。 最近ではアメリカ経由の派手な電飾を取り付ける家も増えてきてパチパチピカピカが増殖し、時には近所の顰蹙をひそかに買ったり、目障りだ、安眠妨害だ、公害だ、お上に訴えると日頃表面下に隠された対立なんかが露わになったりするのかもしれない、大騒ぎになったりする。 去年のニュースだったと思うけれど、毎年庭に派手なクリスマス飾りを凝らし、サンタクロースのいでたちでお菓子や小物を配る夫婦がいて、家の周りに人が集まって賑やかだったそうだ。 それが田舎の一軒屋なら良かったのだが、ひしめき建ち並ぶ住宅街での事だった。 取り立てて大きな不始末も無く、混雑整理に地元警官も好意的に出動していたが、ある日隣の住人がその騒ぎに我慢がならず訴える騒動に発展した。 その後どうなったのか結末を追いかけはしなかったけど、色々な事があるもんだ。 警察官はサンタクロースに好意的ではあったものの、隣の言い分にも一理あり、対応処理に困惑の表情だった。 今年はどうしているのか興味のあるところである。 

ホレおばさんの羽根布団もこの辺りではとりあえず在庫切れのようだ。今朝はもう湿った雪が解け始めて、一変して薄汚れた街だ。泥混じりの雪はグチャグチャで、しかも滑りやすく歩きにくい。黄色味をおびた妙な色合いの曇り空がどんよりと頭や肩にかぶさってくるのでその重みに今度は私が、雪に潰された鉄塔のようにグニャリと潰れてしまいそうだ。

ホレおばさん:グリム童話

初雪

2005-11-26 18:46:55 | 思考錯誤
昨夜、知人の家を出たのは12時ごろだった。
暖かな部屋の中から外へ通ずるドアを開けた途端、私達は思わず大声で言った。
「ひぇえ、何だこりゃ!」
なんだか間抜けで月並みな反応だけれど、知人の家に入った頃はまだ世界は裸だった。 数時間後にはすっかり白い上着を羽織ってすましていたのだから誰だって驚く。
寒くなってきていたので全く意外ではないとは言え、まだ11月だというのに、この変化にはちょっと目を丸くする。 
かなり吹雪く中を無事帰還した。めでたし。

そして今朝も降っている。しんしんと調子を崩さず降っている。
ものさしを雪の中に差してみたら10cmまで隠れた。
久しぶりに見る白化粧をした世界は綺麗で、なんとなく心楽しいのだけれど、すっかり予定が狂ってしまった。今日は出かける用事が二件あったけれど、先方はそれぞれ郊外のちょっと不便な場所で、雪に降り込められた道は外界と間もなく切断されてしまう。電話をしてみれば案の定30~40cm積もっているようで、今日は無理だという事になった。天気予報を見れば来週もずっと同じマークが続いている。 明日の予定もこれでは危ない。
まあ、暖かな家の中から雪が降るのを眺めたり、初雪を踏みしめながら散歩するのは楽しいだろうけどね。
まだすっかり風邪が治っていない事だし、今日は暖かい美味しいものを作って、こもっているのが正解らしい。

夢遊 Ⅶ

2005-11-24 08:31:58 | 夢遊
窓の向こうは暗い。
私は部屋の中から真っ暗な外をただ眺めている。
”何か”がそこに居るのが感じられるから。
暗闇はまるで黒いラシャ紙を切って窓の向こうに貼り付けたかのように均一に固い。

”何か”が光った。

それはもがく様に羽ばたく四十雀で,まるで宙にピンで留められたかのように位置が変わらない。懇親の力を込めて羽ばたいているのだ。
四十雀が羽ばたくと蝶の鱗粉のような金色の極細かい粉がゆっくりと放物線を描きながら四方に飛び散ってゆく。

気がつくと四十雀が3羽、暗闇の中で見えないピンに留められていた。


目が醒てからも、バサバサと羽ばたく音がまだ耳に残っていて、朝のお茶一口が喉を通ると同時にやっと消えていった。どちらかと言うと不快な音だった。



我が家の白樺では四十雀やエナガが時には鈴なりにぶる下がるようにして賑やかなパーティーを催している。
私の目には見えないけれど彼等の食卓にはちゃんとご馳走が乗っているのだろう。
駒鳥やミソサザイなどもやってきて誇らしげに胸を張って歌う。
隣の猫は隙間からそれを見て手をこまねいている。なぜなら隣の猫が我が家のテラスに入るには180cmの板塀を飛び越えなければならない。彼等にとってそんな事は簡単な事だけど、板塀に飛び上がったときにどうしても大げさな音がしてしまうわけだから、さっと小鳥達は逃げてしまう。 猫-飛び上がる、板塀-ガタガタ、小鳥-逃げる、飽きもせずに繰り返している様子を眺めていたら、隣の猫が自分に見えてきた。 
飽きもせずにいつも同じ事を繰り返している自分はいつか鳥を捕まえる事が出来るのだろうか? 

