【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

原因と結果

2016-09-24 07:45:41 | Weblog

 「因果関係」と簡単に言いますが、「原因」と「結果」はそんなに簡単に言えるものではありません。
 たとえば戦争では、原因よりは結果の方がはっきりしています。ただ、時には、結果の方も原因に負けず劣らず曖昧模糊としている場合もあります。

【ただいま読書中】『ごみと日本人 ──衛生・勤倹・リサイクルからみる近代史』稲村光郎 著、 ミネルヴァ書房、2015年、2200円(税別)

 江戸の「ごみ」は、17世紀半ばから18世紀前半までは深川の海岸に埋め立てられましたが、あとの時代は基本的に田舎に引き取られていました。有機物が主体のごみは、屎尿とともに、重要な肥料の原料だったのです。ほとんど鎖国状態ですから、「リサイクル」をきちんと実行しなければ国が成り立たない状態だった、と言って良いでしょう。ごみ収集は世襲の鑑札を受けた専門業者が行いました。船で運びやすい場所ではごみを業者に売ることも可能でしたが、そうでない場所ではお金を払ってごみを引き取ってもらっていました。このシステムが維新で崩れ、「ごみ利権」をめぐって汚い争いが起きることになりました。
 コレラの流行は、社会不安を引き起こしました。ここで「衛生」がそれまでの「養生」という意味を捨て「疾病予防」の意味を与えられて登場します。明治になってから最初にコレラが流行した明治10年、東京からごみが搬入されていた千葉県は搬入禁止を宣言。東京警視本署は(当時は厚生省はなくて、警察が「衛生」も担当していました)、「ごみは遠隔の地に運ぶか空き地に埋める」よう通達を出しました。
 明治の初め、日本の重要な輸出品に「ボロ布」がありました。西洋では洋紙の材料としてボロ布を用いていたのです。興味深いのは、途中の船中で出火することがあったことです。日本では「藍」は貴重品だったため、生石灰をつかってボロ布から藍を回収していました。で、ボロ布に残った生石灰に水が反応して出火することがあったわけです。ちなみに、ボロで大儲けするから「ボロ儲け」。
 紙屑もリサイクルされていました。ただ「紙屑買い」は真っ当な商売ですが、「紙屑拾い」は怪しげな人間扱いだったそうです。
 製紙業が盛んになり、ボロ布が足りないため、木材パルプや稲わらも活用されることになりました(麦わらは麦わら帽子などに需要があり高かったそうです)。そこで古俵や古かますも回収されるようになりました。稲わらは俵などに使われても最終的には肥料として田んぼに還元されていましたが、それが田んぼに戻らなくなったため、新しい肥料が必要となりました。何かが変われば波及的にいろいろ変わります。
 大正時代まで、東京湾は、広島には負けますが、松島とは並ぶ牡蠣の大生産地でした。当然牡蠣殻も大量に出ますが、それを焼いて水をかけてできる消石灰は「カキ殻灰(貝灰)」として江戸時代には主に漆喰生産に用いられていました。明治になると、レンガ・モルタル・セメント製造などで石灰の需要は急増します。石灰岩がその需要を満たしたため、貝灰業者は衰退していくことになりました。そういえば私が子供の頃には牡蠣殻は廃棄物扱いで山積みで放置されていましたが、あれはかつては「資源」だったんですね。
 「糠」もリサイクル商品でした。江戸時代には糠袋などにも用いられますが、圧倒的に消費されたのは肥料です。リン酸肥料として重要だったのです(カリ肥料としては植物の灰が用いられました)。もちろん江戸時代に「リン酸」「カリウム」なんて言葉はありませんが、経験的にその効果は知られていました。だから「かまどの灰」も収集されていました。
