ここ加古川には少し強い風が吹いていたが、晴天に恵まれた昨日26日、運動を兼ねて昼食後1時頃、家を出て加古川市の直ぐ東に隣接する加古郡播磨町へ向かった!つい最近、ひろかずさんのブログ“ジョセフ・ヒコと栄力丸の遭難”の記事を読んでから無性に国定史跡・大中遺跡公園の敷地内に在る播磨町郷土資料館を訪れたくなっていた!この大中遺跡公園は、11月恒例の加古川ツーデーマーチの東南40kmコースのチェックポイントの一つになっていて、小生は今まで何回かこの資料館に立ち寄りジョセフ・ヒコのコーナーがあることを知っていた!昨日はあちこち寄り道しながら東南コースの一部分を逆走するようにして3時過ぎに到着した、考古博物館見学をサッと済まし、初めて展望塔を登り播磨四方の絶景を見渡した、公園内に点在する竪穴式住居の屋根の一つが真っ更に茅葺(かやぶき)されていた!・・・
そのあと、考古博物館の隣に並ぶ播磨町郷土資料館に入館しジョセフ・ヒコのコーナーを急いで観覧してから、事務所に行き、職員に播磨町マップとヒコに関する色んな資料をあさった、そして職員から“播磨町文化遺産散策マップ”なるものをゲットした!その中の最初の記事にジョセフ・ヒコ(日本名:浜田彦蔵、幼名:彦太郎)の生い立ちが記されていた・・その記事によると、1837年(天保8年)に彦太郎は播磨町古宮で父が船乗りの家で生を受け江戸を往復して育った、だが、13歳の時、栄力丸に乗船して江戸からの帰りに暴風雨に遭遇し太平洋を52日間漂流した!幸い米船に救助されてサンフラシスコへ渡米して行った!そこには、ガス燈や蒸気機関船など彦が見たこともない近代の西洋文明に遭遇して目を見張った!・・・
他の栄力丸の船員は帰国したが、やがて彦太郎だけは一人のアメリカ人に引き取られ、ミッションスクールに通い始めた、ジョセフ・ヒコと改めた彦は英語をマスターして成長していき、リンカーン大統領にも会う機会を得て政界の大物にも出会った!その後ミッションスクールの学校で洗礼を受け、米国の市民権を取得に至った!彦は優れた英語力を活かして横浜米領事館の通訳として帰国することになった!1864年(元治元年)外国人排斥の危険な風潮が広がるなかで、世界の実情を日本に伝えたいとの強い思いで、日本国初の民間新聞誌を発刊した!のちにその新聞誌を”海外新聞誌”とタイトルを変えて外国の英字新聞紙の翻訳を始めたり、輸出入品の相場や米国の歴史などを掲載するようになった!・・・
また高島炭鉱の開発や、大阪造幣局の設立に尽力した、その他、日本銀行条例編纂にも携わった、1875年(明治8年)からは1888年(明治21年)まで、神戸で暮らし製茶貿易や蒸気機関による精米所経営に取り組んだ!その間、生まれ故郷播磨町に帰り、本荘の蓮花寺に両親と家族の墓を建立している、地元ではその墓を“本荘の横文字の墓”として親しまれヒコの功績が記された掲示板が立てられている!また2000年(平成12年)には古田にある正願寺には写真を木版画にして印刷した“栄力丸漂流民の記念碑~怒涛を越えた男達18人”が建立された!何時か近い日に、花蓮寺と正願寺の2カ所に訪れてみたいものである、ジョセフ・ヒコは1897年(明治30年)に60歳で他界した、その功績は、播磨地域が生んだ世界に誇れる日本人として、半永久的に後世に伝え讃えられていくことだろう!ヽ(^。^)ノ・・・
その日4時半に、大中遺跡を離れてから土山近くの国道2号線に出て、それ沿いに加古川目指して西進して家路を急ぎ、夕日沈む直前の6時過ぎに帰宅した、お蔭でその日は29509歩を稼ぎ、19.5kmを歩き切り975kcalを燃やしていた、ほっ・・・