さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

岡井隆逝く

2020年07月12日 | 現代短歌 文学 文化
 きのう知人からメールがきて、十日に岡井先生が自宅で心不全で亡くなったということを知った。「未来」の七月号の後記に近況として骨折したことが書かれていて、手術後一時改善したと伝えられていたのに、これではまた逆戻りしてしまったなと思っていたことだった。先輩歌人の土屋文明も近藤芳美も百歳まで長生したから、本人としてはそれを口に出しては言わなかったかもしれないが、最後の目標の一つとしていたのではないだろうか。ここしばらくの編集後記からは、医師の指示に従ってまじめに療養に勤めている様子がうかがわれて、最後まで強い意志をもって再起すること、また創作執筆活動に戻るという気持ちを失っていなかったことがわかる。
 いろいろと思い出はあるが、今すぐそれを語ることはできない。ずっと壁に貼ってある作品のコピーが今朝目に入った。

  ひそやかに怖れゐし時が来たらしい遠木立さへ深みを増しぬ    岡井隆

 「遠木立」に「とほこだち」と振り仮名。これは直近の歌集だったか、そのひとつ前の歌集だったかにあった歌だが、いま私はそれを探し出す元気をなくしている。いずれにせよ、ここ数年はずっとこういう気分を基調として毎日を過ごしておられたことは、まちがいない。長い晩年だったけれども、その間にも何冊もの著作を刊行していたのだから、並大抵の詩的力量ではない。現代詩、短歌、俳句のそれぞれに通暁し、創作者として最後まで第一線級の水準を落とさなかった。あたらしい岡井隆の作品に接する時には、何かしらの愉悦を感じることができた。また、後進を積極的に認める役割も大きく、保守的な歌壇では当初否定的な評価の多かった俵万智や穂村弘を最初から高く評価していたのが岡井隆である。
 機会詩としての短歌、折々の感慨を託して、ひとがこの世界に存在し、日々の生活の意味をよりよく感ずるための短歌を、言葉の芸術として高めるために生きた詩歌人として、岡井隆は昭和・平成の時代を先導した。その活動の意味は今後さらに顕彰、研究されていくであろうが、やはり愛唱するに足る作品が多くあったということが、岡井隆の生きた意味を歴史のなかに刻印するのであろう。いま、ふと思い浮かんだ歌がある。

  灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ    岡井隆

『斉唱』の冒頭に位置する歌なのだった。いま岡井隆全歌集のⅠとⅡをざっとめくってみたのだが、この「亡びんとする愛恋ひとつ」という歌謡の要素を持った抒情的詩句が、ひとりの人間の根底に流れつづけるライトモチーフとして最初にあらわれてから、やがて肉体と精神をはげしく揉みしだき、鍛え、さらには高調させてゆくエロス的なモチーフとして全面化してゆく成行きを、私たちは全歌集というかたちを通して目撃することになる。それより年上の人たちは、同時代の実践者としてまぶしく見守り、また時には嫉視していたのにちがいない。戦後詩の主流をなした政治と思想 、それから労働と愛と死とエロスの世界の表現というテーマに真っ向から勝負を挑んで、多大な表現上の革新を成し遂げた。現代短歌がその仕事に負う所は多いのである。

 泥ふたたび水のおもてに和ぐころを迷うなよわが特急あずさ

「和ぐ」に「な・ぐ」と振り仮名。『天河庭園集』より。やはりこういう甘美な人口に膾炙したうたが、残ってゆくのであろうとは思うけれども。昨晩は激しい雷鳴がとどろいたのだった。同じ歌集より。

 カラマゾフィシチナ恋おしも恋おしきに魂に霜降りてか ララム

 寂かなる高きより来てわれを射る労働の弓 ラムラムララム

 しりぞきてゆく幻の軍団はラムラムララムだむだむララム

 いずこより凍れる雷のラムララムだむだむララムラムララムラム

「射る」に「い・る」、「雷」に「らい」と振り仮名。こういう先行作品がなかったらニューウェーブの記号短歌などもなかったわけで、後に『神の仕事場』で岡井隆が全面的に口語短歌を摂取していく方向に舵を切ったときに、島田修二などは、角川「短歌」の書評で若い歌人たちは気を付けないと後で岡井隆という巨魚が大口をあけていると書いたぐらい、それは目立ったことだったのだけれども、今思えばこれとて後輩たちが自分から摂取したものをふたたび自分が摂取し直したようなものなのだから、何を言ったって際立ったオリジナリティは岡井隆の方にあるのだ。ここに引いた一連は吉本隆明が絶賛したのだった。のちに岡井隆は吉本について感謝の念もこめて一本を上梓している。

「亡びんとする」の歌が思い浮かんだときに、なんだか涙がこみあげそうになったのだが、これを書いているうちに、涙がひっこんでしまったので、もう書くのをやめる。ちなみに歌誌「未来」は社団法人化されているし、運営は理事の合議によるという体制が整っているので心配はいらない、ということである。

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