平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




渋谷駅近くの金王八幡宮には、金王丸を祀る金王丸御影堂があります。
金王丸(こんのうまる)は源義朝の童(貴人に仕える元服前の子供)として、
義朝のそば近くに仕え、義朝の死後は出家し、
諸国を行脚し主の菩提を弔ったとも、土佐坊昌俊(しょうしゅん)と
名を変え頼朝に仕えたともいいますが定かではありません。

土佐坊昌俊は頼朝と弟の義経が対立した時、頼朝の命を受け
御家人の誰もが嫌った義経暗殺の刺客となって京都に上り、
義経の堀川館を夜討ちにしましたが、返り討ちにあい逃げ込んだ
鞍馬山で、義経の郎党に捕らえられ六条河原で処刑されました。
これは後に幸若舞曲『堀河夜討』の題材となり、長谷川等伯は70歳の時、
北野天満宮奉掛の『弁慶昌俊相騎図(そうきず)絵馬』
(土佐坊昌俊を引き立てる弁慶)を描いています。

東国へ落ちのびる義朝主従(大和文華館蔵)
 『平治物語絵詞』より転載。  一行のしんがりをつとめる金王丸

義朝は平治の乱で敗走の途中、尾張国野間の重代の家人
長田忠致(ただむね)を頼りますが、長田父子の裏切りにあい
湯殿で討たれました。金王丸は預かっていた主君の太刀で下手人の
郎党二人を切殺し、忠致を追いましたが逃げられ、庭の馬を奪って
上洛し、常盤御前に義朝の最期を事細かに報告しています。
その後、悪源太義平が生け捕られて処刑され、頼朝は敗走途中、
義朝一行から落伍した後、美濃国青墓宿で頼盛の郎党、
弥平(やへい)兵衛宗清に捕えられ都に連行されます。

こうした状況を受け、常盤御前は三人の子供たちを連れて
身をかくそうと都を落ちていきます。

社殿の右手にある社務所で金王丸の絵馬をお願いすると、
「ちょっと年をとっているのですが」と
申し訳なさそうに言いながら出してくだったものです。
土佐坊昌俊(土佐坊昌俊邸址)  

平安時代末期から鎌倉期にかけて、渋谷の地を支配したのは、
相模渋谷荘(現、神奈川県綾瀬市付近)を本拠とした渋谷氏です。
寛治6年(1092)、渋谷氏の祖河崎基家(渋谷重家の父)が
後三年の役の功により、谷盛(やもり)庄(現、渋谷付近)を
賜った折り、現在の金王八幡宮付近に渋谷城を築き、
重国(重家の子)の次男高重が宇佐八幡を勧請し、
城内に渋谷八幡宮を創建しました。(『金王八幡神社略記』)
のち金王丸の名声により
金王八幡宮と称するようになったという。

金王丸は『金王八幡宮社記』によると、重家の子とされていますが、
相模国渋谷氏の系図は、金王丸を重家とするもの、
重家の子の重国とするもの、重国の弟や重国の子とするものなど
数多くあり、金王丸が実在の人物であったのかどうかも
明らかではありません。

江戸時代になると、金王丸を題材にした謡曲、浄瑠璃、
歌舞伎、義太夫などの芸能・文芸作品が流行し、
金王八幡宮は江戸庶民の遊興地として賑わいました。

斎藤実盛の本拠地長井庄(現、埼玉県熊谷市妻沼町)の帰り、
2018年11月3日、金王八幡宮に参拝しました。
11月に入り、日が落ちるのが早くなり、さらに渋谷駅に着く頃には、
雨が降り始めてうす暗くなってきました。

江戸名所図会 金王八幡社(第31図)   『江戸切絵図と東京名所絵』より転載

「金王神社前」交差点の先に表参道の大鳥居が立っています。



石段を上った鳥居の先が神門です。

祭神は、応神天皇 (品陀和気命=ほんだわけのみこと)、
創建は平安時代中期の寛治6年(1092)です。
現在の社殿と神門は、徳川家光が世継に決定した時、
家光の乳母春日局と養育役であった青山忠俊が報恩のため造営しました。
ともに渋谷区有形文化財の指定を受けています。


