ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




相生ビル。神奈川県中区相生町(あいおいちょう)5。1988(昭和63)年8月6日

馬車道通りと相生通りの交差点角にある古いビル。周富輝の店「生香園本館」が入っているビルである。『日本近代建築総覧』に「相生ビル、中区相生町5-84、建築年=昭和初期」となっている建物だと思う。現在の地図では住所は相生町5-80だ。『総覧』では、詳細は判らない、あるいは未調査だが一応登録しておく、ということらしい。
1988年の写真からは、生香園、エメラダ(コーヒー・スナック)、梅○?(鱧料理)、すみかわ(スナック?)、チェリー(スナック)、大内法律事務所、などが読み取れる。


近影。2009(平成21)年7月26日

タイル貼りだった壁が改修されている。窓枠が替えられた箇所もある。

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佐藤眼科医院。神奈川県中区尾上町(おのえちょう)6。1988(昭和63)年8月6日

建物の前は国道16号線で右手にすぐ、大岡川に架かる大江橋である。個人医院としては近代建築の典型のような立派な建物だ。『日本近代建築総覧』に「佐藤眼科病院、中区尾上町6-90、建築年=1931(昭和6)年、構造=RC3、設計者=平林金吾、施工=大林組」で載っている。
「ウィキペディア」によると、平林金吾は大阪府庁舎(1926年)と名古屋市役所(1933年)および朝鮮貯蓄銀行(1935年)の設計者だった。いずれも設計コンペに応募して採用されたものだ。大阪府庁舎は平林の図面に岡林馨が手を入れたものといい共同設計である。平林は1924年に東京市の臨時建築局技師になり、多くの関東大震災復興小学校の工事管理をしている。1927年から「復興建築助成株式会社」の技師になって、耐火住宅やビルを設計した。佐藤眼科もその関連で設計することになったということだろうか。



左:1988(昭和63)年8月6日
上:2002(平成14)年1月14日

1995年頃かと思うが、上の写真のように大幅に改修されてしまった。知らなければけっこうしゃれたデザインなのだが、やはりもったいないと思ってしまう。しかし建物が古いと設備も、と疑ってしまうのも確かで、難しい問題だ。

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旧伊勢屋質店。文京区本郷5-9。1989(平成1)年5月5日

樋口一葉が通った質屋として菊坂にはなくてはならない建物だろう。平成15年に国登録有形文化財になったので取り壊されることはなさそうだが、この建物がないと菊坂という地名も危うくなる感じがする。
文化庁の 『国指定文化財等データベース』によると、旧伊勢屋質店は「見世」「座敷棟」「土蔵」の3棟で構成されている。店ではなく見世と表記する理由が分らないが―古文書にあった文言だろうか―その見世は通りに面した出桁造りの建物。「棟札より明治40年4月の上棟であることが知られ、施主、大工名(平野千代吉)も判明している。・・・開口部に格子を設ける意匠、階高の高い二階部など、明治時代の町屋の姿をよく表している」ということだ。
座敷棟は奥にある平屋の建物らしい。1890(明治23)年に建てられている。「・・・八畳の座敷を中心に東南二方に縁を廻し、さらに南側には中庭を設ける。狭小な敷地の中で二方を中庭と庭に開いて眺望を確保するなど町屋に設けられる座敷の特徴を余すことなく備えている」と解説されている。
土蔵は「売渡証から、(明治初期に建てられたものを)明治20年に現在の足立区鹿浜(当時の南足立郡鹿浜村)より移築された」もの。樋口一葉が菊坂町に移ってきたのは明治23年9月、18歳のときで、その当時からすでに伊勢屋の土蔵は建っていたわけだ。
質屋の商売は1982(昭和57)年に廃業している。一葉忌の日に内部が一般公開される。『東京DOWNTOWN STREET 1980’s> 一葉忌〜旧伊勢屋質店公開(2011.11.23)』で昨年の公開の模様がレポートされている。



八百金。本郷5-9。1989(平成1)年5月5日

旧伊勢屋質店の隣にあった八百屋。今は取り壊されて駐車場になっている。旧質屋の隣といっても、間に細い路地が奥へ入っている。菊坂通りには何本か、北へ入って台地の崖やその手前の建物で行き止まりになる路地がある。入ってみたくてしかたがないのだが、怪しまれるのではないかと余計な心配をして実行できない。
八百金の建物は平屋の長屋のようだ。どうせなら店が営業中の写真を撮るべきだったが、機会はあったはずなのに撮るのを忘れてしまったらしい。
『Kai-Wai散策』という有名なブログの 『日暮れ時の菊坂(2005.01.22)』『菊坂の風景になった青果店(2004.06.13)』および 『夕暮れて菊坂(2004.10.21)』で営業中の店の写真を見ることができる。その写真では看板が「比留間青果店」に替わっている。比留間青果店の屋号が八百金なのだろう。
建物が取り壊されたのは2006年6月のことで、やはり『Kai-Wai散策』の 『比留間青果店(2006.06.18)』で、記事にされている。

