平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




櫛田宮は社伝によれば景行天皇の時に始まるといわれ、
祭神は櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)須佐之男命(スサノオノミコト)
 日本武命(ヤマトタケルノミコト)です。

佐賀県東部に位置する神埼市は、古代から中世にかけて院領荘園である
神埼荘の中心地で、その荘園の総鎮守社が櫛田宮です。

有力豪族の中には、国司の重い税から逃れるため自分の土地を
皇室や摂関政治
を行った藤原氏などの中央の有力貴族、
大きな寺院に寄進して税の免除を受け、
自分はその土地を現地で管理する荘官となる者が多く現れます。
これにより、
藤原氏や院政を布いた上皇、
さらに平安時代末期には平氏が多くの荘園を所有し、
各地の領地から送られてくる年貢が重要な財源となり、
政治の実権を握っていたのです。
神埼荘の当初の広さは690町でしたが、佐賀県の荘園の中でも
最大規模の荘園となり、その広さは3千町もあったといわれています。

当時、宋からの交易船は博多港から入ってきましたが、
神埼荘は有明海や筑後川に近く、海上交通の要衝であったため、
東シナ海から有明海に入港する宋船もあり、国内外交易による
莫大な利益があり、皇室にとって手放せない大切な荘園でした。
鳥羽上皇の時代には、平忠盛がこの荘園の管理を任されていました。

宋銭や宋時代の陶磁器などが神埼市内の遺跡から数多く出土しており、
神埼荘で有明海を通じた貿易が行われていたことを物語っています。
また、櫛田宮の東北2㎞のところには「駅ヶ里(えきがり)」という
地名が残されており、交通の要衝でもあったことを伝えています。

この社が特に栄えたのは平安時代で、当時は多くの末社をもち、
「九州大社」とも称されていました。

永久3年(1115)当社を鳥羽天皇が修造した際、
本告道景(もとおりみちかげ)・伴兼直(とものかねなお)が
勅使となって下向、両氏はこの地に永住し
伴兼直が執行(しぎょう)家の祖、本告道景は本告家の祖となり、
現在の櫛田宮の宮司は執行家の後裔です。

神埼荘には櫛田・高志・白角折(おしとり)の三社があり、
三所大明神と称され人々の尊崇を受けましたが、いずれもこの荘園の鎮守で、
執行・本告両家が三社の宮司職を分けもっていました。

承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れると、神埼荘は幕府に没収され、
有力御家人が地頭に任命されます。さらに元寇の際には
河野通有(こうのみちあり)はじめ400人余の御家人に
恩賞地として分け与えられてしまい、神埼荘は消滅しました。
伊予(愛媛県)の河野氏は、源平時代には河野通信(みちのぶ)が
30艘の兵船を引き連れて讃岐屋島の義経の麾下に参じ、
平氏追い落としに一役買っています。
壇ノ浦合戦では、250艘を率いて出陣しましたが、
承久の乱で後鳥羽上皇方について没落しました。

通信の4男通久は母が北条時政の娘であったことからこの時、
幕府軍に参加し戦後、伊予温泉郡石井郷(松山市)の領有を
認められましたが、全盛時代の面影はまったくありませんでした。
元寇の時に軍功を挙げた通信の孫にあたる通有が恩賞として
肥前国神崎荘中山、肥後国下久々村、伊予国山崎荘を与えられて
勢力を回復し、河野氏中興の祖となりました。

元寇はモンゴル軍と戦ったのは武士だけでなく、
神々も蒙古を迎え撃ったとされ、幕府に戦功を報告し、
恩賞を求めています。櫛田宮も元寇に霊験をあらわしました。

南北朝時代の始めにつくられたといわれる櫛田宮の『霊験記』によれば、
「弘安の役の際に当社から剣を博多の櫛田神社に送れ」との託宣があり、
博多へ宝剣を移して異賊退散を祈り、霊験(戦功)あってモンゴル軍が退いた。

この報告が認められ、正和年間(1312~17)に櫛田宮の修築が
北条氏の一門鎮西探題北条政顕(まさあき)の肝いりで行われました。

しかし、戦国時代になると、次第に武士によって
社地が奪われて困窮し、社殿も荒廃していきました。
江戸時代になり、藩主鍋島氏の保護を受け社地が寄進され、
社殿の造営修築などはすべて藩費でまかなわれていました。

