平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




源頼義は陸奥の国で勃発した前九年の役を鎮圧して東国に
ゆるぎない勢力をきずきました。頼義の次男賀茂次郎義綱は甥義忠を
殺害したという冤罪をきせられて佐渡へ流罪となり、頼義の系統は
嫡男八幡太郎義家の子孫と三男新羅三郎義光の子孫に大きく分かれました。 


新羅三郎義光の嫡子義業は近江・常陸の所領を受け継ぎ、その長男昌義は
常陸の所領を受けて佐竹に住み 「佐竹冠者」と称し佐竹氏の始祖となりました。

次男義定はもう一つの所領を継いで 近江国浅井郡山本(木之本町広瀬)に

居館を構えて山本氏と称し、義定の嫡男山本義経は
湖北の所領を継いで山本冠者と名のっています。

弓馬の芸に秀で仁安三年(1168)左兵衛尉に任じられ、
活躍していましたが、
か彼の郎党が延暦寺の僧を殺害したという
罪で佐渡に流されました。
 その後、
平清盛の嫡男重盛が死去、
その特赦で義経は治承三年(1179)秋に

近江に帰っていました。  この時、義経は50歳位であったという。

治承四年四月、以仁王の平家追討の令旨が全国の源氏に伝えられると

同年十一月、  源頼朝や木曽義仲に倣って山本義経は挙兵しました。

 平家の将藤原飛騨守景家とその家臣が伊勢に向かう途中、

義経はこの一行を襲撃し 十数人を殺害、討取った首を勢多橋にさらした。

 

飛騨守景家は頼政が挙兵した時、以仁王を討ち取った武将です。

「平家物語」(高倉の宮最後)によると以仁王と頼政はひとまず三井寺に逃げて

比叡山と南都(奈良)の僧兵に援軍を求めるが、比叡山はあてにならず

奈良からの援軍は中々こない平家軍は三井寺に迫った。そこで一行は興福寺を

頼って南都へ逃れたが宇治の平等院で追いつかれた。頼政が 平家軍を

防いでいる間に、以仁王は僅かな供とともに南都へと急いだ。

平家の中でも古兵(ふるつわもの)の飛騨守景家は、以仁王は南都に

 逃れたに違いないとみて、戦場をぬけて五百余騎を率いて以仁王の後を追った。

光明山の鳥居前で ついに以仁王は景家の軍勢に追いつかれ、

 矢をわき腹に受けて落馬し首をとられました。

勢いにのった山本義経は近江国を押え琵琶湖水運を支配下に入れ、

平家への運上物を北陸道で差し押さえました。三井寺を拠点に義経が六波羅へ

夜襲をかけるという噂も流れましたが、治承四年(1180)十二月一日、清盛の命を

受けた平知盛を大将とする軍勢が近江に押し寄せ山本(下)城を攻め落とした。

義経とその弟柏木冠者義兼は頼朝を頼って鎌倉に逃げ、土肥実平を介して

頼朝に謁見すると「まっ先に参向するとは実に神妙である。関東に

仕えることを許す。」と仰りその御家人となったが、鎌倉には移住せず 

故郷に帰って山本城を修復してこもり、 近江各地に潜伏し

反平家のゲリラ戦を続けながら頼朝が上洛してくるのを待ちました。

そこへ源頼朝の挙兵に応じて木曽で旗揚げをした源義仲が

寿永二年(1183)5月、倶利伽羅峠の合戦で平家の大軍を撃破し

北陸路から京を目指して勢多に迫ると平家に強い敵意を抱く

 山本義経は義仲に加勢して都に入りました。

いち早く挙兵し平家に抵抗した義経はその功を認められ

寿永二年(1183)秋に伊賀守、12月には若狭守に任じられた。

 

木曽義仲の傍若無人な振る舞いを嫌っていた山本義経は、元暦元年(1184)

