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USS「ランドルフ」と梓特攻・銀河搭乗員の酸素マスク

2014-05-01 | 海軍

去年の夏サンフランシスコのアラメダにある空母「ホーネット」を訪ね、
博物館となっているその艦内を二度にわたって見学しました。
艦載機にはじまり、艦内、そして艦橋ツァーと何度かエントリに挙げてきましたが、
このUSSランドルフ展示室についてはぜひお話したかった部分です。

冒頭画像でお分かりのように、このエセックス級空母には、日本の特攻機が突入し、
甲板の後方に激突、その機体とともに搭乗員の遺品が残されたからです。 





ホーネットのハンガーデッキから一階下に下りたセカンドデッキでは、
かつての居室を利用したいくつかの海軍艦船のメモリアルルームとなっており、
資料等が展示されています。

そのうちの一つ、USS「ランドルフ」のコーナーもありました。




ランドルフ、(USS  RANDOLPH,CV/CVA/CVS-15)は、
アメリカ海軍のエセックス級航空母艦です。
前回説明したように、

CV=航空母艦、
CVA=攻撃空母、CVS =対潜水艦支援空母

の全ての機能を兼ねているということです。
アメリカにはドラッグストアのチェーン店に CVSというのがありますが、
これは空母とは全く関係なく、

"Customer, Value, and Service"
 (顧客、価値、サービス)

という意味だそうです。蛇足ですが。

ランドルフというのはこの空母が作られたバージニア州生まれの
バージニア州議会議長であったペイトン・ランドルフの名から取られました。
就役は1944年10月9日。

大東亜戦争で日本の敗戦色が濃くなって来た頃で、日本ではちょうど
同じ月の16日後、組織された特攻隊の第一号である神風特別攻撃隊
関行男海軍大尉の率いる敷島隊として組織され、出撃をしています。



まずは当たり障りのない展示からどうぞ(笑)

就役してすぐのクリスマスディナーのメニューです。
サンタの乗ったトナカイのそりを、飛行甲板の誘導員が
例のうちわのようなもので誘導しています。

メニューは

トマトクリームスープ

雄の七面鳥のロースト(TOM TURKEYとある)

スウィートポテトかホイップしたポテト

いずれもクランベリーソース添え

ターキードレッシングをかけたウォルドーフ・サラダ(リンゴとクルミがけサラダ)

豆の炒めたの

スタッフドオリーブ、冷たいセロリ

パンプキンパイ、アイスクリーム、フルーツケーキ、

葉巻、キャンディ、タバコ、ロールパン、バター、コーヒー





ランドルフの艦載機パイロットが着用していた飛行帽とゴーグル、
そして写真集など。

ランドルフは1945年1月、サンフランシスコを(ここアラメダです)を出航、
ウルシー環礁に到着しました。
最初に与えられた任務は、

2月16日 東京飛行場(羽田)および日立航空機立川発動機製作所

2月18日 父島 硫黄島

2月25日 関東地区の飛行場、八丈島

への攻撃でした。





本土爆撃のために出撃したパイロットと艦載機に搭載された
500パウンド爆弾(220キロくらい?)の記念写真。
ぎっしりと乗員によって書かれたメッセージがありますが、
大きなデバイスで読める方は何が書いてあるのかちょっと読んでみて下さい。
(ちょっと閲覧注意)

そして、これをグリーティングカード仕立てにし、

「これは500パウンドのお見舞い状(get-well card)です。
145パウンド(65kg)のよく訓練された海軍戦闘機パイロットによって配達されます」

とわざわざレターをつけております。
まあ、なんでも好きなようにふざけるといいよ。戦争はお互いさまだからね。




ヴァージニアタイムス、というのはランドルフの母港の町の新聞社です。
1945年の2月18日に書かれた記事ということは、ランドルフがウルシー環礁から
最初の任務として本土爆撃を行ったことをまさに報じているわけです。

