ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「銃殺 2・26の反乱」~襲撃

2014-02-27 | 陸軍

この映画は最初に言ったように、登場人物が実在の人物とすぐわかる
劇中名をつけられており、安藤大尉は「安東」となっています。
映画を観ているだけでは漢字の違いなどわからないので、

「なぜ安藤大尉だけが本名なのだろう」

と不思議に思った人もいたかもしれません。
人物を仮名にすることで、劇中のフィクション部分を強調する意図もあったでしょうか。
いずれにしても「あんどう」始め、どの人物も事件を少し知っている者には
わかってしまうことなので、あまり意味はないという気がしないでもありません。

そして安藤大尉を演ずる鶴田浩二ですが・・・。

造形的にもイメージ的にも、あまり安藤大尉らしくないのが困りものです。
いろんな軍人役の鶴田浩二をスクリーンの上に観てきましたが、
実在の人物を演じる場合、この人の場合はやはり海軍軍人の方がしっくりくるというか。

バブル時代に巨費を投入して創られた映画「226」で安藤大尉を演じたのは
三浦友和でしたが、こちらは納得させられるキャスティングと個人的には思えます。

実際の安藤大尉は、痩躯で端正な好男子であったといわれ、決して鶴田浩二が正反対のタイプ、
というわけではありませんが、決定的なのが「安東大尉」が眼鏡をかけていなかったこと。
確かに鶴田に眼鏡はしっくり来ず、 このキャスティングを仮名にしたのには 
案外こんなところにもあるのではないかという気がしました。




さて、安東が決起を決意した日、この映画ではこんな家族の食卓を映し出します。
なんと誕生日をお祝いするバースデーディナー。
2月25日。
決行の一日前ですが、この日は安藤輝三の31歳の誕生日でした。
ただし安藤夫妻がこの映画のように誕生日の膳を囲んだという話は創作です。

というのは、安藤大尉は2月22日の朝、真意を確かめに来た磯部浅三に

「磯部安心して呉れ、俺はヤル、本当に安心して呉れ」
(『磯部浅三 行動記』)

と答え、そのまま週番勤務の歩三に出勤していったからです。

ともかくこの家族にとって(映画的には)最後の夕餉となった夜、
外には雪が降り出したのでした。



次の日、つまり誕生日の翌日なら2月26日当日ってことになってしまいますが、
安東大尉、悠長に庭で雪だるまを作っております。

前半の硬派な展開を全く無駄にするかのごとき創作ですが、
まあ、映画ですからこれくらいは良しとしましょう。
さすがに226の当日であったという設定は無理があるので、
誕生日を早く祝ったということにしたようです。



出来た雪だるまに自分の軍帽を被せ、息子を抱いて

「マサキ、これはお父さんだぞ」

実際には安藤大尉は、決行を表明する前の1月20日ころには
家庭でも深く考え込むような様子を見せるようになったといいます。

ある晩、房子夫人に向かって冗談のように

「これをやろうか」

といって、テーブルに三本線を書き、4本目を途中で止めて
「三行半」を匂わせたり、あるいは12月に安藤大尉らの第一聯隊は
満州への転勤を命ぜられていたのにもかかわらず、夫人の

「極寒の地なのだから用意しなければ」

という心配に対しては「いい、いい」と答えるといった風に。

さて、この夜(映画的には2月24日)、蹶起将校たちの作戦会議が持たれます。
各襲撃場所の確認のため紙を読み上げていた栗本(栗原)中尉。
最後に

「豊橋(陸軍教導学校)の梅島(竹嶌)、相馬(対馬)への連絡も頼むぞ」

と言われ、

「任して下さい。約束の実砲に千発ももう用意してあります。
偽装のため女を連れて行きます」

と答えたところ

「恋女房と言えよ!」

とからかわれ、頭を掻くシーンがあるのですが、ここでわたしは
はっとしました。

平成になって制作された2・26映画、「226」でベースになったのが
何度か引用している澤地久枝著「妻たちの二・二六事件」であるわけですが、
これに、ここだけ仮名の「A中尉」のこととして、この話の真実が書かれていたのです。

獄中から妻に狂おしいほどの熱情をこめた手紙をおくっていたその人は、
蹶起前、弾薬の運搬の仕事をかねて打ち合わせに偽装のための女を連れていましたが、
それは実は結婚前から関係のあった愛人だった、ということが。

