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台湾を行く~台湾総督府総監・後藤新平

2013-02-15 | 日本のこと

日本が統治時代、台湾でしたことについて、戦後の日本人がなぜか
「植民地化したことは許されるものではないが」
というような言い訳をする傾向について、先日、

「それはアメリカから戦後刷り込まれた自虐史観の賜物である」
そして
「歴史に許すも許さないもない。善も悪もない」

「しかも、蒋介石のしたことを冷静に見る限り、
われわれがこの人物のの対日政策に恩義を感じる必要はさらに無い」

ということを述べました。
しかしこの言だけでは、
「歴史にいい悪いもないと言うなら、戦後国民党が台湾でしたことも
蒋介石が日本から没収した財産で私腹を肥やしたことも善悪では語れない」
ということにもなってしまいますね。
うーん、困った困った(棒)

それでは、日本支配とそれに続く国民党支配を台湾人がどう捉えたか、
当の台湾人の総意とされている資料を見てみましょうか。

「犬去りて豚来る」

これが国民党を迎えた台湾人がため息とともに吐いた言葉です。
日本が台湾を統治し始めたとき、もちろんですが台湾人の間にも抵抗が起こりました。
清から送られていた政府は日本人が上陸するや住民に殺戮を加えながら逃走、
むしろ台北では日本軍に早く進駐するように要請する声もあったくらいですが、
島の南部の住民は激しい抵抗を示し、抗日ゲリラは1902年に収束するまでの間に、
2万4千人もの台湾人が死亡しました。

そして、この抵抗運動を「日台戦争」という造語で「日本悪玉」の根拠にして、
台湾人たちから訴えられたのが、NHKの「ジャパン・デビュー」スタッフです。
これを書いた稿は残念ながら消されてしまいましたが。

国民党の戦後敷いた「反日史観」では、この死者は「英雄」として、
先日お伝えした「忠烈祠」に祀られているわけですが、

ちょっと待った(笑)

台湾の実業家許文龍氏によると、

「そんな立派なことではない。
彼らは国家意識や民族意識から抵抗をしたのではないのだから」


どういうことかと言うと、日本軍上陸とともに逃げた清政府は、
もともと台北の都市部に限られ、南部地方は無政府状態でした。
「化外の地」という名前はだてではなかったのです。

そういった地方は地元のやくざが牛耳って庶民から搾取しており、
そこに日本人が来るとその権利が脅かされるため、
その既得権益のためだけにかれらは日本人と戦ったわけです。

普通の台湾人にしてみれば、ヤクザの搾取に貢ぐのであれば、
日本人に統治してもらった方が治安も衛生状態も良くなるし、
税金もそんなに高くないのならそちらの方を歓迎するのは当然です。

「日本人の悪行」として国民党政府に喧伝された「霧社事件」にしても、
もともとはセデック族の集団が小学校の運動会に乱入して、
子供をはじめとする日本人だけを140人を惨殺したことに端を欲しており、
今日虐殺とされている日本政府のセデック族制圧はそれに対する「討伐」であった、
という構図についてはあまり公にされていないのが現実です。

それにしても、当の台湾人自身ががこのように評価している「抗日」を、
よりによって我が日本の公共放送局が「戦争」と称するとは・・・・・・・。

何度も言いますが、いったい、彼らはどこの国の立場に立っているのでしょうか。

1902年に抗日運動が収束してから、台湾は急激に発展しました。
ことに台湾総督児玉源太郎と後藤新平の「黄金コンビ」の時代には
風土病も抑えられました。
住民の平均寿命を30歳にしていたあらゆる熱帯特有の風土病は、
中興の祖であった鄭成功の命も奪いましたが、日本人も
これらのペスト、コレラ、マラリアなどに罹患しかなりが死亡しています。

オランダ統治時代からアヘンの吸引も蔓延しており、清朝はこれらを

「匪賊」「風土病」「阿片」「生蕃(原住民)」

と呼びました。
後藤はこれらの難問を一気に解決するべく、実に巧妙な政策を打ちます。

阿片はいきなり廃止するのではなく、吸引を「免許制」にして、
国による専売を行い、「闇取引」を根絶させます。
阿片の収入も総督府の収入とし、それを社会整備の予算を確保します。
台湾人を阿片の仲買人、小売人にして利益を上げさせながら、その一方で
彼等にゲリラ対策に協力させ、国の利益を病院を建てたり、あるいは
総督府付きの医学校を創立することに回しました。