タイトルは

「コーリング・カードを置いてきました」

 で、このcalling cardは現在ではテレフォンカードのことですが、このころは
訪問したことを示すために残す印刷された、あるいは手書きの書面という意味でした。 
そのコーリングカードが、「ランドルフ」の甲板から大量に撒かれた爆弾で、
水兵は微笑みながらこう言っています。

「君たちが真珠湾でやったことを思い出してもらうために戻って来たよ。
どう、思い出した?」

まあ、どうでも好きなように楽しむといいよ。戦争はお互いさまですからね。

 

このときにランドルフが搭載していたのはご存知ヘルキャットで、
その勇姿を描いたこの絵なんですが、なんと、これ

ハセガワの模型の入っていた箱

です。 
これを寄贈した人(つまりヘルキャットの模型をハセガワから買った人)の
名前がわざわざ書かれているんですけど、そんな人の名前より
これを描いた日本人のイラストレーターの名前を書くべきじゃないのかね?ああ?

しかも、表記が

Has"A"gawa Hobby Kit cover art

って・・・・・・。
気の利いたイラストの描ける人間が滅多に回りにいないんだったら、
ちょっとは日本に感謝して、せめて名称は間違えないようにしような?



と、いちいち気を荒立てるエリス中尉。

戦後70年たって日米は同盟国。
完全に対等とは言えないものの、
取りあえず敗戦後どうされても文句が言えなかった状態の日本を
曲がりなりにも独立させ、発展の足がかりを作ってくれたという恩義は忘れておらんが、
それにしてもこういうのを見ると日本人としてやはり穏やかな気分ではいられんのだ。


上の地図は1945年の7月10日から始まった本土攻撃の図で、
このとき「ランドルフ」はハルゼー提督率いる第三艦隊の一部として
関東地区の飛行場に8度の攻撃を行っています。

数字5の、7月18日の攻撃は、横須賀基地の桟橋に偽装されて停泊していた
戦艦「長門」への攻撃を意味しています。

このときの本州攻撃は数日間継続され、軍施設だけを攻撃したパールハーバーを
日本人に「思い出させる」ために、アメリカ海軍は大量の民間人を攻撃し、
爆弾の雨を無差別に降らせて多くを殺戮しました。



おそらくそのとき津軽海峡に向かうランドルフの艦載機。
津軽海峡では二隻の青函連絡船(もちろん民間船です)を撃沈し、他の民間船3隻を大破させました。
この地域の飛行場ももちろんもれなく爆撃されています。

そして、8月15日。
日本が降伏を受け入れそれを宣言したこの日、ランドルフは木更津にいました。
木更津飛行場と周辺施設への攻撃を行っていたのです。



そこに飛び込んで来た日本降伏のニュース。

「ジャップが降伏したぞ」

一方的な優勢攻撃だったとはいえ、艦載機が撃墜されるということも多々有りましたし、
米海軍の将兵が命を賭けて出撃していたことに違いは有りません。
そこに入って来た終戦の知らせ。
それは嬉しかったでしょう。
いかに追いつめたと見えても、日本軍を相手にしている限り、彼らは常に

「自分の命を盾にこちらを道連れにやってくる特攻隊」

の恐怖と戦わなくてはいけなかったからです。
そして、「ランドルフ」の乗組員はそれを「よく」知っていました。



1945年3月11日。
それは「ランドルフ」が前述の初出撃による日本本土の攻撃を終え、
ウルシー泊地へと帰投した直後のことでした。

九州の鹿屋基地から発進した梓特別攻撃隊の銀河が、
「ランドルフ」の甲板後部に突入し、この攻撃で25名が死亡、
106名が負傷したのです。

梓特別攻撃隊については「銀河搭乗員の乾杯」というエントリのほか、
二式大艇の記事でも何度か触れたのですが、このときの日本側の攻撃は

”国内は九州方面に度重なるB29の攻撃を受けており、
日本近海を敵機動部隊が我が物顔で往来していました。
 ここにおいて、敵の機動部隊を叩くには、かれらがウルシーに停泊するのを待って、
これに内地鹿屋から片道攻撃をかけることしか残されていなかったのです”
(当ブログ銀河搭乗員の乾杯より)