A中尉自身が彼女とのことを「焼け木杭に火がついた」と仲間に語っていたそうで、
夫人は、夫の死後そのことを本人の日記で知ってしまったのでした。

澤地がこの作品を書いたのは1975年。
この映画「銃殺」はそれよりも11年も前の制作ですから、
このとき銃弾を運んだのが栗原中尉であることを隠していません。

しかし、関係者の間では連れていたのが妻ではなかったことは周知のはずなのに、
あえて「恋女房」と言わせたあたりに、映画制作側の配慮が感じられます。

それがたとえそれが妻に不穏な部分を悟られたくない、あるいは
危険な目に遭わせたくないという配慮からであったとしても、
夫が元の愛人と事件前に一緒であったという事実に妻が、
しかもその夫を失ってから知り、打ちのめされたことは想像に難くありません。


本を読んだときにわたしも人並みの好奇心から、A中尉は誰なのか考えを巡らせてみたのですが、
何とこの映画であっさりと分かってしまったという・・・・。



その晩、安東家に従兵が安東の新しい長靴を取りに訪れます。
封を切られた給料袋を託され、代わりに・・



神棚からお守りをわたす夫人。
安藤輝三は、処刑のとき「家族の者が安心しますから」と言って
松陰神社のお守りを身につけて撃たれた、と記録にはあります。




2月26日払暁4時。
喇叭とともに雪の闇の中、男たちが行動を起こしました。
安東大尉率いる歩三連隊は、麹町の鈴木貫太郎邸を襲撃します。



整列した兵たちの敬礼を受ける安東。

それはともかく、この映画の安東大尉の軍帽が・・・。
あまりにも細長く屹立していて、他の軍人の軍帽とも違い、
なんだかわたしは気になって仕方がありませんでした。
なんというか・・・まるでボートみたいにみえるのです。

鶴田浩二の好みでもあったのでしょうか。

蹶起部隊は、総理官邸(岡田総理)、陸軍大臣官邸(に突入を始めます。



そして大蔵大臣官邸・・・・えっ、これが高橋是清
全然似てなくない?



教育総監は渡辺錠太郎
次女をかばって撃たれましたが、憲兵は二階に行ったきりで渡辺を護らず、
ここで犠牲になったのは一人で応戦した渡辺総監だけだったそうです、



内大臣官邸。
斎藤三郎内大臣は殆ど蜂の巣という状態になるまで銃弾を体に撃ち込まれましたが、
斎藤の妻はそれを見るや前に立ちふさがり

「撃つなら私を撃ちなさい!」

と夫をかばいました。
銃口を掴んで引き寄せたため腕に銃弾が貫通したそうです。
彼女はその後回復し、昭和46年、98歳まで生きました。




そして鈴木侍従長邸。

去年、巷間伝えられる鈴木貫太郎襲撃の様子と、実際に鈴木が
夫人から聞き回復後に話した様子には若干の食い違いがあり、
それについて去年エントリにしてみましたので、
もしまだならぜひお読み下さい。

鈴木貫太郎と安藤大尉

とにかくこの映画では、一般的に伝わっている通りの描写がされています。



しかし、鈴木が「お前たちはどこの部隊の者か」
と尋ねるのに対し、下士官が

「時間がありません。撃ちます」

と引き金を引く部分は同じです。
それにしてもこのときに鈴木の横にいる妻のたかを演じる女優(桧侑子)に
全く緊張感がなく、ほぼ平然としているように見えるのが残念。



撃たれた鈴木に安東がとどめをさそうと軍刀を抜いたところ、
たかは

「お許し下さい。どうせ助からぬ命です」

と命乞いをします。

このときとどめをさすかどうかを下士官では決めかねて安藤大尉に伺ったところ、
安藤大尉自身が

「とどめは残酷だからやめよ」

と言った、という話を鈴木自身が後日語っています。



たかが鈴木の体に覆い被さる、という構図は戦後の映画で
ほぼ定番のように使用されてきましたが、実はたかは次の間で、
別の下士官に体を押さえられた状態で、

「とどめ云々」

の会話があったときに声を上げて命乞いしたというのが真実だそうです。
しかし、事件後たか夫人は夫を救った妻の鑑として世間に讃えられたので、
いつの間にかこのドラマチックな構図が好まれる形で一般に膾炙したのでしょう。





たかの捨て身の命乞いに心動かされた(という設定の)安東大尉。
実際の状況は安藤大尉は女中部屋にいたので、命乞いを聞いていたかすら
疑わしいと思われるのですが、もちろんそれではドラマになりません。



