橡の木の下で

俳句と共に

「布池教会」令和4年「橡」1月号より

2022-01-27 16:02:53 | 俳句とエッセイ
 布池教会   亜紀子
 
 久しぶりに吟行句会に参加した。吟行と言っては神様に失礼になるかもしれないが、行く先は名古屋市内にあるカトリック布池教会。十二月十九日日曜日、ちょうど待降節の第四主日。午前十時半からのミサに参加する。布池教会の名前は聞いていた。二つの尖塔が並び立つ大きな聖堂も写真では見たことがある。調べると愛知・岐阜・石川・福井・富山を含む教区の中心だという。地図を検索すれば我が家から徒歩で行くことができる。時折買い物するスーパーへ行く道を途中で折れたところにあるとは気がつかなかった。
 この冬はラ・ニーニャ現象によって寒さ厳しいとの予報。当日、早朝は良き日和に思えたが次第に風が冷たく強くなる。教会の門に辿り着いた時には冬を実感。木々の葉は大方散り、信徒とおぼしきグループが教会周りの落葉掻きの最中。年配の人と混じって若い男性、フィリピン人の女性、皆が慣れた様子で働いている。尖塔の空は冴え冴えと青く、一機が白い飛行機雲を引いて行った。
 句会仲間も既に集まっていて、あまり広くはないやや無機質な庭を観ている。一時間ほどのミサの後に昼食をそれぞれに済ませ、すぐ近くの学習センターの一室で句会というのが本日の予定。神社仏閣は有り余るほど見てきたが、教会は馴染みがないのでと言って熱心に句材を探す人。白いマリア像や掲示板などに見入る。

 古賀まり子
寄生木の冠天に待降節  
星空に鐘鳴り森に降誕歌
鳴る泉雪敷く泉聖夜来ぬ

クリスチャンである古賀先生の詠まれたのは清里の教会だったろうか。
 聖堂前の信者会館にショーウインドウのようなガラス張りのスペースがありキリストの降誕場面の人形が飾られている。マリア、ヨセフ、東方の三博士、ロバや羊などお決まりの中心に飼い葉桶。桶の中には一冊の本が開かれて置かれていた。聖書だろうか。まだクリスマスまで間があるから赤ちゃんのイエスは生まれていないということか。
 時間になり大聖堂の扉への階段を上る。結構な階だ。尖塔が益々高く感じる。暗い入り口の奥は下からは見えない。少し緊張する。上りきったところでお爺さんに連れられて小さな二人の男の子が出てきた。冬帽子をかぶり、ふくふくした頰。思わず双子の幼子イエスと。手摺を使わず階段を降りて行くのを見送る。あんな時期は一瞬だ。愛らしい幼子がやがて人生の盛りの時期に苦悩のうちに磔刑に処されるとは人の親には想像もつかない。
 コロナ渦中のミサはマスク着用、隣との間隔を空ける。手指の消毒はもちろん使用した椅子も消毒。お祈りや讃美歌は代表の人のみで皆は心の中で。聖体(キリストの肉であるパン)の拝領は手で受けてくださいと徹底していた。紫の衣の司祭さまもマスク姿、ご高齢のせいもあるかどうかお説教と儀式的なお祈りの境目が判然としない。もっともこちらの信心が足りぬゆえかもしれない。キリスト教は愛が中心で、神は常に私たち一人一人に寄り添ってくれている、何となればイエスはその為に我が身さえ贖ってくれたというような話であったような。お祈りはコロナ禍に困窮する人や医療従事者にも捧げられた。
 最後のパンの拝領は信者でなくても受けられるが、司祭様に「祝福をお願いします」と告げてくださいとアナウンスがあったので信徒の行列につき祝福を受ける。お願いの言葉を述べ損ね、Iさんははなからお断りされ、Fさんは戴いたパンをあとで取り返されたそうだ。儀式は難しい。
 上ってきた階段を降りる。下りは視界が開けてどこか清々しい。行きと帰りの景色は違うものだ。信徒の皆さんは定例的にこの気分を味合うのかもしれない。俳句修行ではないけれど、信心にも繰り返しの練習、修練が必要なのかもしれない。それにしてもこの世で生きていれば神様でも助けられないことがある。それも摂理だ。階を降り切ってはたと思いつく。神様にもどうにもならないことがあるから寄り添ってくれるのじゃないかと。
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