社殿の右手にある金王桜は長州緋桜という種類で、
一枝に一重と八重が混ざって咲く珍しい桜です。


当八幡宮の『社傳記』によれば、文治5年7月7日(1189)源頼朝が
藤原泰衡退治の凱陣の折り、渋谷高重(重国の次男)の館に立ち寄り
当八幡宮に太刀を奉納された。その際金王丸御影堂に親しく参られ、
父義朝に仕えた金王丸の誠忠を偲び、その名を後世に残すべしと厳命、
鎌倉亀ケ谷の館にあった憂忘桜(うきわすれさくら)をこの地に移植させ
金王桜と
名付けられたとされる。また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介され、
江戸三名桜の一つと数えられた。金王桜は、現在に至るまで実生により
育て植え継がれている。  (渋谷区指定天然記念物


金王桜の傍には、弟子たちに建立された芭蕉の句碑があります。
♪しばらくは 花のうえなる 月夜かな 
(満開の桜の上に月が上った。しばらくは月下の花見ができそうだ。)



金王丸御影堂  祭神:渋谷金王丸常光 
金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し
母に形見として残した木像が納められています。



金王丸の木像 金王八幡宮HPより転載
3月最終土曜日に催される金王丸御影堂例祭(金王桜祭)で開帳されます

境内の西側にも参道と鳥居があり、その脇に案内板がたっています。







社殿横の神楽殿 神楽殿手前にある玉造稲荷神社

渋谷金王丸の墓(神奈川県綾瀬市長泉寺)  
『アクセス』
「金王八幡宮社務所」 Tel.03-3407-1811 Fax.03-3409-1043
東京都渋谷区渋谷3-5-12 
例祭 9月14日

JR・東京メトロ・東急東横線・田園都市線・京王井の頭線
「渋谷駅」16C出口より徒歩5分
『参考資料』
「郷土資料事典」ゼンリン、1997年 「東京都の地名」平凡社、2002年 
 「平治物語絵詞」中央公論社、1994年 
日下力「古典講読シリーズ 平治物語」岩波書店、1992年
 日下力「平治物語の成立と展開」汲古書院、1997年 
 「江戸切絵図と東京名所絵(金王八幡社・第31図)」小学館、1993年
「金王八幡宮参拝の栞」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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二条城の南に位置する神泉苑(国史跡)には、雨乞いの儀式で舞を奉納していた
静御前を義経が見初めたという伝説が残っています。

「後白河法皇は神泉苑の池の畔で、白拍子に雨乞いの舞を舞わせました。
その時、静は水干太刀烏帽子の舞姿を義経に見初められ六条堀川の
屋敷に召されたという。」(『義経記・巻6・静の鎌倉くだり』)

静が義経の側室となったきっかけについて、五味文彦氏は
次のように述べておられます。「白拍子の磯禅師(いそのぜんじ)は
白拍子を育成し、派遣する京のセンターのような仕事をしており、
その娘である静は、センターの一員でもあることから義経に召され、やがて
妾(しょう)になったものと考えられる。」(『物語の舞台を歩く義経記』)

『徒然草』225段には、楽人の多久資(おおのひさすけ)から聞いたという
白拍子舞の起源が語られています。「藤原通憲(信西)がつくった舞を
舞の名手磯禅師に教えて舞わせた。白装束に鍔(つば)のない短刀を腰に差し、
黒烏帽子という姿で演じたので男舞と呼んだ。娘の静が母の舞を
引き継いだのだ。これが白拍子の始まりである。
後鳥羽院作の台本もあり、それを亀菊という芸妓に舞わせた。」
信西は後白河天皇の腹心として保元の乱で活躍しましたが、
平治元年(1189)の平治の乱で処刑されています。
亀菊(伊賀局)は後鳥羽院に寵愛された舞女で、
この寵愛が承久の乱の引き金になったとされ、乱後、
亀菊は隠岐の島に配流された後鳥羽院につき従っています。