頼朝が九郎判官義経や範頼に源義仲追討を命じた際、一族とともに

 義仲追討軍に加わるが、それ以後の山本義経の消息は不明。その子孫は

 殷富門院(亮子内親王)や条院(後鳥羽上皇の生母)に判官代として仕えた。

「延慶本平家物語」(巻11)に九郎判官義経の容姿について

「色白男の長(たけ)低きが、向歯(むかば)の殊に指し出て」とあり、色白で背が

低く反っ歯と記していることから 義経は出歯の醜男」だったといわれた。

 実はこれは山本義経が反っ歯で「反っ歯の兵衛」と呼ばれていたため、 

山本兵衛尉(じょう)源義経と九郎判官義経を混同したものと思われます。

二人の義経は共に清和源氏、同じ時代の人物、さらに義仲追討に

一緒に加わり行動したことで混同されやすかったのでしょう。

 

「古活字本平治物語」によると九郎判官義経は「鏡の宿」で自ら元服し、

義経という名に決めた。と書かれている。源氏の通字は頼朝・義家の二代は

 「頼」であったが、「頼義・義家・義親・為義・義朝」というように「義」であった。

 九郎は「義」の下に自分で適当な文字を入れたのであろう。

なお「義経記」では、熱田神宮で熱田大宮司を烏帽子親として元服したとある。

しかし平安時代にはできるだけ同一の名をつけることを避けるため、

烏帽子親は前もって名を調べ研究したので「
義経記」のこの記事は作り話と思われます。

正式な元服式を行い烏帽子親に名をつけてもらったなら、 烏帽子親は

山下兵衛尉と同じ義経という名を九郎のためにつけなかったはずです。 

 

もう一方の新羅三郎義光を祖とする佐竹氏は源氏の一族でありながら

いまだに帰属していなかったため、頼朝は富士川合戦から帰るとただちに

 佐竹征伐のために常陸国に向った。佐竹氏は多くの兵をもち

その権威は国外にまで及び郎従は国中に満ち、当主である隆義の母が

藤原清衡の娘であったため、奥州藤原氏とも通じていました。

治承4年11月4日、頼朝軍は常陸国府に到着した。しかし佐竹冠者秀義は

父隆義が平家方として都にいることもあってすぐには参上できないといって

金砂(かなさ)城に籠った。そこで千葉常胤・上総介広常・三浦義澄

土肥実平らの宿老たちはよくよく計略を練ろうと話し合いました。

  

まず佐竹一族の縁者上総介広常を遣わして一族をおびきだすことにし、

佐竹義政は広常の誘いにのり、頼朝に見参するために常陸国府に向かいました。

だが一行が国府手前の大矢橋にさしかかると広常は義政を殺害しました。

だまし討ちです。続いて頼朝は金砂城(茨城県久慈郡金砂郷町)を

攻撃するために兵を遣わせた。

 

 佐竹秀義は金砂山の切り立った断崖の上に城壁を築き、以前から防戦の

備えをしていたため少しも動揺せず、高い崖の上から大木や岩石を

投げ落とすので頼朝軍の兵士には当たるが、頼朝軍から射た矢が山の上に

届くことはなかった。そこで頼朝の側近たちは策を練った。佐竹秀義の

叔父佐竹義季は智謀が優れ欲深い人物であった。この義季を利で

つろうという作戦である。恩賞に目がくらんだ義季はたちまちひっかかった。

事情をよく知っている義季が頼朝勢を案内して城の裏手に回り

鬨の声をあげると、佐竹勢は防ぎきれずに逃亡した。秀義は城を逃れ

常陸と奥州の国境に近い 花園山(北茨城市花園)に逃げ込み、その子たちの

中には奥州の藤原秀衡を 頼った者もいた。頼朝はここで兵を引いた。

奥州の藤原氏と戦う力はその当時の頼朝にはありませんでした。 

『アクセス』
「瀬田唐橋」滋賀県大津市唐橋町 京阪電鉄/石山坂本線「唐橋前駅」下車 徒歩 5
JR
琵琶湖線「石山駅」下車 徒歩 10

 『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 角田文衛著作集6「平安人物史」(下)法蔵館

 七宮三「常陸・秋田 佐竹一族」新人物往来社 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 

奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会

 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店「平家物語」(上)新潮日本古典集成 

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂

 

 

 

 

 



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黄瀬川東の八幡神社境内には、奥州平泉から駆けつけた義経と
頼朝が
腰掛けたという対面石が残されています。
ここから義経が歴史の表舞台に登場します。