ヴォイニッチ・マヌスクリプトについての本を買った。

2005-11-23 00:00:42 | 読書感想
イェ-ル大学の図書館にある謎の本について。

読めない本という全く冗談のような本がある。14~16世紀ごろに不思議な言葉文字で書かれた本で、中に挟まれた書簡が本物ならルドルフ2世が所有していたことになる。
15 X 23cmのサイズの羊皮紙230ページ に250.000の謎めいたシンボル、植物、女性像のスケッチがぎっしりと描かれているのだ。

私は先日、この本のエキスパートであるジェリィ・ケネディとロブ・チャーチルの二人がこの本について書いた本”Vonynich-code"を手に入れた。

1912年に古書商のWinfird Voynichがこの世にも奇妙な手稿をイタリアのモンドラゴーネ寺院でイエズス会士から買い取った。
神学者、植物学者、数学者達が寄ってたかってこの本の謎を解読しようとし、様々な説が発表されたが、まだどれも完全に成功していない。
実は失われた文明の遺産ではないのか? ウクライナ語を母音抜きで綴った狂人の戯言? 芸術的な天才的冗談?
(母音削除のウクライナ語で解読を試した学者は幾つかの意味のあるセンテンスを発見したのだが、その後失敗に終わった。)

第一部:正体不明の植物学的な内容。
第二部:星座、又は天文学的な内容。
第三部:生物学的な内容。(裸婦、管とカプセルが融合したような物。)
第四部:九つの円形図。(曼荼羅のようなもの。)
第五部:薬草学的内容。
第六部:表裏頁に続くテキストと星の図。

どう見てもうまいのかへたなのかわからないような絵である。
どこかの暇な変人が書いたのだと言われたら、そうなのかとも思う。ひょっとして誰かに担がれているんじゃないかとも思ってしまう。

実際、ヴォイニッチ自身が製作した、又はさせたという話もあり、かなりこの確立が高そうだ。このヴォイニッチと言う人自体ちょっと謎の人物であるらしい。
挿絵を見るとヒルデガルド フォン ビンゲンやクラナッハの"Der Jungbrunnen"のイメージの下手な盗用にも見られる部分あり、又、赤インクが現在のものと良く似ているのが疑わしいとか、まあ色々疑問が山盛りなのだが、科学的調査はまだなされていない。
挿絵を見る限りでは素人が描いたようにしか見えないけれど、問題はこの文字だ。
出鱈目であると言い切る学者も数多く、16世紀、ルドルフ2世が錬金術好きにつけ込まれ騙されて買わされたのではないかという話はいかにもありそうである。ルドルフ2世の宮殿に出入りしていた錬金術師エドワード・ケリーが捏造した可能性も高い。
中には出現頻度の高い単語が連続して現れる部分もあり、出鱈目説の可能性を高めているかと思えば"解読”出来たと思われる部分も出て来るのだそうだ。

”カルダングリル”という暗号作成表を使って作成したのではないかと考えているエキスパートもいる。
(*カルダングリル:穴の開けられたカードを文字チャートに被せて可能性ある文字列を探す方法。)

面白いでしょう。
兎に角かなり怪しい本なのだ。
出鱈目でも何でも、こういうのってなんだかドキドキしてしまう。
まだ本は読み齧っているだけだが、この本がヴォイニッチ・マヌスクリプトの謎を解き明かしたわけではない、謎を提供しているだけだ。
捏造説は高いが、解明されないのも夢があっていいものだ。

こういう本を自分で作る事が出来たら素敵だ。 すると数百年後に誰かが見つけて頭を悩ませる。 喧々諤々、さてはあの失われた謎の大陸の末裔がひそかに書き残した記録書ではないか?とかね。

私は今、夢の植物図鑑を作りたいと妄想、いや構想を練っている。 だとすると解説を暗号で書いたらいいのだな? 出来たら面白いけど、やはり難しいね。
構想を練って練って練りまくっているうちに構想も私も干からびてパラパラとはじけ飛ぶのかもしれないけど、まあ練るだけでもいいか。
こういうのは考えている時が楽しいのだから。

風邪気味

2005-11-21 20:15:33 | 美術関係
展覧会の準備をしていた一昨日は日中も零下。
寒くなった。
展覧会場は古い風車だから、ひょっとして凍えるのでは無いかと思い、分厚く着こんで出かけたが、ちゃんとヒーターが充分に効いていてホッとした。久しぶりに梯子の上り下りをして最後には膝が笑い、腿が泣いた。日頃の運動不足の付けが回ってくるのはこういう時だ。
昨日は朝起きるとなんだか体がだるい。もう一度眠ってしまいたかったが身を引き剥がすようにしてベットから幽霊のように離れ、しばらくの間幽霊のまま部屋中を彷徨った。つまり洗面所に行ったり、台所でお湯を沸かしたり、窓を開けたり、ドアを開けたり、前日に散らかした本に躓いたり、前日に飲んだ赤ワインの壜を蹴飛ばして痛かったり、踏み台にすねをぶつけて唸ったりとそういう事だ。
喉が張り付いたようになって嫌な感じがした。
私が完全に人間に戻ってから、焼こうと思っていたチーズクッキーを焼き、痛くなってきた頭をアスピリン+Cで何とか押さえ込んでから、相棒とともに展覧会場に向った。
思ったよりも天気は良く、寒さも一昨日ほどではない。
私の苗字をかの有名な日本の山と間違えても気づかない市長の挨拶とキューレーターの解説が始まった頃には150人ほどが集まっていて、すでにグラスを傾けていた人々のワイン混じりの息で空気が重たくなっていた。

 
この部屋は私の展示室だが、私の作品は白くて小さいので、白壁をバックに見えにくいし人の後ろに隠れていて見えない。


地上階は私、1階はロシア人のヴィクター、2回はフンランド人のヤ-リの展示だ。
三人三様だけど、展示が完全に分かれているので喧嘩にならずにすんだ。つつがなくオープニングは終了し、最後まで残った人たちと夕食を食べてから帰宅。 
ちなみに私が食べたのはツヴィーベル・シュニッツェルで炒め玉ねぎがどっさりと草鞋のように大きなシュニッツエルを覆い隠すように乗っかっている。
料理が出てきた時には周りの人たちと顔を見合せるほど大きくておののいたが、案外それが美味しかった。風邪気味だから玉ねぎ山盛りはとてもよい。
付け合せは野菜を何でも細切りにして、ドレッシングにひたひたの甘過ぎるサラダ。これは定番なのだが、もっと美味しくできるのにといつも思いながら、ひたひたクリームドレッシングの中を泳ぐ千切りキャベツや人参をフォークで追いかける。
最近はドイツのサラダのあり方も随分変わってきたのだが、田舎っぽい店に行くと今だにそういうタイプの付け合せサラダが出て来る。

