都市と楽しみ

都市計画と経済学を京都で考えています。論文や講演も。楽しみは食べ歩き、テニス、庭園絵画作成・鑑賞、オーディオと自転車

島原を歩く:遊郭の歴史と東西の違いなど

2024-03-18 02:23:16 | 京都

 最近、近くの宮武にお昼ご飯を食べに行くのが多く、待ち時間に街を探検している。

 もともと島原の歴史は京都公認の遊郭であり、歴史は、秀吉の聚楽台近くの二条柳町遊郭から、家康の二条城造営に伴い移転し、洛外の六条柳町へ。

 さらに、外縁の西屋敷(島原)に移された。すぐ横はかつての朱雀大路(幅26丈(84m):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E9%9B%80%E5%A4%A7%E8%B7%AF )であったが羅生門とともに寂れていたと思われる。

 堀・塀で囲われ、大門を設けた。これは、江戸(新)吉原と大阪新町と同じ形式だ。大阪新町を含め、市街地中心部から隔離されている。

 揚屋は貸席と料理であり料亭に近く、茶屋は簡素なものを指す。置屋は太夫や娼妓(布団関連)と芸妓(畳関連:布団に走ると不見転(みずてん))を置き、広間や見世も備えていた。(輪違屋には立派な台所もあり料亭機能もあったかも知れない)大阪新町と同じようだ。なお、娼妓は芸妓の上と位置付けられていたと聞く。

 なお、江戸吉原は置屋と揚屋の一体化した大見世などの遊女屋が代表だが、遊女の格付けや時間による業態の多様性があった。( https://www.rekishijin.com/14017 )

 遊郭の発展の江戸初期にコロンブス交換( https://en.wikipedia.org/wiki/Columbian_exchange )があり、梅毒も20年で到来したといわれる(異説あり)。江戸時代、梅毒の罹患率は50%と言われている。このような娼妓の存在は今から考えるとリスクの面が大きい。さらに当時は水質の問題もあり寄生虫の罹患も多かった。体調不良により快適ではなかった時代と思われる。アメリカでも今の快適性があるのは1950年以降とGorden(「アメリカ経済―成長の終焉」)が分析している。

 閑話休題、島原では揚屋かつ、現在は「角屋もてなしの文化美術館」の角屋( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B1%8B )、置屋の輪違屋( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E9%81%95%E5%B1%8B )が現存するが、輪違屋は公開の機会が少ない。( https://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/09638e4efd67d02da4095c9636216eb8 )この2つの建物は東向き(大門向き)であり、角屋は間口が広く南北に、輪違屋は奥行き方向の東西に建物が伸びる。街を巡ると、角屋を下る、東側には路地のような「一、二、三の通り」がある。また、茶屋らしき2階に手すりのついた色街建築が点在する。基礎は束石が多く古い年代と思われる。( https://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/575ba100a525c2756a51cb7b0c4347b2 )このあたりは天明の大火やどんどん焼けなどの被害もなかったはずだ。

揚屋のひとつはいまや「きんせ旅館」となっている。

 大門の東の花屋町大宮西入には、西側に木造3階建の付いた長屋がある。また、周辺には手軽で懐かしいお店が多い( https://focus-shimabara.com/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82/ )

 京都リサーチパークの向こうにある下町中華 志成園や七条の水族館の近くの とんかつ一番(大阪にもあるがここが元祖のようだ)など、居職のお昼に自転車の食べ走りと息抜きに好適だ。洛中よりお値段も手ごろなうえ、もてなしも良い。

 春も近い、ゆったり走ろう(交差点で刀自のわき見運転自転車が突進してきたりする)

 


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