Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

悲劇のプリンス勝頼episode1“わたしは敵の子!?” 2016年2月4日

2016-02-04 15:55:05 | 日記・エッセイ・コラム

今日で、8回に渡る“朗読ボランティア養成講座”の折り返しとなる4回目実践講座“アクセントを学ぶ①”を終えた、次週の木曜日は建国記念日でお休みとなり、次回の実践講座“アクセントを学ぶ②”は再来週の木曜日18日となっている、さて本題“歴史秘話ヒストリア~悲劇のプリンス、武田勝頼の愛と苦悩の生涯その1”に入ろう・・・

江戸幕府を開いた天下人、徳川家康が頬がゆがむほどの恐怖を味わったと云う戦さ“遠州・三方ヶ原の戦い”が在った!?それは戦国最強と謡われた武田信玄との戦いであった!その戦さの最前線で大活躍し、徳川軍を完膚(かんぷ)なきまで(無傷の箇所が無いぐらいまで徹底的に)叩き潰した戦国武将が居た!その男こそが武田信玄の四男・武田勝頼であった!時は戦国・元亀(げんき)の世、生き残りを賭けた戦いが各地で繰り広げられる中、名将・武田信玄の跡取りとして登場したのが武田勝頼だった!・・・

     

幼い頃の勝頼は武田家で独りぼっちの淋しい暮らしを強いられていた、また、「勝頼が主(あるじ)になれば、武田は亡びるぞ!」良からぬ噂が飛び交い、家臣たちは勝頼を跡継ぎとは認めようとしなかった!更に、実の父・信玄からも衝撃の一言『勝頼、そなたは武田の次の当主ではない!』がグッと胸をえぐった!若き日の勝頼に秘められた悲しい定めがあった、その定めとは何ぞや?そんな勝頼の支えは家族にあった!妻や子供と伴に描かれた極めて珍しい家族との肖像画がテレビ初公開された!さあ、今宵ここに、偉大なる父・信玄を持った武田家のプリンス・勝頼の愛と苦悩の物語が解き明かされる!まずはepisode1“わたしは敵の子!?”として、勝頼の生立ちから始めよう!・・・

    

霊峰・富士を望む山梨県・甲府市は、かつての甲斐の国である、戦国最強の武将・武田信玄が治めていた、天文15年(1546)、勝頼は信玄の四男として生まれた、しかし、生まれた年と、四男であることで四郎殿と呼ばれていた以外、幼い頃の記録は残されていなかった・・四郎が庭の桜が舞い散るのを一人淋しく観ていると、如何にも優しそうな母・諏訪御料人(すわごりょうにん)が『ここに居たのですか?』と声をかけた、幼い頃の記録が残されて居ないその理由は母・諏訪御料人にあった、当時、信玄は領土を広げるため、周りの領主を次々と攻め滅ぼして行った!四郎の母は信玄に滅ぼされた諏訪家から連れて来られ、信玄の側室となったため、家臣から武田家の敵(かたき)として警戒されていた!・・・

   

「この者は必ずや、我等武田に深い恨みを抱いているはず!」、「その通り、おなごとはいえ、この者は油断できません!」と母・諏訪御寮人は家臣から冷たい言葉を浴びせられた、疑いの目は子供である四郎にも向けられた!だが母は優しく四郎を励ました『そなたは何も悪くはないのですが、ここでは辛い思いをさせていますね?全て、この母の所為です!強く生きるのですよ!』、はい、母上!、母と子は互いに支え合いながら、武田家の中で耐え忍び暮らしていた!・・それから、10余りの年月が経ち、四郎は成人したことを祝う元服の歳(12から16歳まで)を迎えた、一人前になった証しとして、新たな名前“諱(いみな、死後に呼ぶ生前の実名)~武田勝頼”が与えられ『これから先は四郎勝頼と名乗れ!』と信玄から告げられた!・・・

 

与えられた諱(いみな)には、“(より)”と云う一事が在った、この頼と云う一字は 、母の実家、諏訪家が代々名乗って来たものだった、武田家の男が用いて来た“(のぶ)”の字を貰うことは成らなかった!?父である信玄にも、武田の人間とは認めて貰えなかった!?だが勝頼は信玄に礼を述べた「はは~~、結構なる名を頂戴いたし、恐悦至極に存知まする!」、更に信玄から言い渡された『甲斐を出て貰う、そなたを諏訪家の当主として!?』、何と、勝頼は武田家からも出され、母の実家・諏訪家を継ぐよう命じられた??・・戦国史を専門とする小和田哲男・静岡大学名誉教授が言った『勝頼は“頼”と云う字を与えられ、勝頼と名乗らされたは、要するに、勝頼は諏訪家の姫との間に生まれた子で、育ち方も違う、完全に敵の娘の子と云う意識が信玄の中にもあって、勝頼は武田家とは違う存在と感じていたと思います!』哀れ勝頼・・・

 

永禄5年(1562)勝頼17歳の時、新たな領地として移り住んだのは、山梨と長野の県境に位置する母の実家・諏訪家所縁(ゆかり)の地、高遠(たかとお)であった!領主となった勝頼が、小野神社に収めた釣鐘が今に伝わっている、奉納者の名前は“諏訪四郎神(みわ)勝頼”永禄七年となって居た、勝頼は諏訪家の人間として、新たな人生を歩み始めていたのだ!更に高遠・建福寺に、難産から若くして亡くなった母・諏訪御料人の墓も建てた、きっと、勝頼はこの地に骨を埋める覚悟だったのであろう! 勝頼は母の墓前で手を合わせて言った「母上、もはや武田の者ではない、わたしが生きていく地は、ここ高遠しかありません!どうか、これからもお守りください!」・・・

