平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



古代の大阪湾には、難波津より早く開けた住吉津という
港湾施設があり、その付近に大伴連(むらじ)・
津守連・依網阿比古(よさみのあびこ)などの豪族がいました。

田裳見宿禰(たもみのすくね)を祖とする津守氏は、
住吉社(現、住吉大社)の神職を務め、遣唐使派遣時の祭祀を司り、
遣唐使の一員となって海を渡った者もいました。
この津守氏は代々音楽・和歌などの文化的素養の豊かな一族で、
中世には和歌や音楽によって知られるようになります。







社務所から駐車場の案内にしたがって進みます。

住吉社(現、住吉大社)の境内には、本殿の北東に住吉社第三十九代
神主の津守国基の薄墨社、その右側の斯主社には四十三代の国盛を、
今主社は四十八代の国助を祀っています。
この三人は平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した神主です。

左側から住吉大社境内末社の五社(神主七家祖神を祀る)と
招魂社、薄墨社、斯主(このぬし)社、今主社、八所社、新宮社が並んでいます。

薄墨社に祀られている第三十九代国基は、筝(そう)の名手でしたが、
和歌の才にも秀で『津守国基集』という自身の歌集を編んでいます。
箏と琴はよく似ていますが別の楽器です。

国基は豊かな経済力を背景に中央歌壇の有力者に接近し、
その才能が貴族社会との繋がりを強める役割を果たしました。
交流した相手は、平安時代後期の代表的な学者大江匡房(まさふさ)、
白河上皇の近臣藤原顕季(あきすえ)、待賢門院璋子
(鳥羽天皇の中宮)の父である権大納言藤原公実(きんざね)など、
当時の政界の大物ばかりでした。こうした人物との交際は、
国基の貴族社会における立場をさらに高めることになり、
成功(じょうごう=私財を上皇などに献上しその見返りに位階や官職を得ること)に
よって息子たちが対馬守・安房守に就任しています。

また国基は天喜元年(1053)に焼失した住吉神宮寺の再建、
白河天皇の命により荘厳浄土寺(住吉区帝塚山東)の再建など
住吉社の発展に尽力し中興の神主と称されました。

♪薄すみに 書く玉章と 見ゆるかな 霞める空に 帰る雁かね
(薄墨色の紙に書いた手紙のように見えるなあ 
霞んだ空に列をなして帰ってゆく雁の群は)
の和歌より.
「薄墨社」に祭神「国基霊神」として祀られました。

斯主社(このぬししゃ)に祭られている第四十三代国盛は、 
住吉神主でありながら三河国石巻神社祀職や長門国住吉社預所などを
兼務し、徳があり凄腕の人物であったといわれています。


画像は「関西の文化と歴史」より転載。
『信西古楽図』は信西(藤原通憲)原著とされる日本音楽、芸能の文献です。
四十四代長盛(1139~1220)
国盛と源為義の娘(国盛の母とも)との間に生まれた長盛は、
治承2年(1178)に神主に就任し、源平争乱から
鎌倉時代初期にかけ、時代の転換期を巧みに生き抜いた人物です。
長盛は笛や方磬(ほうけい=打楽器の一種)に優れ、
後白河院の上北面に伺候しています。
北面の武士には上北面と下北面があり、上北面は下北面より身分が高く、
院への昇殿を許され院近臣としての性格が強い立場にありました。
その地位を利用し長盛は中央での人脈を得、平家追討軍の
動静も容易に入手できたと考えられ、源平合戦の間、
住吉社では乱鎮定のための祈祷が度々行われていました。

 義経が屋島に籠る平家を追討するため、摂津渡辺を出航し無事に
阿波に上陸した
元暦2年(1185)2月16日に
住吉社の宝殿から、鏑矢が西の方角に向けて飛立つ音を
神官が聞いたと
その4日後の20日に住吉社から朝廷に上奏されました。
しかし鏑矢の音を聞いたという神官は、実際に鏑矢が飛んでいく場面を
見たのではなく、しかもこの報告が4日もあとになされていることからも、
いささか疑わしいのですが、これは住吉神の霊験のお陰ととらえられたのです。

