夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

高校時代(自分史2)

2004年11月09日 | Weblog
私が去年の10月から住んでいるマンション(そのローンの支払のために経済的窮乏を強いられている)は、出身高校のすぐ近くだ。15歳の時から、いつかここに住むのが夢だった。その理由を以下に記す。

私が汚水にまみれた環境から抜け出す第一歩を記した筑波大附属高校はまさにユートピアだった。私はここで教育を受けたことを心から誇りに思う。
偏差値や東大の進学率のことをいっているのではない。自分の頭で考え、他人を尊重するというリベラルな教育を実践していたからだ。もし、子供に恵まれることがあれば、大学には行かなくてもいいが、(むしろ、職人とか、大学以外の道を見つけることができるような子供になってくれたらこんなうれしいことはない。私は他に何もないから学歴に縋ったが、最上の学歴を身につけても幸せになれなかったいい見本だからだ。)この附属高校で学んでほしいと強く思う。

校則も制服も自治会も生徒指導部も進路指導部もないのに学生は節度を守って行動し、かつ、お互いを尊重するという、私がその後属したどの組織よりも大人同士の関係を取り結んでいた。3年までクラブ活動をしていた生徒も東大に現役合格した。バリバリの理系の生徒でも面白くない授業で机の下で読む内職本はサルトルだった。教師から命令されなくても、民主主義とは何か理解していて、文化祭実行委員会が立候補すると、その委員に民主的正統性を与えるためだけ(つまり選挙で勝たせるため)だけに、負けるための対立委員会候補が自主的に立ったりする理想的な環境だった。

教育内容もすばらしかった。自分で受験勉強できる学力のある生徒でないと成立しないといわれればそれまでだが、歴史科目以外の社会科は全て教科書を全く使わない授業だった。地理ではアパルトヘイトや沖縄問題を扱ったり(その先生は現在琉球大教授となり教科書裁判の原告になっている)、倫社では松本清張の『日本の黒い霧』をテキストにして帝銀事件や下山事件を扱ったり、尾崎秀実の『愛情は降る星のごとく』が夏休みの課題図書になったり、政経も朝日訴訟等の福祉問題を扱ったり、全て世の中の常識を疑い、自分の頭で考える訓練をさせるものだった。私に与えた影響は計り知れない。

私が学者になったのは、金融業界の激変を目の当たりにして「世の中には何一つ確かなものなんかない、でも研究や教育の価値だけは不変だろう」と思ったというどちらかというと消極的な理由からだと自分では思っていたが、高校でこういう教育を受けたことが、人に影響を与える教師という仕事のすばらしさを知らず知らずに心に刻み付けていたこともあったのではないかと思う。

高校では、オーケストラ部、新聞部、文芸部の三つの部を掛け持ちし毎日遅くまで没頭していたが、成績は常にクラスで1、2番をキープしていた。授業を聞けば大体のことは理解でき、試験の直前以外は家で勉強することもなかった。

中学の時に出会った三島由紀夫は近くの小石川図書館で高校1年で全部読破し、ますますのめりこんだ。きっと、似たようなタイプの人間だから、自分の人生の不如意を解決する鍵を三島文学が握っているような気がしたのだろう。毎年11月25日の彼の命日には必ず黒い服を着てくることはクラス中知らぬ者はいない事実だったし、三島がどこかで書いていた「雨が降るからといって傘のようなちゃちなものでそれを防ぐ姑息さ」というような表現を守り、雨でも絶対に傘を差さなかった。
だから、単純だが東大の国文学科に行って三島研究専門の文芸評論家になろうと思い、東大文科三類を受験して現役で合格した。
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