平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



下関には二つの厳島神社があります。 一つは長門厳島神社です。
平家一門は安芸国の嚴島神社の分霊を平家の守護神として
軍船に祀っていましたが、壇ノ浦敗戦後、磯辺に漂着していた神霊を
村人が拾い上げ、文治元年(1185)社殿を建立し、祀ったとされ、
のち、厳島神社から再び分霊を勧請したという。
現在は下関市西部の氏神として、崇敬されています。
また、高杉晋作が維新成就を祈願した社でもあります。
境内の大太鼓は、小倉戦争に勝利した戦利品として、
晋作が小倉城の櫓(やぐら)に吊るされていたものを
持ち帰り、奉納したといわれています。


もう一つは、伊崎町の高台にある伊崎厳島神社です。

長門厳島神社と同様な由緒をもち、境内の鈴ヶ森稲荷神社は、
安徳天皇の守護神として奉祀されたといわれています。
社伝によると、源平時代、平家は安芸国の嚴島大明神を
船中に祀っていましたが、壇ノ浦合戦に敗れた時、
平家の一人が秘かに持ち出し、伊崎浦の岩の上に安置しました。
のち伊崎の人々が、日和山中腹に小社を建立して
ご神体を安置したことに始まります。


長門厳島神社


拝殿 

本殿


厳島神社由緒略記
 天照大神の御子神 
御祭神 
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
            田心姫神 (たごりひめのかみ)
            湍津姫神 (たぎつひめのかみ)
一.由緒
厳島神社の三社の御祭神は畏くも皇祖天照大神の御子神であらせられ
[厳島神社記録帳]によると安芸国厳島神社の御分霊を平家の守護神として
安徳天皇の御座船におまつりされていたが、壇ノ浦の合戦後
この近くの磯辺に放棄されていたのを里人に神託があった
「吾は厳島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と
不思議に思いながらそこに行ってみると磯辺に御鏡太刀様の者を見つけ
文治元年(西暦一一八五年)里人たちが現在地に社殿を建立し
更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し今に至っております。
一.御神徳
海上安全・交通安全・家内安全・無病息災・開運招福・
商売繁盛・安産祈願・病気平癒・方位災除・学業成就など
一.祭日  節分祭 二月節分の日
          夏越祭 七月 第三土・日曜日
          例祭  十月 第三土・日曜日 
          

一.境内末社 貴船神社 
本社は京都市左京区貴船に鎮座する貴船社で
御祭神は高淤加美神(たかおかみのかみ)と言います。
水神様として親しまれ商売繁盛・
開運の神として人々に崇敬されています。

一.高杉晋作の大太鼓
この地は幕末明治維新の大きな原動力となった高杉晋作を始め
奇兵隊諸士が活躍した明治維新発祥の地であります。
高杉晋作は維新成就を祈願した当神社に、大太鼓を奉納しました。
この大太鼓はケヤキ材のくり貫きで直径一一0cm・
重量三九〇kgあり、明治維新の象徴であります。
この大太鼓を通して先人を顕彰し、その歴史に学ぶことを目的に
毎年九月第一土曜日太鼓祭を執り行っています。
平成十七年十二月記す

『アクセス』
「長門厳島神社」山口県下関市上新地町1丁目1-11 
JR下関駅からサンデンバス乗車5分、「厳島神社前」バス停下車徒すぐ
「伊崎厳島神社」山口県下関市伊崎町1丁目7-23
下関市駅西出口より徒歩約10分
※しものせき観光1日フリー乗車券を利用すると便利です。
ご利用可能区間(途中乗降ができない区間がありますのでご注意ください)
サンデン交通バス 料金 大人 730円、小児 370円

『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年

安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 

 

      

        

    

 

 

 



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西楽寺は彦島の中央やや北寄りに位置し、正覚山と号する時宗の寺院です。

壇ノ浦合戦の時、平家の陣所は彦島にあり、源平合戦の舞台となりました。
彦島には西楽寺や清盛塚、ある武将の妻が平家の敗戦と夫の死を聞いて入水したという
きぬかけ岩(彦島老町)など
平家ゆかりの史跡が多くあります。

本尊は平重盛の護持仏阿弥陀如来像で、門前に建つ石標には、
「平重盛公守護仏彦嶋開闢(かいびゃく=開山)尊像安置」と刻まれています。

当寺の記録に「当山二十世梵阿(ぼんあ=室町時代の僧)俊応和尚之曰」として、
「当寺の本尊は、壇ノ浦にて平家一門入水の時、近習の岡野、百合野、
植田治部之進の三人がこの尊像を彦島に持ち帰るよう申しつけられた。とあり、
のち、健治2年(1276)一遍上人の弟子西楽がこの島を訪れ、
尊像を現在地に移し、西楽庵(寺)と称したのを始まりとしています。」

西楽寺建立後、西楽法師は彦島において平家再興をはかる人々の
野望を鎮め、生業につくよう導いたという。
従って彦島に平和をもたらした阿弥陀如来ということにもなり、
「彦嶋開闢尊像」とも呼ばれるようになりました。


下関指定有形文化財
西楽寺木造阿弥陀如来坐像 
 像高八十三・五センチメートル
指定年月日 昭和六十年十二月二十日
所在地下関市彦島本村町五丁目三番一号


西楽寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、古くは
平重盛の持仏であったと伝えられており、
彦島の人々によって大切に守り伝えられてきました。
本像はヒノキの材を用いて、寄木造という技法でつくられています。
この寄木造りとは、いくつかの材を組み合わせて本体をつくる
仏像製作の技法です。
平安時代に考案され、以後多く用いられました。
丸く張りのある顔立ちや体型、浅めに彫られた繊細は衣の線などの表現から、
本像は平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて
制作されたと考えられます。
後の時代に部分的な修理や表面の彩色がほどこされています。
平家一門と彦島の地とのかかわりをうかがわせるものとして、
また当時の文化の豊かさを伝えるものとして貴重な仏像です。
下関市教育委員会