 明治は流行病の時代でもありました。明治23年にコレラの死者は3万5千人、赤痢や腸チフスの死者も多数出ています。明治32年にはペストも流行し、東京市は「清潔法」を実施しました。これは要するに「大掃除」です。明治33年にはネズミの買い上げ制度も始まります(一匹5銭ですが、もりそば1杯が2銭の時代です)。同年帝国議会で「汚物掃除法」が成立。これは汚物(ごみ、汚泥、汚水、屎尿)を都市の外に排除するための法律でした。京や大阪では役所が民間収集業者を監督していましたが、東京では丸投げでした。だからこの法律は国が東京に「きちんと行政がごみ収集に関与しろ」と迫った法律とも言えます。ただし屎尿は「肥料として売れる」ため収集に協力する家庭は少なく、法律は屎尿に関しては機能しませんでした。ところがそのため、後日肥料としての価値がなくなったときには収集ができず、不法投棄が横行することになります。
 ついでですが、ペスト流行の原因がネズミ、という話が広がると、殺鼠剤が家庭に普及しましたが、それによる自殺も急増しました。また、昭和のはじめには、鼠の死骸を路上に放り出すことが当たり前となり、路上の鼠の死骸は「大東京名物」とまで言われました。またそれをトビが餌として食べていましたが、おそらく殺鼠剤のために東京でのトビの数も激減しています。
 明治の「衛生」に関しては「排除」(目の前からなくなればよい)が基本姿勢でした。鼠の死骸を家から外に放り出すのもそれに因ります。ついでに「貧民は不衛生」だから社会から排除しろ、という議論もありました。ある意味「首尾一貫している」とは言えます。
 ともあれ東京市は、指定業者にごみ収集を請け負わせようとしました(東京市は監督業務だけ)。ところがこれが一大汚職事件に発展します。明治末に東京市はとうとう直営事業としてごみ収集を始め、千葉県が引き取りを拒否するようになったため、主に埋め立てで処分するようになります。
 明治中ごろから「廃物利用」運動もありました。戦前のリユースです。ただし「もったいない」とポジティブに評価する人もいれば「けちくさい」とネガティブに評価する人もいました。女子教育では「廃物利用(倹約主義)」が「良妻賢母」と結合されましたが、それを厳しく批判したのが与謝野晶子でした。
 第一次世界大戦後の成金景気は、ごみの増加ももたらします。そのためリサイクルは多様化しました。この時代には「江戸の名残」と「近代工業化」が併存していたのです。紙屑は収集されて製紙業者で利用され始めます(この動きが本格的になるのは昭和になってから)。
 「新しい廃棄物」も生じました。たとえば「震災瓦礫」、「公害(工場からの廃棄物)」、そして「屎尿(肥料として使われなくなり、都市部では廃棄物になったのです)」。瓦礫は焼却や再利用が行われましたが、公害と屎尿では「排除の理論」が活躍します。足尾鉱毒は「衛生」ではなくて「政治問題」とされましたし、屎尿では「隅田川の色が変わる」と言われました。最終的には「海洋投棄」が選択されましたが、それは「湾内」でした(そういえば瀬戸内海に面した府県は高度成長頃まで瀬戸内海に投棄していましたっけ)。
 日中戦争が始まり、軍事行動の一環として廃品回収が位置づけられます。時局に便乗して「仏具」「蚊帳の吊り輪」なども収集されました。何の目的だったんでしょうねえ。そういえば「貴金属の供出」「戦時ダイヤモンド」も目的がよくわかりませんが。戦前にはアメリカから大量の鉄くずを輸入していましたが、これは国際的なリサイクル運動と言えるのでしょうか。戦局がさらに厳しくなると「特別回収」として全家庭の金属を根こそぎ供出させる運動が始まりました。使われたのは町内会。隣組で相互監視をおこない、“協力”することを半強制しました。橋の欄干や銅像も撤去されましたが、銅像に関して、東京以外の府県は90%程度の撤去率だったのに対して、東京は10%くらいだったそうです。
 焼け跡には、ごみ収集などはありません。したがって、ごみと屎尿が散乱することになりました。日本はそこから再出発したわけです。
 江戸と明治を区別するキーワードが「排除」だというのは、本書で得た重要な発見です。戦後の日本の行政もまだ「排除」で動いているようです(原発のごみ(放射性廃棄物)などその好例でしょう)。一つ一つの政策ではなくて、その背後を貫くキーワードを見逃さないようにしていないといけない、と感じさせてくれる本でした。



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