Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

歴史秘話ヒストリア~悲劇のプリンス武田勝頼! 2016年2月3日

2016-02-03 15:38:20 | 日記・エッセイ・コラム

元亀(げんき)3年(1572)12月、“遠州・三方ヶ原の戦い”で野田城を落とし織田・徳川連合軍に圧勝したが、その後、戦国最強の甲斐の虎・武田信玄(1521~1573年5月13日)は喀血したのち、暫く療養とていた長篠(ながしの)城から甲斐・甲府の居城・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)へ戻る三河街道の宿場で重い病に伏せ、死の時を迎えようとしていた、側室、諏訪御寮人の子“庶子(しょし)”ながら信玄の四男として生まれた武田勝頼(1546~1582年4月3日)に、信玄は陣代(じんだい、仮の当主)として、甲斐武田家第20代当主を託して53年の生涯を終えていた!・・・NHK大河ドラマ“真田丸”では、平岳大(たけひろ)扮する武田勝頼は、もうすでに第2話“決断(1月17日放映)”にて、織田軍に追い詰められ自害して姿を消している!・・・

  

武田勝頼は1581年2月、甲斐・韮山(にらやま)に鉄壁の城郭・新府城(しんぷじょう)を築城して、織田信長など周辺の強豪戦国大名の侵攻に備えた!次第にジリジリ織田軍の侵攻が激しくなり、勝頼は愛着のある新府城を焼き払って、同じ甲斐・大月の岩殿山(標高634m)上に建つ岩殿山城(いわどのやまじょう)に居城する武田の重臣・小山田信茂に援軍を頼って向かった、だが、何と信茂が織田に寝返った!織田の重臣・滝川一益軍に挟まれ、逃げ場を失った勝頼軍は捕捉(ほそく)され勝頼は自害を強いられた!そして450年の歴史を誇る名門・甲斐の武田氏は滅亡した!それは武田勝頼が享年37歳の時だった!・・・

 

勝頼は偉大過ぎる父を持って、苦悩を背負った、幼き日の孤立、穴山信君(梅雪)、跡部勝資(あとべ かつすけ)、小田山一族、木曽義昌ら家臣たちの反発と裏切り、織田・徳川、上杉、北条ら周囲の強豪大名との戦い等々、イバラの道を歩んだ勝頼だったが、勝頼には彼を支えてくれる素晴らしい家族、妻・北条夫人(北条氏康の6女)と嫡男・信勝が居た!その一家団欒の掛け絵図まで残っていた!『偉大な父・信玄よ!~若き悲劇のプリンス武田勝頼の愛と苦悩に満ちた生涯!』を、今夜10時から始まる歴史秘話ヒストリアで詳しく観て行くことにしよう!そして、次回から、そのパンドラの箱を開けて、その中身を逐次、お伝えしていくことにしよう!乞う、ご期待を・・・

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1 コメント

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小山田信茂公は、勝頼公を救い武田家再興をした (岩殿山)
2020-06-02 10:04:25
戦国時代、強い大将に味方すること、これを裏切りというのでしょうか。まして都留郡国衆頭領としての小山田信茂の立場を考えたときに、天正10年3月10日の時点で、勝頼公達を郡内の地に入れて、領民殺人、神社仏閣の焼き払い織田信長作戦を、受け入れられる状況でしたか。自分の身をもって領民約3万人程度の命、神社仏閣の焼き払い無し、これら多くの事実をNHKドラマでは、伝えられていない。明らかに信茂公反逆者、勝頼公、武田氏への裏切り、この一面からしか捉えられていない、ぜひ、信茂公の心情を察した大河ドラマに脚本を作り、約450年間の裏切りの小山田氏の歴史的誹謗中傷を、払拭していただきたい。強く強く望みたいと思います。
最近の研究では、笹子峠は封鎖されていなかった、と言う研究論文も目にするようになっております。どうぞよろしくお願いいたします。

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