読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

中上健次の『地の果て 至上の時』を読む

2020年11月27日 | 読書

地の果て 至上の時
  
  著者:中上 健次   2012.8 講談社 刊 (講談社文芸文庫)



 『岬』、『枯木灘』に続く3部作完結篇(完結篇とは言っていないが著者は46歳で亡くな
っているので事実上完結篇だろう)。 
 紀州・熊野灘、海と山と川に囲まれた田舎町の路地と呼ばれる貧民窟のような地で私生児
として生まれ育った竹原秋幸が主人公。この小説は秋幸を中心に綴られる。中上<紀州サー
ガ>。

 物語は竹原秋幸が中心であるが、その父と目される浜村龍造(あだ名=蠅の糞の王)が付
かず離れずの関係性をもって語られる。とにかく腹違い、種違いの兄弟やいとこなど、狭
い土地ながら相関図がないと混乱するくらい入り組んだ血縁、地縁の人びとが入り乱れる。
 1976年『岬』で芥川賞を取った中上健次は生まれ故郷のこの地を題材に『化粧』、『奇蹟』
『千年の愉楽』などいくつもの作品を書いている。本作は中上紀州サーガの最終版である。

『地の果て 至上の時』は単なる私小説でも物語でもない。朽木灘、熊野という土地の生み出
した人間の綾なす営みの墨色の絵巻である。

 秋幸の実兄の郁男は24歳の時首を縊り死んだ。
 秋幸は腹違いの弟秀雄を殴り殺した。そばには妾腹の従兄の徹しかいなかった。徹は
「逃げろ」と言った。秋幸の耳には「あの男」の呻き声が聞こえた。秋幸は答える「殺
 して何が悪りいんじゃ」26まで育ったこの地からどこへ逃げればよいのか。秋幸は
「あの男」にはっきりと教えてやりたかった。その男の子を別の腹の息子が殺した。そ
 の男の何百年も前の祖先浜村孫一の血が殺したのだ。「すべてはその男の性器から出
 た凶いだった。」
  「その男」とは秋幸の実の父親・浜村龍造。妻ヨシエ以外に秋幸の母フサと愛人の
 キノエに合わせて5人の子を産ませている。殺人、脅迫、放火、強姦と悪の限りを尽
 くしていると噂されている。

  弟を殺した秋幸は懲役6年の刑で3年で出所、生まれ育った地に帰ってきた。しかし
 その「路地」は消えていた。浜村龍造に似て大男の秋幸は以前は土建屋の人夫頭で働
 いていたが、今度は山林を育て木を売る木材商になって、人夫と一緒に植林した杉の
 下草刈りや枝打ちに汗を流す。

  蠅の糞の王龍造には殺してやりたい怨念もあるが、戦後の混乱期にこの土地の跋扈
 する奴らを征服しここまでのし上がってきたのは男らしいと評価する気持ちもあり、
 父親に対する思慕の念もある。複雑な心境である。
  龍造は溺愛していた秀雄を殺され、7日も悲嘆にくれたが、今は2番目の自分そっく
 りの息子秋幸を頼みにしているが、なかなか正直になれない。

  著者は独特の語り口で、助詞の使い方も自由なため話者が誰かはっきりしないとこ
 ろがあったりして読み辛い点はあるが、ストーリーらしいストーリーもないのに妙に
 ねっとりとした地にへばりついたような粘着性の空気感が漂う、雰囲気満点の作品と
 なっている。
                             (以上この項終わり)