三島駅南口からバスに乗り、医療センター入口で下ります。



八幡神社正面の大鳥居

富士川の合戦に勝利した頼朝は直ちに京都に上ろうとしましたが、
東国の統一が先決であるという千葉常胤らの進言で
上洛を断念して、黄瀬川宿に入った頼朝を
九郎義経が訪れ、
過ぎし日のことなどを語り喜びあいました。

大きく枝を広げたねじり柿の木



治承四年(1180年)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、
鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた
弟の義経と
対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。

この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。
またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったので
ねじってかたわらに捨てた。
すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、
この二本は幹をからませねじりあっていたので、
いつしかねじり柿と
土地の人は呼ぶようになった。 清水町教育委員会(現地駒札より)

黄瀬川陣 安田靫彦画  
画像は、日本経済新聞(2007年8月5日朝刊)より引用させていただきました。


中鳥居と太鼓橋

八幡神社の大鳥居をくぐるり、桜並木の参道を進むと うっそうとした神域に入ります。
社伝によると
主神を 応神天皇とし、相殿には比売神(ひめかみ)
神功皇后を祀っています。創建年代は未詳で、 駿河国桃沢神社の故地とも
伊豆国の小川泉水神社
 
鎮座していた八幡神社をここに遷座したとも伝えられています。
以後、源頼朝は社殿の再建、境内の整備などを行い、 徳川家康は足柄越であった
東海道を箱根路に改めた時、
これまで西向きであった社殿を南向きにし、街道に面して
参道を
つくり、社領二十石、太刀を寄進するなどの篤い信仰をよせました。


社殿

拝殿内部



柿田川の湧水を引いた手水舎
その傍にたつ鳥居をくぐると源頼朝を祀る白旗社があります。


黄瀬川宿は旧東海道の要衝で、頼朝はここで二度陣を布いています。 
一度は維盛を総大将とする平家軍との富士川合戦です。
この合戦に勝利した頼朝は上洛せずに東国を固めることを決意し、
黄瀬川に戻って宿とします。
そこへ義経が奥州平泉から駆けつけ
頼朝と涙ながらに対面した逸話はよく知られています。
母親は違っても、ともに平治の乱で非業の死を遂げた源義朝を父とする兄弟、
その時、兄弟が
腰掛けたといわれる対面石が八幡神社境内北側にあります。
二つの石は、もとは江戸時代に八幡村を支配した
旗本久世氏の陣屋にあったといわれています。 
 

その5年後、文治元年(1185)11
月、
平家を壇ノ浦で
滅ぼした
頼朝は義経討伐に
上洛するため黄瀬川宿に留っていましたが、 
義経都落ちの報をうけて鎌倉に戻りました。

また三島社祭礼の夜に挙兵した頼朝は、北条時政らに命じて
伊豆国目代山木兼隆の館を襲い、兼隆を討ち取りました。
兼隆の郎従の多くは祭礼後、黄瀬川宿に逗留して
遊び歩いていたので不在であったといい、

当地が東海道の宿とともに遊興の場であったことが窺えます。  


黄瀬川宿は黄瀬川の流路変更などが要因となって、
現黄瀬川右岸の木瀬川地区だけでなく
対岸の八幡地区なども含んでいたと考えられています。
黄瀬川の陣で義経、頼朝と対面  
 

『アクセス』
「八幡神社」静岡県駿東郡清水町八幡39

JR三島駅南口①乗場から沼津登山東海バス 旧道経由沼津行(15分)

「医療センター入り口」下車3分

バスのダイヤは一時間に1、2本 

『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)(2)吉川弘文館 

「静岡県の地名」平凡社 「静岡県の歴史散歩」山川出版社
元木泰雄「源義経」吉川弘文館

 

 

 



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 富士川の戦いに勝利した頼朝は「上洛し、いっきに平家を討て。」と命じますが、
千葉介常胤、三浦義澄、上総介広常らはこれに反対しました。
まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らを討ちとり東国を固めることが
先決だと主張したため、頼朝はこれに従わざるをえませんでした。
富士川合戦の翌日、一人の若者が黄瀬川の陣を訪れ「鎌倉殿にお会いしたい」と
申し出ますが、土肥実平(さねひら)・土屋宗遠・岡崎義実らは
怪しみ取り継ぎませんでした。頼朝はこれを聞き
「年のころを思えば奥州の九郎ではないか。」といったので、
実平が案内したところ果たして義経でした。
義経は頼朝の御前に進み、互いに昔を語り合って涙を流します。