義経が阿波に出撃した渡辺は住吉社のすぐ近くにあり、源氏の動きは
手にとるように見てとれたと思われ、これらの出来事はこの機を
巧みにとらえた長盛が都合よく合わせた脚本演出であることは明らかです。
しかし当時の人々の神仏に対する畏敬の念や住吉社への信仰心の
篤さが大きく影響し、住吉大神の賜物とされたのです。
平家一門が壇ノ浦で滅亡したのはこの年の3月のことです。

 平家全盛時代、平氏は摂津国を始めとして、河内・和泉などの
国衙機関を掌握し、荘園の支配組織も収めていました。
平家の摂津国支配に対して住吉社がどのように対処していたのかは
定かではありませんが、
平家の行く末を暗示するかのような
こういった霊験が報告されたことからも、源氏と姻戚関係にあった
津守長盛の心情をうかがい知ることができます。
こうした報告や源平合戦の間に行われた乱鎮定のための祈祷の功により、
長盛は治承5年(1181)に正五位下となり、昇進は更に進み従四位下に昇り、
住吉社へは荘園の寄進が行われました。政治的手腕に優れ、
社領の拡大に成功した長盛を『住吉松葉大記』は「大神主」と讃えています。

四十五代神主国長の子、四十六代経国(1185~1228)は
勅撰歌人であるとともに笛の上手としても知られました。
長盛の子の国長は、父に先立って亡くなり、神主職にはついていませんが、
死後の「贈神主」という形で代数に数えられているようです。

 経国は建保3年(1215)摂津守に就任し、承久2年(1220)神主となり
安貞2年(1228)に44歳で亡くなっているので神主職の在任期間は
わずか9年ですが、早くから老齢の祖父長盛を補佐していたと思われます。
経国以後、鎌倉時代から南北朝時代にかけて歴代神主は、
代々摂津守に任じられ摂津国内に政治的勢力を強め、
その勢力は盤石なものとなりました。

 承久の乱以後、京都にいた経国が住之江殿などの掃除を
人に言いつけたところ、柱や長押や妻戸などに書かれていた
昔からのそうそうたる面々の和歌がすべて削りとられてしまいました。
帰国してこれを見た経国は驚き、嘆き悲しんだという。

現在の住吉大社の南にあった津守氏館内の住之江殿(正印殿)は、
南北朝時代、後村上(ごむらかみ)天皇は吉野からここに移り、
その行宮となり、南朝の勢力挽回の中心地になります。
後醍醐天皇(後村上の父)との関係を築いていた
第五十一代津守国夏が後村上天皇を迎え入れたのです。
(住吉行宮跡 住吉区墨江二丁目720)

左側から今主社(いまぬししゃ)、八所社、新宮社(津守王子社)です。
今主社に祀られている第四十八代神主国助の生きた時代は、
急速に拡大したモンゴル帝国が日本に脅威を及ぼそうとしていました。
二度の元寇でモンゴル軍が博多に来襲した時、朝廷は大社寺に対し、
モンゴル軍撃退の加持祈祷を行うよう命じています。
それらの社寺は、暴風雨によってモンゴル軍を撃退させたのは
日本の神や仏であると主張し、幕府に対して恩賞を要求しました。
これに対し幕府は神仏の加護を信じ、この要求に応じています。

この頃、住吉社では坐摩社(現、坐摩神社)と本末(本社末社)論争を
起こしていましたが、モンゴル撃退後、
国助の弟の棟国が坐摩社神主に任じられています。
このことから当社は恩賞として荘園を与えられたのではなく、
代わりに坐摩社の支配権を得たと思われます。

以上、住吉社がもっとも権勢をふるった時代とその勢力拡大を図った
神主津守氏の動向を簡単に見てきました。
明治4年5月、政府は全国の神社に対し、神主以下、神官の世襲制の
廃止を命じる『官国幣社指定 神職・社家の解職再補任の布告』を出しました。
これにより七十四代神主国美は免職され、
津守氏は住吉社の歴史から姿を消しました。
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ

開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
福山琢磨「大阪春秋(住吉社と住吉社神主津守氏の軌跡)」新風書房、平成24年
奥田尚・加地宏江他「関西の文化と歴史(動乱期の津守氏)」松籟社、1987年
田中卓監修「住吉大社史(鎌倉時代の住吉大社)」住吉大社奉賛会、昭和58年
「大阪府の地名」平凡社、1988年 加地宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 



