橡の木の下で

俳句と共に

「ある日の句会から」令和6年「橡」3月号より

2024-02-27 16:08:54 | 俳句とエッセイ
ある日の句会から     
            亜紀子

 今年度から東京例会の会場は代々木のオリンピック記念青少年総合センターから、新宿百人町にある俳人協会の俳句文学館に移りました。月によって若干異なることもありますが、基本俳句文学館の地下会議室拝借です。最寄りの駅はJRの新大久保駅ないし大久保駅。駅界隈は車や人の往来盛ん。代々木では例会前に明治神宮や代々木公園の森ミニ吟行を楽しみましたが、ここでぞろぞろ吟行するのは難しいようです。それでもコリアンタウンと呼ばれる街には美味しそうな韓国料理や、グッズの店が並び、さらに韓国以外のエスニックな店も賑々しくカラフルで、ついキョロキョロしてしまいます。若者ばかりの人の流れの中、いささか気後れもありますが、新しい吟行地として材料に事欠かぬようにも思います。
 文学館は繁華街から住宅地に入ったところにあり静かです。会議室はその中にあってなお一層静閑。例会開催には打って付けでした。今回はちょうど季節的に日向ぼこを使った句がいくつか出て、そもそも日向ぼこは人間の行動であるから、安易に主語を人間以外に汎用してはいけないという指摘が出ました。その通りで、日向ぼこに限らず擬人化は要注意というアドバイスと思います。晩秋や早春に、蝶が日差しに翅を広げてじっとしていることがあります。目が覚めた蜥蜴が日当たりの石の上で何やら沈思黙考姿勢のこともあります。これなどはまさに日向ぼこなのですが、彼らからするとそんな人間の呑気な言葉を使って欲しくないと言われそうです。無事生き延びるための行動ですから。人間を詠むにしても使い古された日向ぼこでなく、独自の詠み方をする必要がありますね。結局、独創が鍵なのでしょう。
 星眠先生の『俳句入門』の「比喩の句」の章で、比喩、擬人は俳句を面白くするがたやすく作ることができるので深い感動なしに機知によることが多くなり、飽きがくる。独創がなくてはならず、比喩、擬人が表面から隠れて目立たず底に沈んでいる句境に行ければよいのだろう、水原秋桜子、阿波野青畝の句を学ぶようにと記されています。常に心します。

名古屋橡会 一月十三日(土) 三浦亜紀子

①元旦が地震警報に暮れてゆき 
②冴え冴えと星無情なり地震のあと
③二日はや鳩もまだきの神の前
④もの買はぬ暮らしはや了ふ三日かな
⑤垣に沿ふ目白も好きな朝の径
⑥雪の富士左右の車窓に旅初め
⑦冬温し百人町は軒寄せて
⑧ネタニヤフ凍つる亡霊枕辺に

『葛飾』昭和五年 水原秋桜子 三十八歳
(春)
蟇鳴いて唐招提寺春いづこ
馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺
梨咲くと葛飾の野はとの曇り
連翹や真間の里人垣を結はず
葛飾や桃の籬も水田ベリ
鶯や前山いよよ雨の中
高嶺星蚕飼の村は寝しづまり
天平の乙女ぞ立てる雛かな

 東京の数日後、名古屋句会で提出した拙句稿。今月からメンバー一人づつ順番に何か勉強材料も持ち寄ることになり、先ずは私が水原秋桜子の処女句集を選びました。同じページに八句ずつ並べて印刷。名古屋の句会の少し前に「橡」誌に投稿済ませたところで、拙句は大方が投稿できなかった残り物ですと言うのは見苦しい言い訳。この格調の違い!秋桜子三十八歳、三浦六十四歳と言うと、一斉の笑いを取りました。
 いえ、この材料の狙いは笑いではなく、秋桜子の調べに学びたいということです。五七五の俳句の調べが血肉になるように、繰り返し繰り返し学んで行きます。
この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「選後鑑賞」令和6年「橡」... | トップ | 「チューリップ」令和6年「... »

俳句とエッセイ」カテゴリの最新記事