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丹羽米店。文京区本郷4-29。1989(平成1)年5月5日

菊坂通りもだいぶ下ってきて、言問通りとの菊坂下交差点も間近という辺り。ズボン堂の少し先である。
下の現在の家並みと比べると、右奥のクリーニング屋が建て替わっているが、それより手前の家は今と同じであまり変化していない。上の写真ではまだ商店が並んでいるといってもよさそうな景観である。今では商売は廃止して建物も住居用に改修されている。いずれこれらの古い家もビルに変わっていくのだろう。



近影。2012(平成24)年4月28日

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民家。文京区本郷4-33
上:1989(平成1)年5月5日
左:同年4月9日

写真の階段は菊坂通りと下道とを繋ぐ横丁に当たるもので、その角に出桁造りの家がたっている。家の後ろは階段の下になるので三階建てだ。下から家の横を眺めると、下見板の壁と窓の下の張り出した台とその手すりなどが目に入り、なかなかの景観である。
通りの正面を見るとガラスの引き戸が間口一杯にはまっていて、よく見られる商家の造りだ。隣の家がくっついて建っている。屋根の高さは異なるのだが、あるいは一体の長屋形式なのだろうか。その隣の家は1階を民家に改修したようだ。
現在は隣の家は建替えられたが、角の家はきちんと補修もされてほぼこのままの外観で残っている。ただ正面1階は玄関と窓を取り付けて民家に改修されている。すごいのは改修された面の壁を、横と同じ下見板にしていることだ。また、横の三階の窓の手すりも旧態を保ったままで作り直されている。
横の階段は樋口一葉旧居跡と旧伊勢屋質店との間にある。菊坂の名所を巡る人がこの家を目にすることができるのは幸せなことに違いない。

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櫛田歯科医院。文京区本郷5-5。1989(平成1)年5月5日

本郷通りから菊坂通りを下りていくと、特に見所もない感じで本妙寺坂との交差点も過ぎて長泉寺の参道がある辺りまで来てしまう。菊坂通りの半分以上を来てしまったが、この先から古い商家や民家が現れる。
写真右の2軒は民家、モルタル塗りの壁の家が棚田歯科医院、出桁造りの家が元古綿打直しの看板を挙げていた店で、その手前に長泉寺の参道が開いている。現在は長泉寺参道の右側にマンションが建っていて、出桁造りの家は3階建ての民家に建替えられている。




間瀬綿屋。本郷5-6
上:1988(昭和63)年1月30日
左:1989(平成1)年5月5日

上の写真は菊坂通りから一段下の平行した下道へ下りる階段から撮った。看板の文字は一部が読めないが、『東京路上細見1』(林順信著、平凡社、1987年)によると「迅速丁寧 タ(¬の中にタの字が入った記号)古綿打直し」である。すでに商売は廃業したような感じだ。店の業種をなんと表現していいか分らない。「綿屋」としたがそのまま「古綿打直し屋」あるいは「打直し屋」だろうか? 「屋」より「店」のほうがいいだろうか?
1989年の写真では1階の引き戸や窓がアルミサッシに取り替えられている。看板も必要ないように思うがきちんと修理されている。

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宮前広場の洋館。文京区本郷6-8。2007(平成19)年10月24日

東京大学正門の本郷通りの向かいの横丁を入ると三角形の広場のような交差点がある。その広場の左(南)にあったモルタル仕上げの壁の洋館。先日ここを通ったら建替えられていた。ストリートビューではまだ旧邸がみられるので、わりと最近の変化である。写真では蔦だか藤だかの葉が茂って家を半ば隠している。ストリートビューのほうが見やすい。
三角広場は、どのくらい通用するのか知らないが「宮前広場」が通称らしい。戦後に廃止されるまで、広場の正面である西側に「映世神社」があった。神社の沿革や様子は 『文京の古本屋>読みもの>映世神社』に棚沢書店のご主人が解説されている。広場の中央に石の鳥居があったそうだ。明治16年測量の 『本郷元富士町近傍』を見ると、本殿の後ろにあったという小山も確認できる。


2000(平成12)年5月5日

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フジハウス
文京区本郷6-6
2012(平成24)年4月28日(3枚とも)