シュニッツェルといえば、パリ風シュニッツェルはそれほど衣も付けずにパリッと(これは駄洒落のつもりではない)金色に仕上げる。それと言うのも昔貴族達が豪奢を競って挙句の果てに料理を金箔で覆ったりもしたが、金の値が上がるにつれ、あまりの出費に音を上げ、少なくとも金色の食べ物をと考案したのがあれなのだそうだ。確かに遠目には金色に見えなくもない。 昔の貴族と言うのは面白いことをするものだ。 卑近な話になるが大量に金箔を食べた後はやはり排泄物の中に混ざって出てくるのでは無いかと思う。 それに思い至ってどうにかした人だっていたんじゃないのだろうか? どうなんだろう? 

朝から具合が悪いのに、風引き真っ最中の人とも接近したし、家に戻ってから残っていた赤ワインをグラスに一杯ついで、芯まで冷えた体をヒーターに押し付けるようにしながら本を読み始めたら、間もなく眠くなって来た。飲んだ風邪薬の所為か、ワインの所為か(私は酔うと寝てしまう)、気疲れか、それとも冬眠スイッチがオンに切り替わったのか。。。
我慢する事もないと気づき顔を洗って歯を磨いて布団に潜り込んだら、すぐに眠ってしまった。

今朝は、雨が降っているし、扁桃腺が腫れ始めたようだ。
今日は部屋の片付けをしてから、ヒーターを背中にして本を読む事に決めた。

チョコレート

2005-11-20 21:05:34 | 飲食後記
先日、友人がオーストリアに休暇に行った時の土産を持って現れた。
それは南瓜と南瓜の種油、そして写真のチョコレートだった。南瓜とその種油は脇に置いて、チョコレートの話。

食べ物の中でもチョコレートの魅力というのは特別なものだと思う。それは広告キャッチフレーズやチョコレート関係の本の題名を見たらわかる。
”チョコレート、甘い誘惑”"チョコレート、神々の食べ物””チョコレート、官能の誘惑””チョコレートに魅せられて。。””チョコレートに首っ丈”ざっと本屋の棚を見回しただけでも色々ある。
このタイトルの"チョコレート”を消して"大福”を当てはめて見てもあまりピンと来ないですね。("大福の甘い誘惑”"官能的大福の誘惑”なんて書けないでしょう。。最も私には魅力的だけど。。。)

特別多く使われている言葉の一つは"官能”"誘惑”であろうか? ドイツのテレビCMにしてもやはり”官能”に訴えるイメージが多い。
チョコレートは"幸福感”をもたらす事になっている。
映画"ショコラ”でも謎めいたヴィアンヌの作るチョコレートで偏屈な村人の心を解放し魔法の様に変えてしまったではないか。
しかしモルヒネや大麻と類似要素はほんの少量しか含まれないのでほぼ20kgのミルクチョコレートを食べてやっと効果を感じる程度だという事。(食べ終えて幸福感が来るとは思えない。気分が悪くなってぶっ倒れるだろう。)
それでもチョコレートの魅惑、誘惑、伝説が壊されることは無い。
ドイツ人の平均年間消費量は一人10kgで、世界でもトップクラスの様だ。
スイス   10,18kg
ドイツ   10,12kg
ベルギー  10,06kg
フランス  6,69kg
アメリカ  5,31kg
日本     2,0kg
(CAOBISCO 1997年 11月統計記録)
チョコホーリックというものもあるそうだから、やはりこの特別な甘さの中に含まれた秘密が存在するに違いない。
Salsolinolというアルコール飲料の中にも見られる成分が、チョコレートにも含まれるらしく、それが中毒症状を引き起こすと言う話もあるらしいがまだ解明されてはいない。
健康にもよろしいと最近ココアが流行ったようだが、昔は薬局で売っていたそうだから、健康薬として最近もてはやされるのも新しくは無いのだろう。

ところで、友人が持ってきたチョコレートの話を書こうとしていたのだった。


このチョコレート屋は全て手作りで、いろいろ面白い味の組み合わせ実験をしている。私の貰ったチョコレートは”こけももとタイム”と書いてある。

Zotter Schokoladen Manufactur GmbHのウェブサイトがあったので見てみると、楽しい。
面白い組み合わせを紹介すると。。。

☆パイナップルとパプリカ(パイナップルは問題ない。問題はパプリカだね。)
☆麻の実とモカ(麻の実がプチプチと歯ごたえを加えて美味しいかも知れない。)
☆しょうが(しょうがの砂糖漬けのチョコレート掛けというのは食べた事あるので、それほど以外ではない。)
☆クロッカスとサフラン(クロッカスはやはりサフランと同じような香りなのかどうか?)
☆米(まあ、ライスプディングのチョコ味というのは普通よくあるものだ。。又は、ポップライスのチョコかけなら良く見かける。)
☆セロリと赤ワイン(ついでにチーズも入れたらいかがか?)
☆レモンとポレンタ。。。。などなど。

レモンとポレンタの内容を読むと、ビターチョコレートのなかにレモン、海塩、ポレンタのクリームにアーモンドを加えてある。

私の貰ったのは乾燥コケモモがへーゼルナッツヌガーのなかに練り込まれ、タイムのハーブオイルを加えたクリームがビターチョコレートに包まれている。


さて、美味しかったかどうか?
興味がある方、手を挙げて。。。。

良く見えないけれど、いませんか?興味ある人?