本尊は、ヒノキ材、寄木造り、高さ83・5㎝で、
上品上生の印(弥陀定印=みだじょういん)を結んでいます。



西楽寺本尊阿弥陀如来像縁起
当西楽寺本尊阿弥陀如来は当彦島に置いては昔しから
彦島開闢尊像平重盛公護持仏として島民に尊ばれておられました。
此の阿弥陀如来はその昔、第四十代天武天皇(675)仏教に深く帰依をされ
眞の阿弥陀如来を拝せんことを発願されて奈良春日大明神に参籠祈誓をされて
一夜春日大明神の神示を受けられ、神示に従って賢門子と言える
佛師に命じられて造られた阿弥陀如来と伝えられ、それから五百年後、
平家全盛の時、平清盛の嫡男平重盛公は日々に募る父清盛の専横に心を痛めて
世の無常を観じ紀州熊野権現に参籠、平家滅亡後の平家一門の菩提の為に
眞の阿弥陀如来を拝せんことを祈誓された所「奈良東台(大)寺に
安置してある天武天皇発願の阿弥陀如来座像は極楽の眞の阿弥陀如来也」との
霊夢を受けられて急ぎ京に帰り、第八十代髙倉天皇(1168)に奏上されて
奈良東台(大)寺より件の阿弥陀如来をゆづり受けて自邸に勧請して
朝夕礼拝供養をされた阿弥陀如来と傳へられて居ります。
重盛公は父清盛の専横に心労の余り病気になられて其頃西の極楽と
呼ばれていた平智(知)盛公の知行地彦島に阿弥陀如来とともに
京を西下されて彦島に渡られて阿弥陀如来を彦島に安置して
御自分は自分の知行地九州に渡られて九州の地で亡くなられました。
平家壇之浦に滅びて五十年。河野一族から一遍(1276)と言える
浄土門の奥義を窮め襌にも達した念仏聖が出られ
念仏平和を日本国内に勧めるべく跣で日本廻国を始められ、
その途路下関に来られ、彦島の話を聞かれ
弟子西楽法師(平忠正の嫡孫)を連れて彦島に渡られ
彦島の人たちに其の否を悟らせて、西楽法師を彦島に残して
一遍は下関に帰へられました。彦島に残られた西楽法師は
島の人達と語らい、重盛公の護持仏阿弥陀如来を本尊に
精舎を建てられ、西の極楽といわれた彦島の名を取て
西楽と寺号をされました。人は変り幾星霜時は流れて明治の世となり
明治政府は西楽寺を廃寺にしました。(以下かくれて読めません)
『アクセス』
「西楽寺」下関市彦島本村町5丁目3-1
JR下関駅からサンデン交通約10分乗車「本村」下車、徒歩3分
『参考資料』
「山口県の地名」平凡社、1988年
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「西楽寺・阿弥陀如来像縁起」拝観パンフレット
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年


 



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新中納言知盛(清盛の四男)が砦を構えた長門(山口県)の
彦島(下関市彦島)は、海上交通の要地で
『平家物語』には、引島(ひくじま)と記されています。

関門海峡に浮かぶ周囲25キロ余の島ですが、島といっても、
今は橋で結ばれているので車でも簡単にアクセスできます。

北九州市門司区大里海岸緑地帯より平知盛が砦を構えた彦島遠望。





知盛は屋島合戦の際、平家本陣を離れて彦島に砦を構えました。
一ノ谷で惨敗したものの、源氏は有力な水軍を持たないので、
瀬戸内海の東と西の要衝を掌握する限り、
平氏に勝機はあると知盛は踏んでいたのです。

しかし、宗盛(清盛の三男)を総大将とする平家軍は、
屋島合戦でも敗れ海上に逃れました。

義経勢はわずか150余騎でしたが、大軍に見せるため
民家に火をかけ敵陣に突入しました。背後からの奇襲攻撃を受けた
平家軍は、巻き上がる炎に驚いて海岸へ走ったのです。
そしてさしたる反撃もしないまま、知盛と合流しようと
瀬戸内海を西に向かい、彦島へ落ちて行きました。

(巻8・太宰府落)には、「長門国は新中納言知盛卿の国であった 。
国司代理(目代)は紀伊刑部大夫通資(ぎょうぶたいふみちすけ)と
いう者であった。」と書かれていますが、
知盛には長門守の経歴は見えない。長門は治承元年(1177)に
清盛が知行国守になっているので或いは国務を代行するなどのことが
あったのであろうか。」とあります。(『平家物語(中)』p273頭注)


彦島の杉田丘陵には、平清盛の塚があり、知盛が築いた根緒(ねお)城は、
この丘陵にあったのではないかといわれています。

JR下関から江の浦町に架かる関彦橋(かんげんばし)を渡り、
杉田バス停で下車すると清盛塚の案内板が見えます。
これに従って住宅街の狭い坂道を上っていくと清盛塚があります。

清盛塚に近い杉田の住宅街の中には、
「彦島杉田岩刻画(がんこくが)」があります。
岩刻画とは、岩に刻まれた古代の文字や絵などのことです。

知盛は清盛の霊を慰めるため、彦島に無銘の碑を建てたといわれています。

所々に建っている案内板に従って丘の上を目指します。



左側は無銘の石碑、右側の自然石には「清盛塚」と刻まれています。

清盛塚は、福浦湾を望む丘の上にあり、
地元の人々によって大切に守られています。

傍には「地鎮神」と刻んだ石碑も建っています。

清盛塚
寿永三年(1183)中納言知盛は亡き父清盛の遺骨を携えて
この彦島に入り平家最後の砦、根緒城の築城に取りかかり砦と定めた
この丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立した。
翌年四年三月二十四日壇ノ浦の合戦に出陣したが、
再興の夢ははかなくも渦潮の中に消え失せた。
墓碑は永年無銘のまゝ荒地に放置されていたが昭和四年
土着の歴史に詳しい人達の手によって清盛塚と刻まれた。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
昭和六十二年十月
江の浦町四丁目自治会有志による聖城整備によせて
  郷土史家 澤 忠宏 記
『アクセス』「清盛塚」山口県下関市彦島江の浦町
JR「下関」駅からサンデンバス8番乗り場、約20分
 「杉田」バス停下車徒歩約15分