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神崎川と左門殿(さもんど)川の分岐点南方に鎮座する田蓑(たみの)神社は、
江戸時代には佃の産土神で住吉明神・住吉神祠などと称されていましたが、
明治時代に現在の社名に変更されました。
この社と佃のある中洲は、かつて難波八十(やそ)島を構成していた
島のひとつで、
田蓑島とよばれ、平安時代、天皇の即位儀礼の
一環として行われていた
八十島祭の祭場と推定されています。

『神社と祭祀』の著者田中卓氏は、「住吉大神は海の神であり、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらえ)際に
生まれた神である。伊弉諾尊は伊弉冊尊(いざなみのみこと)と共に
国生みの神であることは明白である。
八十島祭は、その起源において国生みの故事を踏まえ
伊弉諾尊の禊祓に始まり、住吉大神と結びついた。この神事にあずかる
大依羅(おおよさみ)の神・海(わだつみ)の神などは、住吉大神に
属する神々であり、祭儀においては主に住吉社神主が執り行い、
その祭場である熊河尻は住吉神領の難波津の田蓑嶋である。

また大八洲(日本国)の神霊は、もともと宮中において
生島巫(いくしまのみかんなぎ)の奉斎する神であるから、
宮中で執り行えばいいので、それをわざわざ難波津へ出向いて
行うというのは、伊弉諾尊の禊祓いの故事により、住吉大神が
鎮座する地を選んだのだと思われる。」と述べておられます。

『古事記』や『日本書紀』には、「伊弉諾尊が妻の伊弉冊尊の
亡くなったあとを追って黄泉(よみ)の国へ行き死の穢れを受けたので、
穢れを清めようと現世に戻り、筑紫の日向(現、宮崎県)の
小戸(おど)の橘の檍原(あはきはら)で禊をした。
するとこの時身に着けていた杖や帯などから十二神が生まれた。
さらに海の中に入って洗い落とすと、海神の
綿津見(わたつみ)三神、住吉三神など十一の神々が生まれた。
次に左目を洗い清めた時に生まれたのが太陽の神である
天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右目を洗うと夜を支配する
月読命(つきよみのみこと)、鼻を洗うと荒ぶる神の建速須佐之男命
(たけはやすさのおのみこと)が現われた。」と記されています。
清盛の財力奉仕で行われた二条天皇の八十島祭  
八十島祭(熊河尻)  

最寄り駅 阪神電車千船駅

田蓑神社では、古くより神輿が練り歩き、この付近にあった御旅所で
神輿洗の神事が行われていました。しかし
慶応元年(1865)の水害で
神具一式を流失してしまい、翌年より中止となりました。
それを偲んで「田蓑神社御旅所跡碑」が阪神電鉄千船駅に
隣接する
千船病院前の植込みの中に建立されています。

「此の地(佃三丁目十三番地附近)は、昔清き波に洗われる
難波八十島の一つであり、
氏神 田簔神社の渡御の
神事が伝えられる旧跡である。
渡御の神事とは、
  慶応元年まで永年田簔神社の重要神事として
 近辺住民の尊崇を集めてきたもので、
  神社本宮から此の地御旅所との間約八百米を、報知太鼓を
先導に
神官、巫女、氏子連に護られた神輿が練り
 この御旅所で御休息と神輿洗の神事を営み
 夕刻に還幸される儀式であった。この神事は
 慶応二年の水害により中止となり今日に至った。
  今此の地は清き水は変り町のあり様も移って
 昔を偲ぶ面影もないが 変らぬ情に篤い人々の平和と健康を願い
 新しい町の発展を言祝ぎここに碑を建立するものである。
  昭和六十一年四月吉日 建立 奉納 医療法人愛仁会千船病院」

田蓑神社(たみのじんじゃ)は、清和天皇の貞観11年(869)9月、
住吉三神を勧請したと社伝にあります。



古風を残す正面の鳥居は、桃山時代作とされています。







田蓑神社(たみのじんじゃ)
貞観十一年(西暦869年)九月十五日鎮座

御祭神(住吉の四柱) 表筒之男命(うわづつのおのみこと)
中筒之男命(なかづつのおのみこと)底筒之男命(そこづつのおのみこと)
 神功皇后(じんぐうこうごう)
例祭日 秋季例祭 十月十六日 十月十七日
 夏季例祭 七月三十一日 八月一日