先ず、チョコレートのかけらを口に放り込む、するとチョコレートの香りと共にタイムの香りがググッっと押し寄せる。
用心深く噛みしめる。
乾燥こけももの食感がちょっと良く、奥歯に挟まれてかすかに音を立てる。
噛む度に苔桃の甘酸っぱさが立ち上がって来る。
周りのクリイムには私がそれほど好まぬへーゼルナッツが入っているが、味も香りもおとなしくバックグラウンドをしっかり守っている感じだ。



。。。。が、問題はタイムのハーブオイルだ。
タイム。。。

私にはちょっと考えがたい組み合わせだったのだが、ひょっとして類まれなるコンビネーションに舌を巻くという事が無いとはいえないので、ちょっぴり期待をしていた。


。。。。が、はっきり言ってこれは美味しくない!

タイムはかなりの”でしゃばり薬草”だと思っている。
もちろん好き好きはあるので、なんとも言えないのだが、私はタイムはいつも控えめに使う。

私も実験的料理は自分でもするので、こういう試みには同調するが、この味付けはいただけない。
しかし、珍しいもの好きまたはプレゼントには話の種に面白いのは請合いだ。

中ではレモンとポレンタと言う組み合わせを食べてみたい気もするが、わざわざ注文してみる気までは起こらない。

。。。楽しいけどね。

そういえばチャーリーとチョコレート工場の中にある倉庫No.54の中身にも色々あった。スミレクリーム、コーヒークリーム、パイナップルクリーム、。。。ヘヤークリーム。。。。

ウォンカのチョコレート工場ではもっとすごい実験が進んでいるのだ。

私もまた何か実験をしてみたくなってきた。被験者募集。その場合、金色の招待券は必要ないけれど、いつ何を食べさせられるかわからない。

音楽

2005-11-17 22:53:37 | 思考錯誤
昨晩久しぶりに隣街に出たら、クリスマス市の準備が大分進んでいた。 又今年も賑やかな出店の立ち並ぶ街並みが出現する。 私がドイツに来た頃に比べて、すいぶんと派手に大きな市が立つようになり、遠くから遊びに来る人もいるわけだけど(例えばオランダからのバスツアーとかね)、よく見れば毎年似たりよったりで退屈でもある。 とはいえ、ピカピカ光る街並みと、のんびりとした喧騒、笑いさざめきにこちらの心もウキウキと引っ張られて、人波を縫いながら普段滅多に食べない、たっぷり芥子を乗せた熱々の焼きソーセージやリンゴムース付きすりジャガイモの揚げ物(大きさも形もメンチカツのようにな薄っぺらい様子で皿の上には3枚乗るのが決まり。へたなところで食べると油が悪くて、胸焼けをおこす事請け合い。)などを頬張ったり、熱いハーブ入りのワインを鼻水啜り上げながら飲んで見たりするのは楽しいものだ。 市が立ったら一度くらいはのんびりうろついてみよう。

ライン河沿いにTonhalleと呼ばれるコンサートホールがある。(上の写真)昨晩出かけた本来の目的はそこを訪れる事だった。
半年かけて改装を終わり、コンサートホールとして評判の悪かったホールが変身したようだ。それまで、天蓋にアクリルの反響版をいくつもぶる下げ、見目も悪ければ、音も悪いと散々叩かれていたものだ。
昨夜は知り合いの作曲家の50歳の誕生祝いコンサートで、彼の今までの作品の一部が演奏されたのだが、残念ながら中央のホールでは無かったので、改修の成果を聞く事はできなかった。
一度だけ彼の小品をきちんと聴いたことはあったが、それ以外はオペラ、ドストエフスキーの”痴呆”が初演された時、その一部をラジオで聞いた事があり私には難解だった記憶がある。
昨晩の数曲のなかのBarkarole fuer Klavier という曲は、渦巻く水がシュルシュルと場所を変えながら流れてゆくようなイメージであり、印象的で私の気に入った。 また、彼の娘を含む10歳の少女達3人(ヴィオリン、ヴィオリンチェロ、ピアノ)が披露したのは”蝿の人生”と言う曲で楽しく、彼女達はこの曲でコンクールに挑み優勝しているのだそうだ。 軽快でユーモアのある曲とその演奏は楽しく、演奏する彼女等の表情を眺めているのも楽しかった。
しかし作曲家と言うのは自分の曲が演奏される時にどんな気持ちがするのだろうかと、ふとそんなことを思った。

私はもっぱら音楽は聴くばかりで、楽器を奏でる事も出来なければ、歌う事も出来ない。 いや歌っても薄っぺらい自分の声にがっかりするだけなので絶対歌わない。もちろん鼻歌くらいは歌う。 去年1,2度酷い風邪にやられてそれ以来常に喉が変だ。 声帯も訓練する事で鍛えられるわけで、毎日発声練習をするとそれなりに声が保てる筈だけれど、最近は話しているだけでも声がふらつくので情けない。こうやって体が段々崩壊してゆくのかと思って恐くなるけれど、だからといってそれに抵抗する気も無い。 でも一度、誰かにきちんとした発声法を習いたいものだ。

さっき、私の好きなArvo PaertのCD “Lamentate″ が届いた。 とても美しい曲だ。最も全部聞いていないので、後でゆっくり聞いてみよう。
もう一枚はJazz。 Sahib Shihab の“Sentiments” 昔日本にいた頃このアルバムを持っていて、大変気に入っていたのだが、こちらでどこを捜しても見つからずに残念な思いをしていた。 それが手に入ったので大変嬉しい! 
早稲田界隈に住んでいた頃、このアルバムの中の曲"Sentiments"を口ずさみながら、近くの公園を歩いていたら、それに呼応するかの様に偶然にもその瞬間、"Sentiments"のそのフレーズを吹く奴がいたので、びっくり仰天した事があった。ほんとに口ずさんだ数分後だったので、私は自分が口ずさんだのか、その曲をずっと聞いていたのかわからなくなったくらいだったが、ちゃんと証人がいるので夢を見ていたわけではない。 
私は大声で歌ったわけでもないのでサックス吹きに聞こえたはずは無かった。
それでその時なんだかとても嬉しい気分になった事を覚えている。二昔前の話。


