とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

消滅可能性自治体に住んでいる

2024年04月27日 | 日記

 「人口戦略会議」は将来的に「消滅の可能性」があると見なした都市、744市町村を公表した。2020年から2050年までの30年間に子どもを産む中心世代の20~30歳代の女性が半数以下になる事をその根拠としている。その市町村を80%以上抱える県が青森県、秋田県、山形県の3県である。
 山形県には35市町村あるが、県都山形市を中心にした仙台に近い7市町以外は全てが将来消滅するとされている。私は消滅の可能性があるとされる人口10万人の酒田市に住んでいる。そこは、酒田市市街地に隣接し数キロ内に13の集落が存在する農村地帯で、かつては、北平田村だったが昭和29年の合併で酒田市となった。酒田市立北平田小学校があり、私の同年生は66人で1学年2クラスだった。しかし、子どもが減り続け平成25年に、同様な3地区が統合して酒田市立平田小学校となった。更に子どもは減り続け今年、北平田地区内で生まれた子供はひとりだったと聞いている。平田小学校すら存在も危なくなってくる。
 地区集落の自治機能も著しく低下している。地区内に5寺院あるが、4寺院は空き寺となっていて、集落の鎮守の神社の護持も役員のなりて不足で悲鳴を上げている。空き家、一人暮らしの増加はぞっとするぐらい怖いスピードで進んでいる。結婚しない青年が増え続けるのは何故なのか。日本国の存亡にかかわる課題に目を背けてはならないと思う。

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黄砂にかすむ満開の梨畑

2024年04月20日 | 日記

 桜の花が終ると、酒田市の北部に広がる広大な梨畑の花が満開となり、鳥海山を背景にしてカメラマンが喜ぶスポットがある。真っ白な梨の花は桜に負けない美しさがある。
 ところが今年は4月18日より黄砂が降り注ぎ、晴天にも関わらずどんより薄暗い感じなのだ。鳥海山が見えないどころか、梨畑の全容すら良く見えない状態である。昔から「春はおぼろ霞」と言われていたけれど、こんなにひどい黄砂は経験がない。視界6~7キロと報道され、遠くの山々は見えず、雲も見えない。わずかに差し込んでくる太陽の明るさで昼を感じる程度である。黄砂は遠い大陸の砂漠の土煙が、はるばる日本まで飛んで来る現象である。
 刈屋梨の歴史は古い。鳥海山の湧水を源にした2級河川、日向川と月光川の合流地点の広大な河川敷に梨畑が広がっている。特産品「刈屋梨」の歴史は古く120年前には栽培されていた。大地が肥沃過ぎて果実が腐ると言われ、長十郎梨の栽培が始まった頃から盛んになり、現代の多品種の梨へと引き継がれている。
 酒田の特産品として「刈屋梨」は全国に広がりを見せている。

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桜前線が北上

2024年04月13日 | 日記

 桜前線が北国山形県まで北上した。地形によっての多少の差はあるものの、今日あたりが満開と言っていい。地元紙の山形新聞は一面の巻頭に3段ぶち抜きで山形市馬見ヶ崎公園の桜並木をドローンのパノラマ写真で掲載しその美しさ伝えている。
 山形県の公園は桜の植栽も多いが、多くの河川の土手に植えられた桜が多く、それが一斉に咲き誇り県土全体に春の到来を告げる豪華さがある。桜の命は短く一週間程度で散ってしまうが、その後、遠くの山肌に山桜が咲き始め、その名残を楽しませてくれるのがありがたい。
 ニュースで気象庁の職員が開花宣言や満開宣言の様子を報道するが、桜の開花はそんなに瞬時の事なのかと思ってしまう。統計上ならあんな大袈裟な必要はないように思える。かつては、酒田にも測候所があり、標準木の正式な開化発表があった。行政改革で測候所は廃止され、開花宣言を市職員が代行しているらしいが正式な統計なのかは分からない。

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小1年の育てた「ひょうたん」を卒業生に

2024年04月06日 | 日記

 酒田市の北平田農産物愛好会(高橋辰雄会長)は地区の平田小学校一年生と一緒にプランターで「ひょうたん」を育てている。6月ごろに種をまき、8月下旬ころの収穫となる。実った「ひょうたん」を水に漬け中身を取り出し乾燥。きれいに磨いた後、色彩を施し、卒業生のひとりひとりの名前や子供たちが選んだ一文字漢字の「空」や「友」等を書き入れて仕上げる。きれいに仕上がった「ひょうたん」を、六年生の卒業記念にプレゼントする活動が続けられている。
 今年の卒業生は26人で、プレゼントされた中のひとり高橋君(12)は「自分も一年生の時にひょうたんを作った。6年生になってもらってうれしい。家に飾って大切にしたい」と話した。
 同愛好会は2004年頃から旧北平小学校時代に始まった活動だが、少子化で2013年に平田小学校として統合をきっかけに活動は中止していた。しかし、さらに進む少子化に、故郷の良さを認識するきっかけになればと2018年に復活させた。
 一年生と同愛好会が育てた自分の名前が入った労作を受け取った6年生たちに笑顔が広がった。