「侍従長閣下に捧げ~銃!」

鈴木に対して捧げ銃をしたのは事実ですが、実際は立ってでなく
膝を片方立てた折り敷きの姿勢を全員が取ったということです。
何が違うのか、と思われるでしょうが、日本人の感覚では
横たわっている人物に少しでも近い姿勢を取る方が礼に適う、
ということでそうしたのかもしれません。

このあと、たかが

「お差し支えなかったらお名前を」

というのに対し、安東は

「歩兵第三連隊、第6中隊長、安東大尉です」

と答えますが、ここの成り行きは鈴木自身の言によると
安藤大尉が

「我々は閣下に対し毫も恨みを持つものではありませんが、
躍進日本に対して意見を異に
するため余儀ない次第であります」

と言ったのに対し、たかが

「それはまことに残念に存じます。なにとぞお名前を伺わしてください」

と問うと、かれは容(かたち)を改めて

「安藤輝三」

と名前だけを称し、整列して引き揚げて行ったということです。


実際のこのときの安藤大尉の様子の方が、ずっと映画の演出より
緊張と切迫と、何よりも安藤大尉の決意のようなものを映し出している
と思うのはわたしだけでしょうか。

 

こちらは陸軍大臣官邸。
矢崎大将(真崎仁三郎)が事件を受けて陸軍大臣に対処を相談に来たのです。
実際は真崎はこのとき加藤寛治海軍大将を伴っていたと言われます。



陸軍大臣官邸で待機中の将校たちは、伯爵牧野伸顕を襲撃して巡査に撃たれた
病院の天野(河野)と話し、

「こちらはうまくいっていますから気を大きくして早く治って下さい。
天野さんが退院する頃には世の中は一変していますよ」

などと和やかにお茶を飲んだりしています。
牧野伯爵が襲撃の目標とされたのは、天皇の側近にありながら
欧米との協調主義を唱えていたからでした。 
牧野は旅館逗留中に襲われ、宿の主人の背に負われて逃げ、助かっています。

河野は事件失敗を悟った3月6日、入院先の病院で自殺しました。



こちらは川島陸相からの

「蹶起の主旨においては天聴(てんちょう)に達せられあり」

という告示を山下奉文から
受け、盛り上がる青年将校たち。


ここで告示を読み上げた山下は、青年たちの行動について言明を避け、
さらに自分の意見を問われても

「俺の意見は陸軍大臣告示通りだ」 

とキョドりながら逃げるように去っていきます。



皆で清酒「雄叫び」を飲みつつ、

「てーんに代わりて不義を討つ~♪」

と気勢をあげる下士官兵たち。
世間では将校らを指示する声も盛んであり、この時点で将校たちが
自分たちの革命は成功したかに思えていたとしても不思議ではありません。

ちなみにこの「雄叫び」は、実際に蹶起部隊に差し入れられ、
皆がこれを口にしたと言われています。



さて、こちらはこれらの対応に頭を痛める陸軍のお偉いさんたち。

彼らが頭を痛めるのももっともで、このとき既に陛下は青年将校たちに対し
激烈な怒りを表明され、彼らを逆賊とまで御呼びになっていたからです。

こりゃー山下奉文が挙動不審になるのも無理はありますまい。

本庄武官長の記した日記によると、
事をお聞きになり軍服に御着替えあそばされた天皇陛下は、

「朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん」

とまで激しい怒りをお隠しにならかったということで、

「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、
真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」

とまで仰せだったのです。

とにかく、ここに集まった陸軍関係者はただおろおろと、
責任の押し付け合いをするのみ。
ここには荒木貞夫陸軍大将もいます。
荒木は一時

皇道派のシンボル

として青年将校たちに絶大な人気がありました。
真崎が更迭されたときには武藤彰の引き立てでそれを免れ、
逆に栄転となって東京駅に帰って来たときには青年将校の出迎えで溢れ、
さながら凱旋将軍のようであったと言われます。

そもそも荒木と真崎のまわりに集まって来た者たちをして
「皇道派」と呼びならわすことになったのですから、
核心的人物であることは勿論、創始者といってもいいでしょう。


しかし、 荒木自身が陸相の座を自分の息のかかった者で固め、
その専横ぶりが「統制派」との対立を深めるにつれ、
自ら青年将校たちを
保身のためもあって押さえにかかったあたりから、 
一時は絶大な信奉者であった青年将校たちはその元を去ることになります。