そういえば、これは  私の持っている楽器(!?) 
蝿の笛。以前手工芸市にて購入。小さすぎてあまりうまく音が出ないけれど、なんとなく気に入っている。

今日の気分

2005-11-15 00:11:11 | 写真
多才なさゆりんさんから私の写真に音楽と詩を付けて見たいという申し出をうけて楽しみにしていました。


私は風を主題に何か掴もうとして沢山の写真を撮った。

だけど風は中々捕まらずに、私をじらしながら逃げてゆく。

だけどそれは夢を語る時のように掴んだと思えば消えてしまう。

自分がつむじ風になったつもりで写真を撮ってみた。

だけどわかったのは風に追いつくことは到底無理だと言う事。。。

私が自分の右足で左足を踏んづけてすってんころりんと転んでしまうと

風は容赦なくからからと笑いながら私の周りを一回りして去ってゆく。

なんて奴等だ!


そうこうしている内にさゆりんさんは踊る風のシッポをきゅっと捕まえたらしい。

。。。と言う事で、

作品が出来上がったので訪ねてみてください。素敵な作品です。

こちら:Niki de Color





Particlezoo

今朝は

2005-11-14 17:29:08 | 思考錯誤

どうせ目が醒めて間もなくは頭も働かない。

見ていた筈の夢を反芻して努力むなしく、夢の尻尾が手からするすると逃げてゆくのが口惜しく、しかし追いかけるにはあまりにくたびれている。

紅茶を入れて2,3口すすり窓の外を眺めると、驚いたことにさっき見ていた夢のなかの景色が見えている。

夢の中の景色を撮るチャンスだ。あわててコートを着てカメラを持って外に飛び出した。

いつも歩く道を辿りながら夢の中の景色の断片をいくつもいくつも採集してゆく。

夢中になって歩き回るうちに濃い霧の冷たい薄膜が体にまとわり付き、水滴となって滴る。

意気揚々で部屋に戻り、集めた景色を広げてみると、写っていない。 夢の中の景色は一つも写っていない。

今朝の濃い霧に投影された束の間の幻想。ほんの一瞬見せてもらう事の出来た贈り物。







霧の向こうに何かがいたけど、少しずつ溶けて消えちゃった。

読書の冬

2005-11-12 16:05:08 | 読書感想

ある日突然、外の並木に星のように輝く実が夜道を飾っているのに気づく。 沢山の小さな電球が葉の落ちはじめた枝に括りつけられたのだ。
11月最終日曜日27日からクリスマス準備期間であるアドヴェントが始まる。Advent(ラテン語 Adventus ”到着”の意) はキリストの到着を待つ期間であり、断食期間でもある。
アドヴェントには4本の蝋燭をあしらった樅の木のリースが飾られ、毎週日曜日に1本ずつ火を灯してゆく。蝋燭の火は希望であり、悪を、闇を払う。
紀元後5世紀にイタリアの一部(Ravenna)にて初めてのアドヴェントが祝われ、後6世紀にローマのグレゴール法王によって正式に祝われるようになった。4は救済者があらわれるといわれる4000年後を記すとも言う。 ドイツでアドヴェントが祝われるようになった歴史は古いことではなく1838年に初めての記録が残っているようだ。 

さて読書の秋ならぬ冬が始まる。
しかし最近、集中してキチンと本を読んでいない。あれこれ食い散らかしては、放り出しているので机の上には読みかけが山になっているばかりだし、あれもこれも読みたい気持ちはあるのだが、どういうわけか読みかけ本の山は高さを増して行くばかりだ。 今月は自信が無いので、来月は少なくとも何冊か読破する目標をかかげておこうと思うので、ここにリストアップして気分を改めようと思う。
私の読みかけのリスト。
Sphaere III、Peter Sloterdijk :
これは前にも読みかけを紹介しているが、それ以来閉じたままだった。読み終える自信全く無し。三部作の中の最終部。とはいえ前2部も読んではいない。 誰か日本語に訳して欲しい。ジャンルは人類学。カタツムリがジリジリと這う如く少し進んでは休憩しているのだから、これでは一生読み終えないんじゃ無いかと最近危惧している。
Das Gedaechtnis der Natur、Rupert Sheldrake:
知人が持ってきてくれた。読んだか?ときかれたが、誤魔化してある。植物、動物の形態形成モデルに関して、その謎に迫る。本は4cm位の厚さで、開くと。。。文字が小さい。。開いてはがっくりと頁に額を打ち付けるので、なんだか読まないうちに本が傷んでくる来るように見える。
Das Labyrinth、Gerhard Roth:
迷路を小道具に使ったサスペンス小説。なんとなく面白そうな気がして中古購入。時代は19世紀。舞台はウィーン、ハプスブルク家の屋敷。主人公は精神分析医。 当時の芸術、歴史、宗教、政治などちりばめた謎解き。ちょっと覗いた限りでは面白そう。
Italien Reise-Lesebuch:
色々な人物のイタリア旅行記。イタリア旅行前後に読むと楽しいだろう。
Begegnungen und Abschiede、John Berger :
作者が見た絵画、出会った人々へのオマージュ。思索的な素敵な文章だ。
断ち切られた未来,エリアス・カネッティ :
大分前に買った本。数ページ読んでおいてある。カネッティの著作はまだ2冊あるんだけど。。。
前日島、ウンベルト・エーコ:
以前にも書いたが、私はエーコの作品が好きだ。
万物理論、グレッグ・イーガン:
面白いかどうか知らない。究極のハードSFってあったから選んだ。
ムーン・パレス、ポール・オースター :
一度読んだが、もう一度読もうと思った。
Die Falsche Hand, Heinz Schmitz :
早く読まなきゃ。。。この本の著者に近い内に出会う機会が来そうなので、それまでに読んでおきたいのだが、まだ50ページくらいしか読んでいない。 ファン・エイクの祭壇画を巡るサスペンス物。 読み始めて祭壇画自体に引かれて見に行ったりしていて、彼の小説に戻らずにいる。
中世の芸術、グザヴィエ・パラル・イ・アルテ:
中世芸術を初心者向けに解説。入門書的。
西域余聞、陳 舜臣 :
歴史随想。
Malerei in Florenz und Siena、Millard Meiss :
大ペストがどんな影響を芸術、社会、政治に与えたか?
うつろ舟、澁澤龍彦 :
これ、忘れていた。まだ読んでなかった。