神泉苑は平安京造営のとき、湖沼の一部を利用して
禁苑(きんえん)にしたところで、つねに池の湧水が涸れることが
なかったところからこの名がつけられました。
禁苑とは天皇御遊の庭園のことで、桓武天皇がはじめて行幸して以来、
歴代天皇の多くがここに行幸し華やかな宴が開かれました。

その面積は約13万㎡もあり、北は二条通より南は三条通まで、
東は大宮通より西は壬生大路に面した南北四町(400メートル)、
東西二町(200メートル)にわたる広大なものでしたが、
今は4400㎡ほどしかありません。

平安末期以降衰退し、さらに南北朝の戦乱や応仁の乱で荒廃し、
徳川家康が二条城を築城の際、多くの地を割き取ったので、
往時の面影はまったく見られなくなり、今は真言宗東寺派の寺院として
命脈を保っています。これはむかし弘法大師が
雨乞い祈願をしたという縁によるものです。
また、疫病流行の原因を怨霊(おんりょう)によるものと考え、その霊を
鎮めるために行われたのが現在の祇園祭の発祥となる神泉苑御霊会です。

平成21年5月3日の夕方静御前の舞が奉納されました。












境内図は竹村俊則画(『昭和京都名所図会』より転載、一部文字入れしました。



朱色の法成橋と法成池とのコントラストが美しい神泉苑の桜

御池通に面した南側から入ると、正面に法成池(放生池)が広がり、
右手に空海が雨乞いの際に勧請した善女龍王を祀る善女龍王社と恵方社があります。

長元年(824)の大干魃の時、東寺の弘法大師が祈雨の修法(ずほう)を
神泉苑で行って以来、次第に祈雨の霊場となり、
善女龍王の棲家になったと伝えられています。



毎年5月初めの神泉苑祭には、水の神である善女龍王社に
神の依代(よりしろ)として鉾が立てられています。

法成池の周囲には、藤やツツジなどの四季折々の花が見られ、
参拝者を楽しませてくれます。

弁財天社
その右奥にある八剱(やつるぎ)大明神社










 

法成池と龍頭船(りゅうとうせん)
平安時代に貴族が池に浮かべ、詩歌管絃(しいかかんげん)の遊びに
興じた龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の船が再現されています。

蕪村の句碑 ♪名月や神泉苑の魚おどる 

静御前と鎌倉(静の舞・静桜)  
『アクセス』

「神泉苑」京都市中京区御池通神泉苑東入門前町167 TEL  (075)821-1466
神泉苑祭 拝観料……境内自由 
 庭園拝観時間:8:30~20:00  寺務所(授与所・御朱印):9:00~17:00

 ・阪急四条大宮駅より徒歩10分  ・JR二条駅より徒歩10分
  ・JR京都駅→地下鉄→地下鉄東西線「二条城前駅」下車徒歩2分
  ・市バス15 「神泉苑前」 からすぐ ・市バス9、50 「堀川御池」 から徒歩5分

『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛中)」駿々堂、1984年 
「京都府の歴史散歩(上)」山川出版社、1995年 「徒然草」岩波書店、2001年 
五味文彦「物語の舞台を歩く 義経記」山川出版社、2005年 
高木卓訳「義経記」河出書房、2004年


 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 



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摂津国一之宮の住吉大社は、全国の住吉神社の総本社です。
摂社として祀られている大海(だいかい)神社は、
(おおわたつみ神社)ともいい、住吉の別宮、
住吉の宗社と
称えられた社で、古代の祭祀においても重要視された社です。

祭神は豊玉彦命(とよたまひこのみこと)とその娘豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。
豊玉彦命は海神(綿津見神=わたつみののかみ)ともいい、
日本神話の海の神で、海幸彦山幸彦の神話に登場する海宮の竜王です。

住吉大社は、大阪市およびその周辺地域で最も神威が高く、
また古事記や日本書紀に鎮座由来の神話を載せる唯一の神社です。
『記紀』には、住吉三神が現れる神話が二度載せられています。
一つはイザナギノミコトが死者の国の黄泉国から現世に戻り、
死の穢れの祓いを行った時、住吉三神は海の神
綿津見(わたつみ)三神と一緒に生まれたとされています。
次に住吉三神が登場するのは神功皇后の新羅遠征伝承に関わるもので、
神功皇后は住吉三神の助けによって新羅を征服したとされています。

