市民活動総合情報誌『ウォロ』(2013年度までブログ掲載)

ボランティア・NPOをもう一歩深く! 大阪ボランティア協会が発行する市民活動総合情報誌です。

2009年5月号(通巻445号):わたしのライブラリー

2009-05-01 14:52:25 | ├ わたしのライブラリー
公害Gメンの遺したもの
編集委員 梶川 伸

『なにやってんだ行動しよう 田尻賞の人びと』
田尻宗昭記念基金、アットワークス、2000 円+税、2008 年11月発行

公害Gメンの志継ぐ人々

 戦後の日本の高度経済成長は、大阪万博のあった1970年ごろにピークに達した。その繁栄の裏側では、公害や薬害、食品汚染、労働災害といった負の要素も積み重なっていた。その年の12月の国会は公害国会とも呼ばれ、公害対策の14法案が成立し、公害問題に明け暮れた年だった。
 私は70年に新聞記者になり、初任地は和歌山だった。やがて、田辺海上保安部の警備救難課長に着任したのが、田尻宗昭さんだった。田尻さんは前任地の四日市海上保安部(三重県)で警備救難課長の職にあった時、石原産業などの工場排水垂れ流しを、港則法違反という奇手で摘発していた。公害を刑事事件として責任を問うた初めてのケースと位置づけられている。田尻さんは「公害Gメン」と呼ばれ、不正義に立ち向かうヒーローだった。公害を取材する者にとって、田尻さんは憧れの的の一人で、田辺海上保安部に取材に行き、会って話を聞くのが楽しみだった。

経済成長の裏の証言集

 田尻さんは73年に美濃部亮吉東京都知事(当時)に請われて、東京都公害局に転進するなど、公害防止に生涯を打ち込み、90年に亡くなった。田尻さんの志を引き継ぐため田尻宗昭記念基金が設けられ、公害反対、環境保全、労働災害や職業病追放に地道な活動を続けた個人や団体に対し、92年から田尻賞を贈ってきた。この本は受賞者やその関係者が、受賞式の時に語った話をまとめている。内容は熊本県・天草のじん肺、宮崎県・土呂久(とろく)公害、香川県・豊島(てしま)の産業廃棄物不法投棄、チッソ水俣病、チッソ水俣病関西訴訟、スモン訴訟、名古屋市の藤前干潟、カネミ油症、瀬戸内海環境保全など多岐にわたる。当事者が語る言葉は、日本の公害・環境史の生きた証言なので、大変興味深い。  
 共通しているのは、効率ばかりを求めて進んできた日本で、その蔭の部分を活動の地としていることではないだろうか。そこには、国や自治体や大組織・企業という大きな力と、個人という小さな力とのぶつかり合いが見られる。大きな力の前では人権が踏みにじられることも多く、その点で活動は困難をきわめている。しかも、小さな力の運動は地道で、なかなか目立たない。賞の基本理念は「世間からの正しい評価を受けずして埋もれている人に光を当てよう」だと、本の中で鈴木武夫代表世話人が語っている。

良心に基づく内部告発
 
 02年に受賞した大鵬薬品工業労働組合も、果たした役割の大きさに反して、当事者たちの苦難は続いた。81年、会社は発がん性が疑われる研究データを隠して、新薬を発売した。「自分たちの研究結果が無視されている。薬害は出したくない」と考えた研究者が中心になり、労働組合ができ、この新薬の発売中止を訴えた。薬の全面回収、薬事審議会の再審査と進み、87年に会社は販売を断念した。
 研究者の良心が、疑わしい薬を止めたケースである。さらに、83年には薬事法施行規則に「医薬品の品質、有効性または安全性を有することを疑わせる資料は、厚生大臣または都道府県知事に提出しなければならない」という項目が付け加わったと、本の中で元委員長が語っている。
 告発者に対する会社の攻撃は容赦なかったようだ。80人いた組合員が8人まで減ったが、脱会工作は「出身大学の教授を通じて、地域の有力者を通じて、家族を通じて」と、あらゆる手段で行われたと明かしている。しかも「降格人事、賃金差別、配置転換、仕事の干しあげ」といった攻撃も続いたという。当時、組合員の一人から「大丈夫です。私には鳥がありますから」という言葉を聞いたことがある。辛い状況に置かれても、大好きな野鳥の観察などで耐えていける、という決意だった。そんな厳しい状況下でも、組合は危険性が疑われる自社の薬をもう一つ止めた。頭が下がる。
 内部告発の先進的なケースだった。受賞は活動が始まって21年たっていた。世間的評価がやっと定まったといえる。公益通報者保護法が制定されたのはさらに3年たった04年だった。

「環境」の落とし穴

 71年に環境庁(現環境省)がスタートした。73年のオイルショックで高度経済成長は終わりを告げるが、その最終段階でのことである。「環境」は国民の言葉となった。しかし、「公害」という言葉が示していた深刻性は薄らぎ、責任の所在があいまいになっていったのではないか。
 田尻賞は07年に、田尻宗昭記念基金は08年に幕を閉じた。寄付金などをもとにした団体だったが、思うように集まらなくなったことや、運営メンバーの高齢化が理由と推察される。
 反公害の一つの象徴が消えたわけだが、「時代の流れ」で済ましたくない。そのことを、本に登場する何人もの人が訴えている。「水俣病の問題が未だ解決していない。患者さんたちは毎日苦労していらっしゃる」(93年受賞、新潟水俣病に取り組む斎藤恒さん)、「現在でも、七百人近い公害病認定患者の方々がいます。(中略)もう公害は克服した、もう公害はない、ということになりますと、公害そのものの被害者、公害患者さんというものは居ってはいかんということになりかねない」(96年、四日市公害を記録する会の澤井余志郎さん)。
 本の中の言葉は受賞式の時点ではあるが、現時点でも大きくは変わらないだろう。「行動しよう」という田尻さんの叱咤は、いまだに意味を持つような気がする。


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