平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平景清(生没年未詳)は、上総介忠清の子で上総太郎判官忠綱、
上総五郎兵衛忠光の弟です。平景清と呼ばれていますが、
平氏の血筋ではなく伊勢を本拠とした藤原南家の流れをくみ、
「伊勢の藤原」を意味する伊藤氏とも称し、「悪七兵衛景清」
「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛果敢な豪傑でした。

祖父の景綱は『保元物語』『平治物語』に登場し、
保元の乱(1156年)では、平清盛軍の先陣をつとめて源為朝軍と戦い、
平治の乱(1160年)
では、清盛のもとで義朝軍を攻め、
戦功により伊勢守に任じられました。

景清は源平合戦において侍大将として活躍し、屋島の合戦では、
源氏の武者に腕力の勝負を挑み、美尾屋(みおや=水尾谷)十郎が
応じましたが、たちまち負けて逃げる十郎の錣(しころ)をつかみ、
冑から素手で引きちぎるという怪力ぶりを見せています。

壇ノ浦合戦で平家の武将の多くが入水や戦死し、数少ない
生存者であった平景清には、さまざまな伝承が各地に残っています。
大阪府内にもいくつかの景清伝説がありますが、
その中から「小松公園」「かぶと公園」「泪の池」をご紹介します。

達磨宗を開いた大日房能忍(のうにん)は景清の叔父(伯父とも)で、
壇ノ浦合戦後、景清を匿いましたが、疑心暗鬼になった
景清に誤って殺されたとされています。
(『本朝高僧伝』巻19・摂州三宝寺沙門能忍伝)

元禄14年(1701)刊の『摂陽群談』は、
景清は復讐を誓って壇ノ浦の戦場を敗走し、あちこちさまよったあと、
伯父の能忍のもとを訪れ、匿ってほしいと頼みます。
能忍は土蔵に隠して下男と二人で世話をし、景清が小さい頃から
そばが好きだったのを思いだし、下男に「そばを打て」と命じました。
ところが景清には「首を討て」と聞こえ、伯父が心変わりしたと思い込み、
いきなり蔵から飛び出し能忍を一刀のもとに
斬伏せたところに、
下男がそばを運んできたのではっと気づいた景清、
泣きながら近くの池で血刀を洗い、いずこともなく去っていきました。
同情した世間の人々はこの池を泪池と呼びました。と記しています。
ちなみに「そば」は小松の名産でした。

のちに西行法師は、この話を聞いて感動し、
♪よしさらば涙の池に身をなして 心のままに月やどるらむ と詠んでいます。
(そういうことなら、この身を涙の池にしてしまって、
思いのままに月を映していようではないか)

以上のような説があり、摂津国においては大日房能忍とかかわる
景清の伝承が形成されていったと思われます。
涙池は形を変えながら昭和の初め頃まであったそうですが、
今は埋立てられ小松公園になっています。

最寄りの阪急京都線上新庄駅。
 上新庄駅から稲荷商店街、小松商店街を抜けると
住宅街の一角に小松公園があります。 



この付近はほとんど田畑でしたが、昭和35年から区画整理が行われ、
新しい近代的な市街地として整備されました。
当公園はこの事業でできた十数ヶ所の公園のひとつです。
これを記念して高さ10mほどある「上中島区画整理記念碑」が
公園に建てられましたが、老朽化が進み
安全面を考えて平成29年12月末に撤去されました。


大阪市立東淀中学校の道路向かいにある「かぶと公園」




源平の戦に敗れた平家の落武者平景清が、かくまってくれた
伯父の「三宝寺大日房能忍」を誤って殺害したのを悔やんで、
この辺りで冑を脱ぎ捨てて立ち去ったと言い伝えられています。
いまもこの付近から淀川堤防までの一帯の地を
「かぶと」と称し「かぶとみち」の名も残っています。
その由来からこの公園を「かぶと公園」と命名します。




