晴れ。
日差しは強くなった…ようでも、空気は…冷ややかというか、日陰に入れば、まだ夏ではないと言う気がしてきます。乾燥しているので、しっとり感はゼロです。このまま夏に入るか…というのはあり得ないこと。例年ですと、あと一ヶ月弱で「梅雨入り」ということになる。
今年の「梅雨」はどうかしらん。「空梅雨」ということはないかしらん。貯水湖の水量はどうなのかしらん。いくらこのあたりで雨が降っても貯水湖のあたりで降ってくれないと、水の心配をしなければならない…とかとか。心配事は、…心配しようと思いさえすれば、後から後から湧いてきます。
さて、学校です。
昨年度の学生達も、7月の「能力試験」が終わったころあたりから、進学について、話し合いをせねばならないでしょう。聞けば、それなりのことが言える学生もいるようですから、それはそれとして、考えていけばいいのでしょうが、決めているという学生の大半は、そこに友達がいるからとか、同国人が多いらしいからという理由のようです。そんな中、これを勉強したいといえる学生が一人でもいると、ちょっとほっとしたりしまいます。なにせ、「何を勉強したい?」「先生が決めて」という学生だって少なくないのですから。どんなことが勉強できるのかわからないのです。いえ、わからないというより、勉強できる「何」があるか、知らないのです。
もっとも、「これを勉強したい」というのがある学生でも、時々困ってしまう場合もあります。旧イギリスの植民地だった国からきている人たちです。大学まで進んで来ている人は、それほど困らないのですが、いわゆる高卒で来ている人の中には、簡単な計算でもなかなかできない人がいて、小学校の教師として働いたことのない身にとっては、それをサッと教えると言うことが難しいのです。
最初のころは、小学校の算数の教科書やら、公文のドリルやらをもちいて、教え方を考えたりしていたのですが、例えば、「プラス」と「マイナス」がひしめいている計算など面倒。
まず、直線を引いて、真ん中に「ゼロ」を書き、足し算などでは、「マイナス」のついた数が大きければ、答えは「マイナス」になり、「プラス」の数が大きければ、(チョンチョンと線の数の上を飛ばしていき)、「プラス」になる…。ここまではいいのですが、そのうちに、「マイナス1」から「マイナス5」を引くと、「プラス4」になるなどが出てきて、「どうして」と聞かれたりすると、もう、「このときはこう」で習慣になっている当方にとっては、これが難しい。んんん…どう説明すればいいんだになってしまう。
早くから道を分けられてしまう「教育制度」というのは、一長一短。強いて言えば、「短」の方が大きいような気がする。あまりに早く分けられてしまうと、大人になってから必要となっても、手がつけられなくなり、結局は、諦めてしまうことにもなりがち。
習った経験さえあれば、どうにかなることでも、ゼロだと、おそらくイメージもわかないのでしょう。これは「グラフ」とか「図形」などでもそうでした(高校進学を目指している学生に教えるとき、苦労したのです。数学のセンスさえあれば、多少の障害など飛び越せるのですが、それがない普通の学生だと、教える方も習う方も大変)。
学んだことがないこと(特に数学というか算数)というのは、大人になってから学ぶのは、他人が考えるよりもずっと難しいことのようです。特に、数学なんてある種のセンスを必要とするような学科はそうなのでしょう。知識なら大人になってからある程度は入れることができても、算数のようなものは、とくに基礎の基礎というものは、難しい。しかも外国語(日本語)で教え、習おうと言うのですから、二重三重もの苦労が彼我に生じてしまいます。
学生達がよく進学したいという自動車学校なのですが、いくら「算数」は計算だけだから、「数」と「記号」を見ればいいし、「式」は万国共通だろうからと思っても、聞かれると、はて?どう説明したらいいんだとなる、こちらも。
小学校で、この「どうしてか」を習っているのでしょうが、もうこの年ですから、忘れている。つまり「なぜ」を相手がわかるように説明できない。「マイナス」×「マイナス」は「プラス」とすぐやってしまい、改めて問われてしまうと、んんんんとなってしまうのです。
割り算などもそう。以前、フィリピン人が、どうしても「読解」の文章ができなくて、ほとほと困ったことがありました。計算がどうも苦手だったようなのです。思わず、「困ったなあ。こうだと、割を食ってしまうよ。損をしないように頑張ろう」と言って、その時は説明をしたのですが、これが案外に難しい。結局は、おもちゃの果物を並べて、「この一つが20円としますね。それからこちらの方は30円としますね、それから…」とやって見せて、どうにかわかった…ようでしたが。
としても、「読解」を教えていく時、そういうのを毎回していくのはちょっと無理なのです。大半の学生は放っておかれることになりますから。勢い、そういう計算の文章がでたら、捨てろと言わざるを得ない。なにせ、テストは時間との闘いですから。できそうなものに時間をかけよとしか言えなくなる。テストの日にちが迫っているときには。
結局、その学生、自動車の専門学校に合格できたはいいけれども、学校から、簡単な計算の問題集が送られてきた。入学までにこれを勉強しておくようにということなのでしょう。けれども、もう入れたわけですから、あとは専門学校がやるべきこと。合格するまでは、こちらも、簡単な数学の計算、つまり分数やら小数やらをある程度は教えたりして苦労したわけですから。
最初は、驚くだけだったこういうことも、今では、「母国の小学校か中学校の教科書を送ってもらって、それで勉強してね」か、同国人の理系(数学を勉強したことのある人)の学生に考えてね」ということにしています。だいたい、それを理解できない人に外国語(日本語)で教えるなんて、土台、無理な話。相手は「N3」にも合格できていないような日本語のレベルだったのですから。
昔は、随分突拍子もないことをやっていたのだなあと、今から思えば、冷や汗ものです。
日々是好日