頼朝は「白河院の御代、八幡太郎義家殿が後三年合戦で戦われた時、
新羅三郎義光殿が兄の苦戦を伝え聞き、官職を投げうって密かに奥州に下り、
兄を助けてたちまち敵を滅ぼされたが、この度、九郎がやってきたのは
この先祖の吉例と同じである。」と大そう喜びます。
千葉介常胤、上総介広常らが上洛を拒否したように、簡単には頼朝の命に
服そうとはしませんでした。安房の大豪族たちを統率することは、
並大抵のことではありませんでした。それだけに身内の参入は
頼朝にとって心強いものだったに違いありません。

平治元年(1159)、源義経は源義朝の末子として誕生し、
幼名を牛若、九郎と呼ばれました。この年に起こった平治の乱で
敗軍の将となった義朝は惨殺され、常盤は義朝との間にもうけた子を
出家させるという条件で三人の子供は許されました。清盛の寵愛を受け、
常盤はのちに「廊御方」とよばれる女の子を生んでいます。
ついで常盤は一条大蔵卿長成という貴族の後妻となり
能成(よししげ)をもうけました。能成は異父兄の義経が頼朝から
追われる身になると、その逃亡を助けた人物として知られています。

『吾妻鏡』には義経の生い立ちについて「義経は平治二年正月にはまだ産衣に
包まれていた。父の死にあってからは、継父の一条大蔵卿長成に養育され、
出家するために鞍馬山に登った。しかし成人する年となってから
しきりに仇討の思いを抱くようになり、自分自身の手で元服し、
秀衡の強大な勢力を頼んで奥州に下向してから今まで多くの歳月が流れた。
今度頼朝が宿望を遂げられようとするのを聞き兄の陣営に加わるために
平泉を出ようとしたところ、秀衡はこれを強く引きとめたが、
義経はひそかに館を出た。秀衡はやむをえず佐藤継信
忠信兄弟に命じてそのあとを追わせた。」と記されています。

義経が奥州平泉藤原秀衡を頼り下向した背景について
『王朝の明暗』の中で、
角田文衛氏は義経の継父長成と元鎮守府将軍で
陸奥守であった藤原基成との
姻戚関係があるとされています。
藤原基成の父は従三位大蔵卿忠隆で常盤の夫長成の
従兄弟であった。
基成の弟は平治の乱の首謀者藤原信頼(のぶより)であり、

娘は藤原秀衡と結婚して泰衡を生んでいます。藤原基成は藤原道長の兄
道隆につながり、関白基通は基成の甥という家系でした。

康治2年(1143)から仁平3年(1153)まで陸奥守を務め、守を退いてから
一旦都に上るが、平治の乱で敗れた弟藤原信頼の縁座によって陸奥に流されます。

しかし、平泉では藤原秀衡の舅として相当の影響力をもつ有力者でした。

基成が陸奥守に任じられて以降、基成の関係者が陸奥守を独占し、

陸奥国との関係が深い一族でもありました。当時、平泉は平家政権の
勢力圏外にあり、
独立国家のような存在であったため、
義経が隠れるには最も安全な場所です。

頑として出家しない義経に困りきった常盤が夫長成に頼んで
基成あての紹介状を
書いてもらい義経は奥州へ下向したと察せられます。
基成は弟の信頼が平治の乱を起こし、義朝を死に追いやったことへの
責任感から
長成の頼みをむげに断ることができず、
藤原秀衡の了解を得たものと思われます。