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スワンスケートリンクが閉鎖

2024年03月30日 | 日記

 山形県内唯一の屋内スケート場(スワンスケートリンク)は施設の老朽化やハザードマップで津波浸水想定区域内にあることなどから、今年度いっぱいで閉鎖することとなっていた。大勢の利用者から惜しむ声が上がって、対応が検討されている。
 スワ―トスケートリンクは最上川右岸の河口付近に、1972年に酒田市立体育館が建設され、20年後の紅花国体に合わせてた国体記念体育館が新に建設され、市立体育館の用途は各種イベントなどで利用されていた。その用途の一つに、1994年12月に冬場の屋内スケートリンクとしてオープンをした。
 市議会議員だった私が当時の大沼市長に提案して実現したスケートリンクで想い出がいっぱい詰まっている。閉鎖する前々日に視察に行ってきた。係員に「まだ使えそうだよね」というと「うん」と答えてくれたけど、経年劣化は専門家でないと分からない。時代は変わる。

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「日東道」秋田県境まで延伸

2024年03月23日 | 日記

  日本海東北自動車道は新潟県から山形県を通って秋田県まで日本海沿岸を縦貫する幹線自動車道路である。全線開通すれば、北東北と近畿、中京圏への最短距離となり一歩遅れてるこの地域の創生に大きな役割が期待されている。秋田県と青森県はすでに繋がっている。問題はミッシングリンクの山形県側にある。
 今日23日、山形県の酒田~遊佐間の開通式が行われ秋田県境まで日東道は繋がった。残る秋田県境をまたぎ繋がるのは2年後と公表されている。もう少しの辛抱である。問題は新潟県側とのミッシングリンクで、山形県側の温海温泉ICまでは繋がっているが新潟県村上市のまほろばICまでの40.8キロの工事進捗率は37%止まりとなっている。開通の見通しも経たない惨状が続いている。観光、物流、企業誘致へは計り知れないマイナスである。
 横軸の高規格道路「みちのくウエストライン」酒田~石巻線の整備も進められているが進捗は遅い。高速道路から取り残されてきた庄内の悲哀は痛いほど感じている。

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松くい虫被害 過去最悪

2024年03月16日 | 日記

 庄内海岸砂防林は日本海に面して南北に33キロ幅約2キロで、黒松が約500万本の人工林でスケールは日本一と言われている。飛砂を食い止め田畑を守り、安全な暮らしを願い約300年前ごろから植林作業は始まった。厳しい砂丘に耐えれるのは黒松と選択され今に至っている。
 生活の近代化は黒松の枝やマツカサが燃料ではなく石油へ変り、松林の荒廃は進んだ。その頃、昭和50年代に西日本で松くい虫被害が猛威を振るい、やがてそれが庄内海岸にも確認されるようになった。それより先に、秋田県海岸はひどく、全ての黒松砂防林が松くい虫で枯れ木となった。車窓からの景色に鳥肌が立つ思いだった。
 山形県は庄内海岸の自治体と官民が一斉に立ち上がって防除や整備活動に取り組んだ。松くい虫にやられると大木の黒松も一か月で枯れ木になる。国、県、市、市民ボランティアの活動も活発になり、一進一退の小康状態が続いていた。
 ところが、昨年の猛暑と少雨の影響で過去最悪の松くい虫被害が発生。一昨年の二倍の被害木となり、切り残しの被害木がある限り被害はなくならないとされている。予算や対応する人員には限りがあり対応の難しさが顕在化している。
 伐採予定の黒松には赤テープが張られ、その目印が痛々しい。

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酒田の「笠福」

2024年03月09日 | 日記

 酒田は最上川の舟運で運ばれた莫大な米の集積地。ここから西回り航路の千石船で京都や江戸との交易を「西の堺、東の酒田」と呼ばれるほど賑わっていた。
 伊豆稲荷が始まりと言われる「雛のつるし飾り」は江戸後期から始まったと言われている。雛人形の伝統は古いが、一部の裕福な家庭しか飾れない高価なものだった。一般家庭のお母さんやおばあちゃんたちは、自分たちの古着の切れ端を持ち寄り、女の子の健康と幸せの願いをこめた小さな人形を作った。それを紐でつないで「雛のつるし飾り」がはじまり、伝統文化として今に受け継がれている。
 雛のさげ物の風習は全国にも珍しく、伊豆稲荷、九州稲荷、山形酒田は「日本三大つるし飾り」と称されている。私が子どもの頃、酒田のひな祭りはひと月おくれの4月3日だった。現代は3月3日から始まり一か月分余計に楽しめる事になった。
 酒田ではつるし飾りを「笠福」と呼んでいる。酒田商工会議所女性会が失われつつあった「笠福」をわがまちの活性化と商売繁盛を願って吉祥柄の細工をたくさん下げて見事復活させた。
 私たちの願いと文化の伝承は立派な街おこしとなった。

