さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

加藤治郎『混乱のひかり』

2020年01月13日 | 現代短歌 文学 文化
今日は知人と急遽読書会をすることにして、以下はそのために書いたレジュメ。

一冊をひろげて読みはじめると、独特の作品世界が展開されていて、その空気感のようなものに包まれる。こういう短歌はなかなかない。

結局、加藤作品にしばしば出て来る技法は、オノマトペの多用も、パーレンや記号文字の〈空喩※〉的使用や、通常の暗喩の使用も、あらたな「リアル」に突き当たるための手段であるのだ。本書の「あとがき」で作者は、ライト・ヴァースを自分たちの世代の登場と同時に短歌史の中に全面化したものとして、歴史的に語ろうとしているが、その「ライト・ヴァース」は、インターネットの普及と情報化社会化の急速な進展という現実の中で、「リアル」のあらたな様相をつかもうとして出て来た動きであると、私なりにここでは概括しておく。

そのうえで、そういった短歌史語りはともかく、要は現実の作品集の一首一首の作品が、見えない現実の姿を言葉・詩によって、イメージを制御し、組織化し、またはイメージを暴走させ、忌憚に触れ、規範を侵犯しつつ、当代の諸悪と虚偽、無関心と無神経と腐敗と堕落と不幸の諸相と、それに反転して見出される願いと平安と慰安とを形象化することに成功しているかどうかということが問題になる。作者は多様な技法を持っていて、オノマトペや甘美な抒情的な言葉の操作については、やや手慣れた感じもみえないではないが、今度の歌集にみえる「リアル」の手触り、苦しい現実の幾多の局面で苦闘しているなかでつかんだ「リアル」の手触りの本物感は依然として圧倒的であるし、さすがである。


  廃観覧車かたかた回れセメントの澄んだ匂いに包まれて、冬
 
  木馬は太い歯を剝きだしにしたままだ がさりと俺の言葉を奪う
 
  シャッターは灰色の舌、野良犬のどこにもいない三十一番街

 このくっきりとしたイメージの提示と、同時にうかがわれる心情の鮮明さを見よ。


  言葉にほそい腕が付いているぎしぎしと縛っているのはそいつの親だ

  こめかみに当たった螺子のようなもの嫌な方向からだったこと

  それらしいファミレスあって入っていくドレミファソラシ自爆犯A

  ヘイトスピーチ袋のなかに放り込んでる 灰皿に火がみえて

  ゆめが破れる音が聞こえてきたのですあんまりひどい音におどろく

 この情報管理社会、あらゆる地面が資本に管理されて適正評価されている都市を歩き回ることの空しさに、言葉を持つ生体が高度に感応して、肉のからだの底から涌きだすように呪詛のつぶやきが漏れ、時にイメージのくしゃみが奔出する。その根底にあるのは、古い言葉だが文明批評をする精神である。
 
 次の歌は前川佐美雄の『植物祭』の歌を知っているとおもしろく読める。

   雨なんかふってないからひじょうなるこうもり傘を人人人人にする

    ※「人人人人」に「ばらばら」と振り仮名。

 次は中澤系。

   たぶん、ぶつかったんだ ぼくたちは別の電車に乗りそこなって

 詞書に「中澤系に」とある歌もあるが、ここには引かない。次は葛原妙子の高名な一首を踏まえる。

   飲食の音はかそけくしんしんとソースの壜に原不安あり

     ※「飲食」に「おんじき」と振り仮名

 もう少し引きたい。 

   むらぎものこころもどきを削除して冬のまひるをまばたいている

   現実は劇薬である辛うじて声を発するWEB会議
  
     ※「WEB」に「ウエッブ」と振り仮名

 おもしろいではないか。さいごに代表歌として人が取り上げないかもしれないような歌を引いておく。こういう作品に、私の気持ちは寄って行く。


  終電の車輛はみょうに明るくて車掌が黒いふくろをはこぶ

  っていうか、いっしょにいたじゃんきらきらとショーケースに子犬がならぶ


※「空喩」私のここでの造語

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