では、
義経を受けいれた奥州の藤原秀衡とはどのような人物だったのでしょう。
永承6年(1051)陸奥の豪族安倍氏が国司に反抗し「前九年合戦」とよばれる
反乱が起こり、朝廷は源頼義を陸奥守に任じ、安倍氏討伐に向わせました。
頼義は子の義家とともにその後12年にわたって東北地方をまきこんだ乱を
清原氏の援助を受けて苦戦しながらも鎮圧しました。
それから20年余のち、今度は奥州の覇者となった清原氏の同族争いが起こると、
陸奥守八幡太郎義家がこの争いに介入し、最終的には義家が清原清衡を助け
その叔父武衡、弟家衡らを討って清衡を勝利させました。

清衡は平泉に館を移して拠点とし、ついで実父藤原経清の姓藤原氏に改姓し、
奥州藤原氏の祖となり、二代基衡、三代秀衡と発展する基礎がつくられました。
砂金の産出もあり奥州に富と平和がもたらされ、初代清衡が中尊寺、二代基衡が
毛越寺(もうつうじ)という大寺院を造営しています。三代秀衡は宇治平等院に模した
無量光院を造営、嘉応2年(1170)鎮守府将軍に任じられ、養和元年(1181)には
陸奥守従五位上に叙せられています。文治3年(1187)奈良の大仏修復に際し、
頼朝が黄金千両を寄進したのに対して秀衡は五千両を寄進しています。
奥州藤原氏の繁栄は、八幡太郎義家のお陰であることは秀衡も知っていたはずです。

頼朝・義経対面石の画像を載せています。 八幡神社・対面石

『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 角田文衛「王朝の残映」東京堂出版 上横手雅敬「源義経」平凡社

上横手雅敬編著「源義経 流浪の勇者」文英堂 元木泰雄「源義経」吉川弘文館 
五味文彦「源義経」岩波新書 黒板勝美「義経伝」創元社

奥富敬之「義経の悲劇」角川選書 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社 
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社  「第5巻源平の盛衰」世界文化社

 



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JR吉原駅から岳南鉄道に乗り、吉原本町駅で下車、
東方向に12分ほど歩くと和田川の袂に「平家越の碑」がたっています。
この碑は平維盛率いる平家軍が、水鳥の羽音に驚いて戦わずして
敗走したという
故事にちなんで建てられた もので、
現在の富士川から6Kほど東に離れたところにあります。
かつてこの辺りの和田川の袂には「平家越え」という小字名があり、
富士川の河川敷だったといわれています。

甲斐源氏が迂回して、平家陣の後方に回ろうとしたときに
水鳥が飛び立ったと伝えられています。

平家越
治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで源氏の軍勢と平家の
軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた
水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音に驚いた平家軍は、
源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げさりました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、
「平家越」と呼ばれています。 対岸は平家軍


現在、富士市の西部を流れている富士川は、相模川と並ぶ急流であったため
「暴れ川」と呼ばれ 、時代によって幾度も流路を変えてきました。
江戸時代までは本流がもっと東を流れ、その流れは
いく筋もの支流を集めて氾濫を繰り返していました。

江戸時代初期に築かれた雁(かりがね)堤が
富士川の流れをせき止め流路がつけかえられた結果、
一帯を「加嶋五千石」といわれる水田地帯に変えてしまいました。








「平家越碑」の北東に位置する原田公園の一角には、富士川合戦の際に
源氏軍が食糧を
いたという飯森浅間神社があります。









境内説明板には、「御祭神・木花之佐久夜昆賣命 
治承4年(西暦1180年・平安時代後期)
平両軍対陣の際、源軍は当神社に糧をおき、兵士此れを守備せしより
『飯守明神』としたと伝えられ云々」と記されています。

原田公園の西方には、呼子(よびこ)の笛を吹いて源氏の兵を集めたという
呼子坂の碑があるそうですが、
見つけることができませんでした。
富士川の合戦
『アクセス』
「平家越の碑」 富士市新橋町11-5 
JR吉原駅から岳南鉄道に乗り「吉原本町」駅下車 吉原商店街と反対方向の東へ徒歩12分位
「飯盛浅間神社」 富士市原田字飯森東 岳南鉄道「岳南原田」駅下車徒歩15分位
『参考資料』
「描かれた富士のふもと」富士市立博物館  「静岡県の地名」平凡社
「静岡県の歴史散歩」山川出版社