昭和27年(1952)、櫛田神社とよばれてきたものを
創建時に復して櫛田宮と改称されました。

最寄りのJR神埼駅



櫛田宮は国道34号線沿い、神埼市庁舎に隣接しています。


 
一の鳥居・二の鳥居ともに鍋島氏が奉納した肥前鳥居です。

参道に建つ肥前鳥居は、基部が大きくなる柱と笠木と島木が
一帯となるなど肥前地方独特の鳥居です。

二の鳥居には、慶長7年(1602)の造立銘がある
石造肥前鳥居で高さが3.35m、笠木の長さが4.45mあり、
佐賀県指定重要文化財になっています。

肥前鳥居は、慶長年間(1596~1615)に特に盛んに
建てられたことから慶長鳥居ともいわれ、
佐賀県を中心とした北部九州にしか見られない珍しい形のものです。

佐賀県内に広く分布するこの鳥居の特徴は、笠木のかけ出し
(先端にかけて反り返る部分)が大きな反りをみせて外方に跳ね上がり、
笠木と島木及び柱と貫(ぬき)がすべて三本継ぎとなっています。
柱は下へ行くほど太くなりどっしりとしています。





隔年4月第1土・日曜日に古式に即したみゆき大祭が大規模に斎行され、
社が神埼庄の鎮守であった時代を偲ばせています。

櫛田宮本社
神埼荘の総鎮守として中央と綿密な関係をもった神社です。







祇園社

7月の「祇園山笠」の舞台となる博多の櫛田神社は、
社伝では、創建は天平宝字元年(757)としていますが、
平安時代末期に平清盛が日宋貿易の発展と博多の繁栄を祈願して、
神埼荘の櫛田宮をこの地に勧請したという説が有力とされています。
当時の博多の人々は、町の発展に尽力した平家に恩義を感じ、
清盛の嫡男重盛が治承3年(1179)に病死した際、
その霊を慰めるために始めたのが5月に開催される
「どんたく(博多松ばやし)」の始まりだと伝えられています。



神埼市(神埼町)の東部地区は大規模な堀(クリーク)が
網野の目状に巡らされ、その一部は有明海に繋がっていました。
鎌倉時代末期には、元寇の恩賞として櫛田宮の大規模な改築工事が行われ、
有明海より船で建築資材を運んだ記録が残されており、
クリークを利用した有明海への交通ルートがあったことを知ることができます。

日宋貿易の基礎を築き巨万の富を得た平忠盛(神埼庄)  
『アクセス』
「櫛田宮」佐賀県神埼市神埼町神埼419番地1
JR長崎本線神埼駅下車、南西方向へ徒歩約10分。
『参考資料』
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年 
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、2002年
「佐賀県の地名」平凡社、1988年 「佐賀県の歴史散歩」山川出版社、2001年
山田真哉「経営者・平清盛の失敗」講談社、2011年 
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上)」原書房、1995年
「大山祇神社」大山祇神社社務所、平成22年 「神社の見方」小学館、2004年

 

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )





平氏と九州のつながりは古く、元永2年(1119)正盛(清盛の祖父)に
仁和寺の荘園、肥前国(佐賀県)藤津荘の荘官
平直澄(なおずみ)追捕の宣旨が下り、直澄を討伐したことに始まります。
この時、正盛に従った100人余の武士はみな西海・南海の名士だったという。

その跡を継いだ嫡男忠盛は鳥羽院との主従関係を通じて
目覚ましい出世を遂げました。「西海に勢いのある者」ということで
山陽・南海両道の海賊征伐を命じられ、これによって瀬戸内海の
海上交通を掌握し、西国に平氏の地盤を固めていきました。

平氏栄華の基礎となったのは何よりも経済力でした。
日宋貿易や受領の富によって、鳥羽上皇のために長承元年(1132)には、
千体の観音を安置する得長寿院を京(現、左京区岡崎)に造営し、
内裏の昇殿を許されて殿上人となり、
本物の貴族の仲間入りをするまでになりました。

肥前国神埼(かんざき)庄(現、佐賀県神埼市)は長元9年(1036)に
院が直轄する荘園として、後一条院から朱雀院へ、その後は、
白河院領から鳥羽院領、後白河院領へと代々継承されています。

鳥羽院政期には、院の信任が厚かった忠盛が神埼庄の
預所(現地管理者)となり、管理を任されました。
信任を得るには財力も必要です。忠盛は財力を蓄えるために、
西国の豊かな国の受領を歴任して勢力を伸ばしました。
また、大陸との貿易港であった越前の敦賀を越前守として
管轄したことのある忠盛は宋の商人が敦賀で交易をするのを見て
日宋貿易に着目し、海外との交易を
行います。