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新型コロナ感染者急拡大のさ中、なぜ奥羽越列藩同盟の地に

2020年11月24日 | 国内旅行

金婚記念に奥羽会津の温泉地へ
 このところ東京を初め大都市地域中心に新型コロナ感染者の急拡大が報じられている。
菅内閣が経済効果を狙って躍起になっていたGo toキャンペーンも今後見直しされる事態
になった。
 こんな時期に旅行するとは。さてはGo to支援狙いかと勘繰られることは覚悟上。子供
らも内心苦々しく思いながらも「重々気を付けて」と送り出したのは、なぜかと言えば
結婚後50年経って、金婚の記念旅行でこれが最後のハワイ旅行をと、フリープランのツ
アーまで決めていたのにまさかのコロナ騒ぎ。やむなく国内旅行に切り替え8月時点で
旅館の予約を入れた次第。狙いはコロナ感染も幾分希薄な奥羽・会津地方で、目玉はか
ねて行きたかった羽州銀山温泉。流れとして仙台の奥座敷作並温泉、宮沢賢治のふるさ
と花巻温泉。下って会津の東山温泉。鬼怒川温泉という温泉旅行になった。気が付けば
奥羽越列藩同盟の地を駆け回る仕儀と相成った次第。
 旅館などはGo toの条件もあってコロナ対策は万全で、体温測定機器の多様さも知った。
送迎バスなども消毒が徹底していた。3密回避のために基本部屋食でビュッフェ式は1回の
み。大浴場もできるだけ避けようと露天風呂付を狙った。


 
<作並温泉>
 古くから仙台の奥座敷として知られている。広瀬川上流の河辺にある
「鷹泉閣岩松旅館」は最も旧い歴史をもつ。88段の階段を下りて広瀬川
を目の当たりにする露天風呂が特徴。

 
 作並駅
 
 岩松旅館
   
 部屋付きの半露天風呂
 
 露天風呂からの景色
 
 紅葉はすでに終わりかけていて

<銀山温泉へ>
 仙山線で銀山温泉へ向かう。途中の羽州千歳駅で奥羽本線に乗り換え、
大石田駅で下車。車窓からは雪を頂いた月山、鳥海山の山並みを遠望する。
大石田から路線バスで銀山温泉へおよそ40分。
 
 月山
 
  朝日連峰
 
  大石田駅
   
 銀山温泉に入る

旅館街入口

古山閣 左手川べりに「和楽足湯」

古勢起屋別館  銀山川に架かる橋は9つある。

 奥の望楼のある宿は「能登屋」

 はいからさん通りの店・カリーパン

白銀の滝

これも眼鏡橋?(滝見コース)

銀山荘の部屋は寝湯浴槽付きでTVが付いていて酒を飲みながら
TV・紅葉鑑賞。

<花巻温泉へ>
 再び大石田駅から奥羽本線新庄駅経由奥羽東線で宮城県古川へ。

 
  しゃれた駅舎に驚く。三角棟にはからくり時計。
 
  文化交流施設のロビー
 
  最上川
 
  最上川
 20年ほど前に仕事がらみで一度訪れたことがある花巻温泉。
台川沿いの宿だった記憶がある。
 今度は佳松園。
 
  佳松園玄関
 
  佳松園玄関奥には全身大の検温機器。 
 
  紅葉も終わりに近い
 
  庭は早くも冬の準備。
 
  朝の散策は台川に架かる吊り橋から
  

 
  熊除けの鐘は随所にある。
 
  宮沢賢治も通った釜淵の滝。 
 
 小山の上にある宮沢賢治記念館へ
 
  市街地展望台へ

 <東山温泉へ>
 この温泉も近くの芦ノ牧温泉共々名前は耳にしていながらなかなか
訪れる機会がなかった。
 ここも会津若松の奥座敷。宿泊の御宿東鳳は東山の中腹でしかも20
建ての高層ホテル。市街地を見下ろすロケーションである。居室は18
階で眺望に優れ夜景がきれいだった。

 
 会津若松駅 白虎隊像
 
  昼間の光景
 
  会津若松市街地の夜景

 <大内宿へ>
 
  1輌だけの会津鉄道快速リレー128号
 

 

 
  とにかくに賑やか。宮沢賢治童話村のイメージ?
 
 銀河鉄道999には程遠いが、線路は続くよ何処までも
 
  日本の原風景の一つ 鎮守の杜と神社・鳥居 
 
  茅葺きの湯野上温泉駅 時計塔がしゃれている
 
  日光から会津若松への街道宿場町再現 修学旅行生多し。
 
  宿場本陣跡
 
  昔の郵便局跡 昔の郵便箱
 
  有名な「ねぎそば」を食べた。
 
 
  湯野上温泉駅から「マウントEX6号」乗客は3名。
 
  五十里湖
 
<鬼怒川温泉>
 交通の便が良いのでよく足を運ぶ温泉であるが、今回は経路の都合で
最後の宿泊地となった。宿は鬼怒川金谷ホテル。普段はなかなか泊まる
気が起きないが、金婚記念旅行を理由に張り込んだ次第。
 