先日、図書館で『杉浦茂 自伝と回想』(杉浦茂・他著、筑摩書房、2002年)という本を見かけて借りてきた。ぼくが小中学生だった1950年代、少年雑誌で傾倒したのが手塚治虫、小松崎茂、杉浦茂であった。読んでみると以前読んだことがあると分ったが、内容は覚えていないので再読した。杉浦の書いた自伝「遠い記憶」は体調の悪化のためだろう、途中で終わっていて分量も少ない。
「昭和11年、私はなんの意味もなく、本郷帝大(東大)前の森川町の「不二ハウス」に移り住んだのであった」とあって、杉浦は隣人からアパートの経営者が徳田秋声だと聞かされて仰天する。なにも知らずに越してきたのである。杉浦は昭和7年4月に田河水泡に弟子入りした。昭和11年というと、田河のアシスタントを務めながらボチボチ雑誌に漫画が掲載されていた頃だと思う。
杉浦が入居したのは2階の6畳。端の部屋を有名な哲学者岡邦雄―ぼくは知らない―が使っていたという。電話は管理人室の隣にあるだけで、秋声に電話があると、管理人夫婦のどちらかが管理人室の裏庭に面した窓を開けて「先生ーっ、お電話ですよおー」と叫ぶ。秋声は母屋から下駄をつっかけて庭を横切り、裏口から廊下を玄関へ急ぐ、という具合だったという。「昭和16年から17年にかけて、私は東横線の妙蓮寺に住んでいた」とあるから、不二ハウスにいたのは5年間ほどだったらしい。
ぼくは「徳田秋声旧宅」はその場所くらいは知っている。改めて住宅地図をみて「フジハウス」が徳田旧宅に隣接して記載されていたので驚いた。あわてて昨日、本郷へ出かけて写真を撮ってきた。これでめでたく今年のゴールデンウイークは名所へ出かけたことになった。



写真のフジハウスが、杉浦が住んだのと同じ建物かどうかは分らないがその可能性はありそうである。Goo古地図の航空写真では昭和22年と38年の両方に、同じ建物で写っている。ふたき旅館が取り壊されていて、フジハウスの西側が見えていた。そこに白く塗った下見板の出窓がある。昔は建物の壁全体がそのようなものだったのかもしれない。


徳田秋声旧宅

ぼくは徳田秋声の小説はまったく読んだことがないので、秋声に関してもなにも知らない。自然主義の大家ということだが、日本の自然主義文学はほとんど私小説と同義らしい。
「徳田秋声旧宅」で都の史跡に指定されたのは昭和39年4月28日。建物がいつ建ったのかはあまり関心がもたれないようで、ネット上では判らなかった。秋声がここに移ったのは明治38年。今は取り壊されてしまった本郷館は明治38年に建築されたというが……。
2階が洋風である。洋間の書斎だろうか。

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上総屋商店。神奈川県足柄下郡箱根町強羅。1991(平成3)年12月22日

強羅駅の駅舎は昭和52年に建替えられたものだが、駅前広場に面して並んでいるみやげ店は建物も商店も昔からあまり変わっていないようだ。小林物産店などは、関東大震災後に東京の下町に建てられた長屋の店舗と同じ形式に見えて、やはり昭和初期の建築かと思わせる。上総屋商店は1930(昭和5)年頃の創業の酒屋というから建物も創業時のものかもしれない。上総屋商店の右は小川商店。



小林物産店。1991(平成3)年12月22日

ぼくが小学校低学年の頃まで祖父の別荘が強羅にあって、夏の何日かをそこで過ごした。木造平屋の庭もないような家で、もしかして借りていたのかもしれない。大文字焼きも何回かそこで見たわけだが、その祭日には強羅駅前の広場に縁日の露店が出たようだ。ぼくが5歳のときだとすると1949(昭和24)年だが、ぼくは一人で5円玉をにぎりしめて薄荷パイプを買ってきたのを憶えている。夜だったと憶えているのだが暗くなってから幼児を一人で外に出すとも思えないので明るいうちだったのかもしれない。露店のおじさんに5円玉を渡すとおじさんは一番安そうなパイプを渡してくれた。ちょっと不満だったのだが一応納得して帰ったのであった。「こっちがいい」などと自己主張しない性格はほとんど生まれつきのようである。

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強羅花壇
神奈川県足柄下郡箱根町強羅
1991(平成3)年12月22日

現在は強羅花壇という高級旅館の懐石料理のレストランとして使われている洋館。「懐石料理花壇」に「旧閑院宮邸について」という藤森照信東京大学教授の簡単な解説が載っている。設計は陸軍技師の柳井平八、施工は松村組、1930(昭和5)年6月20日の完成である。
柳井平八(1888−1945)は 「歴史が眠る多磨霊園>柳井平八」によると、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を1910(明治43)年に卒業して陸軍建築部に就職、陸軍関係の建築技師として勤務した。また、宮家、靖国神社の建築物や軍関係の私邸などを建築した。
洋館の建主である閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王は陸軍の軍人で、昭和6年から15年にかけて参謀総長を務めた人。宮様の軍人はお飾りであることが多いようだがこの人がどうだったかは知らない。日露戦争では騎兵第2旅団長で、けっこう活躍したようであるが、黒溝台会戦の前に総司令部付に移動している。危険な部署から引き上げたのだろうか。ちなみに、騎兵第1旅団長が秋山好古である。

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