このときに造られた医学部が現在の台湾大学医学部です。

そして、徐々に官主導で阿片の取引を減らしていき、
50年近くかけて阿片の習慣は台湾から無くなりました。

そして、面白いのですが、統治政府は林火旺という匪賊の頭領に

「罪は咎めないので投降せよ」

と呼びかけ、出てきた彼らに土木工事の仕事を与えました。
建設土木関係と言うと、昔は日本でも「組」が請け負っていましたから、
まさにこれは日本とおなじの「適材適所」。

「彼らの改心」「ゲリラ撲滅」「国土整備」

が一石三鳥で期待できる素晴らしい施策です。

後藤新平は台湾近代化の父、と言われています。
道らしい道すらなかった「化外の地」に日本は次々と改革を行います。

今もそのまま残る南北縦貫鉄道、港湾、道路、ダムの建設。

苗木の無料配布と補助金を交付し造林事業を推進。

台湾銀行を設立して通貨金融制度を確立。

阿片を始め、纏足、辮髪、先住民の首狩りなどの悪習の追放。

学校を作り教育制度の整備。

新渡戸稲造主導の製糖業などの産業育成

台湾の気象に合ったコメ(蓬莱米)などの改良を始めとする農業指導


「日本は台湾に対して偉大なことをした」

これは、李登輝元総統の日本統治に対する評価です。

しかし、このような日本統治政府のしたことを列記すると必ず
「植民地としてそのような国の整備をするのは当たり前で、
実際は日本人は台湾人を動物のように扱ったではないか」

という反論があります。
台湾の先住民族の暮らしぶりを万国博覧会で紹介した時に、
それを「人間動物園」だと呼称した、という捏造をした
NHKの「ジャパン・デビュー」の製作スタッフのような人たちのことですね。

(しつこいと言われようが、何度も言わせていただきますよ。NHKさん)

これだけの成果を並べ、当の台湾人の感謝する言葉を聞いてもなお、
「日本が悪かった」「日本は謝罪すべき」だと言い募る人々、
それが冒頭にも述べた「謝罪マゾヒスト」「自虐アドレナリン中毒者」の皆さん、
あるいはそこまでいかずとも「なんとなく世間がそういうことになっているらしいから」
と周りの空気を読みつつ「いい人」と思われようとする人たち。

これらの人々は、台湾人の言った
「犬去りて豚来る」
の意味をもう少し史実に学んでいただきたい。

何年か前に後藤新平と新渡戸稲造の業績についてのシンポジウムが行われました。
そのときに、なんと我が日本代表のパネリストは(誰だか名前はわからなかった)

「日本は台湾にいいこともしたかもしれないが、悪いこともした。
台湾の人たちにお詫びをしたい」

と発言したというのです。
このパネリストも、どうやら「自虐善人」であった模様。
韓国のような国相手ならともかく、台湾人相手にこれでは

「何を言っているのこの人?」

とむしろ呆れられ「あんたは後藤新平から何を学んだのだ」
と逆に不快感を持たれたのではないかと思います。

統治した台湾総督府は台湾人の自治を認めませんでしたし、
社会的にも出世に制限があったのも事実です。
同胞とされていた朝鮮人には日韓併合前から陸軍士官学校への入学を認め、
日本人と一緒に学んだ彼らの中の優秀なものには中将にまでなった者もいました。

比べて台湾人は二等国民と扱われたのは事実です。
台湾人は政治運動を起こし、総督府はそれを「治安維持法違反」として逮捕したりしました。
しかし実態は、政治犯として捕えられても「食事つき無償宿」に壮行会をして入り、
出所しすれば一躍英雄扱い。

政府から呼び出されたが最後、それっきり行方も分からなくなった者が
何万人もいるような戦後の国民党とは違って、あくまでも日本は
法治国家として台湾人を扱ったのです。