三神を奉じて凱旋の帰途、神功皇后への託宣により、田裳見宿禰(タモミノスクネ)が
神の教えのままに三神を現在の住吉大社の地に祀ったと伝えられています。
田裳見宿禰は、住吉大社歴代神主の津守連(津守氏)の祖とされています。

津守連(むらじ)は本来港を守る伴造(とものみやつこ)、
つまり港津の管理に携わり、支配下にある
部民(べみん)を率いてヤマト王権に奉仕する豪族でした。

大海神社は、代々住吉大社の神官を務める津守氏の氏神であるというのが
研究者のほぼ一致した見解ですから、津守氏は住吉大社とは、
直接の関係はなかったことになります。住吉大社の大きな特徴は、
特定の氏族の氏神という性格が全く見られないことです。

住吉大社と王権との結びつきは社殿様式にも見られます。
本殿が大嘗祭(即位儀礼の一環として即位後に行われる新嘗祭)の時に
造営する大嘗宮正殿の様式に類似していることです。
 大嘗宮正殿の様式は、古代中国建築様式の影響を受け、
これが住吉大社本殿の様式に投影したと考えられています。
全国の神社の中でもこのような例は他に全く見られないものです。

本殿の住吉造り   
本を開いて伏せたような形をした屋根の切妻(きりづま)造り、
屋根のない妻側を出入口とした妻入(つまいり)
形式です。
内部は前後二室に分かれています。

海神の代表格ともいえる住吉の神は、航海安全の神、海に生きる人々を守る神でした。
この神は安曇磯良(あずみいそら)の伝承との関りもみえます。
安曇磯良は、神功皇后の三韓征伐の際、龍宮から潮の干満を左右する
干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)の宝をもちかえったという海底の神です。
『記紀』で語られる数多くの神話や伝説は、
今も各地の史跡や祭りなど人々の生活の中に生きています。

海幸山幸の神話は、誰もが一度は聞いたことのある物語です。
「兄の海幸彦は海で漁をし、弟の山幸彦は山で狩猟をして暮らしていました。
ある日、兄弟は釣り針と弓矢を交換して海幸は山へ、
山幸は海へ出かけましたが、弟は魚に釣り針をとられてしまい、
代わりのものを作って返しましたが、兄は許してくれません。

途方にくれ山幸が海辺にたたずんでいると塩椎(しおつち)神が現れ、
山幸を小船に乗せ海神(わたつみのかみ)の宮殿に行かせました。
そこで海神の娘豊玉毘売と出会い結ばれました。
幸せな3年間の生活が過ぎたころ、山幸彦はふと釣り針のことを思い出し、
海神の助けを得て鯛の喉から釣り針を見つけ出し、
ワニの背に乗って地上に帰りました。そして海神に授けられた
潮を操る霊力を持つ塩満(しおみつ)珠と塩乾(しおふる)珠の
呪力によって兄を屈服させました。

異界に出かけてその世界の神の娘を妻とし、異界の呪物を
手に入れて地上に戻り、兄を服属させるという展開は、九州南部に
勢力を張り長く王権に従わなかった隼人(はやと)を海幸彦とし、
それをヤマト朝廷側の山幸彦(=ホホデミノミコト)が屈服させる。
すなわちヤマト朝廷が隼人族を支配することの起源神話となっています。

『古事記』の神話はここで終わり、ホホデミノミコト(山幸彦)の孫、
初代天皇の神武天皇が即位し、物語は神々の時代から
人の時代へと移り、天皇家の歴史物語が始まります。

大海神社は広い境内の北隅、住吉大社の反(そり)橋を渡り、
本殿に向かって左手、末社種貸社のすぐ近くにあります。



種貸社は種を授かり豊穣を祈る信仰でしたが、
時代とともに
商売の元手や子宝祈願の信仰に発展し、
全国各地より多くの参詣者が訪れています。



大海神社社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ、 山幸彦が海神(わたつみの神)より
授かった 潮満(しおみつ)玉を沈めたところと伝えられています。