  紅葉はピークを過ぎた感じだが。
 
  那須岳方面を望む。
 
  川下りの発着場所が下に見える。
     
      半露天風呂

  世の中新型コロナでピリピリしているさ中、金婚にかこつけて
 の長旅は、感染急拡大に「気持ちがやや緩んできているのでは」
 などと思っていた手前、内心忸怩たるものがあったが、幸い帰宅
 後4日を過ぎて異状もなく、やれやれである。
  これにて一件落着、祝着に存ずると一声あるか。
                 (以上この項終わり)

 

 
 




 

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葉室 麟の『蒼天見ゆ』を読む

2020年11月09日 | 読書

◇『蒼天見ゆ』 著者:葉室 麟  2016.12 ㈱KADOKAWA 刊(角川文庫)
 
  

 世に「最後の仇討」として知られた実話に想をとった時代小説の巧者葉室麟の傑作
である。
 明治6年(1873)仇討禁止令が発せられた。武士にとっては美挙であった行為が犯罪
となった。驚天動地である。そんな中筑前秋月藩の重鎮臼井亘理の息子六郎が父と母を
惨殺した下手人山本克己を江戸の旧藩主黒田屋敷で仇討ちし、警察に出頭した。「日本
最後の仇討」である。この六郎の仇討成就までの足跡と彼を取り巻く人々との交流のい
きさつが綴られる。
   
「蒼天を見よ」は臼井亘理が息子六郎に残した言葉である。
 いかなる苦難があろうとも、いずれ頂上には蒼天が広がる、そのことを忘れるな。
 著者の前作『秋月記』に登場する間余楽斎が再登場し、亘理に対し「自らに厳しいも
のは人にも厳しい。それゆえ、敵を作り、味方を失う。それでは何事もなせぬものだ。
時折、青空を眺めろ。われらは何事もなしておらぬのに、空は青々と美しい。時に曇り、
雷雨ともなるが、いずれ青空が戻って。それを信じれば何があろうとも悔いることはな
い。いずれ、われらの頭上にはかくのごとき蒼天が広がるのだ」
 これは本書の底流でありキーワードであろう。

  慶応4年(1868)6月、藩内で西洋式軍備・兵術の必要性を説いた臼井亘理は、干城
 隊なる攘夷派の一味に斬られた。下手人は山本克己。慶応は明治に改元された。世は
すでに回天の時にあり、将軍慶喜は朝廷に大政を奉還、鳥羽伏見の戦に敗れた幕府軍総
帥慶喜は江戸に逃げ帰り、慶喜追討令が下っていた。秋月藩干城隊の臼井亘理惨殺は観
念論に凝り固まった攘夷派の暴挙であったとしか言いようがない。

 山本克己はお咎めもなく、東京に出て一瀬直久と名を変え、巧みに新政府内で裁判所
判事の役に就くなど栄進を遂げていた。
 この時期世の中は激動している。江戸の無血開城、戊辰の役、佐賀の乱、秋月の乱、
西南の役、日清戦争など動乱が続く。大きな歴史の出来事の中で六郎は多くの人々と出
会う。剣の修業を通じて無刀流創始者山岡鉄舟の知遇を得て弟子として面倒を見てもら
ったし、その友勝海舟とも知り合った。獄中では星亨と出会った。(このあたり小説家
は巧みに歴史上の出来事と著名人をとりこみ物語を充実させることができるので楽しい)。

 結局六郎は妹のつゆを旧藩邸黒田屋敷に潜らせ、一瀬の来訪を捉えて短刀で刺し殺し
た。直ちに警察に出頭した。山岡鉄舟は「最後の武士の生き様だ。世間は浮薄に持ちあ
げるだろうが、それに振り回されず、おのれが何を為したかを見つめていかねばならぬ。
それがこれからの六郎の修業だ。ただ見守るしかあるまい」と妻に言った。

 裁判では終身刑となった。世間がこの仇討ちを称賛していたという事情もあったので
はないか。六郎は小菅の東京集置監で煉瓦造りで日を過ごした。そして帝国憲法発布の
明治22年(1889)の恩赦で禁獄10年に減刑され出所した。六郎は33歳になっていた。
 時折殺した一瀬直久の死に顔が浮かぶことがある。「私はいったい何を為したという
のだ」生き方に悩み苦しんだならば、故郷に戻り、空を見上げればよかった。-蒼天を
見よ-六郎は父の声を聴いた気がした。