という事情で行われたものでした。
つまり、「ランドルフ」にすれば日本本土の攻撃を済ませ、
帰って来たばかりでほっとしているところを急襲されたということです。

鹿屋基地を飛び立つ銀河

このとき鹿屋から出撃したのは800キロ爆弾を抱いた爆撃機銀河。
24機の銀河は鹿屋上空で別の基地から出発した二機の二式大艇と合流し
ウルシーに向かう予定でしたが、二式大艇のうち一機が離水に失敗し、
三度それを試みているうちに出発が遅れてしまいました。

コースを変え、二式はゆっくり飛んでいた梓特攻の前方に出ることに成功しましたが、
PB4Y−2プライベーターの哨戒機に見つかり、そのうち一機が撃墜されます。

「銀河搭乗員の乾杯」で冒頭に挙げた写真はまさにそのときのものと思われます。


プライベーターは先導機である二式を一機撃墜しましたが、銀河隊には気づかず、
そのおかげで全機は以降攻撃されることなくウルシーに向かいました。
ヤップ島に到達できたのは鹿屋を発った24機のうちの15機。
9機はエンジントラブルによる不時着、あるいは鹿屋に帰還しました。

この15機のうち目的を達したのは「ランドルフ」に突入した唯一機だけです。

ある1機はソレン島を空母だと勘違いして突入したと言われており、
(そこにもアメリカ軍が駐留していたので死者重傷者計8名がでましたが)
4機がヤップ島に不時着し、9機が海に落ちたとされています。

作戦失敗の最大の原因は、当初の目標であった薄暮攻撃が時間の遅れで果たせず、
到着が夜間になってしまったことでした。
ウルシーに到達したにもかかわらず搭乗員は全く目標を認識できず、
中には平文で

「クライ、クライ」

と打電してきた機もあったということです。

また不時着したうちの一機は、なんとヤップに駐留していた日本軍の攻撃を受け、
パイロットが重傷を負ったために着陸を余儀なくされています。

これも夜間で日本軍が銀河を敵機と誤認したための悲劇でした。

翌日、トラック島から偵察のためにウルシーに飛んだ「彩雲」は、
ウルシー泊地の空母の数に変化がなかったことから、作戦失敗との報告しています。 



しかし唯一攻撃が成功した「ランドルフ」はこういうことになっていました。
先ほども書いたように、25名死亡(うち3名行方不明)、負傷者106名。
前にも「バンカー・ヒルの物語~小川清の時計」で書いたように、これまで

「全く相手の死体を見ることもなく快適な戦争をしていた」

「ランドルフ」の乗組員を恐慌とでもいうべきショックが襲ったことでしょう。 
それを思うと、終戦が訪れたと知ったときの「ランドルフ」の乗組員の笑顔には
ただの安堵とはいえない複雑な思いも込められていたに違いありません。



このとき「ランドルフ」に突入したとされる銀河搭乗員の最後の姿です。 

左から、

偵察 上飛曹 井貝武志  (廣島・電練49期)

操縦 大尉  福田幸悦  (北海道・海兵70期)

電信 上飛曹 太田健司  (愛知・乙飛14期)

 
現地時間の午後8時1分と8時4分、福田機は無線でこれから突入することを打電し、
「ランドルフ」の行動調書によると銀河は8時7分に突入したことが記されています。
梓特攻隊で他に突入を打電して来た機はありませんでした。

福田機が突入したという明確な証拠のひとつは、「ランドルフ」艦上で発見された
三遺体のうち一体は海軍大尉の階級章をつけていたことだそうです。

梓特攻隊には福田大尉を含め三人の海軍士官がいましたが、
一人はヤップ島に不時着した後終戦まで生き残り、もう一人は
「ランドルフ」が突入された30分後に、最終の無電を打って来ています。


(註*
この部分をわたしはある英文のサイトから引用したのですが、
実際の連合艦隊発表による梓特攻の名簿には大尉は二人しかいません。
おそらく、こちらが間違いだと思うのですが一応そのまま記します)




