平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



三井寺には、橋合戦で大活躍した浄妙の住坊浄妙坊跡が残っています。
筒井浄妙坊明秀(つついじょうみょうめいしゅう)は、三井寺(園城寺)に
住んでいる僧ですが、いざことがあれば武装して戦う僧兵でした。

平安時代の中期から後期にかけて大寺院では、
寺域や自領を守りまた紛争解決のために武力を持ち、
僧兵と称する武力集団が大勢力を築き活躍しました。
延暦寺の山法師、園城寺の寺法師、
東大寺・興福寺の奈良法師は、よく知られた僧兵です。

以仁王はこの僧兵の武力を頼って三井寺に入ったのです。
当時、平氏と対抗する武力を期待されるほどの規模を
三井寺・比叡山延暦寺の僧兵が持っていたと思われます。



小祠の中には、石塔が祀られています。

治承4年(1180)平家打倒の計画がもれ、追われる身となった
以仁王(高倉宮)は三条高倉の屋敷を逃れ、源氏との結びつきが深い
園城寺(三井寺)に入りました。しかし、あてにしていた比叡山の
協力が得られず、三井寺を出て応援のいる南都へと落ちていきます。
三井寺から約12キロの宇治に辿りつくまで
6度も落馬するほど以仁王は疲れきっていたようで、
平等院に入り、敵襲に備え橋桁を外して休息していました。

(三井寺から宇治への距離は『源平盛衰記』
(巻10第5・宇治合戦附頼政最期の事)に

「宇治と寺との間、行程わずかに三里ばかりなり」と記されています。)

 そこへ以仁王が南都に向かっているという情報を得て、
押しよせた平家の大軍と宇治川を隔てて戦闘が開始されました。

この時、平等院は天台宗の末寺で執行(しゅぎょう)は、
三井寺の覚尊僧正でしたから、一行はこの縁で平等院に入ったようです。

『平家物語』巻4・橋合戦は、戦自慢の三井寺の僧兵、
五智院(三井寺の僧院の名)の但馬、
筒井浄妙明秀、乗円坊の阿闍梨
慶秀に仕える一来(いちらい)法師などを活き活きと描いています。

『平家物語絵巻』橋合戦(林原美術館蔵)
つわもの揃いの三井寺の僧兵が平家の軍勢に次々と戦いを挑みます。
浄妙坊は橋の上へ進み、「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見給え。
三井寺で知らぬ者がいない筒井の浄妙明秀といふ
一人当千(いちにんとうせん)の兵者(つわもの)ぞや。われと思はむ者は
寄りあえや。見参せむ」と名乗るやいなや、死にものぐるいで戦い、
一方、一来法師は浄妙の兜に手をおいて「御免候え」といって飛び越え
矢面に立ちましたが、まもなく討死してしまいました。所詮は多勢に無勢。
戦局は圧倒的多数の平家方に傾きます。
左下には、前線を退いた浄妙が
やっとの思いで平等院に立ち戻り、鎧を脱ぎ矢傷の手当をして、
僧侶の浄衣姿となり奈良へと落ちていく姿が描かれています。

境内図は三井寺HPよりお借りしました。



境内南端近く、長等神社上の山腹には、西国三十三所第14番札所の伽藍があります。

長等神社脇から観音堂へ直接上る急な石段



観音堂は本尊に平安時代の木像如意輪観音坐像(重文)を祀っています。
辺りはかつて園城寺の南院と呼ばれていた所です。



観音堂、鐘楼、百体観音堂、観月舞台、絵馬堂などが建つ西国14番札所の伽藍。
(観音堂前広場の隅にある石段を上った展望所から)

中世には、三井寺は長等山一帯に及ぶ境内が北院・中院・南院の
三地域に分けられ、
さらに五別所や如意寺などの
広大な寺域が形成され、850棟余りの坊舎を数えたという。
北院は新羅善神堂を中心とし、金堂を中心とする中院、
南院は観音堂を含みました。
北院は離れた場所にあります。

三条高倉の御所を落ち三井寺に逃れた以仁王は、南院の中の一院、
法輪院に僧兵が設けた御座所に入り、
比叡山と南都に牒状(手紙)を出しました
法輪院はこれ以降の記録がなく、度重なる兵火で焼失したようです。

