平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



息障院(そくしょういん)は、源範頼の居館跡に指定(県史跡)されています。
最寄りの東松山駅。

範頼(源義朝の6男)の母は、遠江国池田宿の遊女(『尊卑分脈』)。
遠江国蒲御厨(かばのみくりや=浜松市)に生まれたため、
蒲冠者(かばのかじゃ) とも呼ばれています。

藤原兼実の日記『玉葉』元暦元年9月3日条によると、
「くだんの男(範頼)、幼稚の時、範季の子として養育」とあり、
いかなる縁かは定かではありませんが、
藤原範季(のりすえ)の養子となっていたという。
「範」という字は元服の際、範季からもらったものと思われます。

範季は藤原氏では傍流の南家貞嗣流に属し、
藤原兼実の家司(けいし)であり、平清盛の弟教盛の娘を妻として
嫡男範茂を儲け、その妻に平知盛の娘を迎えています。
源氏の御曹司の範頼を養子にする一方、
平氏とも親しい関係にありました。

平氏没落後、養育した尊成(たかなり)親王(安徳天皇の異母弟)が
後鳥羽天皇として即位したことから権力を握り、
後に娘範子(はんし)を後鳥羽天皇に入内させています。

平治元年(1159)の平治の乱に敗れ、殺害された
義朝の子たちは、それぞれに源氏再興の機会を待ちました。

範頼は頼朝の乳母比企尼に救われ、息障院から
500mほどのところにある吉見観音として知られる
坂東札所11番の安楽寺(真言宗)の稚児僧に
身をやつして潜みました。(『吉見町町勢要覧』)

後に領主となってから高さ33mの三重の塔や
大御堂を寄進したといわれています。
これらの建物は戦国時代の兵火にかかって焼失し、
現在の本堂や三重の塔は、江戸時代に再建されたもので、
安楽寺と敷地続きで一体化していた息障院は、
寛永年間(1624~44)に現在地に移りました。

一説には、範頼ののち5代の子孫が吉見氏を名のって居館を構えていたため、
息障院を御所と呼ぶようになったと言われています。



真言宗智山派岩殿山息障院。





正面の白塀の外側には、豪族の屋敷跡にふさわしい空濠があります。


息障院(そくしょういん) 所在地 比企郡吉見町大字御所
当山は、真言宗智山派に属し、岩殿山(いわどのさん)息障院光明寺と称する。
開創は古く、天平年中(730年ごろ)行基菩薩によるといわれている。
また、大同年中(806年ごろ)坂上田村麻呂将軍の開基によるとも伝えられている。
古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、
その功により息障院の号を下賜されている。

現在の境内地は源範頼の館跡といわれ、県の指定旧跡となっている。
本尊は不動明王であり、平安時代末~鎌倉初期のもので
定朝様式を伝える傑作といわれ、県指定の有形文化財である。
当山の全盛期は、戦国時代末期から江戸時代で、
その当時は末寺百二十余が寺を数え、隆盛を極めたものである。
平成十三年三月  吉見町・埼玉県(現地説明板より)



本堂  本尊不動明王坐像(県指定重要文化財)
 
源範頼の墓(浜松市龍泉寺) 
『アクセス』
「息障院」埼玉県比企郡吉見町御所 
東武東上本線東松山駅からタクシーで約25

『参考資料』

新版「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1991年 
菱沼一憲編著「中世関東武士の研究 源範頼」戒光祥出版、2015
元木康雄「歴史文化ライブラリー 源義経」吉川弘文館、2007

 



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