読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

吉川英治の『新書太閤記(十)』

2021年07月01日 | 読書

◇『新書太閤記(十)

     著者:吉川 英治    1995.5 講談社 刊 (吉川英治歴史時代文庫)

 

 琵琶湖湖畔の賤ケ岳での戦いで当面の剔柴田勝家陣営を打ち負かした羽柴
秀吉の次の頭痛の種は東の雄徳川家康との関係である。 

 柴田勝家に勝った秀吉は信長の一周忌を営んだのち大阪に規模壮大な居城を
構築し始めた。その規模は信長の安土城をはるかに凌ぐ壮大なものとなった。
しかもわずか6カ月の短期間に諸国諸将に競わせ完成させた。

 信長の嫡子らを差し置いて天下をほしいままにしている佞姦秀吉という一
部の世評は秀吉を悩ませている。家康は信長の3男信雄と語らい、義をもって
秀吉を懲らしめる戦が必至とみて作戦を練る。秀吉は勝家に次ぐ信長に重臣
であった丹羽長秀をぜひ味方に受けたいし、未だ旗幟を明らかにしていない
諸将らに書を認め使いを送り味方に付けようと奔走する。

 家康は北畠信雄と共に清洲城の近く小牧山に凡そ7万の軍勢の本陣を構える。
一方秀吉方は凡そ8万8千の兵を犬山城近くの楽田に本陣を張って満を持して
いる。
 そんな中池田勝入と婿の森長可は小牧の大軍を寄せた家康の本拠岡崎城はが
ら空き状態。そこを占拠すれば徳川の軍勢は算を乱すは必至との、奇策を献じ
た。乾坤一擲を狙う秀吉はこの策を容れ秘かに1万の軍を岡崎城攻略に差し向
けるが、岡崎城の手前にある大留城にかかずらっているうちに、一人の兵が小
牧の本陣に秀吉軍の急襲を告げたため、家康は小牧にあるあらかたの軍勢を岡
崎に向けて発進させた。ここに長久手における戦いで池田勝入と森長可の急襲
軍勢は圧倒的な徳川軍の追撃に遭い、秀吉の乾坤一擲の策は敢え無くも潰えた
のである。
                          (以上この項終わり)

 


    

     

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