大阪市長大島靖の撰文による「区画整理碑」が建っています。

 この付近はほとんど田畑でしたが、昭和35年から区画整理が行われ、
新しい近代的な市街地として整備されました。当初、
区画整理2号公園として3594平方メートルの面積で配置された公園は、
区画整理記念公園とするため敷地を拡張し、
東側に記念像「太陽の下、みどりと、やすらぎと」と題する親子3人像と
区画整理碑が配置され、昭和50年9月30日に完成式が行われました。

大阪市に残る景清伝説とよく似た話が吹田市にもあります。

泪の池遊園には、平景清が誤って伯父の大日房能忍を切ったことを悲しんで、
泣きながらこの池で血刀を洗い、夜な夜なこの池で泪を流したと言う伝説があります。
ここは、泪の池と人々に呼ばれていた小さな池を埋めた跡といわれています。

吹田市有川面町墓地の傍にあります。




「三宝寺は、達磨宗の僧侶 能忍が12世紀末頃に開いた寺院です。
現在では寺院そのものはありませんが、東淀川区大隅・大桐一帯にあったと考えられ、
大阪市では三宝寺跡伝承地として埋蔵文化財包蔵地に指定されています。」
大阪歴史博物館HP三宝寺跡伝承地より転載。

能忍については、次のような説もあります。
大日房能忍(生没年不詳)は、もとは天台密教の僧でしたが、
弟子を介して中国・宋から臨済宗の禅を輸入し、達磨宗と称して、
仁安3年(1168)に摂津水田(現在の大阪市東淀川区大桐)に
三宝寺を建立して独特の禅宗を広めました。
人徳もあってか能忍のもとには弟子が多数集まるようになり、
七堂伽藍、僧坊48が建ち並ぶ大きな寺院に発展しました。
平家滅亡後、多くの平家の落武者がこの辺りに逃げてきましたが、
三宝寺には修行僧が1千人もいたので、出家してこの寺に身を隠し
厳しい源氏の探索から逃れようとした者も多数いました。
三宝寺は兵火で焼失したとみられますが、その年月日は不明です。

延享5年(1748)初演の中村清三郎作歌舞伎『大仏供養景清』には、
景清の伯父大日坊は賞金に目がくらみ、役人に届け出ようと駆けだすところを
景清が斬り殺し、伯父の着物に着替えて逃走する場面があります。
景清にニ枚目スターの二代目市川団十郎、大日坊に
悪役第一人者の中島三甫右衛門が扮し、大ヒットしました。
それがいつの間にか、あれは三宝寺の大日房であるという風評がたちました。

中村清三郎が実在した大日房能忍の名を借りて、
大日房を大日坊と一字変えて芝居に
取り入れた可能性も考えられます。
しかし、大日房能忍は、景清の伯父だという確証はなく、
多分無関係だと思われます。
屋島古戦場を歩く(景清の錣引き)    
平景清伝説地(平景清の墓)  
『アクセス』
「小松公園」大阪市東淀川区小松2丁目12 
阪急京都線 上新庄駅下車徒歩約13分。

「かぶと公園」 大阪府大阪市東淀川区豊新4−10
 阪急京都線 上新庄駅下車 南東へ約800m。

「泪之池公園」 吹田市内本町3-12-8 
阪急京都線 上新庄駅下車徒歩約20分。
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と芸能)」吉川弘文館、2009年 
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承・三宝寺)」吉川弘文館、2009年 
三善貞司「大阪史蹟辞典(悪七兵衛景清)」清文堂出版、昭和61年
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂、平成20年
日下力・鈴木彰・出口久徳著「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 

 

 

 



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『平家物語』には、魅力的な人物が登場します。
そのひとりが物語の後半部分に脚光を浴びる平知盛です。