住吉大神は昔、日向の橘の小門の憶原というところに、
お出ましになりました大神で、伊邪那岐大神のお子様の
表筒之男命・底筒之男命・中筒之男命の三柱でございます。
伊勢神宮の天照皇大神の御兄弟神に当れる神様です。
三韓征討の時に 神功皇后みずから、住吉三神を守り神と奉り、
遂に三韓の王等を降伏、国におもどりに成る途中、
この田蓑嶋に立ち寄られ勝ち戦を祝われ三神を奉られました。
時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀する。後に神功皇后も加わり
四柱となり、これを住吉四柱の大神という。(説明板より)


「紀貫之歌碑
土佐日記などで著名な平安時代前期の歌人で、
この歌は『古今和歌集』に収録され、旅の途中

田蓑嶋(現在の佃)に立ちよられ歌を詠まれました。
♪雨により 田蓑の嶋を けふゆけば
     なにわかくれぬ ものにぞありける(説明板より)」
 (雨にふられ今日田蓑の島に行ったのだが、
蓑というのは名だけで雨を防いではくれなかったよ)

昔、佃周辺の岸辺には、芦が群生していたことから、
謡曲『芦刈』の舞台として、
謡曲芦刈ゆかりの地の碑が建立されています。

謡曲「芦刈」と田蓑神社
昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため
相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。
夫は芦を売り妻は都へ奉公に出てやがて妻は優雅に暮らす
身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちにはからずも
路上で巡り会いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。
妻は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという
意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り
夫婦仲良く末永く暮らしたいという「大和物語」の話より作られた
謡曲が『芦刈』です。
その昔、淀川支流の佃周辺は川岸に沿って
芦が群生していた所で、謡曲『芦刈』の舞台とした面影はないが
田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。
謡曲史跡保存会(説明板より)

佃漁民ゆかりの地(説明板より)
 天正十四年、徳川家康公が大阪住吉大社、摂津多田神社に参詣の折、
神崎川の渡船を勤めた縁より、後に漁業権の特権を与えられ、
献魚の役目を命じられ、佃の人等三十三名と
田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が移住した。
当初住居が与えられた安藤対馬守、石川大隅守の邸内に
住吉四神の分神霊を奉祭した。後に寛永年間に幕府より
鉄炮洲(てっぽうず)の地をいただき埋め立て造成し、天保元年、
故郷の佃村にちなみ「佃島」と命名し移住(現、東京都中央区佃島)
また、正保三年六月二十九日住吉大神の社地を定め、住吉四柱の大神と
徳川家康公の御霊を奉られた。(現、東京佃島の住吉神社)
昭和四十年、佃小学校と東京の佃島小学校とが姉妹校となり、
以降毎年交互に訪問、交歓会を開催される。
平成十八年
「佃漁民ゆかりの地」碑が、『未来に残したい
漁業漁村の歴史文化財産百選』に大阪府で只一つ認定される。
『アクセス』
「田蓑神社」大阪府大阪市西淀川区西淀川区佃1丁目18−14
阪神本線「千船」駅下車徒歩約15分
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
「歴史と旅」2001年8月号(『古事記』神話の風景)秋田書店
「大阪府の地名」平凡社、1988年

 



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平安時代、天皇即位の後、大嘗会翌年に吉日を選び、
難波の津で国家の繁栄を祈った八十(やそ)島祭が行われました。
当初、その祭場となった熊河尻(くまかわしり)は、
『栄華物語』長元4年9月25日の上東門院石清水住吉御参詣の条や
藤原頼通の『宇治関白高野山御参詣記』永承3年(1048)10月の条によって、
淀川の下流、江口を過ぎ、長柄橋(ながらばし)を過ぎた
河尻の辺りと推定されています。