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酒田米菓「にぼせん」

2024年03月02日 | 日記

  山形県は県内の特産物で消費が盛んなラーメンやそばを県のPRに活かそうと、キャッチフレーズ「ラーメン県そば王国」を特許庁に商標登録の申請をした。
 山形県によると、人口10万人当たりのラーメン店舗数が日本一で、一人当たりの山形市のラーメン消費額が一昨年に引き続き日本一と総務省から発表された。さらに、昨年東京で開かれた「日本ご当地ラーメン総選挙」で厳しい東北ブロックを勝ちぬいて「酒田のラーメン」が初優勝を果たした。吉村知事は「本当にいい弾みになった。「ラーメン県そば王国」の商標登録を思い切って申請した。全国に誇る山形のラーメンとそばを広くPRし、観光資源の知名度向上につなげたい」と表明した。
 「オランダせんべい」の酒田米菓では、新商品として従来の「オランダせんべい」にラーメン調理過程で出る大量の煮干しを再利用した新しい味の「にぼせん」を開発した。煮干しは「酒田ラーメン」の出汁に大量に使われる。その処分に「酒田のラーメンを考える会」や関係企業と協力して開発されたもので、煮干しの風味が香る「やみつきになる」煎餅として話題になっている。
 大量に捨てられていた出がらしの煮干しが、再利用され商品化されることはSDGsの観点からも意義ある開発である。

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日本画の名品がずらり

2024年02月24日 | 日記

 酒田市美術館は「新田嘉一コレクション」の日本画を中心とした名作展示会で大勢の鑑賞客でにぎわっている。新田さんの所蔵する特別企画展は今度で3回目となる。今回は日本画の巨匠の作品16点が展示され、近くの美術館で鑑賞きることは何よりありがたいと思っている。
 先ず目に付いたのは、丸山応挙の六曲一双の屏風「韓愈雪行図」の大作である。部屋いっぱいに展示された国宝級の気配を感じさせる大作は圧巻であった。海外流出の可能性を感じ取った新田さんが所蔵した作品と聞いている。馴染み深い近代日本画の巨匠横山大観や伊東深水の作品には食らいついて見つめた。
 江戸時代の丸山応挙、鹿野探幽、鹿野常信、鹿野芳崖も展示されていた。丸山応挙の「福禄寿」は高齢化社会を見据えた高齢者の偉光を感じさせる作品に思えた。
 スクールバスで子供たちが鑑賞しながら、鑑賞者のアンケートを取っていた。「中学生ですか」と尋ねると「小学生です」の答えにびっくりした。小学校の時から名画を鑑賞する学習に感動を覚えた。

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庄内の星ひとつ消える

2024年02月17日 | 日記

 2月10日に急逝した時田遊佐町長の家族・遊佐町合同葬儀が生涯学習センターで行われ、多くの町民や関係者が分かれを惜しんだ。
 山形県で唯一、庄内だけが平成合併で五つの自治体に合併している。県庁との距離が遠く、全てのインフラは後塵を拝してる状態にある。高速道路はつながらず、新幹線もない。陸羽西線も今は運休となっている。その中で時田町長の仕事は群を抜いて庄内をリードしていた。
 東北電力のバイオ発電は遊佐工業団地に誘致し間もなく開業する。洋上風力発電は遊佐沖が最終ステップの段階にあり詰めの作業が始まっている。一部の反対もあるが未来を見据えた遊佐町のできる事としてゆるぎなかった。「日沿道、酒田遊佐間の開通式が3月23日だよ」との電話が私への最後の言葉だ。
 役場を木造の平屋に立て直した。「エレベーターもエスカレーターもいらない。歩いて回る役所は素晴らしい」と、いつもほめていた。鳥海山の開発は最高裁まで争って勝利を勝ち取った。
 庄内を思い、遊佐町をこれほど自慢していた人はもういない。合同葬は立派でも代えがたい人材を庄内は失った。