西門

大海神社本殿
本殿その背後の渡殿・幣殿と参道入口の西門は、重要文化財に指定されています。

『玉葉』承安4年(1174)12月6日条によれば、大海神社神殿は
天仁・長承・仁平・承安とおよそ20年ごとに改築が行われたことが記されています。
本殿の神額、住吉鳥居の向こうに扉絵
扉絵は金箔張りで松と住之江
を千石船が走る様子が描かれています。

古来、住吉の神は海の神、和歌の神として広く朝野の信仰を集め、
「住吉の松」は歌枕として都人の憧れの対象となり、
京の貴族がしばしば参詣し和歌を献じています。
住吉社は物語の中にも現れ、『源氏物語』澪標の巻では、
光源氏の住吉詣が華麗なタッチで描かれています。
中世には熊野詣の途上に多くの人々が訪れ、
住吉明神は謡曲『高砂』や『一寸法師』の中にも登場し、
『高砂』では、高砂の松と住吉の松とは相生の松、
離れていても夫婦であるとしています。

『参考資料』
「新修大阪市史(第1巻・第4章・河内政権と難波)」大阪市、昭和63年
「大阪府地名」平凡社、2001年
「歴史と旅(古事記神話の風景)」2001年8月号、秋田書店
佐藤高「古事記を歩く」光文社、2000年 
「古事記と日本書紀」青春出版社、2005年 
「古代の三都を歩く難波京の風景」文栄堂、1995年
新潮日本古典集成「謡曲集(中)」新潮社、昭和61年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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院政期以降、熊野全体が浄土の地
(仏や菩薩が住む災や悪行のない国土)であるとみなされるようになり、
京の皇族・貴族たちは、生きながらにして行ける浄土をめざして歩きました。
浄土信仰の広がりにともない、鎌倉時代以降は武士の参詣も増加し、
やがて熊野信仰は庶民にも浸透し、熊野街道は「蟻の熊野詣」といわれるほど、
多くの人々の往来で賑わいました。

渡辺の津(現、大阪市天満橋付近)から熊野までの街道沿いには、
その数の多さから「九十九(くじゅうく)王子」とよばれる
神社が置かれました。そのうち住吉には
津守王子社が大阪市立墨江小学校付近にあったとされています。
大阪市立墨江小学校

熊野参詣は、平氏や源氏の武将も盛んに行いました。
特に有名なのは、平治元年(1159)12月の平清盛の熊野詣です。
保元の乱で勝利をおさめた信西(藤原通憲)・清盛と源義朝・藤原信頼は、
その後二つに分かれて対立し、義朝らは清盛が熊野詣のため、
都を留守にした機会をとらえ信西を殺害しました。平治の乱です。

清盛がこの時にとった熊野詣のルートは、淀川からの船を渡辺津で降り、
四天王寺・住吉間の阿倍野を通過し、海沿いの熊野街道を
紀伊国の田辺の北の切目王子まで進んでいました。
そこから海岸を下り田辺まで行き、山に入ると熊野本宮に至ります。
清盛一行が切目王子にいたところへ六波羅からの早馬が
追いついて事件を知らせました。一行は物詣とあって
ほとんど武装していない上、わずかな供を連れていただけです。

これを救ったのが紀伊国の武士湯浅宗重(むねしげ)と
熊野別当湛快(たんかい)です。
湯浅氏は熊野参詣路を管理して台頭した一族で、
この一族から後に文覚の弟子になる
上覚(じょうかく)や明恵(みょうえ)がでます。

宗重は都に引き返そうとした清盛に37騎もの武士を提供して
六波羅入りを助けました。この時、甲冑7領と弓矢を清盛に渡し
協力した湛快と源為義の娘である丹鶴姫(鳥居禅尼)との間に
生まれたのが湛増(たんぞう)です。

『平治物語』によると、熊野から引き返す清盛一行を阿倍野
(大阪市阿倍野区)で源義平が待ち受けているという噂があり
一行は恐れをなしますが、そこへまた早馬がやってきて噂はデマで、
実は伊勢の郎党たちが駆けつけて待っているのだと知らせました。
都での激しい合戦のすえ源氏軍は敗北し、平氏政権が誕生しました。