冒頭の画像は、台湾総督府第五代総督の後藤新平晩年の像。
実に「大物」「怪物」といった風格のある人物です。

後藤新平はもともと医師でした。
しかし、その卓越した政治手腕と何よりも先を見通す卓見は、
医師という職業だけにとどまることはなく、多くの業績を残しています。

満鉄初代総裁。

拓殖大学の創立。(同大学はそのせいで今も台湾との縁が深い)

日本ボーイスカウトの初代総長。

日本最初のラジオ放送をした東京放送局初代局長。

そして関東大震災後の帝都復興計画。
(東京の現在の幹線道路網は後藤の主導で構築され現在に至る)

シチズン時計と言う名を頼まれて命名。(これはおまけ)


ざっとあげただけでこれだけがずらずらと出てきます。

台湾統治は後藤が41歳のときでしたが、
このときに後藤は上に挙げたような統治を

「生物学の原則に則ったものである」

という有名な言葉で説明しています。
台湾の特殊な状況、民族や歴史や気候、これらすべてひっくるめて、

「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、
無理に変更すれば当然大きな反発を招く。
よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」

という方針、つまり簡単に言うと

「ヒラメに鯛の目を付けることはできない」

という「生物学的理論」的考えです。
なかなか的を射た比喩ではあります。

台湾総督府も第三代総督の乃木稀典までは、すべて軍人であったので、
匪賊対策ひとつとっても「懲らしめてしまえ」というような対処をしました。
児玉源太郎も陸軍出身ですが、この時の民政局長がこの後藤でした。
つまり、この二人がコンビとなることで、台湾統治は大きく近代化に
「生物学の原則を取り入れて」前進することができたのです。

今回もあらゆるインターネット上の「台湾統治」について調べてみたのですが、
「NHKへの訴訟は間違っている。なぜなら日本は台湾を植民地にしたから」
というような雑な理論を展開しているある左翼思想を持つ人物によると、
「後藤新平は差別主義者だった」(だから統治は悪であった)とか。
どう差別主義者だったのか具体的な資料もなしに決めつけるのもどうかと思いますが、
もしこれが「差別主義だったに違いない、なぜなら日本は台湾を以下略」
だったら、わたし怒りますよ?

本当に差別主義であったかどうかはともかく、パワフルに台湾の国としての体制を
根本から作り上げた後藤と言う人物は決して清廉で潔白なだけの政治家ではなく、
清濁併せ呑む実行の人であったようで、そういう彼のスタイルは
「金権政治家の典型」「黄金至上主義」などと批判されることも多かったようです。

なかでも台湾統治時代に樟脳の専売で結びついたのがあの「鈴木商店」というあたりが、
この陰口もさもありなんと思わせます。

ただ、その目もくらむばかりの実績を知っている後世の者は
「しかしそれが何か?」と言うしかないのも事実なのですが。



後藤は数々の名言をも残していますが、死の間際に言ったという

よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ


という言葉は、ボーイスカウトの「白いお髭の総長さん」として少年たちに慕われた
この「怪物」の真骨頂であったと言えましょう。

「いいこともしたがそうでない部分もあった」
台湾人自身の言うところの日本の台湾統治に対する評価と、
この後藤新平への人物評価はまさに方向を同じくするものです。

後藤新平がその一生にしたことの数々は、今日も台湾や日本にとって
偉大な痕跡となり重要な意味となって存在していることに誰も否定はできないでしょう。





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5 Comments

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Unknown (リュウT)
2013-02-16 23:44:32
こんにちは。
我らが総長を取り上げていただきありがとうございます。

「金は社会や国民の為の手段」という価値観を持つ(と思われる)総長は
「金が目的」という価値観の人にとっては理解できず、
批判の対象になるでしょう。
権力闘争に弱かったというのも総長らしいと思っています。

もう一つ、私が好きな名言をここに残させていただきます。
「まず我が身を修めるというほかはない。
我が身を修める自治の力が治国平天下の基礎である。
かねて私のいう自治の三訣(さんけつ)
『人のお世話にならぬやう
人にお世話をするやう
そして報いを求めぬやう』
と少年時代から心がけてこれを実行するのであります」