リストを書きはじめたら、出て来る出て来るどんどん出て来る、次々未読本が出て来る。魔法のようだ。
まだまだ、読んでいない本が山とあるが、だんだん気分が悪くなって来たのでとりあえす今回はこれだけを目標に掲げておこう。 でもこうやって見るとやっぱりかなりきついなあ。
多分この中の何冊もがうず高い山の下敷きになってしまうのだろう。 私はその山の雄姿を麓から眺めながら足踏みするばかりだろうね。
本好きの友人とこれからお互いに本のリストを作って、貸し出すシステムを作るのはどうか? 個人図書貸し出しサークルを作ろうと話しが盛り上がった。 しかし自分の手持ちの本でも悲鳴をあげているのに更に首を絞める事になりそうな気もする。日本語でも読めないというのに。。。 
そんな話を電話でしながら「私が持っている未読の本を先に読んで、大まかな内容を教えてくれるというのは駄目かなあ。。?」と言ったら彼女は笑っているだけだった。 やはり自分で読まなきゃ駄目と言う事。。。来月は読書月間です。
宣言しちゃっていいのかな? 


聖マルティン - 冬の訪れ

2005-11-10 16:31:00 | 思考錯誤
あたりがすっかり暗くなった頃、黄色っぽい小さな光が点々と一列に揺れながら動いてゆくのが見える。ぼんやりと照らされた手や横顔が浮かび上がっては消えて行く。

11月11日は聖マルティン祭。
手に手に蝋燭の点るランタンを捧げもった子供達の行列が練り歩いてゆく。
そして行列の到着地では”マルティンの火”といって大きなかがり火を焚き、聖マルティンを讃える寸劇が行なわれたりするのだ。 それはゲルマン信仰で秋の豊作を感謝し冬の始まりを覚悟する行事でもあったようだ。子供達は夕刻、家々の玄関口に並びマルティン祭の歌を歌ってはお菓子を貰い歩く。

現在私の住む集合住宅は子供も少なくなって、お菓子を貰いに来る子供達はいないのだが、以前住んでいた家では毎年この日にお菓子を用意しておかなければならなかった。何人も来るので手持ちのお菓子が無くなり、みかんやリンゴをあげると喜ぶ子供もいれば詰まらなさそうに「お菓子無いの?」と袋を覗く子供もいたり、弟の分も頂戴と沢山欲しがる子供もいた。調子外れに一生懸命歌う子供もいれば、早口であっという間に歌い終えてお菓子を待つ子供もいる。

そして自作のランタンを自慢げに揺らしながら子供たちが暗闇の中に消えてゆく。
冬の訪れだ。

聖マルティンは兵隊、手工芸職人(織物、皮工芸等)、ホテル飲食業、旅人、貧者、移民、囚人、農家、ワイン製造業、粉屋、羊飼い達の守護聖人である。
それぞれにこの日の決まりごとがあるようだ。
農家では聖マルティン祭に曇ると厳しい冬が来る、聖マルティン以前に木がすっかり坊主になったらその冬は寒くて長い、聖マルティンに晴れるとその冬は例年より寒いと言い伝えられている。
晴れる、曇るいずれにせよ辛い冬はやってくる。要するに冬が大きく踏み込んでくる時期なのだ。

マルティンは軍人の息子としてハンガリーに生まれ育った。
父の意向により自らの意に反して15歳の彼はローマ軍の騎馬隊に入隊した。
キリストの教えを守り隣人愛にあふれ人情の厚い彼は同僚達からも慕われていたが信仰と軍人としても生活にジレンマを抱いていた。(そんなに若い時分から人徳も高く信仰心は大きかったというのがなかなかすごい。やはり人並みではない。)
例年に無く全てが凍りつくように寒いある日の事。
武器のほか兵隊の質素なマントをはおっただけのマルティンが城壁門を通りがかった時、哀れな裸同然の貧者が人々に省みられる事も無く震えていた。 マントしか分かつものを持たぬ彼だったが、即座にそれを半分に切り裂き半分を凍える貧者に与えた。 そしてその夜、彼のマントの半分を纏ったキリストが夢に現れ、「マルティン、洗礼を求める者、彼は私にこのマントを着せてくれたのだ。」と言ってキリストは彼に祝福を与えた。 この夢は彼を更に深い信仰に導き18歳で洗礼を受けることになる。

マルティンにまつわる逸話は沢山残っている。
ある日、次期ビショップを決定する為の討議が行なわれている際、彼はその場を抜けて気の置けない場所を求めた。 人々はビショップに任命された事を伝えるためにマルティンを捜したが、姿が見えない。庭に出るとガチョウたちが騒がしいので、見ればマルティンがガチョウ小屋に隠れていた。
この話が伝えるのは、彼が華やかさを好まぬ、控えめな人間であったと言う事か?