平知盛(1152~1185)は、清盛の四男で、母は二位尼時子です。
清盛の息子だけあって、知盛の官歴は見事なものでした。

平治元年(1159)正月、わずか8歳で官位につき従五位下となり、
同年12月の平治の乱で清盛が源義朝を倒して、都の軍事力を
掌握すると、平家一門の人々の官位は急激に上昇し、
知盛の昇進にも拍車がかけられました。
乱直後の永暦元年(1160)2月大国・武蔵守に任じられ、その後も
官位は上がり続けて従二位の権(ごん)中納言となって
新中納言と称されました。知盛の青年期は、
平家全盛の時代で彼はこの上げ潮に乗じて栄進したのでした。

九条兼実の日記『玉葉』安元2年(1176)12月5日条によれば、
知盛は入道相国(清盛)最愛の息子で、最も期待をかけていたという。
『平家物語』では、凡庸な兄宗盛に比べて人間を鋭く見据え、
洞察する先見性のある人物として描き出されています。

清盛の死後、平家の棟梁となったのは、知盛と同じ時子を母とする
すぐ上の兄の宗盛で、宗盛の下に平時忠が政治的な面を担当し、
知盛が軍事的指揮権を掌握しました。
知盛の真価が発揮されたのは、源平争乱期に入ってからです。

知盛は、作戦上の最高責任者としての立場から幾度も宗盛に
進言しました。
都落ちに反対し、都での決戦を宗盛に
申し入れましたが、受け入れられませんでした。

西国に落ち、屋島に落ち着いた平家は急速に勢力を盛り返して
福原に舞い戻り、一ノ谷に城郭を築き、源氏との決戦に備えました。
一ノ谷の合戦で、生田の森の大将軍であった知盛は、
義経の奇襲攻撃によって総崩れとなり、嫡男知章(ともあきら)と
郎党との三騎で沖の軍船に乗ろうと海岸に逃げる途中、
敵に囲まれました。知章は父を守ろうと敵の中に割って入り討たれ、
知盛はそのすきに追いすがる敵をかわして馬で逃げのび
船に辿りつくことができました。しかし、海上の船は
人であふれかえり、幾多の戦いをともにしてきた
愛馬を乗せる余地がなく、知盛は馬を岸の方へ返させます。

この時、阿波民部重能は、名馬を敵に取られるのを惜しんで
波打ち際に取り残された馬を射殺そうと弓を構えますが、
知盛は「たとえ誰のものになろうとも、今わが命を助けてくれたものを
殺すなどとんでもない。」とこれを制止しました。
馬は主人との別れを惜しむように沖の方へと泳いできましたが、
船がしだいに遠ざかっていくので、やがて渚に泳ぎ帰り
脚が立つようになると、なおも船を振り返り、二三度いななきました。

そのあと知盛は宗盛の前で、我が子を身代わりにして
逃げたことを恥じ涙を流したという。
「いったいどこに父を助ける子を
見殺しにして逃げる親がありましょうか。よくよく命は惜しいものと
思い知りました。」と軍事の最高指揮官としての責任上、最愛の息子を
見殺しにしても敢えて生きのびねばならない自分の
苦しい心のうちを訴え、感情的に取り乱す姿が描かれています。

一ノ谷合戦後、屋島に撤退した宗盛に、後白河法皇から再び
和平交渉が打診されたのは、敗戦からわずか3週間後のことでした。
三種の神器を返還すれば、一ノ谷合戦で捕虜となった重衡の
身柄を釈放しよう、これは重衡も同意しているというものでした。
毅然とこの要求を拒否したのが知盛でした。

一ノ谷合戦では、直前に法皇から宗盛に連絡があり、
「和平の使者を送るので、2月8日まで戦闘を行わぬよう
関東武士に命じてある。」というものでした。
しかし、その前日の7日に源氏軍の攻撃があり、油断していた平家は
大打撃を受けたばかりでした。知盛は老獪でしたたかな後白河の
策謀を見抜き、「たとえ三種の神器を都に返還したとしても、
重衡が返されることはないであろう。」と主張したのでした。