古代、大阪湾に淀川、旧大和川などが運んできた土砂が河口に
堆積して洲をつくり、次第に幾つもの島となり難波八十島が生まれました。
八十島は淀川河口に浮かぶ沢山の島々をいい、現在、西淀川区に
佃島・出来島・姫島・御幣(みて)島・歌島・柴(くに)島・中島・
百島(ひゃくしま)・西島などといった島のつく地名が多いのはその名残です。

ところで八十島祭の行われた熊河尻は、大阪湾に注ぐ淀川の
川尻一帯を指しているとされていますが、鎌倉時代の後堀川天皇の
元仁元年(1224)12月を最後にこの神事は断絶し、
再興されなかったため、確かな場所は定かではありません。

生国魂(いくくにたま)神社(天王寺区生玉町)は、かつて
玉造にありましたが、秀吉が大阪城築城の際現在地に移しました。
生島神・足島(たるしま)神を主神とし神武天皇の頃、
国の鎮魂八柱神と一緒に島を護る神を祀っているので
熊河尻はここではないかと推察されています。


『摂津名所図会大成』には、八十島祭の祭場は
御幣嶋村(現、御幣島)と思われるとし、産土神に住吉大神を祀っている。
また近所の佃島にも住吉大神が祀られていることから、
この一帯が八十島の神の祭場だったのだろう。と記されています。
ちなみに佃の地は古くは田蓑(たみの)島とよんでいました


平安時代後期の有職故実書大江匡房(おおえのまさふさ)の
『江家次第(ごうけしだい)』にも、
八十島祭は難波の津で、宮中の神事をつかさどった職員である
宮主(みやじ)が壇を築き、幣帛(へいはく)を揃え、
住吉の神や大依羅(おおよさみ)の神、海(わだつみ)の神等を勧請し、
祓いをしたのち祭物を海に投げ込むとあり、八十島祭に用いる
幣(ぬさ)の名をとどめた御幣島(みてじま)辺りであろうとしています。

また熊河を現在の木津川(大阪市内を流れる淀川分流の一つ)
別名とみて、その下流にある田蓑島付近とみる説もあります。


田中卓氏は、「各説とも住吉大社と密接な関係をもつ地である。
御幣島(幣帛浜)には、住吉の姫神が祀られもともと住吉社の
神領であったらしいこと。
次の生国魂神社の旧社地であったという玉造説は、
古くより生国魂神社は住吉神社の末社であり、
室町時代の末になっても同様であった。

また『住吉大神宮年中行事』に見える記事から、昔、
難波津の島々はすべて住吉の神領であるか、
住吉の統治下にある
地域であった。」と述べておられます。(『神社と祭祀』) 

八十島祭が田蓑嶋で行われたと思われる和歌が
『新後撰和歌集』 に載せられています。

後鳥羽院御時八十島祭によみ侍ける津守経国 
 ♪天の下のどけかるべし 難波潟 田蓑(たみの)の島に 御祓しつれば
(これからは国家安泰に違いないぞ。
難波潟にある田蓑の島でみそぎをしたのだから)

詞書にある「後鳥羽院御時」というのは、建久2年(1191)11月の
八十島祭と思われますが、津守経国は『津守氏古系図』によると
文治元年(1185)出生、建久2年当時にはわずか7歳です。
神主となったのは承久2年(1220)のことですから、
「後鳥羽院御時」というのは、後鳥羽天皇のことか上皇としての
御代のことか明らかではありませんが、いずれにしても
八十島祭にしたがった津守経国が「田蓑の嶋にみそぎしつれば」と
詠んでいるので祭場は田蓑の嶋、御幣島の南、
田蓑神社付近と見るのが妥当だと思われます。

長暦元年(1037)以後、八十島祭の祭場は熊河尻から
住吉代家浜に移っていますから、
この時はたまたま
熊河尻で行われたようですが、それ以外はおおむね
住吉社(現、住吉大社)近くの浜が祭場だったと考えられています。
田蓑神社(八十島祭の祭場)  清盛の財力奉仕で行われた二条天皇の八十島祭   
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
三善貞司編「大阪史蹟辞典(八十島祭)」清文堂、昭和61年
奥田尚・加地宏江他「関西の文化と歴史(動乱期の津守氏)」松籟社、1987年
大阪市西淀川区HP(地名の由来)大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年

 



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