『参考資料』
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課 
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)」角川書店、昭和42年

 

 

 

 

 



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赤間神宮の駐車場横の阿弥陀寺公園内、
関門海峡に面して「海峡守護の碇」があります。



ここから海へ下りる石段があり、関門海峡の波が打ち寄せています。



海峡守護『碇』の由来
 水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の
鎮めの神と仰がれています。 今を去る八百年の昔、
源平壇ノ浦の戦いに、平家の大将知盛は全てを見収め、
碇を背に海中深く御幼帝のお供をして龍宮城へ旅立たれました。
それより「碇知盛」で能や歌舞伎に演じられ、
勇将振りがたたえられています。このいわれをもとに、
海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、
海峡の平安を祈るものであります。 昭和六十年五月二日
 源平八百年祭を記念して 寄進下関海洋少年団

『平家物語』によると、壇ノ浦の戦いで敗北を悟った平知盛は、
二領の鎧を着こんで入水したと書かれています。
歌舞伎の通称『碇知盛』や能『碇潜(いかりかづき)』では、
知盛は頭上に碇を戴いて海底深く沈んでいきます。

『碇知盛』で知られる歌舞伎『義経千本桜』
二段目「渡海屋」「大物浦」の段によると、
知盛は壇ノ浦で入水したかのように見せかけ、
渡海屋銀平と名前を偽って登場し、
ひそかに平家再挙を願い義経の命を狙います。
頼朝に追われる義経は、
大物浦から九州へ向かい船出します。
しかし、知盛は義経の船を襲う前に見破られて果たせず、
碇をからだに巻いて岩の上から海底に沈んでしまいました。

謡曲「碇潜」と壇の浦
謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な
最後を描いた曲である。
 壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が
乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍物語を所望する。
 漁翁(実は知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り、
弔いを願う。
 旅僧の回向に導かれるように、勇将知盛の姿が現れ、
安徳天皇をはじめ一門悉く入水するまでの経過と自らの修羅の戦いの有様や
碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を
旅僧は見たのであった、という構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
 壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥の面目と情趣に
想いの馳せる海岸である。  
謡曲史跡保存会

一勇斎国芳(歌川国芳)筆「真勇競・平知盛」個人蔵
みもすそ川公園内に建つ碇を振り上げる知盛像。
壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)

『碇潜』のあらすじ
 平家ゆかりの旅の僧が無惨な最期を遂げた平家一門を弔うため
長門国早鞆(はやとも)の浦で渡し舟に乗り、
船を操る老人に壇ノ浦の合戦の様子を尋ねると、
老人は「能登守教経が源氏の大将・義経を追い詰めたが、
八艘飛びで逃げられ、敵兵2人を両脇に抱えて入水した」と
教経の奮戦と最期のありさまを語って消えました。
 僧が平家の一族を弔っていると、平知盛と二位尼らの霊が現れます。

知盛が安徳天皇の御座船に来て、二位尼に「戦いはこれまで」と
覚悟を促すと、尼は満7歳の安徳天皇を抱いて入水し、
知盛も戦での勇姿を見せた後、鎧2領に兜を2刎(はね)つけた上に、
碇の大綱を手繰り寄せて引き上げ、頭上に頂き沈んでいきました。

 『平家物語』を典拠とした謡曲で、知盛の最期に重点を置いたものですが、
一人の主人公に焦点を合わせるのでなく、壇ノ浦で滅亡していく
平家一門をまるで絵巻物でも見るように描いています。
作者、制作年代とも不明。

阿弥陀寺公園内には、
「朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう=滞在)之地」の碑も建っています。

朝鮮通信使が日本本土入りした最初の上陸地が下関(赤間関)で、
かつて通信使の客館となった阿弥陀寺は、
明治時代に赤間神宮と改めました。

国道9号線を挟んで阿弥陀寺公園の向かい側にある赤間神宮。

平知盛の墓・甲宗八幡神社        
知勇を兼ね備えた平知盛の最期   
『アクセス』
「赤間神宮」山口県下関市阿弥陀寺町4−1 
JR下関駅からバス10分→ 「赤間神宮前」バス停下車すぐ。
「阿弥陀寺公園」下関市阿弥陀寺町7−7
『参考資料』
金子直樹「能鑑賞二百一番」淡交社、2008年
図説「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年

 

 



 



 

 



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みもすそ川公園から国道9号線を前田方面へ進むと
「海響れすとらん  しずか」の手前に「平家の一杯水」の石標が建っています。

ここから石段を下ると、海岸に鳥居と覆い屋のある井戸があります。

平家の人々が末期の水を飲んだという平家一杯水の遺跡。

壇ノ浦の戦いで深手を負い、前田の海岸に命からがら泳ぎついた
平家の武将が、火の山山系より湧き出る水を一杯口にして喉を潤しました。
あまりの美味しさにもう一口飲んだ時は塩水になっていたという。
入潮の折の敗戦であり、真水が海水に混じる頃でした。