   

ところが5年後、永禄10年(1567)22歳の時、勝頼に転機が訪れた!それは父・信玄から突然の呼び出しであった、『今頃、父上が、わたしに何の御用であろうか?』・・急ぎ甲斐に戻った勝頼が、そこで思いもよらない事態に直面した!信玄が言った『勝頼、お前にこの武田の家を継がせるかもしれん!心して励め!』、勝頼「ええっ、如何云う事で御座いますか?」、一度は武田の家を追い出された勝頼が、突然、跡継ぎの候補に??実はこの裏には、お家を揺るがす大事件が絡んでいた!?武田家を継ぐはずだった長男・義信が、信玄と激しく対立し、在ろうことか、父・信玄暗殺まで企てていたのであった!これに激怒した信玄は、義信を幽閉し自害に追い込んだのであった!・・・

 

また、次男・信親は幼い頃に失明して出家し、三男・信之は早くに亡くなっていた!正室・三条夫人の子が他に居ないため、側室・諏訪御料人の子・勝頼が跡継ぎ候補の一番手にのし上がった!信玄から勝頼に『励め!』と一言、激励の言葉が贈られた、しかし、このことに穏やかでないのが家臣等であった「選(よ)りによって、敵(かたき)の子が主(あるじ)だと!?」、「跡継ぎなら、他にも居るではないか!」・・武田家には信玄の弟や甥など、家を継げる男子は幾人も居た故、勝頼がすんなり次の武田の当主に成れる状況ではなかった!勝頼は心の中で決断した「それでも、父上はわたしを!よし、そのご期待にきっと応えて見せる!」・・・

永禄12年(1569)、勝頼24歳の時、勝頼に実力を魅せ付ける機会が巡って来た、隣国を接せる北条家との争いが勃発した、武蔵・滝山城攻め、相模・小田原城攻め、そして遂に元亀元年(1570)には駿河平定を成し、その武功が信玄に認められた!勝頼にはある戦略が在った、勝頼は城に籠る敵の大軍を少人数で挑発して、城の外へおびき出すと云う媒鳥(おとり)役を買って出た!一歩間違えば命を落としかねない危険な役目であった、「わたしの行く末はこれで決まる!何としても敵を引きずり出してやる!」と勝頼は強く心に誓った、歴史学の権威、笹本正治・信州大学教授は語った『勝頼も武田家に呼び戻された時、そんなに簡単に武田家を継げるとは思っていなかったはず、自分が認められるためにも、精一杯やらざるを得なかった、これは勝頼が最初に抱いた心境だっただろう!』・・・

    

僅かな手勢で敵の城に攻撃を仕掛ける勝頼だったが、この時、思わぬ行動に出た!?城の外から敵を挑発するだけでなく、何と自ら敵の城内に突入し斬り込んでいった!そして、すかさず「よ~~し、引け~~~!」、すると敵は「追え~~~!」と来る、まんまと敵兵は追いかけて城から出て、あとを追いかけるくる!そこを矢や鉄砲で狙い撃ちし総攻撃をかける!そして、この戦法で勝頼軍は次々と大勝利を挙げて行った!勝頼の働きを観た信玄の言葉が自分の手記に残されていた『勝頼はむやみに城に攻めかかる、観ているこちらが恐ろしいほどであったが、遂には敵将を残らず討ち取った!とても人の出来ることではない!』・・・

 

甲陽軍艦によると、元亀3年(1572)、父・信玄に実力を認められた27歳の勝頼は、信玄に次ぐ武田軍の副将軍に大抜擢された!そして武田の最大の敵、織田信長に立ち向かった!相模・北条と甲相同盟を結んだ武田の勝頼は従兄・武田信豊と武田二十四将の一人、穴山信君(梅雪)と共に、将軍・足利義昭の“信長包囲網”に参加した!勝頼には強い信念があった「織田との戦さでは、今まで以上に働いて、父上を安心させねば!」、そこへ知らせがもたらされた、「何と父上が!」、突然、信玄が重い病に倒れた!信玄『勝頼、わしもそろそろ、しまいのようじゃ!』、勝頼「何をお心の弱いことを、お気を強くお持ちくだされ!」、『聴け!わし亡き後の武田家のことじゃ、勝頼、そなたは次の武田家の当主ではない!お前は陣代に過ぎん!』ギョギョギョ・・・

  

陣代とは仮の当主のこと、武田家の正当な当主としては認められなかった!そんなあほな・・・ここであゆみ姉御が登場して、のたもうた『今日の主人公は、数々の戦さで手柄を挙げ、父・信玄に認められながらも、正式な後継者になれなかった武田勝頼!その理由は家臣らの反発を抑えるためとも言われています!』、武田家の正式な跡取りとして指名されたのは、ななな~~~んと!勝頼の子で、信玄の孫にあたる“信勝”であった!この時、信勝は僅か7歳!16歳になれば家督を継がせるよう信玄は勝頼に命じた!?それまでの9年間、ゆあば“つなぎ”として当主を務めるのが陣代・勝頼の役割であった!陣代と云う極めて不安定な立場で武田家の舵取りを担うことになった勝頼、その前途は大変厳しいものであった!次回、epesode2“偉大なる父との決別”をお伝えいたそう、乞う、ご期待あれ・・・

  

 

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