阿倍野に残る阿倍野王子社跡
清盛の腹心の郎党たちが、帰京する清盛一行を
この辺りで待ち受け合流したという。


 
住吉大社の東門から南海電鉄「住吉東駅」の方へ向かうと、
住吉村常盤会館(住吉区住吉2-6-12)の壁に
「住吉附近図」のプレートが架かっています。





住吉大社を挟むように紀州街道、熊野街道、住吉街道が延びています。
大阪と和歌山を結ぶ紀州街道、 住吉街道は、住吉大社付近で紀州街道から東に分岐し、
住吉大社を横切り現在の長居交差点に至る道筋です。
この図にしたがって熊野古道を止止呂支比売命
(とどろきひめみこと)神社まで歩きました。

東門の近くにあるのが葬儀社芋忠本店(住吉1ー11-1)

 
熊野街道と住吉街道が交差する角地に建つ「住之江味噌」の池田屋、
住吉大社の高灯篭を模したミニチュアが屋根に掲げられています。

大阪市内には熊野街道沿いのところどころに「熊野かいどう」の道標があります。
側面には「八軒家浜から十キロメートル」と刻まれています。

 津守寺(瑠璃寺とも)は住吉大社歴代の神主であった津守氏の氏寺で、
津守国基によって延喜元年(901) に創建されたと伝えられていますが、
昭和15年道路工事中に地元の考古学者が瓦を拾い集めて、
津守寺が創建される以前に白鳳時代の古いお寺があったことがわかりました。

神宮寺・荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)とともに
住吉三大寺の一つに数えられていましたが、明治初年廃寺となりました。
その跡地の墨江(すみえ)小学校の塀に「津守廃寺跡」の説明板が架かっています。
熊野街道の津守王子が祀られていたのもこの付近とされています。

津守寺『住吉名勝図会』『大阪市の歴史』より転載

津守廃寺   1940(昭和15)年に、
このあたりの道路工事や区画整理工事に伴って、
白鳳時代(七世紀後半)の瓦や土器などの遺物が発見されました。
 このことから、近辺に古代のお寺があったのではないかと考えられ、
住吉大社や住吉の津とかかわりが深い古代氏族の津守氏から、
津守廃寺と命名されました。
津守廃寺の後身と思われる津守寺というお寺が
1868(明治元)年まで現在の墨江小学校のところにありました。
津守寺は901(延喜元)年に創建されたと伝えられ、
薬師如来をまつっていました。
住吉大社とつながりがあったことがわかっています。
 また、この津守寺に参拝した人に配られたお札を印刷した
版木が残っています。そこには本堂にまつられていた薬師如来が描かれ、
当時の様子を今に伝えています。大阪市教育委員会

墨江小学校から南下していくと街道の両側に寺院が建ち並んでいます。
その中の宝樹寺の南側を左に折れ南海高野線を渡ると
右手に止止呂支比売命神社が見えてきます。

住吉大社のすぐ東側の熊野街道沿いに祀られていた津守王子社が
現在の住吉大社末社「新宮社」であると伝えられています。

住吉大社の本殿東に末社が並び、その端に新宮社の祠があります。


祭神は伊邪那美命 (いざなみのみこと)、事解男命 (ことさかのおのみこと)、
速玉男命 (はやたまのおのみこと)です。
後鳥羽上皇の熊野御幸の際の行宮跡 止止呂支比売命神社(後鳥羽上皇行宮跡)  
 『アクセス』
「墨江小学校」大阪府大阪市住吉区墨江2丁目3-46
南海高野線「沢ノ町駅」255m

「阿倍野王子社跡」大阪市阿倍野区阿倍野元町9-4
大阪シティバス62・63・64・67号系統 王子町停留所からすぐ
阪堺電気軌道上町線 東天下茶屋停留場から徒歩約3分
大阪市高速電気軌道御堂筋線 昭和町駅から徒歩約12分

『参考資料』
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年 「大阪府の地名」平凡社、1988年
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本出版協会、2004年
「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年 
日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



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