もうお分かりでしょう。
この酸素マスクは、「ランドルフ」に突入した銀河搭乗員の誰か—、
福田大尉か、太田上飛曹か、井貝上飛曹のいずれかが装着していたものです。



後甲板でそれが発見されたとき取得し持ち帰っていた「ランドルフ」の乗組員
ヴェーン・ナイバイ?から寄贈されたとこれには書いてあります。

実際に見ても不思議なくらいダメージがなく、欠損も汚れもないことから、
突入の瞬間「銀河」の搭乗員は酸素マスクをしておらず、
機内にあったものが機体の損壊と共に転がり落ちたと考えるのが良さそうです。
しかも、この状態を見るに当時は全くの新品だったのではないでしょうか。




この作戦のために銀河搭乗員42名、二式大艇の搭乗員12名、
計53名が一挙に戦死することになりました。
「ランドルフ」の被害は決して少なくはありませんでしたが、それでも突入後、
修理も1ヶ月弱ですませ、4月には沖縄攻略部隊に参加しているのです。

つまり悲願であった有力な米機動部隊の侵攻の阻止はなりませんでした。

ここで考えずにいられないのは、この作戦の合理性とでもいうべきで、
つまり犠牲の多大さに比してあまりにも効果が僅少であったことです。

銀河一機には三人もの搭乗員が乗っていました。
実際部隊の中には「電信員まで死なせる必要があるのか」という声があったそうです。
いかに当時の日本の戦況が切羽詰まった状態であったとはいえ、いや、だからこそ
誰かせめてこの人員の「無駄遣い」に意見具申するべきではなかったかと思うのは
所詮わたしが戦後の感覚でものごとを見ているからでしょうか。

特攻に向かう若者たちの純粋な熱意や尊い覚悟などを、上層部は
このころになると「濫用」していたのではないかとすら思えるのです。



梓特攻に参加した菊水部隊梓特攻隊の出撃前の写真。

阿南正範一飛曹が友人に宛てて書いた遺書は次のようなものです。
これをそのサイトは「典型的なこの頃の特攻隊の遺書」と書いています。
英文を訳しているので原文とは違っていると思いますが。

手紙をありがとう。
君が元気でやっているようでとても嬉しい。
そして、僕がお国のためにご奉公できることを君に伝えられるのを喜ばしく思う。
戦況はますます深刻なものになってきた。
我々日本男児が立つべき危急のときが来ている。
いや、男だけではなく、日本国民全てが覚悟を決めるときが来たのだ。

今日本本土は戦場となっている。
しかし僕が体当たり攻撃に出れば、勝利することができるだろう。

火の玉精神で攻撃すれば成功あるのみ。




突入の後、「ランドルフ」の25名もの乗組員の命を奪い、100人以上に負傷を負わせた
憎き「カミカゼ・パイロット」三人の遺体はどうなったでしょうか。
もしかしたら目ぼしい戦利品をもぎ取られた上でゴミのように海に投棄されたでしょうか。

しかしながら、自分の命と引き換えにこちらの命を取ろうとするこの戦法は
いずれにしてもアメリカ人に底知れない恐怖と、おそらく畏怖をも与えたに違いありません。



「ランドルフ」の展示室にわざわざ黒髪を短髪にしたマネキンを用意し、
装着した状態でマスクが展示してあることに、わたしは戦後アメリカ人の理解と許容と、
こう言っていいならば特攻隊員への敬意をも感じ、わずかながら慰められるような気がしました。




終戦相成ってUSS「ランドルフ」は誇らしげに日本軍に対してあげた戦果を記し、
占領のために日本に進駐してきました。

1945年9月のことです。











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3 Comments

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飛行機乗りと水上艦乗り (雷蔵)
2014-05-01 20:12:10
アメリカは戦時中(1941~45年)にエセックス級空母を24隻も作ったんですよね。我が国では開戦後に就役したのは大鵬一隻。信濃と天城、葛城、雲竜はほぼ完成していましたが、稼働には至っていません。この状況で「参りました」と言えなければ(その是非は置くとして)誰でも特攻しかないと思うのではないでしょうか。