これは、「末期の水」という考え方によるとされ、

壇ノ浦で滅びた平家の哀れさを物語る伝承史跡です。
この湧水は今もあり、若水として汲み赤間神宮の神前に供えられます。

平家の一杯水 
寿永四年(1185)三月二十四日、源義経を総大将とする源氏と
平知盛が率いる平家は、最後の一戦を壇ノ浦でくりひろげました。
開戦当初は、東向きの流れに乗った平家が有利に戦っていました。
やがて潮の流れが西向きに変わり始めると、
源氏方は反撃を始めました。
潮流に乗った源氏は、
平家の船を操る水夫と舵取りを弓矢で狙いました。
こぎ手を失った平家の船は潮の流れに引き込まれ、完全に
自由を失いました。
そうなると、勝敗はもうはっきりしています。
平家方のある者は捕らえられ、または海に沈み、
または傷を受けてようやく岸にたどり着いた者もありました。
そのうちの一人の平家の武将は、全身にひどい傷を受け
海に落ちましたが、命がけで泳ぎ岸にたどり着きました。
その武将は傷の痛みと疲れで喉がカラカラに渇ききっていました。
あたりを見渡すとわずかな水たまりを見つけたので、
武将は痛む体を引きずって水たまりに近づき、その水を
手のひらにすくい喉をうるおしました。その水の美味しいこと、
武将にとっては命の水とも思えるものでした。
あまりの美味しさに夢中になって二度目を口にしたところ、
大きくむせて吐き出してしまいました。
不思議なことに真水は塩水に変わっていた、といわれています。

関門海峡沿いにある前田の海岸。
門司にもあります。門司の産湯井・平家の一杯水 
 『
アクセス』
「平家の一杯水」山口県下関市前田2-1-1
みもすそ川公園より徒歩約5分。 
JR下関駅からバスで15分 
前田バス停下車徒歩4分。
『参考資料』
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年

 

 



 



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寿永4年(1185)3月24日、源義経を総大将とする源氏の水軍と
平知盛率いる水軍が、
源平最後の決戦を関門海峡で繰り広げました。

みもすそ川公園は、壇ノ浦古戦場が一望できる場所にあり、
みもすそ川の名は、壇ノ浦で入水した
二位の尼辞世の和歌から名づけられたといわれています。

源平合戦は海上での戦いだったので、当時の面影を偲ぶものは、
公園内の松林の中に義経・知盛像や
安徳帝御入水之碑(二位尼辞世の歌)などがあるだけです。

目の前に広がる海は、早鞆(はやとも)の瀬戸と呼ばれ、
関門海峡で最も狭いところで(約700m)、
潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。

潮流は1日に4度も向きを変え、満潮時の流れは、瀬戸内海側の
周防灘(すおうなだ)から日本海・玄界灘側の響灘(ひびきなだ)へ、
逆に干潮時は響灘から周防灘へと流れます。

この一帯を「壇ノ浦」と呼んでいますが、それは白村江の敗戦後、
唐・新羅の追撃に備えて長門国(山口県)豊浦に
軍団(壇)を置いたことに由来する地名と思われます。

「安徳帝御入水之処」碑には、源氏軍に追い詰められ、
8歳の安徳天皇を抱いてみもすそがわ沖に身を躍らせた
二位尼の辞世の歌が刻まれています。

今ぞ知る  みもすそ川の 御ながれ 
          波の下にも みやこありとは  長門本平家物語
(今こそわかります。伊勢神宮の五十鈴川(みもすそ川)の流れをくむ
安徳天皇にとって、その流れを注ぐ波の下にも都があることを)

伊勢神宮の周囲を流れる清流、五十鈴川には、記紀に伝わる
古代日本の皇族倭姫命(やまとひめのみこと)が御裳の
すその汚れを濯いだという伝説があり、御裳濯川
(みもすそがは=御裳川・御裳裾川・御裳濯河)という別名から転じて、
皇統の流れなどを表す場合に使われることばです。
ちなみに二位尼辞世の和歌は、読み本系の『長門本』
『延慶本』『源平盛衰記』に収められています。

語り本系の『平家物語・先帝身投』は、この和歌をカットし、
二位の尼は幼帝に「あの波の下にも極楽浄土という
すばらしい国がございます。そこへお連れ申しあげましょう。」と
さまざまにお慰めすると、泣きながらも天皇は、
まず東に向かって伊勢大神宮にお別れをし、
次に西に向かって念仏を唱えられた。と語っています。



みもすそ川公園は関門海峡と国道9号線に挟まれて細長く広がっています。

火の山から流れ出た小さな流れのみもすそ川、その河口付近は、
今では暗渠(あんきょ)となり、「壇の浦古戦場址」碑近くの
「みもすそがわ」橋の下を流れ、関門海峡に注いでいます。





関門橋をバックに、碇(いかり)を振り上げている知盛と
八艘(はっそう)飛びの
義経像が対峙するように設置されています。

日本史の節目を刻む関門海峡 
西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。
せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、
潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります。
また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、
日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。

寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、
源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。
当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると
源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。
最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、
二位尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。

日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。
なお、この戦いにおいて義経は平教経(のりつね)の攻撃を
船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を
見せたといわれています。 下関市(解説プレートより)

歌舞伎『義経千本桜』 や能『碇潜(いかりかづき)』では、
平知盛は巨大な碇を担いで最期を迎えます。

身軽な義経は、敵将を道連れにと追う教経(清盛の甥)をかわし、船から
船へと飛び去り(八艘飛び)、さらになんと敵方の船の動きを止めるため、
船を操る漕ぎ手や舵取りに弓を引くよう味方の兵に命じたという。
義経は牛若丸時代にも、京の五条の橋の上で弁慶に襲われ
五条大橋の欄干にひらりと身をかわしたとされています。
牛若丸・弁慶像(五条大橋)  



早鞆の瀬戸に関門橋が架かり、大型貨物船や漁船などが
ひっきりなしに通りすぎていきます。
海岸には、「壇の浦古戦場址」の石碑が建っています。

安徳天皇縁起絵図

第七巻(壇の浦合戦)
長門の国壇之浦の舟いくさが全面に描かれている。
源氏をあざむく為の大きな唐船には、
帝は御乗りにならず多くの兵士がまちかまえている。
 
第八巻(安徳天皇御入水)
寿永四年三月二十四日、源氏平家の最後の戦が画かれ、
画面中央が安徳天皇御座舟、能登守教経に追われて、
逃げる義経の八艘飛び、建礼門院の入水等々こまやかに画かれている。

ロープウェイで火の山(標高268m)公園へ上ると、
展望台から壇ノ浦の全景が見渡せます。
かつて外敵襲来にそなえて、
のろし台が置かれたためにこの名がついたという。