自助、互助、自制の精神は人間修養の核として今も引き継がれており、
自治三訣(のコピー)は我が団の部屋に、国旗と共に常に掲げられています。
返信する
お待ちしておりました (エリス中尉)
2013-02-17 00:03:39
台湾を語れば後藤新平が出てくるのは時間の問題でしたね(笑)
そしてわたしは必ずリュウTさんからコメントをいただけると確信していました。
今回、後藤の偉大な業績を調べることで初めて知ったことも多かったのですが、
ボーイスカウトのこともその一つでした。
そして「リュウTさん―ボーイスカウ」トのつながりに、膝を打たんばかりに納得した次第です。

「自治三決」の精神、なるほど深いですね。

>我が身を修める自治の力が治国平天下の基礎である

この言葉は、個人単位の心得にとどまらず、国家観にも敷衍すべき真理を言い表していると思いました。

後藤新平、もっもっとと評価されるべき人物ですよね。
返信する
釣り針が見えても誘い上手(うわて)かな (リュウT)
2013-02-18 00:08:14
日々更新されるblogの内容の濃さと中尉の知識、見識、行動力、観察力に唯々感服し、
下手なコメントで自分のバカを露呈しちゃイカンとコメントしていなかったのですが・・
釣られてしまいましたw

幸か不幸か「復興」の名称で少しだけスポットライトが当てられたのですが、
台湾総督、満鉄総裁と、アチラ方面から嫌われる要素満載で、
学校の授業でもほとんど名前が出ませんからね。
本当は読売新聞(総長が初期の出資者)がもっと掘り下げてくれなければいけないのですが。

「我が身を修める自治の力」は、
気づき、実践する人をまず一人でも増やす事をねらっています。
もちろん、強制したりされたりするものではなく、自分から気づく事が大切。
一人でも多く気づいてもらうべく(子供だけでなく、保護者含めた大人も)
促す運動でもあります。
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なるほど・・・ (エリス中尉)
2013-02-18 22:59:25
これだけの人物がなぜほとんど世間に知られていないかという理由は
おっしゃる通り、その肩書きを並べてみれば明白ですね。
白洲次郎が今まで世間から忘れられていた理由と、
なぜNHKがこの人物を「発掘」してきたかについて先日穿った考えを少しばかり開陳してみましたが、
そういったメディアの「世論誘導」「思想の刷り込み」のバイアスをかけるために決して利用できようなる人物ではないということなのでしょう。

今回台湾で八田與一のような人物がなぜ日本でごくわずかのメディアが
「特ダネ」のように報じるのみで一般には知られていないのか、
非常に憤懣やるかたない気持ちを持ったものですが、
八田ですら知られていないのですからこのような人物が持ち上げられるわけがありません。

「自治三決」ですが、そのような「教育勅語」の為しうる役目に相当するものを、
子供たちを育てる団体が広げていくというのは大切なことでしょう。

それにしてもこれもまた穿った考えですが、おそらく日教組とボーイスカウトは相容れないですよね。

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Unknown (リュウT)
2013-02-19 12:47:26
メディアもそうですが、やはり歴史教育が問題と思っています。
娘の中学校の歴史教科書を見ても、
特に近代は庶民目線で書かれている事がやたら多く、
「立派な人」や、その行為が出てこない。
「立派な人」の指標が無ければ、人を尊敬する事ができない、
立派な人を目指そうと思わない。
そんな教育が65年も続けばこうなりますよね。
気づいた私達が地道に広め、伝えていく必要があります。


日教組とボーイスカウトは基本的に相容れません。
入隊する時に宣誓する「ちかい」の第一声、
「神(仏)と国とに誠をつくし、おきてを守ります」の時点で(笑)
集会時のセレモニーは必ず国旗掲揚、国旗に敬礼から始まり(笑)等々。

周りの指導者の中には学校の先生がいますが、私立学校の先生ばかり。
公立の先生もいますが、もちろん組合とは距離を置いています。
でも、「全ての人に開かれた運動」でもあるので、
日教組な先生や左っぽい人もいます。
自民党にも加藤(紘)とか河野(洋)とか、そんな人がいるのと同様で。
非主流で周りからあまり好かれていないのは想像がつきますよね。
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