浄妙坊跡は観音堂から水観寺(すいかんじ)へ下る石段の脇にあります。

石段に置かれている大津絵の弁慶


石段を下りきると、一段高くなった場所に水観寺の境内があります。
三井寺の五別所の1つで現地に移築したもので、
現在は西国49薬師霊場48番札所となっています。本尊に薬師如来を祀っています。

橋合戦(宇治橋・平等院)筒井浄妙・一来法師  
祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  
『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車「三井寺」駅より徒歩約10分

 「三井寺」駅より琵琶湖疏水に沿って西へ「長等神社」脇の(裏門)
三井寺拝観受付より
階段を上がると
西国三十三所観音霊場の第14番札所観音堂です。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店 、昭和62年
林原美術館編「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年
水原一「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社、1993年
「滋賀県の地名」平凡社、1991年

 



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鶴岡八幡宮の本宮へ上る石段下に本宮の神様を遥拝する下(しも)拝殿があります。
吉野で捕えられた静御前が舞を披露したと伝わることから、
舞殿(まいでん)と呼ばれて親しまれています。



当初の八幡宮の社殿は現在の若宮(下宮)の位置にあり、まだ舞殿はなく、
静御前が舞ったのは若宮にめぐらされていた広い回廊であったとされています。
建久2年(1191)町屋から出火した火災は、若宮の社殿や回廊までも焼き尽くし、
建久4年(1193)2月、回廊があった場所に舞殿が造られたといわれています。



今も4月の第2日曜日には鎌倉まつりの主要行事として、
鎌倉芸能連盟に所属する各流派の輪番制で、舞殿に於いて
静御前が義経をしのんで舞ったという故事にちなんだ舞が奉納されます。





静の舞に使われる雅楽器      箏(そう)と楽太鼓(がくだいこ)





毎年4月の第2日曜日から第3日曜日にかけて催される
鎌倉まつりの初日に静の舞が披露されます。
演者は西川流師範の西川翠菜さんです。





舞殿は挙式の舞台にもなります。

雅楽の調べが流れる中、厳かに神前式が執り行われていました。(2007年3月撮影)

ところで、義経と静の出会いは定かではありませんが、
義経が木曽義仲を破って入京し、後白河法皇に院の昇殿を許された
元暦元年(1184)10月11日以降と考えられています。
『吾妻鏡』に静が初めて登場するのは、
文治元年(1185)10月17日の土佐坊昌俊(しょうしゅん)が
六条堀川の義経邸に夜討ちをかけた時、義経の愛妾(あいしょう)静の機転で
義経は危うく難を逃れることができました。そして背後に迫る頼朝軍に
西国へ落ちようと摂津の大物浦(だいもつのうら)から船出しましたが、
暴風雨のため船が難破し、わずか4人になった時も、静は傍にいました。
次いで吉野から大峰山に逃げ込みますが、この山は女人禁制のため、
これ以上、連れていくことはできず、都に帰すことになりました。
これが義経と静との永遠の別れとなりました。

雪の吉野山中で義経と別れた後、捕えられた静御前は母磯禅師とともに
文治2年(1186)3月1日、鎌倉に護送されました。そこで義経の行方を
厳しく詮議されましたが、もとより静が知るはずがありません。
その時、静は義経の子を身ごもっていたため、男児を生んだら
後々禍根を残すと、出産まで鎌倉に留め置かれ、
安達新三郎清経(清恒・常清とも)宅で過ごすことになりました。
清経は頼朝が派遣していた間者で、
静が義経と一緒に住んでいた京都の義経邸にいた雑色でしたが、
土佐坊昌俊(しょうしゅん)がこの邸を襲撃した時、
土佐坊が討ち取られたことを頼朝へ知らせるために鎌倉に戻っていました。

頼朝と北条政子は、静が帰洛する前に天下の名人として
名高い舞いを是非とも見たいと、鶴岡八幡宮で舞いを舞うよう命じます。
静はとてもそんな気にはならず、病気を理由に頑なに断りましたが、
政子に説得され若宮の回廊の舞台に立ちました。
須藤祐経(すけつね)が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を鳴らしたという。

京都一の白拍子の芸に頼朝・政子以下、多数の御家人が固唾をのんで見守る中、
まず歌い出していいました。

♪吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の あとぞ恋しき
(吉野山で峰の白雪を踏み分けながら、山中深く入ってしまわれた
あの人の跡が恋しく思われます。)

この歌の本歌は『古今和歌集』第6巻の壬生忠岑(ただみね)による
「み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ」とされています。