古戦場を見渡すと、まず海峡の狭さに驚きます。
下関から対岸の九州まで手の届きそうな近さです。

ところで、
みもすそ川公園に建つ「御裳川碑」は、
明治34年に有志によって赤間神宮の境内に設置されたもので、
その後、移転を経て、現在地に至るという。








去此地東七丁餘有一小渓流之入海者御裳川是也川者安徳帝崩御之遺跡而滄桑之變
今也歸湮滅我等憂之將建碑傅之于後(一部摩耗していて読み取れません)
因移建于〇亦以鹿幾乎表一〇之徴哀哉 康文書
〇表示できない漢字




壇之浦 東七丁 伊崎王城山 西一里
平家一杯水 東九丁 柳浦内裏 南二里(碑文より)
「壇之浦東七丁」は、赤間神宮から約760mということを示しています。
一丁=約109.09m  
七丁=約760m 一里=約4km

伊崎王城山は、小門(おど)海峡(下関本土と
彦島の間を流れる海峡)の
本土側の山を王城山と呼び、
壇ノ浦で敗れた平家の残党がたてこもったと云われています

赤間神宮小門御旅所(安徳天皇の遺体を仮安置した場所)  
平家の一杯水    柳の御所・御所神社  
『アクセス』
「みもすそ川公園」山口県下関市みもすそ川町1番 
JR下関駅からバスで12分 「御裳川」バス停下車すぐ。
「火の山公園」下関市みもすそ川町
 JR下関駅から火の山行きバス15分「火の山ロープウェイ」下車、
ロープウェイ4分、又は
徒歩30分。(山頂に立体駐車場があります)
火の山ロープウェイは季節運行となります。
お問い合わせ 下関市観光施設課(☎0832-31-1838)
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年

 冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
完訳「源平盛衰記(8)」勉誠出版株式会社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
いのぐち泰子「歩いて楽しむ平家物語」風媒社、2007年
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年

 

 



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下関市の本土と彦島(平家最後の砦の地)を隔てる
小門(おど)海峡沿いに赤間神宮小門御旅所があります。

かつてここには、中島組という漁業を営む一団がありました。
その中島組が寿永4年(1185)の壇ノ浦合戦後、
丸太船四隻に分乗して網で出漁中、
安徳天皇の遺体を網で拾いあげたといわれています。
中島組はすぐに漁を中止し、安徳天皇の遺体を安置しました。
その時に舟をつけたところが「水揚げ場」、
遺体を安置したのが「御浜殿」でした。
現在、「御浜殿」は赤間神宮小門御旅所となっています。

以来、中島家はますます隆盛し、
この地域の漁業権を得ることとなりました。

その後、安徳天皇を弔うために紅石山(べにしやま)麓の
阿弥陀寺(現、赤間神宮)境内に安徳天皇阿弥陀寺陵が造られました。

現在、赤間神宮先帝祭の上臈参拝の際には、中島家一門が
先頭に立ってお参りし、お供えなどを行います。

上臈参拝の翌日(5月4日)に御神幸が行われ、中島家の子孫が
小門御旅所で御神幸の行列を迎えて祭事が行われます。

かつては上臈道中は、安徳天皇の遺骸を網で引きあげたという縁で
伊崎町の中島家から出ていましたが、
今は同町の西部公民館から出発しています。

「第八十一代安徳天皇は寿永四年(1185)三月二十四日
源平船合戦において、平家一門と下関壇ノ浦に入水し給えり。
そのご尊骸はここ小門海峡に流れ着き、
中島組のいわし網に引き上げられしと伝う。
 その後、関門海峡に臨む阿弥陀寺境内(現阿弥陀寺町赤間神宮)に
陵を築き、天皇殿を建立せり。すなわち、この小門の地は先帝祭
御神幸祭お旅所として『先帝祭上臈参拝』の翌日(五月四日)
中島家の子孫賑々しく御神幸祭の行列を奉迎して、
厳粛なる祭事が執行され、今に絶ゆることなし。

 當地伊崎町に中島家と称するあり、傳う云う是れ正しく
平家の遺裔にして、代々名を四郎太夫と称せり、先帝會には古来、
先ずこの四郎太夫参拝し、次に女郎の参拝焼香するを常とす。
 若し中島四郎太夫にして、参拝せざる間は、何人も之を為すことを得ざる
今もこれ然りを、以て其の由緒深きを知るべきなり。
中島家 赤間神宮 建立」(説明板より)

中島四郎大夫正則について、赤間神宮発行『先帝祭』には、
次のように記されています。
「壇之浦に平家滅亡の祭、中島四郎大夫正則(伊崎町、中島家の祖)と
言へる武士郎党を率いて赤間関西端王城山に籠り、再興を謀りしも
機運遂に至らず、漁業を営むに至れり。やがて例年先帝祭御命日には
威儀を正して参拝を続け、今日に至りぬ。」

石碑は風化していて読みとりにくいのですが、
一金七拾圓 伊崎町中島家  一金六拾圓 稲荷廓組合中
赤間神宮 御濱殿地所 
寄附主 小倉喜六衛門 と刻んであるようです。

現在の下関市赤間町・幸町・宮田町1丁目一帯には、
下関屈指の花街があり、そこに
末広稲荷神社があったため
「稲荷町」と呼ばれていました。
源平合戦後、辛うじて生き延びた平家の女官たちが生活のために
ここで遊女になったと伝えられ、稲荷町は格式高い遊郭として栄え、
遊女が座る位置は、上座(客席)に座るのが習わしでした。

先帝祭は、安徳天皇の命日に女臈に身をおとした平家の官女たちが
潔斎して
御陵に詣でたのが始まりといわれ、かつては平家伝説と結び付き
遊女
上臈道中をつとめました。今は下関舞踊協会の人達が行います。