つまり、 荒木は自分で育てた皇道派の若手を制御できなくなったといえます。

 
天皇の御勅を受けて翌日戒厳令が発令されました。
蹶起将校たちが、天皇の下に新しい、公明な社会を作ろうとして起こした革命は、
外でもない、その陛下の御言葉によって「反乱」と転じ、
彼らは以降「逆賊」と呼ばれることになります。



続く 

 



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5 Comments

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親世代の2.26 (平賀工廠)
2014-02-27 11:28:28
エリス中尉

治療後の不自由さにもかかわらず、エントリを続けてくださりありがとうございます。

亡母は女学校で栗原中尉の身内のかたと同級だったそうで2.26 に関心があり、「妻たちの二・二六事件」を買って読んでいました。

昭和40年代、磯部浅一の獄中手記の発表は当時かなり話題になり、学校の図書館で読みましたが、当時の私には難しかったです。

亡父は昭和13.7歩兵少尉任官、14.10中尉、17.4召集解除の青年将校でした。農村出身ですので、事件の将校に共感をもっていたようです。「昭和維新」の歌が好きだったとの話も聞きました。

かつては2.26関連のドラマも放映され、大河ドラマ「太閤記」の信長役で最強の信長としてブレークした、高橋幸治が青年将校を演じた作品を見た父は、もっとも青年将校役がサマになっていると感心していました。

高橋幸治は太閤記の翌年、1966年 「おはなはん」でも主人公の夫の速水中尉を演じ大変好評を博しました。


昭和維新の歌 (エリス中尉)
2014-02-27 21:53:38
次回226エントリで少しだけ触れます。
226将校たちに同情を寄せ、共感を持った人々は当時から数多くいたらしいですね。
次回、そんなことも少し分析してみました。

お母様が栗原中尉の親族をご存知で、お父様がほぼ同時期に陸軍士官でいらしたとは、
まるで昭和史の生き証人がご両親であったと言った艦がありますね。
ところで旧陸軍軍人の父親というのはさぞかし厳しく子女を教育するのではないかと思うのですが、
やはり平賀工廠さまのお父上もそのような厳格な方だったのでしょうか。
戦後の「友達親子」などとんでもない、という躾だったのではないかと想像しますが。
子供教育 (平賀工廠)
2014-02-28 19:19:37
父は士官といっても幹候あがりですが、陸幼を受けたこともあり、軍人は性分にあっていたようです。

あまり細かいことをいうほうではなく、行動で見せると言った風でした。今と違って、娯楽もろくにない時代ですから話はずいぶん聞いた覚え(講話?)があります。本が好きで取り寄せ等本屋への用は私の仕事でした。歴史・戦史・美術・建築・庭園・漢詩などへの興味はその影響でしょう。

海軍びいきで、父の姪と中学の級友海兵65期(ラバウル方面で戦死・少佐)の婚約が整い、昭和17年8月に自宅で父と新婚まもない母、二組のカップルの記念写真を撮り大きく伸ばして貼ってありました。
キャプションは 「余モ亦点呼列席シテ軍装シアリ。茲ニ陸海各一対相並ンデ写ス」とあります。

こういう父の影響が海軍好きのルーツかなと思います。
地震雷火事親父 (エリス中尉)
2014-03-02 12:10:49
軍人気質の厳しい父親。
昨今の日本ではもうすでに見るべくもないですが、憧れますね。
「地震雷火事親父」の言葉通り、昔は父親というのは恐ろしい存在だったそうで、
わたしの母親程度の世代でも「父親だけでなく母親も怖かった」と言っています。

旧軍軍人のお父上はそれに加えて家族に対する慈愛をお持ちであったようで、そういうの憧れます。

65期というと、その多くが軍艦や潜水艦の艦長として参戦し、亡くなっています。
お父上が一緒に写真を撮った海軍の方も、艦船の指揮官として散華されたのかなと思いました。

こんな展覧会も (平賀工廠)
2014-03-02 19:34:14
エリス中尉

数年前の2月末、戦史・武具研究家の友人に教わり、教育総監 渡邉邸と設計者の陸軍技師の展示会をみに行ったのをエントリして見ました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/ef53182007/18746902.html

その前のエントリで、半年前発見した、「亡父の戦時名簿写し」をレポートしてみました。初級士官のささやかな記録です。

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