夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

東大点友会時代のこと、福島智さんのこと(自分史3)

2004年11月09日 | Weblog
私はそこで駒場店友会という点字のボランティア・サークルに入った。受験勉強中自分の試験の点数のことしか考えられない自己中心的な毎日が嫌になり、「何か人の為になることを大学入学後はしたい」、ということを目標にして非人間的な勉強の毎日に耐えていた、というと聞こえはいいが、学生時代何か打ちこめるような課外活動をしたい、でも、スポーツは大の苦手である、という消去法的理由があったことも否めない。

駒場点友会は伝統のある本格的な点字サークルで、ベテラン点訳者である深川静郎氏を指導者として厳しい指導を受け、日本語点字と英語点字をみっちり叩きこまれた。当時は、コンピューターによる点訳のような便利なものはなく、専ら「カニタイプ」という、英文タイプライターの中で左から右に動く四角い印字器の左右に、両手の人差し指、中指、薬指を置いて打つためのカニ足のようなキーが付いている道具で点字を打っていた。これらの6本の指のどれを打つかという組み合わせ(2の6乗で64通り)で、日本語も英語も表せるのである。大学を卒業し、点字から離れてからも、流行歌を口ずさみながら、その歌詞(日本語でも英語でも)に合わせて無意識に指を動かしている自分がいた。そのおかげで、香港で約20年ぶりに点字をやろうとした際も、指が完全に点字を覚えており、ほとんど勉強し直す必要がなかったのである。

駒場点友会の活動は、主としていろいろな大学に在籍する盲学生のために教科書を点訳したり、盲学生を受け入れている大学の入学試験の点訳をしたりするもので、とくに後者はとても面白かった。晴眼者の会場と盲学生の会場は分かれており、私たち点訳者も別の部屋で控えている。晴眼者の会場で試験問題を配布すると同時に私たちにも渡され、急いで点字に直したものを、係員が盲学生の会場に持っていく、という臨場感あふれるボランティアであった。

それに対して前者の普通の点訳は、割り振られたものを自宅や下宿に持ち帰ってしこしこやるという孤独な作業で、つるんで遊ぶのが真の目的かと疑うようなサークルもある中、主な活動が一人でやる辛気臭い作業ということで、途中で挫折してしまう部員もいた。しかし、私に関しては、すべてのことに意味を求めるという強迫的な性格がものすごくこういう作業に向いていて、全く苦にはならなかった。前述の通り、高校卒業と同時に現金はいっさい渡されなくなり、学費・交通費・本代の全てを家庭教師のアルバイトで賄っていたので、私の生活は、大学の授業、点字ボランティア、アルバイトの3つでほぼ占められていた。

学園祭では、希望者にその場で点字の名刺を作ってあげ、点字に関するパンフレットを配るという活動を行い、これが後述する香港でのバザーでの活動につながっている。

こうした活動の縁で、筑波大学附属盲学校の塩谷治先生と知り合い、先生が力を入れている「福島君と共に歩む会」にも参加することになった。福島智氏は、ご存知の方も多いであろうが、現東京大学先端科学研究センター助教授である。当時は、盲学校在学中に聴力も失い、盲聾者となりながらも、勉強を続けようと苦労していた。そんな彼をさまざまな形でサポートする会が「福島君と共に歩む会」であった。私のような晴眼者だけでなく、多くの盲学生もメンバーになっていた。

そこでは、視力も聴力も失った福島君のために、指点字という驚くべきコミュニケーション手段が用いられていた。彼の両手の人差し指から薬指までの6本を、前述のカニタイプのキーに見たて、その上に話者が自分の同じ指を重ねて置き、カニタイプを打つように指を動かして文字を綴り、それに対して福島君が声で答える(途中失聴者であるため、言葉は普通に話せる)のである。福島君は、聡明なだけでなく明るく前向きな性格で、ハンディを克服して偉い、というレベルでなく、その人間的な魅力から、ハンディがあること自体をこちらに忘れさせる人だった。私の指点字に関西訛りの言葉で答える明るい声を聞いていると、こちらが励まされるような気がしたものである。

忘れもしない、あれは大学2年の夏、「歩む会」の合宿が河口湖で行われた際のできごとである。
当時、私は自分の進路のことで悩み、半分ノイローゼのようになっていた。

これを話すためには、少々長くなるが、部外者には極めてわかりにくい東京大学の進路決定システムの説明から始めなければならない。入試の時から学部毎に分けられている他の多くの大学と異なり、東京大学では学生が入学時に自分の専攻を最終的に決定することはない。入学時に文科一類、文科二類、文科三類、理科一類、理科二類、理科三類という6つのコースのうちどれかを選ぶことになっているが、これは大雑把な目安でしかない。最終的に3年次に進学し卒業する学部・学科は、2年生の前期終了時に、学生の希望とそれまでの教養課目の平均点により決定されるのである。この進学先決定のプロセスを「進振り(進学先振り分け)」という。