この話つながりなのか、聖マルティン祭にはガチョウを食べることになっている。
最もマルティンとガチョウのつながりについては諸説色々あるようだ。
例えば当時ガチョウを地主に畑の借り賃として払ったという説。 クリスマスまでのアドヴェント期間はアドヴェントの断食に入るために聖マルティン祭の晩餐にはガチョウを食べる習慣だったと言われているし、この時期に冬の飼料費節約のために多くの家畜を堵殺しなければならなかったという事も関係しているらしい。

伝説は他にも多々あるが、中でも有名なのは木を切り倒す話である。
彼は古い異教寺院を壊し、その近くに祭られていた聖なる松の木を切り倒そうとした。 すると異教徒がやってきて、聖なる木を切り倒す事は許せないと訴えた。
マルティンは木が神でありえるはずが無いし、その木は悪魔の宿る木であるから切り倒されなければいけないと説得しようと努めた。 異教徒の一人がマルティンに向って「それならば、我々が木を倒す。貴方の方に倒れるか我々の方に倒れるかわからないが、貴方が神を信じるなら恐くは無いだろう」と言った。
マルティンは神を疑う気持ちは無かったのでそれを承諾し、異教徒の男は木を切り倒し始めた。 まず木はマルティンの上に倒れるかと見えたが、彼が木に向って手を差し出し、聖なるしるしを描くと、突然つむじ風が起こり、木は異教徒の上に向って落ちた。 それからと言うもの異教徒達はキリスト教に帰依することになる。
こんな逸話は、当時キリスト教徒が好んで聞いたのかもしれないが、個人的にはどうもピンとこないタイプの逸話である。 (つむじ風のくだりは素敵だけど、異教を強引に排斥するあたりが気に入らない。まあ、今日も変わらないと思う話はあるけのだけど。)
彼は彼の元で急死した洗礼志願者を生き返らせるという奇跡も行なっている。
ともあれ、聖マルティンは多々奇跡を起こした人気のある聖人の一人だ。

最後にもう一つ、小さな逸話の中にこんなものもある。
マルティンが散歩中に醜い汚い鳥がやってきて、魚を上手に捕ったのを見ていた。
彼は「ブラボー!おまえに褒美をやろう!」と言ってその醜い鳥を青と紫の胸を持つ鳥に変えた。そして「お前の名はマルティンスフィッシャーだ。小川や河で魚を存分に捕るが良い」と名までもを与えた。それがカワセミの物語だ。
これなど、一体何をあらわした逸話なのかわからないが、ちょっと面白い。

我が家の白樺はすっかり坊主になったが、裏庭のサクラや楓はまだまだ葉を落とさない。今年の冬が寒くなるのか温いのかまだ見通しが付かない。
寒いのが嫌いな私は、もう既に今から春に思いを馳せてコーヒーカップから立ち昇る湯気に頬を寄せて溜息をついている。 今からそれでは全く気が早いし、先が思いやられるというものだけれど。。。

暗号解読

2005-11-08 00:00:41 | 思考錯誤
↑の写真は暗号の本。Codes,ciphers & other cryptic & clandestine communication:making and breaking secret messages from hieroglyphs to the internet. Fred B. Wrixon著


今朝メイルチェックをしていると、記憶に無いアドレスからわたし個人宛に届いた手紙があった。
差出人名前が無い。
私は不特定多数に連絡先をばら撒く事がたまにあるので、未確認差出人からのメイルを貰う事も時々ある。
しかし内容からすると、どうやら一度は会った事がある相手のようだ。

「質問があるのですが、この暗号の数字どうやって読んだらいいのでしょう?
220413232104010423402303130212です。助けてください。」

で、他には何も書かれていない。
ついでに綴りも2箇所、ミスタッチだろうか間違っている。
ジェニーキャット89などというアドレスから推測するに差出人は若い女性に違いない。
私にこんな事を聞いてくるというからには、私の作品を知っている人間だろう。
展覧会で出合った人だろうか?
ある展覧会で暗号文を印刷して展示室にそっと積み上げ、欲しい人は持って帰って解読してくださいというお土産を作った事がある。
または作品を買った人が後に暗号の内容を聞いてくることもある。
それとも。。。。?
しばらく考えているうちに思いついたのは、去年のある学校でのプロジェクトの事だ。
本のオブジェをテーマに授業をした事があって、その時に簡単な暗号の作り方を12年生と9年生に教えたのを思い出した。
多分その中の生徒の一人に違いない。
そう言えば12年生でジェニーと言う女の子がいたのも思い出した。
彼女だろうか?
暗号表にしたがって自分で書いたものの、表を失ったのだろう。
私自身はメッセージをアチコチに暗号化して作品に挿入するのを趣味(?)としているのだけれど、時々システムを変えるので、恥ずかしながらいきなり質問されるとわからなくて、解読するのに時間がかかる事がある。(自慢じゃないが、時には解読不能となっている。)
記憶力にも限界はある事だし、最近では私の記憶力の怪しさは致命的レベルに至っている。
とはいえ、しばらく困っていたが実は簡単なシステムで、読めるのがわかった。
”私の人生と私”と書いてある。
やはり私の書いた内容ではないので、生徒の一人というのが正解だろう。
”私の人生と私”なんて事を考えていたんだね。
私も子供の頃自分で作った暗号で日記を書いて、その暗号表を失い読めなくなった事があるので、気持ちはわかる。
兎に角私はちゃんと答えてあげられる事がわかったので、ほっと胸をなでおろしたところだ。

しかし、最近の若者はこんなものなのだろうか?用件ずばり一言書いて、名無しでメイルを送ってしまうのか? 貰った方は不安になるし、今ひとつピンとこないではないか。
兎に角これから返事を書いて送ってみよう。

暗号については沢山楽しい話がある。最近はダン・ブラウンのダヴィンチ コードから始まって、暗号ばやりのようで、本屋でも暗号を扱った小説もかなり多く見受けられる様におもう。