やがて平家は屋島での合戦にも敗北し、壇ノ浦で最終決戦に
挑みました。
『平家物語』によると、知盛は、壇ノ浦合戦を前にして
阿波民部重能の裏切りを見抜き、そ
の首を刎ねるよう
宗盛に求めましたが、宗盛はそれを許しませんでした。

知盛は惣領である宗盛が自分の意見を退けても
恨んだりすることなく兄の決定に従い、サポート役に徹し
一門の結束を乱すことはありませんでした。

平家はこの合戦で後々まで人々の心に鮮烈に残る滅亡を遂げたのでした。
平家一門の総大将の宗盛と嫡子清宗が捕虜となり、主だった人々の
入水と戦死を見届けた知盛が海に沈む前に口にしたのが
「見るべきほどの事をば見つ。今は何をか期(ご)すべき」という言葉です。

(自分はやるべきことはすべてやった。見届けねばならぬことはすべて見た。
いまはもう気がかりなことは何もない。)乳母子の伊賀平内左衛門家長ともに
それぞれ鎧を2領着こんで、手を取り合って入水すると、
知盛に近侍する侍たち20余人があとを追って海に沈みました。
あとにはかなぐり捨てられた平家の赤旗が
海上を薄くれないに染めていました。

乳母子の伊賀平内左衛門家長について、
筑後守平家貞の息子ともいわれ、伊賀国服部の出身で、
伊賀服部氏の祖と伝えられています。
平内は平氏で内舎人を勤めた武士の称です。

『官職難儀』には、「内舎人に成りたるを平氏は平内・藤内・善内と申候。
平内左衛門などと申すは、内舎人より左衛門尉になりたるを、
もとの官をつけてよぶ也」とあります。(『平家物語全注釈(中巻)』)

そうした中、越中次郎兵衛盛嗣(越中前司盛俊の子)、
上総五郎兵衛忠光(上総守藤原忠清の子・伊勢を本拠とする
藤原氏南家伊藤氏流)、悪七兵衛景清(忠清の子)、
飛騨四郎兵衛(飛騨守景家の子・伊藤景俊)のように
戦場を逃れ、生き延びていくしたたかな勇者たちもいました。

伊藤(藤原)忠光・景清兄弟は、紀伊国湯浅にいた
平忠房(重盛の六男)のもとに馳せ参じて
湯浅城に籠って挙兵しましたが敗れ、再び逃亡して
源氏追討に奔走し、平家武士の意地を貫く道を辿りましたが、
結局、平氏滅亡という歴史的事件をどうすることもできませんでした。
平忠房の最期(湯浅城跡)  
彼らの頼朝への復讐劇は、後世、歌舞伎に
謡曲にさまざまな文芸作品の題材になっています。

壇ノ浦合戦の平家の陣の大将として、「見るべきものはすべて見た」と
言い残して
潔く海に身を投じた知盛の姿は人々の胸を打ち、
『平家物語』の名場面として歌舞伎や能にも脚色されました。
歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」及び「大物浦」の場の登場人物が点出され、
矢傷を負った死相の知盛が大綱を体に巻き、大碇を海中に投げ入れて
入水するという「大物浦」における(碇知盛)の見得を主題としています。
画面上方に、船団や八艘飛びする義経が影絵のように描かれています。
一勇斎国芳筆「壇浦戦之図」部分 高松市歴史資料館蔵
 『源平合戦人物伝』より転載。

歌舞伎『義経千本桜』 や能『碇潜(いかりかづき)』では、
平知盛は巨大な碇を担いで最期を迎えます。
(
みもすそ川公園にて撮影)
平知盛碇潜(いかりかづき)   
平知盛の墓・甲宗八幡神社   
平知章の墓(明泉寺)   
『参考資料』
上杉和彦 『源平の争乱』 吉川弘文館、2007年 
角田文衛「王朝の明暗(平知盛)」東京堂出版、平成4年
高橋昌明 『平家の群像』岩波新書、2009年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年 
 図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
  富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
高橋昌明『平家の群像』岩波新書、2009年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)」角川書店、昭和42年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年

 

 



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