 この作品は武士の時代が終わった中で、仇討ちの罪を罪として認めながらも、正義を
実現するために生涯を貫いた臼井六郎の武士の矜持を是とする作者の心がこもっている
ように思える。

「最後の仇討」については吉村昭の先行作品『最後の仇討』がある。
                              (以上この項終わり)

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バルザックの『サンソン回想録』

2020年11月06日 | 読書

◇ 『サンソン回想録』(原題:Les Memories de Sanson)

  著者:オノレ・ド・バルザック(Honore de Balzac)
  訳者:安達正勝    2020.10 国書刊行会 刊

  

   人に「ムシュー・ド・パリ」と呼ばれた世襲の死刑執行人サンソン。フランスの
作家バルザックがフランス革命期を生きたサンソン家4代目当主シャルル・アンリ
・サンソンに成り代わって本書『サンソン回想録』を執筆した。
  翻訳者安達氏はこの本は歴史であり、物語であり、思想であるという。

 サンソン家には歴代当主の遺した手記、日誌、公文書、手紙など多数の資料があ
り、一族に語り継がれた口伝の伝承もあった。バルザックは5代目当主に会って話
を聞き、独自の資料も収集しこの回想録をまとめた。サンソン一族の苦悩に満ちた
生活と思想、様々な事件・出来事を描き、時代の様相を具体的に描いた。
 訳者によると処々にフィクションが交えられているが、バルザックは歴史家では
なく作家なので、作家の性(さが)と認め物語として楽しめばよいとしている。

 サンソン家には17世紀末から19世紀半ばまで6代にわたって死刑執行人を務めた
家系である。初代サンソンは地方の死刑執行人の家の娘と恋に落ち、結婚後義父の
跡を継いで死刑執行人となったが、知人友人に疎められいたたまれず、パリの死刑
執行人に転じた。
 4代目のシャルル・アンリが50歳の時フランス革命が勃発した。王政が廃止さ
れ、1793年1月ルイ16世が、10月にその妻マリー・アントワネットが処刑された。
 国王の救出計画に一肌脱ごうと覚悟するほど敬愛した国王の処刑に当たってり手
が震えたシャルルは一回で処刑が終わらなかったという。シャルル・アンリは生涯
に3千人を処刑したが、恐怖政治期ではあまりの処刑人の多さに、ノイローゼ状態
になり眩暈・幻聴・幻覚に襲われた。シャルルは敬虔なクリスチャンであり、人を
殺すことに常に恐ろしい胸苦しさを感じていた。革命期に断頭装置ギロチンが開発
された。フランスで死刑制度が廃止されたのは1981年7月である。

 サンソンの回想はほとんど死刑制度への怨嗟、並びに死刑執行人に対する世間の
差別と偏見に対する不満である。司法制度の一角を担いながら、人を殺すという役
割から宗教的忌避をもって人々に嫌悪・忌避され社会から疎外されることの不当性、
不条理を嘆く。

 世の中にはどんな人生を辿ることになるのか、予め定められている人たちがいる。
先祖代々から宿命を背負って家業を務めることが運命づけられた人。しかも「汝、
人を殺すなかれ」と人を律しながら、悪事を犯した人を裁き、これをを殺す仕事を
世襲化し、誰もが恐怖の対象として敵対する。そんな自身の稼業を厭いながら、社
会の構成員の一個人が忌むべき存在になったからと言ってそれで社会が崩壊するわ
けでもない。何らかの悪事が侵されたからと言って、そのことによって社会全体が
病むわけではない。ただ一時的な不調をきたすだけであり、殺人に対し殺人を求め
る一般の声は、取るに足りない慰めにしかならない。と死刑制度を批判する。
 死刑制度さえなくなれば死刑執行人という役目もなくなり、その子孫もつらい目
に遭わないで済むのである。
 サンソンはルイ16世は残酷な拷問を廃止したのに、死刑制度は残してしまった。
もし死刑を廃止していたら自身が死刑にならることはなかったのにと述懐している。
 なお著者のバルザック自身も死刑は人間の本性に反するがゆえに死刑は廃止され
なければならないと繰り返し述べる死刑反対論者だった。
    