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JR酒田駅前広場にガス灯

2024年02月10日 | 日記

 山形県のJR酒田駅前広場に新たなガス灯が設置され市民の関心を呼んでいる。設置されたガス灯は5灯式で、駅前整備事業の計画段階から駅前広場の新たなシンボルにしたいとの強い要望があったため、酒田天然ガスが寄贈して設置されたものである。
 駅前広場は約4千平方メートルの広場に、有料駐車場20台とタクシー乗り場、フリースペース等が整備され、駐輪場は屋根付きで400台の駐輪が出来る。そして、今までシンボルとなっていた高くにそびえていた大型ヨットのオブジェは交差点改良に伴って撤去される事になった。
 JR酒田駅長は「素敵な駅前広場となり感謝します。酒田市と連携して賑わい創出に尽力したい」とコメントしている。ガス灯は夕暮れから最終電車まで点灯される。

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明日から立春

2024年02月03日 | 日記

 今日3日は節分、明日から立春である。北国の恐れる大寒が明け「鬼は外。福は内」と全国から豆まきの声が聞こえる。季節の変わり目に起きやすい災害や病気を鬼に見立て、邪気を払う力があるとされる豆をまいて、追い払う昔からの行事である。我が家でも昔は豆まきをしていたが、子供が成人した頃には無くなったようだ。
 例年、大寒の2週間は厳しい寒さにおびえてる生活だが、今年の大寒は穏やかである。吹雪もなく雪もない日中の気温が7~8度になったり穏やかな日々である。気象が異常なのだと分かっているつもりだが理解が出来ない。
 天気に恵まれた先月の28日、庄内地域の味覚を楽しむ「第37回日本海寒鱈まつり」が酒田の中心部各地で開かれた。その中の中町モール会場には天気の良さも手伝って、長い行列が出来る盛況で、一杯800円の寒鱈汁は飛ぶように売れていた。「食の都庄内」親善大使のシェフ3人による寒鱈の特別料理や、ラーメン総選挙で初代王者になった「酒田のラーメン」の出品も加わり人気を集めていた。
 日本海の幸は厳しい分旨さが詰まっている。

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「歌会始」読師に酒井さん

2024年01月27日 | 日記

  今年の「歌会始」に旧庄内藩主酒井家18代当主酒井忠久さんが「読師」を務めるとの報道があった。暗いニュースの中での朗報だった。「読師」の役目は、歌会始全体の流れを仕切る大事な役目と知り、なかなかの重責と分かった。当日、テレビ画面を食い入るように目を凝らした。最後は両陛下ひとりひとりの前に進み、御歌を拝受し読む役の講師へ運ぶ仕事である。緊張が伝わってくる。
 旧庄内藩主忠久さんの父、17代目忠明さんが昭和29年の歌会始「林」のお題で佳作に選ばれている。山形県の和歌は「歌会始」に多くの作品が佳作に選ばれており、令和に入ってからも2年、3年、5年と続いて入選している。
 私が興味を抱いたのは、平成7年お題が「歌」で山形県の大滝市太郎さんが入選した時である。「紙切れを幹に押し当て歌しるす 山人われに春は来にけり」が深く印象に残っている。農作業の合間にふと我に返って思い浮かべたのかも知れない。今はテレビで「プレバト」が高視聴率を上げている。日本語の奥深さが面白い。

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伝統の「酒田凧」

2024年01月20日 | 日記

 今日から大寒、年間で最も寒い時期に差し掛かる。北国はこの頃に備えた冬支度を整える。北風の強い庄内は風囲いで家を守り、幹線道路はすべてに防雪柵で吹雪対策がとられている。雪は上から降るのではなく北風で舞い上がり横から襲い掛かるのである。しかし、今年の大寒はおかしい。雪もなく北風もなく気温は7~8度で晴天である。しかし、油断はできないとは思っている。
 北風の強い今頃、私が子供の頃は凧あげをして遊んだものだ。もちろん手作りである。竹ひごで枠組みを作り、和紙に武者絵を描いた紙をはり、凧が上がる角度を調整して丈夫な糸を結ぶのがコツである。凧の上部を糸で引っ張り丸みを持たせる。その糸に和紙を張ると凧の鳴き声がブーンと響き、張り方で音色は変わる面白さがあった。
 いつの間にかそんな遊びは消えたが、酒田凧を保存してくれていた「酒田凧保存会」(会長松田正美)が活動を続けて伝統を残してくれていた。酒田凧の歴史は古く江戸時代からと言われている。左官職人が冬場の仕事が無いとき、壁塗りの骨組みの竹を使って作っていたという。
 その保存会の作品展示会が酒田市の「山王くらぶ」で開催されている。自分たちで作るだけではなく、市内のイベントで子供たちに凧作りの楽しさを教える等、後世に引き継ぐ取り組みも進めている、すばらしい活動である。

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