丸石ビル。千代田区鍛冶町1-10。左:19867昭和62)年4月5日、右:1985(昭和60)年8月5日
設計:山下寿郎、施工:竹中工務店で1931(昭和6)年3月に竣工した。全体のデザインは「近世ロマネスク様式」によるものだそうだ。現在では街中にこれだけ大きい様式建築は幾つもないと思う。それがきちんとメンテナンスされて使われているのが素晴らしい。2000年にBELCA賞(ロングライフ部門)を受賞し、2002年3月に国の登録文化財になった。
太洋商会という会社が建てたもので「旧太洋ビル」「旧太洋商会ビル」という記載が本やネットで目にする。『都市の記録>丸石ビルディング』というサイトによると、ビルは1・2階を太洋商会と姉妹会社の丸石商会(後の丸石自転車)とで使うように設計された。竣工時には1階に太洋自動車(GMの販売代理店)のショールームがあった。竣工時の写真を見ると、上の左写真でビルの奥、アーチ3つ分は増築である。
『企業情報@Wiki』に『昭和36年2月 丸石自転車株式会社に商号変更。本社を東京都へ移転。』とあるので、「丸石ビル」の名称はそのときに付けられたのかもしれない。
『出会いたい東京の名建築』(三舩泰道著、新人物往来社、2007年)によると、もともとこのビルは中央通りに面していた。ビルの前は竜閑川に架けられた今川橋の橋詰広場で都の所有だったのが戦後の昭和25年頃、川は埋立てられて橋も撤去された。そこに丸石ビル別館が建って丸石ビルの正面が隠れてしまうのは昭和50年頃ではないかと思う。その正面を捉えた貴重な写真を『建築士から見た…>懐古写真館>丸石ビルディング』と、同じく『丸石ビルディング』で見ることができる。見る人が見ればそこに写っている車でだいたいの撮影年が解りそうだ。また、別館が建つまではビルの前にいろいろな店の仮店舗が置かれたのかもしれない。
左上:1986(昭和61)年12月30日
左下:2006(平成18)年10月28日
ビルの北側の玄関である。現在は下の写真のように壁もレリーフもきれいに洗われている。『都市の記録>丸石ビルディング』によると、玄関両脇の獅子像はビルの裏側、竜閑川に向いたほうに4体が置かれていた。口から雨水を川に向かって吐き出していたそうだ。北側玄関に置かれるようになったのは1994年から。それまで、ビルの裏に置かれていたのなら、ぜひとも見て見たかった。
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取り上げていただいてありがとうございます。
オーナーの会社はテナント料のかなりの部分をメンテナンスに費やしているんだろうと思います。
休日で入口も窓もシャッターで閉まっていました。
開いていると全く雰囲気が違いますね!
大事に使われているようで安心しました。
またおじゃまいたします。
「猫と建築」は知らなかったのでありがたかったです。北関東はさすが充実していますね。
丸石ビルは当分は今の姿で見られそうです。ビルの林立するビジネス街にあるのがいいですね。
いつまでも残してほしいビルです。
当時は「BG」といっていたのでしょうが、やはり紺の上っ張りみたいな制服で働いておられたのでしょうか。
2階は色々な会社の事務所で、事務所どうしの交流があり
、それはそれは趣のある、ゆったりとした造りで、郵便物を入れるポストのようなパイプが通っていて、利用していたような記憶があります。
石造りのような長い流し場で、お茶を沸かしたり…
階段は広いゆったりとした石のようならせん階段で、当時は丸石自転車ビルと言ってました。
真向いにラーメン店、少し行くと甘味店があり、銀行に行く時には内緒であんみつを早食いした懐かしい思い出。
近くには地下で、花倉の美人喫茶で皆でよくお茶をしました。
丸石ビルが今でも健在なのは、私には甘酸っぱい思いで嬉しく、愛しいビルです。
ちなみに私が当時働いていた社名は、「越井木材工業」です。
当時の私の年齢は19歳で、越井木材は本社は大阪です。
当時は、東京支店長一人、大阪からの出向社員が男性4人、
事務員は支店長の姪と下っ端の私で女二人です。
丸石自転車ビルは切ない思いでが一杯で、東京支店は間もなく閉鎖されまして、私は支店長が紹介してくれた就職先に再就職致しまして、他の男性職員は大阪へ帰りました。
そんな訳で大好きな丸石ビルとは2年程でお別れしました
。玄関前の三越ライオンのような獅子像も在りました。
私の記憶では、上階から下階まで通っている、パイプ方式のポスト投函が面白くて、大好きでした。
当時丸の内オフィスで爆弾事件が有り、支店長が訪問先の順番を代えていたら、爆弾の巻き添えになっていた!!と青ざめて話していたことが記憶に残っています。
丸石ビル、万歳と叫びたい思いです。