次いで♪しづやしづしづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(静よ静よと繰り返し私の名を呼んでくださった昔のように、
どうか義経さまが栄えていた世に今一度したいものよ。)

この歌も『伊勢物語』の32段にある「古(いにしえ)の しづのをだまきくり返し
 昔を今になすよしもがな」に基づいているとされています。
これらの歌を即興で詠えるには、彼女が古典の教養を身につけていたからでしょう。

見事な歌舞に一同感動しましたが、頼朝だけは
「八幡宮の神前で芸を披露するときは、鎌倉の平安長久を祝うべきなのに、
謀反人義経を慕う歌を歌うとは何事か」と激怒しました。
政子はこれを聞いて、「君(頼朝)が流人として伊豆にいらっしゃった頃、
父時政は時の権力を恐れて私たちを引き離そうとしました。
それでも私は深夜豪雨の中、君のもとに走りました。また、石橋山敗戦後、
君の生死がわからず一人伊豆山に留まり涙にくれておりました。
静とて同じことでしょう。」と女心はひとつだと静をかばい、
なだめたので頼朝も機嫌を直し、褒美として絹ひと重ねを贈りました。

文治2年(1186)7月に静が生んだ男児を安達新三郎は、頼朝の命で
静の懐からもぎとり、稲瀬川の河口の由比ヶ浜の海に沈めてしまいました。
静はわが子を衣に包んで抱き伏して泣き叫びましたが、
母の磯禅師が後難を恐れて赤子を引き渡したのです。
磯禅師は水際からその亡骸を探し出し、頼朝の側近堀藤次親家(ちかいえ)が
自分の一存で野辺送りをし、頼朝が父義朝のために建立した
勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の後ろに葬りました。
(『義経記・巻6・静の鎌倉くだり』)
政子は頼朝が静が生んだ子を殺そうとしていると知って、
なんとか赤子の命を助けてくれるよう頼朝にとりなしましたが、
こればかりは聞きいれられませんでした。

鎌倉時代には、稲瀬川は鎌倉の西境でした。
由比ヶ浜はそれだけでなく、処刑の場や戦場、葬送の場だったのです。

静御前は鶴岡八幡宮若宮の回廊で白拍子の舞を舞った後、
文治2年(1186)5月27日夜、
勝長寿院でも頼朝の長女大姫が静の舞を見ています。
大姫は許嫁の清水冠者義高(木曽義仲の嫡男)が父の命で
堀藤次親家の郎従に殺害されて以来、体調が優れず、
病気回復を祈願して勝長寿院に参籠していました。
病身の大姫を心配して母の政子が静を召したものと思われます。
同年9月16日、静とその母が京へ帰る時、政子と大姫は憐み、
多くの宝物を持たせて旅出させています。

それ以後静の消息は途絶えてしまいます。

鶴岡八幡宮の東の鳥居付近の流鏑馬馬場には、
平成17年(2005)、
福島県郡山市の静御前堂奉賛会によってから移植された「静桜」があります。
ちらほら咲きの静桜

静御前の墓は日本各地にありますが、奥州街道沿いには、静が奥州平泉にいる
義経の跡を追っていき、途中で亡くなったという伝説地が点在しています。
そのひとつが静御前堂です。

「静御前堂(しずかごぜんどう)郡山市静町37 桜見頃 4月中旬
源義経を慕って奥州へ下り、悲しみのあまり池に身を投じた
静御前の御霊を祀ったお堂。
 現在のお堂は、クギを一本も使わずに、天明年間に改装されたもの。
 毎年3月28日には「静香御前堂例大祭」が開催。」
(郡山市観光協会HPより転載させていただきました。)
静御前の舞(神泉苑)  
稲瀬川(頼朝が範頼を見送り文覚を出迎えた川辺)  
源氏堀川館・左女牛井跡・若宮八幡宮  
鶴岡八幡宮写真紀行  
『アクセス』
「鶴岡八幡宮」鎌倉市雪ノ下2-1-31 JR鎌倉駅東口より約10分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「義経記」河出書房、2004年
 五味文彦「物語の舞台を歩く義経記」山川出版社、2005年 
渡辺保「人物叢書 北条政子」吉川弘文館、昭和60年 
別冊歴史読本「源氏武門の覇者」新人物往来社、2007年
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年 
清水真澄「源氏将軍神話の誕生 襲う義経、奪う頼朝」NHKブックス、2009年
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年

 



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