日差しは強くなった…ようでも、空気は…冷ややかというか、日陰に入れば、まだ夏ではないと言う気がしてきます。乾燥しているので、しっとり感はゼロです。このまま夏に入るか…というのはあり得ないこと。例年ですと、あと一ヶ月弱で「梅雨入り」ということになる。
今年の「梅雨」はどうかしらん。「空梅雨」ということはないかしらん。貯水湖の水量はどうなのかしらん。いくらこのあたりで雨が降っても貯水湖のあたりで降ってくれないと、水の心配をしなければならない…とかとか。心配事は、…心配しようと思いさえすれば、後から後から湧いてきます。
さて、学校です。
昨年度の学生達も、7月の「能力試験」が終わったころあたりから、進学について、話し合いをせねばならないでしょう。聞けば、それなりのことが言える学生もいるようですから、それはそれとして、考えていけばいいのでしょうが、決めているという学生の大半は、そこに友達がいるからとか、同国人が多いらしいからという理由のようです。そんな中、これを勉強したいといえる学生が一人でもいると、ちょっとほっとしたりしまいます。なにせ、「何を勉強したい?」「先生が決めて」という学生だって少なくないのですから。どんなことが勉強できるのかわからないのです。いえ、わからないというより、勉強できる「何」があるか、知らないのです。
もっとも、「これを勉強したい」というのがある学生でも、時々困ってしまう場合もあります。旧イギリスの植民地だった国からきている人たちです。大学まで進んで来ている人は、それほど困らないのですが、いわゆる高卒で来ている人の中には、簡単な計算でもなかなかできない人がいて、小学校の教師として働いたことのない身にとっては、それをサッと教えると言うことが難しいのです。
最初のころは、小学校の算数の教科書やら、公文のドリルやらをもちいて、教え方を考えたりしていたのですが、例えば、「プラス」と「マイナス」がひしめいている計算など面倒。
まず、直線を引いて、真ん中に「ゼロ」を書き、足し算などでは、「マイナス」のついた数が大きければ、答えは「マイナス」になり、「プラス」の数が大きければ、(チョンチョンと線の数の上を飛ばしていき)、「プラス」になる…。ここまではいいのですが、そのうちに、「マイナス1」から「マイナス5」を引くと、「プラス4」になるなどが出てきて、「どうして」と聞かれたりすると、もう、「このときはこう」で習慣になっている当方にとっては、これが難しい。んんん…どう説明すればいいんだになってしまう。
早くから道を分けられてしまう「教育制度」というのは、一長一短。強いて言えば、「短」の方が大きいような気がする。あまりに早く分けられてしまうと、大人になってから必要となっても、手がつけられなくなり、結局は、諦めてしまうことにもなりがち。
習った経験さえあれば、どうにかなることでも、ゼロだと、おそらくイメージもわかないのでしょう。これは「グラフ」とか「図形」などでもそうでした(高校進学を目指している学生に教えるとき、苦労したのです。数学のセンスさえあれば、多少の障害など飛び越せるのですが、それがない普通の学生だと、教える方も習う方も大変)。
学んだことがないこと(特に数学というか算数)というのは、大人になってから学ぶのは、他人が考えるよりもずっと難しいことのようです。特に、数学なんてある種のセンスを必要とするような学科はそうなのでしょう。知識なら大人になってからある程度は入れることができても、算数のようなものは、とくに基礎の基礎というものは、難しい。しかも外国語(日本語)で教え、習おうと言うのですから、二重三重もの苦労が彼我に生じてしまいます。
学生達がよく進学したいという自動車学校なのですが、いくら「算数」は計算だけだから、「数」と「記号」を見ればいいし、「式」は万国共通だろうからと思っても、聞かれると、はて?どう説明したらいいんだとなる、こちらも。
小学校で、この「どうしてか」を習っているのでしょうが、もうこの年ですから、忘れている。つまり「なぜ」を相手がわかるように説明できない。「マイナス」×「マイナス」は「プラス」とすぐやってしまい、改めて問われてしまうと、んんんんとなってしまうのです。
割り算などもそう。以前、フィリピン人が、どうしても「読解」の文章ができなくて、ほとほと困ったことがありました。計算がどうも苦手だったようなのです。思わず、「困ったなあ。こうだと、割を食ってしまうよ。損をしないように頑張ろう」と言って、その時は説明をしたのですが、これが案外に難しい。結局は、おもちゃの果物を並べて、「この一つが20円としますね。それからこちらの方は30円としますね、それから…」とやって見せて、どうにかわかった…ようでしたが。
としても、「読解」を教えていく時、そういうのを毎回していくのはちょっと無理なのです。大半の学生は放っておかれることになりますから。勢い、そういう計算の文章がでたら、捨てろと言わざるを得ない。なにせ、テストは時間との闘いですから。できそうなものに時間をかけよとしか言えなくなる。テストの日にちが迫っているときには。
結局、その学生、自動車の専門学校に合格できたはいいけれども、学校から、簡単な計算の問題集が送られてきた。入学までにこれを勉強しておくようにということなのでしょう。けれども、もう入れたわけですから、あとは専門学校がやるべきこと。合格するまでは、こちらも、簡単な数学の計算、つまり分数やら小数やらをある程度は教えたりして苦労したわけですから。
最初は、驚くだけだったこういうことも、今では、「母国の小学校か中学校の教科書を送ってもらって、それで勉強してね」か、同国人の理系(数学を勉強したことのある人)の学生に考えてね」ということにしています。だいたい、それを理解できない人に外国語(日本語)で教えるなんて、土台、無理な話。相手は「N3」にも合格できていないような日本語のレベルだったのですから。
昔は、随分突拍子もないことをやっていたのだなあと、今から思えば、冷や汗ものです。
日々是好日