(林雲鳳筆「海の浄土」岐阜県美術館蔵 
「図説・源平合戦人物伝」より転載。)
どこに連れていくのかと尋ねる幼い帝に二位尼は、「あの波の下にも
極楽浄土という都がございます。」となぐさめて波間に消えたのでした。
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓  
先帝祭・しものせき海峡まつり  
壇ノ浦合戦(安徳天皇入水)  
『アクセス』
「小門御旅所」山口県下関市伊崎町2-9-16
JR下関駅からバス2分「竹崎」下車、徒歩約10分
 JR下関駅から西へ徒歩約15分
『参考資料』
「赤間神宮略記」赤間神宮 「先帝祭」赤間神宮
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
中石孝「平家れくいえむ紀行」新潮社、1999年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 

 

 



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赤間神宮は文治元年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れ、
わずか八才で入水した安徳天皇を祀っています。
その遺骸は紅石山(べにしやま)麓の阿弥陀寺に葬られ、
その後、建久2年(1191)に後鳥羽天皇は御影堂を建立し、
阿弥陀寺を勅願寺としました。

江戸時代までは真言宗の寺で聖衆山阿弥陀寺と称していましたが、
明治の神仏分離令によって赤間宮となり、
昭和15年(1940)官幣大社となって赤間神宮と改称されました。





竜宮の城門のような水天門から拝殿まで臨時に
天橋(てんきょう)が設置されています。これは今日5月3日に行われた
先帝祭で女臈(太夫)、稚児たちが練り歩いた花道です。

二位の尼(時子)が安徳天皇を抱いて入水する際、
どうして海に飛び込むのかと訝る幼い天皇に
「波の下にも都の候ふぞ(波の下にも都があるのですよ)」と、
身をひるがえしたのでした。
水天門はその願いを写したものといわれています。



門前には国道9号線が通り、目の前に関門海峡が広がっています。


大安殿(外拝殿)の中に入ると、廻廊の中には水が張られ、
能舞台、奥に唐破風内拝殿、その背後に神殿(見えませんが)があり、
海の都を模した宮殿かと思わせる美しさです。








安徳天皇阿弥陀寺陵は水天門の西、白塀に囲まれた中にあります。




陵墓は円墳です。

赤間神宮神殿(本殿)左手には、水天供養塔が三基並び、
そのむこうに芳一堂があります。


水天供養塔の由来
安徳天皇は御位のまま御入水され水天皇・水天宮と申し上げます。
吾が国民は天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。
同時に亦国民同胞の中に或は海難に水難にと幾多の水歿者の方々は
即ち水天皇さまの御膝元に冥りたく、
此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。
人は名を留むる事に依り安心を得るもので
即ち是を水天供養塔と申します。
 一.昭和二十五年三月建立 二.今次大戦中水歿者霊位 


昭和32年に造営された芳一堂には、琵琶法師耳なし芳一の木像
(山口県防府市出身の彫刻家、押田政夫作)が祀られ、
平曲を語っています。

明治の文豪、小泉八雲はここを舞台に
『怪談』(耳なし芳一)を書きました。



耳なし芳一の由来
 その昔、この阿弥陀寺(現・赤間神宮)に芳一という琵琶法師あり。
夜毎に平家の亡霊来り。いづくともなく芳一を誘い出でけるを、
ある夜番僧これを見、あと追いければ、やがて行く程に平家一門の墓前に端座し、
一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す。
あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛び往うあり。
その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり。
さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き、
こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとはするぞ、とて
自ら芳一の顔手足に般若心経を書きつけけるほどに、
不思議やその夜半、亡霊の亦来りて芳一の名を呼べども
答えず見れども姿なし。暗夜に見えたるは只両耳のみ、
遂に取り去って何処ともなく消え失せにけるとぞ。
 是より人呼んで耳なし芳一とは謂うなり。

芳一堂の横に白壁の築地塀があり、
「平家一門之墓」と刻んだ石標が建っています。
山陰となっている墓地周辺は、
昼間でも薄暗く気味の悪い場所です。

平家一門の供養塔で、平有盛や平清経など14人の名が刻まれ、
名前に「盛」のつく塚が多いことから七盛塚ともいわれています。

あちこちに散らばっていた塚が集められたもので、江戸時代初期の建立です。

前列
 左少将 平 有盛(重盛の子) 左中将 平清経(重盛の子)
右中将 平 資盛(重盛の子) 副将能登守 平 教経(清盛の甥)
参議修理大夫 平 経盛(清盛の弟)大将中納言 平 知盛(清盛の子)
参議中納言 平 教盛(清盛の弟)
後列
伊賀平内左衛門家長(知盛の乳母子)
上総五郎兵衛忠光(藤原忠清の子で平景清の兄)
  飛騨三郎左衛門景経(宗盛の乳母子で飛騨守景家の子) 
飛騨四郎兵衛景俊(景経の弟)越中次郎兵衛盛継(平盛俊の次男)
 丹後守侍従平忠房(重盛の子) 従二位尼 平時子(清盛の妻)

2列に並ぶ14基の自然石の背後には、一石五輪塔がいくつもあります。
都から平家につき従ってきた女官や名もない兵たちの石塔でしょうか。
この墓所と地つづきの紅石山に散在していた五輪塔といわれています。

『ホトトギス』の下関同人らの手により、昭和30年に10月に建てられた
「平家一門之墓」の塀ぎわにある高浜虚子の句碑です。
昭和3年に虚子が赤間宮に詣でた際、
♪七盛の 墓包み降る 椎の露 と詠みました。

赤間神宮   

御祭神 第八十一代 安徳天皇    御祭日 五月三日先帝祭   十月七日例大祭
 寿永四(一一八五)年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる
御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 
昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し
同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 
同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ
御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり

  水天門記
惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は率先多額の
御寄進に加えて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市政七十周年大博覧会
開催の秋 吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み
 水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の
  今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは
に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも 
昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり
赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
 みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり
  
太鼓楼記
 水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長靖原梅義氏は本宮
崇敬会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を 迎うるや
本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ
平成二年一月二十七日元旦を期し見事に竣成す 
蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる
 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡にわたり 国家鎮護世界平和の響き
四海に満ち水天皇の神威愈を光被せむ
 