 サンソン家は代々医者を副業にしていた。死体解剖で医学知識も蓄えており、死
なない程度に拷問を加えるにはどこを何処まで痛めればよいかなど、人体機能を知
悉していた。
 腕前も確かで、貴顕者も貧者も分け隔てなく治療に当たった。貧しい人からは代
金もとらなかったという。
 
 第5代当主となるシャルルは12歳の時パリから百数十キロ離れた寄宿学校に入
れられた。父の職業が知られたパリから遠ざけるためである。当初は楽しい学校生
活であったがある男のせいで死刑執行人の子弟であることが知られ、父兄の苦情が
強くパリに戻された。最愛の息子の寄宿生活を心配するあまりに近隣の同業者に秘
かに見守ることを頼んだばかりに、行き過ぎた監視が仇となって出自がばれてしま
ったのである。
 サンソン家は当代のエリート層の思想家、文人、法服貴族、宮廷貴族を食事に招
き、諸問題を議論するほどの立場にあった。

 この本では第8章「アンリ・サンソンの手稿」が物語性があって一番面白い。こ
れは著者バルザックが初代サンソンの『手記』を読んで触発されて書いたものと思
われ、ほぼ独立した読み物となっている。
 そこではアンリの青春時代における女優ゴーゴーとのはかない恋、ベルサイユ処
刑人の娘マルグリットとの出会いと別れ(彼女は結婚しても人を殺したあなたの手
に抱かれるわけにはいかないと言った)、シャトレ監獄管理人の娘カトリーヌとの
出会い、初仕事に当たる誇りとマルグリットとの愛との葛藤がつづられる。
 初めての車裂き刑執行で失神し受刑者を逃走させるという失敗をしてしまったア
ンリ。愛していたマルグリットは「あなたへの愛は天に持っていきたい」という手
紙を残し運河に身投げしてしまった。幸い逃亡した受刑者と逃亡させた一味も捕ま
りアンリは罪に問われることは免れた。

 ところで第12章「イタリアの死刑執行人ジェルマノ」から第14章「山の女王ビビ
アーノ」までの物語はどのような意図からつづられたのだろうか。裁判の判決通り
に義務を遂行したのに、死刑執行人だけが恨まれる不条理を訴える、ある種の寓話
的色彩が強い物語である。続編が書かれる予定であった書かれなかった。

 サンソン6代目当主アンリ・クレマソンは『サンソン家回想録』という本を上梓
した。

  文学者辰野隆の『フランス革命夜話』においてはサンソンについて一章を割いて
いる。サンソンは一度は断ったものの尊敬していたルイ16世とマリー・アントワ
ネットを処刑せざるを得なかったことを終生苦にしていた。自身が処刑するのは初
めてで手際が悪く、ルイ16世の首は一度に切断できなかったとある。
 余談であるがギロチンで知られたフランスの斬首台は革命前に開発され、人道的
である(!)ことと効率性が評価されいくつかの改良を経てヨーロッパ各国に広ま
った。製造特許はチェロ製造業者が握っていた。
                          (以上この項終わり)

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北千葉導水路管理センターを描く

2020年11月03日 | 水彩画

初秋の写生会は手賀沼へ

 
   clester   F8(中目)

 初秋の写生会は10月23日を予定していましたが、雨催いのために延期。1週間後の
10月30日に「北千葉導水路管理センター」近辺で行いました。
 北千葉導水路というのは、利根川の水を江戸川に流すための導水路のことです。手賀沼
の東北部栄橋近辺で取水した水は直径3mほどの地下導管で手賀沼沿いに北上し、ほぼ大
堀川の沿って地下を経て流山市坂川~江戸川に放水されます(延長28.5km)。途中柏市
戸張付近に第2機場を設け、水の一部を手賀沼浄化のために分水し手賀沼に流します。
その機場に管理センターがあり、見学もできます。単に分水するだけという機能を考える
と立派過ぎはしないかと思います。
 当日は結構冷たい風が吹いており同行のI氏は手が震えると言って苦労していました。
建物の周りは自転車用と歩行者用の道があり、結構利用者が通りました。放水路では釣り
人が何人か居りました。
 上空には薄い雲が掃くように漂っていて、それが全面ガラス張りの建物に映って、それ
はそれなりに興味深い風景画になりました。
                              (以上この項終わり)

 

  

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