ミッドウェイ海戦(1942年)から二年半、殴られっぱなしで殴り返せない。米軍は零戦を凌駕する高性能の新鋭機をドンドン投入して来る。友軍は高錬度の搭乗員は見る見る失われ、気合は十分だが錬度は疑問の補充しか来ない。それでも「参りました」とは言えない。

昨年はゼロ戦に関する映画が多かったですが「永遠のゼロ」(小説)を読んで(恥ずかしながら)始めて気付いたことがありました。

特攻が始まったのは1943年10月のレイテ海戦時です。太平洋戦争に参戦したほとんどの戦艦と重巡はレイテ海戦に参加しています。一方、正規空母は瑞鶴一隻。要するに、レイテ海戦の時点で、我が海軍の戦艦や重巡はほとんど無傷だったのです。なので、米海軍に対して負けているとは思っていなかったと思うのです。

小説の「永遠のゼロ」は我が海軍航空部隊が緒戦で華々しい戦果を上げた真珠湾作戦から段々追い詰められていく局面を丹念に描いています。その過程を追体験する上で思ったのです。本当の意味で過酷な戦いを強いられていたのは飛行機乗りで、水上艦乗りはレイテ海戦までは、負けているとは思っていなかったのではないかと。ほとんどの戦艦、重巡がレイテ海戦時点までは無傷だったのですから。
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搭乗員たちのその後 (天パ)
2014-06-28 13:56:49
はじめまして。
以前より拝読しておりますが、このたび初めてコメントさせていただきます。(少し古い記事へのコメントとなり、恐縮です。)

>突入の後、「ランドルフ」の25名もの乗組員の命を奪い、100人以上に負傷を負わせた
>憎き「カミカゼ・パイロット」三人の遺体はどうなったでしょうか。
>もしかしたら目ぼしい戦利品をもぎ取られた上でゴミのように海に投棄されたでしょうか。

この点ですが、ご安心くださいませ。
神野正美『梓特別攻撃隊』に、「ランドルフに突入した3名ならびに、近隣の島に墜落した銀河から収容された2名(原文ママ。残り1名は不明です)の日本海軍搭乗員の遺体は、米海軍が丁重に栄誉礼をもって埋葬した。」という旨の、元ホーネット乗員からの手紙が紹介されております。(余談ですが、真珠湾攻撃時に戦死された飯田房太大尉も、米海軍の戦死者と同様にきちんと埋葬されていますね。)

逆に日本海軍でも、礼号作戦時に重巡足柄に体当たりしたB25から収容した搭乗員の遺体に「ミスター・ジョン」と名付け、自軍の戦死者と同様に丁重に水葬したという話を読んだことがあります。
少なくとも海軍の世界においては、敵軍の遺体であろうとも丁重に扱う気風が、両軍とも大戦末期になっても残っていたようですね。

長々と、失礼いたしました。これからも、楽しみに読ませていただきます。
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天ぱさま (エリス中尉)
2014-06-28 21:36:07
教えて下さってありがとうございます。
それは何とも心が洗われるような話ですね。

日本海軍がそうであったように、やはり米海軍も「海軍の誇り」を挟持していますからね。

わたしの知り合いのアメリカ人の父上は職業軍人ではありませんでしたが、
大戦中海軍に奉職したそうです。
彼が硫黄島にいたとき、投降してきた日本兵を海兵隊の兵隊が何の躊躇もなく撃ち殺したのを見て
ショックを受け、相手に「なぜだ」と聞くと、答えは
「こちらがやられるからな」だったそうです。
海軍と海兵隊の違いというものをひしひしと感じたと述解していたとか・・。

飯田大尉の石碑については以前紹介したことがあります。
基地を見学に訪れるコースに入っていて、必ず解説員がその名前を呼ぶそうです。

日米が戦争をしたのは不幸なことではありましたが、戦後、米海軍と海上自衛隊が
緊密で良好な関係を保持しているのも、大戦中もお互いこのような
「海軍精神」を互いに認め合ってきたという実績があってのことなのでしょうね。

だからわたしは海軍が好きなのです(笑)
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