といっても、文科一類の学生は教養課程の単位さえとれば成績如何にかからず法学部に、文科ニ類の学生は同様に経済学部に、理科三類の学生は同様に医学部に進学できるので、実質的に進振りを受けるのは文科三類、理科一類、理科ニ類の学生であったので、人気の高い学部・学科に進学するためには教養課程で良い成績を取らねばならず、そういう学生にとってはもう一度受験があるようなものなのである。文科三類では、人気のある教養学部や、文学部・教育学部の一部の学科を除けば定員割れで競争はなく、第二志望にそうしたすべり止めの学科を書いておけばどこかに進学することはできるが、悲惨なのは理科系だった。理学部・工学部はだいたいどこの学科でも競争があり、しかも、年によって足切りの点が変わってしまうので、安全パイというものがなく、前の年では進学できた成績でも僅差で行けなかったり、同じように第二志望、第三志望にもあぶれて進学先がない、という事態に陥る学生も少なくない。こういう学生は、2年生の前期修了の時点で翌年の進振りに備えるため、もう一度1年生の後期からやり直すことになり、これを、学年末試験で進級できなかった留年と区別して「降年」と呼んでいる。

反対に、成績が極めて優秀な学生にはウルトラC的な進学が可能であり、理科ニ類の希望者のうち10名だけ、および理科一類の希望者のうち数名だけが医学部に進学できたり、文科ニ類と文科三類の希望者のうち5名だけ法学部に進学できる制度があった。東大工学部建築学科出身の女優の菊川怜が「医学部にも行こうと思えば行けたけど、そうしたら女優の夢は諦めなければならないと思ったので建築学科にした。」とインタビュー等でいっているのは理科一類でこのウルトラCが可能な成績だったということなのである。

実は、私も文科三類に所属していたが、たまたま、ウルトラCで法学部に進学できる成績だった。勧められもしたが、当時は法学部には興味がなかった。元々、三島の研究者になるつもりで、文科三類に入学したのも、文学部国文学科志望だったからだ。

しかし、大学に入り、社会学や心理学を学んで、文学研究にもいろいろなアプローチがあるのを知ったことが私を迷わせていた。実はボランティア活動も大きな影響を与えていた。私は大学で点字サークルに入ると同時に、育った地元の「葛飾手話の会」という社会人の多いサークルで手話も学んでいた。そのため、盲人と聾唖者の双方に接するようになったが、その両者を比較すると、コミュニケーション手段にハンディをもつという点で共通しているはずなのに、認知の仕方に大きな違いがあった。聾唖者にはリンゴ、みかんの違いはわかってもその上位概念である「果物」というのが理解しにくい、というように、耳で音声をキャッチできないことが、とくに抽象概念の形成、ひいては現実の相対化能力に大きな影響を与えるのに対し、盲人にはそうした問題はなかったからである。ヘレン・ケラーも「何か一つだけ取り戻せるなら、聴覚がほしい」といっていたそうである。このように、コミュニケーションや言葉というものにまつわるハンディの概念形成に与える影響に関心が向き、言語社会心理学の勉強をしたいと思うようになった。盲人や聾唖者がその欠落によって影響を受けているとすれば、三島由紀夫は、既に引用した『太陽と鉄』でわかるとおり、逆にその過剰によって人生を支配されたのではないかと思えたからである。言語社会心理学を勉強しようとすると、当時考えられたのは、教育学部の教育心理学科か、教養学部の相関社会科学科のどちらかであり、ともに人気学科ではあったが、もちろん成績上は全く問題なかった。そのどちらに進学すべきかということを悩むあまり、半ノイローゼ状態になってしまったのである。大学2年の夏中、そのことばかり考え、本屋や図書館に行けばいろいろな本を手に取り、まず著者略歴を見て大学時代どんな勉強をした人なのかばかりを知ろうとする、という状態だったので、世間で何が起こっているか、その頃の記憶がすっぽり抜けている。今はミーハ―で芸能界にも詳しい私が、当時は、流行っていた中森明菜も南極物語も全く知らないでいたのである。

そんな時、参加した「歩む会」の合宿で、ある夜、福島君の弾くピアノに合わせ、会の中心的メンバーで盲学生の女性が歌ったのが尾崎亜美作詞作曲で杏里が歌った「オリビアを聴きながら」であった。前述のような事情で、当時流行していたはずのその曲を私はその時初めて聴いたが、リズムを合わせるために彼女が福島君の後ろに立ち、彼の両肩に手を置いて、指点字で歌詞をなぞりながら歌うその姿は、私の魂を芯から震えさせ、一幅の絵のように私の瞼に今でも焼き付いている。ハンディを負いながらもこんなに美しい姿で人を感動させることができるこの人たちに比べ、私の悩みはなんと卑小なのだろうと恥ずかしくなった。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高校時代(自分史2) | トップ | 法学部進学と失恋の顛末(自... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事