以前紹介したサイトのEnigmaco
この暗号変換機で便りを書いたら、こんな面倒な事をしないでくれと怒られたことがあった。
そうですね、面白いのだけど、急いでいる人には確かに辛い。

宝探し

2005-11-07 04:12:42 | 思考錯誤
子供の頃宝探しの地図を作った。
ピカピカに磨いた土団子を埋めた場所に×マークをつける。
蝋で艶の出た古木の一部を埋めた場所に○マークをつける。
内緒の願い事は丁寧に折りたたんで空き地のサクラの木の根元に埋めた。サクラの花びらマークをつける。
そうやって少しずつ地図は充実して、様々記号がちりばめられてゆく。
宝探し地図を作るのは楽しい。今でも好きなくらいだ。そのうちに色々な地図を作って、まとめて見たいと考えている。

地図作りもよいが、宝探しも楽しい。本物の財宝探しではないけれど、化石探し、美しい石探し、植物探し、古書探し、秘密の場所探しなども楽しい。
また蚤の市ハンターになりガラクタの中から”輝く何か”を見つけ出す時にも心ときめく。”輝く何か”は値打ち物で無ければいけないわけではなく、それが自分だけに輝きをそっと見せてくれるくらいだと最高に良い。
”それ”を見つけた瞬間、心臓が三倍位の大きさになって飛びだしたりする。
まあ、そんなことはめったにある事ではないけれど。

今日、大きな蚤の市に出かけた。
体調も今ひとつしゃっきりしない、足の具合も悪いというのに蚤の市に出かけるなんて無謀と言うものだった。
午前10時半でもうかなりの人出だが、まだ余裕だ。しかし最近は掘り出し物が少なくつまらない。今日もめぼしいものは見かけなかったので、出展物と出展者との比較考察(?)などしながらふらふら歩いていた。
すると、面白い事にその人となり、売り物との間の微妙な繋がりが見えてくる気がする。
売り物の木彫りの人形と同じように素朴そうなおじいさんがそれらの飾り物を集め始めたのは何がきっかけだったのだろうか?
でっぷり太った体にゴテゴテに派手な洋服を身につけ、フェルトの帽子によれた花がひしゃげて付いているおばさんは、レース編みのテーブルセンターやキッチュな刺繍のナプキン、森の可愛い動物のシールなどを並べている。彼女の住む部屋では鳩時計が時を知らせ、飾り棚には瀬戸物の貴婦人が孫の写真といっしょくたになって飾られているんじゃないか? そうに違いない。
いや、彼女は集めた人形やぬいぐるみに囲まれながら、子供や孫の写真もなく、一人で窓の外を眺めるのかもしれない。
じけじけと薄暗い角に店を広げて、寒そうに背を丸めている若い女性のテーブルには品数もすくなく、どれもくたびれた影がうっすらと塗られたような物ばかりだし、ちっとも客の流れを見ていない。少なくとも私が見ていた間は、ぼんやりとテーブルの上を見つめていた。
その彼女の数件となりでは元気なおばさんが学生風の若者とやりあっている。
「このお茶セット25ユーロ?、ちょっと安くならないかな?」手には白い陶器に洋銀のカバーが付いた丸い形の可愛いポットを持っている。
「え~、これを!もう安いのよ。いい品よ。上品だし優雅だし、あんたにピッタリね。いいわよわかった。そういうあんたには22ユーロにしてあげるけど、どう?ほんとにいい品よ」
「もちろん、そうおもうけど、う~ん、僕達お金ないんだけどなあ。」
「・・・・・じゃ、いくらならいいのよ。」
「・・・・・15」
「・・・・・じゃ、これつけて(ポットに全く似合わない砂糖ツボ)20で手打ちなさいよ。」
「OK.だけど今日はもう買い物できないよ。」
「今日はもういいわよ!これ買ったしね。あんた得したのよ!」
彼は貰わないほうがましだったかもしれない砂糖ツボと、丸い紅茶用ポットなどを新聞紙に包んでもらって鞄にしまった。


そんな店の並びをハンター達は獲物、宝を探し、狙いながらさすらってゆく。

眼 (夢遊 Ⅵ)

2005-11-05 21:54:38 | 夢遊
目。
強膜(白目):父
角膜(黒目):子
虹彩:聖霊
。。を表わすのだと、イギリスの医学博士、というより薔薇十字の錬金道士であるロバート フラッド(1574-1637)は書いている。
目が三位一体を表わしているというわけだ。この頃のこの手の話は野次馬的に面白い。
ふ~む。これから人の目を見て話す時に思わず、注意がそれてしまいそうだな。

目。
私は昔、先端恐怖症の気が少しあって、尖ったものを見ると目がむずむずとした。
目の前で誰がやりかけの編み物を取り出して編み棒を動かそうものなら、それが見ていられない。テレビなどの映像の中でさえ尖ったものがこちら向きに映し出されると目をそむけなければいけなかった。今ではそれはなくなったが、時々疲れている時には蘇る感覚だ。
(私の目の前で指を突きつけてはいけません。叩かれます。)



ある日私は地下鉄に乗って”何処か”に向っていた。
私は窓際に張り付くようにして外を見ている。
窓の外は漆黒の暗闇なのに景色が飛ぶように変化して行くのがわかる。
音は電車の走る音だけが呪文の様に続く。
しばらくすると次の到着駅を知らせる車内アナウンスが聞こえてくる。
ノイズがかぶった声は途切れがちにだがはっきりと理解できる。
「次は~~眼の原~、次は眼の原です。」
外の暗闇の中に黄緑色に発光した眼が一つ、二つ。。三つ、四つと見え始め、
それはだんだん増えてあたり一面に緑に光る眼が浮かびはじめる。



...と言う夢を見た事がある。






満天の星空のような目の原。

星は神々の目。決して眠らぬ監視。



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私が普段世話になっている眼鏡達。