 水天門 掲額の記
 神門楼上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は
寛人親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ
安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと
思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。
  御神宝類
重要文化財   平家物語長門本  全二十冊
重要文化財   赤間神宮文書      全十巻一冊
山口県文化財  安徳天皇縁起絵図    全八幅
       平家一門画像      全十幅
     源平合戦図屏風 一双ほか宝物殿にて適時公開す
先帝祭・しものせき海峡まつり 
赤間神宮小門御旅所(安徳天皇の遺体を仮安置した場所)  
壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)  
『アクセス』
「赤間神宮」〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−1 
電話: 083-231-4138
JR下関駅からバス10分→ 「赤間神宮前」バス停下車すぐ。
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年 「赤間神宮略記」赤間神宮 
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
日下力監修「平家物語を歩く」講談社、1999年 

 

 

 



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毎年、5月2~4日の3日間にわたり「先帝祭」が赤間神宮で行われます。
この祭りは、関門海峡に入水した安徳天皇の御霊(みたま)を慰めるために、
女臈に身をおとした平家の官女たちが安徳天皇の命日に
御陵を参拝したという故事によるものです。
これにあわせて5月3日に「しものせき海峡まつり」が催され、
赤間神宮・関門海峡一帯を彩る歴史絵巻が華やかに繰り広げられます。

新型コロナウイルス感染防止のため、令和2年5月に開催予定だった
このまつりは中止されることになりました。
10年近く前に行われた先帝祭・下関海峡まつりの画像を掲載します。

先帝祭については、古くから伝わる歌謡に
「関の先帝 小倉の祇園 雨が降らなきゃ金が降る(風が吹く)」 と
いわれるほど、下関で最もにぎわう祭りです。
稚児・警固(けご)・禿(かむろ)・女臈(太夫)たちが
下関市内を上臈道中と称し、外八文字(そとはちもんじ)を
踏みながら練り歩いて赤間神宮に到着し、臨時に架けられた
天橋(てんきょう)の上を通って女臈が参拝するというものです。


会場周辺は多くの人々で賑わっていました。

郷土芸能「平家踊り」を伝承する八音会(はっとんかい)
 下関平家おどり保存会




竜宮城を模した水天門から拝殿まで、華やかな衣装をまとった
5人の太夫の道行きは、絢爛豪華な絵巻を思わせます。









先帝祭の由緒
壇ノ浦に平家滅亡の際、中島四郎太夫正則(伊崎町、中島家の祖)という武士、
安徳天皇の御遺骸を奉葬し、郎党を率いて赤間関西端王城山に籠もり、
再興を諮ったが機運遂に至らず、漁業を営むに至り、やがて例年
先帝御命日には威儀を正して参拝を続け今日に至っているものです。

また、数多の女官上臈達、赤間関在住の有志に助けられ、
山野の花を手折っては港に泊まる船人に売り生計を立てるに
毎年先帝御命日を迎える毎に閼伽を汲み、香花を手向け、
威儀を正して礼拝を続けたものが上臈参拝の源です。

爾来連綿と続いてきたこの礼拝はさらに発展し、
官女に警固、稚児が従い、上臈に禿(かむろ)の随う
美しい列立は遠く平安の昔、宮中で舞われた五節舞姫の形に倣い、
絢爛豪華な外八文字道中は実に天下の壮観として観者に固唾を
呑ましめ将に西日本唯一の行事と称えられおります。(無形文化財指定)
赤間神宮発行「先帝祭」より一部転載。

上臈参拝後、神楽奉納。




5月3日の先帝祭にあわせて、海峡まつりが開催されており、
この中で源氏と平家の最後の戦いを再現した源平船合戦も行われています。
海上パレードが始まるころ、急に雲行きが怪しくなり、
今にも雨が降り出しそうになりました。


紅白の旗や幟をたなびかせて、鎧武者や官女に扮した人たちが
乗り込んだ80隻あまりのいくさ船(漁船)が関門海峡で
壇ノ浦合戦の模様を再現しパレードします。









弁慶や義経、静御前もいますよ。


このパレードの模様は唐戸地区の
ボードウォーク(唐戸市場横)より一望できます。

姉妹都市ひろば特設ステージ・源平ドラマページェント(野外劇)

『しものせき海峡まつり』の開催場所は
「姉妹都市ひろば・赤間神宮など市内各所」です。

先帝祭5月3日 9:30~11:30
上臈道中外八文字披露 伊崎町西部公民館~唐戸商店街 
10:00~12:30 本殿祭・奉納行事 赤間神宮
13:00~15:00 上臈参拝 赤間神宮

源平船合戦(海上パレード) 5月3日11:15~11:55
唐戸沖~赤間神宮沖を周回

源平まつり5月3日 9:30~17:00
 姉妹都市ひろば特設ステージ
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓  
『アクセス』
「赤間神宮」〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−1 
電話: 083-231-4138
JR下関駅からバス10分→ 「赤間神宮前」バス停下車すぐ。
「姉妹都市ひろば」は、赤間神宮のすぐそばです。
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年 「先帝祭」赤間神宮







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鹿ヶ谷の平家討伐の陰謀は多田行綱の密告によって発覚し、
関係者は次々に捕えられました。この謀議に加わった平康頼は、
俊寛と藤原成経とともに鬼界ヶ島へ配流となります。
瀬戸内を船で下る途中、しけにあって周防(山口県東部)の
室積の浦に泊まり、康頼は近くの小寺で
住職の活堂和尚によって仏道に入りました。

昔この寺は、入道寺とか性照(しょうしょう)庵と呼ばれていましたが、
江戸時代に海音山潮松庵と改められ、その後、
明治の廃仏毀釈で普賢寺に合併され、廃寺となっています。
現在、峨眉(がび)山の麓、峨眉山普賢寺(臨済宗)の
境内に平康頼の歌碑が建っています。