神埼庄の荘域は神埼郡のほぼ全域に及ぶといわれています。
 
現在では筑後川が有明海に運ぶ土砂が堆積し海岸線が
遠く退いていますが、神埼庄は平安時代ごろまでは、
有明海に面する大荘園で、ここを知行していたときに
平氏は日宋貿易に深くかかわるようになりました。
忠盛はその地位を利用し、大宰府を通さない私貿易によって
貿易の利益を独占し財力を得ました。

忠盛が日宋貿易を推進したのは貿易の利に目をつけたのと、
コレクション好きの鳥羽院の歓心を買おうと大陸から入ってくる
めずらしい品々を献上するためです。

鳥羽院は白河院が崩御すると、すぐに鳥羽殿や白河殿・御所の蔵に
封をつけさせて宝物の分散を防ぎ、保延2年(1136)、
鳥羽離宮(鳥羽殿)に経蔵(宝蔵)と阿弥陀堂からなる勝光明院
(しょうこうみょういん)を造営し、宝蔵に列島内外の宝物を納めました。
阿弥陀堂は平等院鳳凰堂を、
経蔵は同じく平等院の経蔵を模して建てられています。

南殿の北に造られた北殿の勝光明院は、その基壇の一角と園地、
そして東側で経蔵が調査で見つかっています。
経蔵は堀と築地塀に囲まれていました。

北殿・南殿地域航空写真(西より 1970年頃)
手前右の広場が鳥羽離宮公園です。

長承2年(1133)8月、神埼庄に宋人周新(しゅうしん)の船が
入港したので大宰府の官人らが出向いて交易をしようとしたところ、
神埼庄の預所だった忠盛は対宋貿易の利益を横奪しようとして介入し、
鳥羽上皇の院宣であると偽った下文(くだしぶみ)を出し、
「周新の船が入港したのは神埼庄領であるから
官人がこれに関与してはならない」と拒否しました。
『長秋記』の筆者源師時が長承2年(1133)8月13日条で、
批判しているように、忠盛の行動
は貴族たちから強く非難されました。

この日宋貿易史上有名な事件について、
多くの研究者はこの時、周新の船は有明海に面した港に
到着したとしていますが、
有明海でなく博多に着岸し、
忠盛はここで取引を行ったという見解もあります。

それは博多には、神埼庄の倉敷(年貢の保管・積み出しの倉)が
あったためで、
神埼庄と大宰府また博多とは
清盛の大宰府の大弐就任以前から強い関係にあるためです。

古くから研究者の間で「大陸からの船が到着するのは、
博多だけであったのか、それとも有明海にも
入港することがあったのかどうか。」という議論があります。

服部英雄氏は「久安4年(1148)、仁和寺の荘園、肥前国杵嶋庄
(現、佐賀県杵島郡白石町、有明町一帯)から仁和寺に孔雀が献上された。
孔雀は日本にはいない。中国南部から東南アジアに生息する鳥で、
わざわざ鳥羽院が見物するほどの珍鳥だった。このことからも有明海に
外国船が入ったことは疑いない。」と主張しておられます。
(『歴史を読み解く』)

 忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で亡くなりましたが、
それを知った時、傲慢で他人に厳しい藤原頼長でさえ、
その日記『台記(たいき)』に
「数国の吏を経て、富は巨万を累(かさ)ねたり、
奴僕(ぬぼく)は国に満ち、武威(ぶい)は人にすぐる。
然(しか)れども人となり恭倹(きょうけん)にして、
いまだかつて奢侈(しゃし)の行あらず。時の人、之を惜しむ。」

忠盛は莫大な富と武勇を兼ね備え、地位と各国に家人を
得ることをできたが、人となりは慎み深く
奢侈な行いはなかったと記し、その死を惜しんでいます。
平家繁栄の基礎を着実に築いた一生でした。
『参考資料』
五味文彦「日本中世史①中世社会のはじまり」岩波新書、2016年
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、2002年 
県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年
「佐賀県の地名」平凡社、1988年
服部英雄「歴史を読み解く さまざまな史料と視角
(久安四年、有明海にきた孔雀)」青史出版、2003年
竹内理三「日本の歴史6 武士の登場」中公文庫、昭和52年
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年



コメント ( 2 ) | Trackback (  )