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治承4年(1180)8月、伊豆に配流されていた頼朝が、
平家打倒の兵を挙げ、伊豆国目代の山木兼隆を討ち初戦に
勝利しましたが、続く石橋山合戦では、平家の大庭景親軍に惨敗しました。
この頃、東国各地に反乱の火の手があがり、東国の兵が
頼朝の許に集結しているという
知らせを受け、
同年9月、清盛はこれを一掃しようと追討軍を派遣しました。
大将軍は維盛、副将軍は平忠度です。維盛は重盛の嫡男で生年二十三、
その姿は絵にも描けないほどの美しさです。
忠度は清盛の末弟で歌人としても知られる風流人、ともに馬、鞍、鎧、
太刀にいたるまで、目もまばゆいばかりの装いの出陣でした。

同年9
18日に新都(福原)を出発した追討軍は、兵を集めながら
進軍しますが、なかなか兵が集まらないまま、
同年10月18日、富士川の畔に到着しました。
一方、石橋山で敗北した頼朝は、房総半島に逃れ安房国の豪族千葉氏や
上総介らの援助を受け頼朝の軍勢は強大化していました。
さらに源氏軍は足柄山を越えて甲斐・信濃の源氏と合流し、
『山塊記』によれば、数万騎に膨れ上がり富士川に迫っていました。
これに対し維盛軍は「千騎」だったという。

維盛は東国の事情に明るい斉藤別当実盛を召して
東国武士たちの勇猛ぶりを聞きました。「武将一人につき少なくても
五百騎は率いており、馬に乗れば落ちることを
知らず、悪路を馳せても
馬を倒さず、戦いに行くときは、親が死のうが、
子が討たれようが、
その屍(しかばね)をのりこえ、のりこえ戦いまする。

西国の戦と申すは、親が討たれれば供養し、喪があけてから戦い、
子が死ねばそれが
悲しいとて攻めませぬ。
兵糧米が尽きれば、春に田を耕し秋に刈り取ってから
攻め寄せます。
夏は暑いと、冬は寒いといって嫌がりまする。東国の戦いには

そういうことはいっさいござりませぬ。
甲斐・信濃の源氏どもはこの辺りの地理に
通じております。
富士の裾野の中腹から背後に迂回するやも知れませぬ。

実盛、今度の戦で生きて都へ帰ることができるとは思っておりません。」と
申し上げると、
兵らは恐れをなし、震えわななきあいました。

こうして明日は矢合せという10月23日の夜、平家の兵が
源氏の陣を見渡すとあちこちに火が見えます。
これは戦を恐れて野山や海、川に避難した住民の夕餉の火でした。
それを兵らは、すっかり敵に囲まれたと錯覚して大騒ぎします。
その夜半、武田信義が平氏の陣の背後を襲おうと移動したところ、

折から富士沼にたくさん群がっていた
水鳥がいっせいにぱっと飛び立ちました。

もとより浮足だっていた平家軍はその羽音を源氏の襲来と勘違いし、
我先にと落ちて行きます。

あくる朝、源氏の大軍が富士川に押し寄せ、
鬨の声をあげますが、平家の陣からは物音一つしません。
人をやって様子を探らせると「皆逃げ落ちております。
平家の陣には蝿の一匹も
とんでおりませぬ。」と申す。
頼朝は馬を降りて兜をぬぎ、手水うがいをして

都の方を伏し拝み「これは全く、頼朝の軍功ではござりませぬ。
ひとえに八幡大菩薩のおはからいと存じます。」と言いました。
こうして富士川の合戦は合戦らしい合戦のないまま、
平家軍は敗れ戦いは終りました。

維盛、忠度らが帰ってくると入道清盛は追討軍の不甲斐なさに激怒し、
「維盛を鬼界が島へ流せ。
侍大将上総守忠清を死罪にせよ。」と命じますが、
一門のとりなしで何とかおさまりました。

平家越碑・飯盛浅間神社 
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
永原慶二「源頼朝」岩波新書 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書房 
「平家物語がわかる」朝日新聞社 「歴史を読みなおす」(8)朝日新聞社

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 検証「日本史の舞台」東京堂出版 
高野賢彦「安芸・若狭 武田一族」新人物往来社 
川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社選書
「歴史人」(2012年6月号)KKベストセラーズ

 



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