普賢寺は播磨国の書写山円教寺の性空(しょうくう)上人開基とされ、
室積湾を見下ろす山中にありましたが、室町時代後期に
現在地に移され天台宗から臨済宗にかわったという。
本尊普賢菩薩には、性空が室積の海から引き揚げたという伝承があり、
古くから「海の守護仏」として広く信仰を集めてきました。
江戸時代には、毛利家の祈願所として寺領9石5斗、俸禄(ほうろく)米
5石を支給され、藩直営の普請寺として格式の高い寺でした。

毎年、性空上人の命日にちなむ5月14・15日の普賢祭には、
盛大な露店市がたち、多くの人出で賑わいます。


JR山陽本線光駅

漁民や航海者の信仰が篤く、かつては船での参拝が多く見られ、
参道は海に向かって東面しています。



参道にたつ常夜灯 

 波静かな室積の浦 

仁王門をくぐると、平康頼と性空上人の石碑が五基並んでいます。
平康頼の碑と歌碑(碑に刻まれた文字は風化してしまって読みとれません)


萩藩主毛利吉就(よしなり)が性空上人の事績を偲び墓石と石碑を建立しました。

歌碑には「平判官康頼於此地 出家法名性照
終にかく 背きはてけむ世の中を とく捨ざりしことぞかなしき」と刻まれています。
(平家物語の中では、最後の一節「かなしき」が「くやしき」となっています。)
 
性空上人の墓と平康頼の歌碑背面

康頼の歌碑は潮松庵に建っていましたが、
潮松庵が廃寺になると、現在地に移されました。
この碑はいつしか3つに折れてしまったので、津村精一氏が発起人となり
大正13年(1924)に再建されました。
歌碑の背面にその再建由来記が刻まれています。


折れた歌碑が碑の後側に置かれています。



ボランティアガイドさんに潮松庵は、普賢寺墓地の
井戸辺にあったと教えていただきました。

墓所はバス道を隔てて、境内の向かい側にあります。




潮松庵があったという井戸の辺
 
周防の室積で出家し、法名性照(しょうしょう)と改めた康頼は、
♪つひにかくそむきはてける世の中を とく捨てざりしことぞくやしき
(こうして結局出家してしまう身を、なぜもっと早く
出家しなかったのだろうかと悔やまれることだ。)と出家して
安心が得られた思いを詠んでいます。
(『平家物語・巻2・三人鬼界ヶ島に流さるる事』)

本尊普賢菩薩が安置されている普賢堂
 時間がなくて拝観できませんでしたが、普賢堂の南方に本堂があり、
雪舟作と伝えられる枯山水の庭園(県指定名勝)があります。 

  さて平氏打倒の謀議に加わったのは、藤原成親をはじめとし、
西光、近江中将入道蓮浄、法勝寺の俊寛、山城守基兼、
式部大輔(しきぶのたいふ)雅綱(まさつな)、平判官康頼、
新平判官資行(すけゆき)などの顔ぶれでした。 
首謀者でもない康頼が遠く南海の孤島・鬼界ヶ島(きかいがしま)へ
流罪となったのは、『源平盛衰記・巻7』によると、
次のような理由だったとしています。

鹿ケ谷の山荘に故信西の息静憲法印をお供に後白河法皇が訪れた時、
宴の席で静憲は平氏討伐の謀を初めて聞き、「用心なさいまし、
このことが漏れたら大事件になります。」と騒いだので、
藤原成親は顔色を変え、思わず立ち上がった拍子に、
酒を入れる瓶子(へいじ)を袖に引っかけて倒してしまいました。
法皇が「何としたことか。」と尋ねると、成親は
「事の始めに平氏(瓶子)が倒れました。」と答えたところ、宴会は
大いに盛り上がり、法皇は悦にいって「猿楽を舞え」と命じます。
猿楽とは物真似などの滑稽な芸のことです。

すると平康頼が法皇に近づき、「この頃、あまりに瓶子(平氏)が
多いので酔ってしまいました。」とおどけ、俊寛がすかさず
その言葉を受けて、「さてその瓶子(平氏)をどうしましょうか。」と
煽り立てます。今度は西光法師が「ならば瓶子(平氏)の首を
とるのがいいでしょう。」と言って瓶子(平氏)の首を折り取ったという。
康頼は折れた首を持って大路を渡すように広縁を三度廻り、
「獄門の栴檀(せんだん)の木に懸ける」といいながら、
それを大床の柱の烏帽子掛けに結びつけました。
清盛はこれを聞いて従犯にすぎない康頼を重く処罰したという。

芸達者な後白河法皇の側近たちが平氏を馬鹿にしている様子や
芸能狂いといわれた法皇の一面がよく描かれている有名な場面です。

 なお、『平家物語』は周防の室積で出家したと語っていますが、
『源平盛衰記・巻7』は、康頼出家の地を摂津小馬林としています。
その一節をご紹介します。
「康頼は都を出て配所に向かいましたが、
小馬林(こまのはやし)を通る時、こう読みました。
♪津国や こまの林を きてみれば 古は いまだ変わらざりけり
(摂津の国の小馬の林まで来てみれば、昔の面影が今も変わらずに残っている)
やがてここで出家し、法名を性照といいました。」

小馬林とは現在の神戸市長田区駒ヶ林で、寿永の頃までは
小島を形づくっていたため、小馬島といいました。
一ノ谷の戦いで敗れた平氏の多くが沖に待機する船へと逃れたところです。
駒ヶ林めざして落ちて行く途中、岡部六弥太忠澄の郎党に討たれた
平忠度の腕塚が神戸市長田区駒ヶ林にあります。
『アクセス』
「普賢寺」山口県光市室積八丁目6-1 TEL: 0833-79-1223 
 JR光駅からバスで約30分(室積公園口行き)「室積公園口」下車すぐ
バスの本数が少ないのでご注意ください。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年 
 「完訳源平盛衰記(1)(2)」勉誠出版、2005年
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
神戸史談会編「源平と神戸福原遷都から800年」神戸新聞出版センター、昭和56年



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