平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



西脇市北西部にある高松山長明寺(高野山真言宗)は、寺記によると、
白雉(はくち)年間(650~654)に法道が開基したと伝えています。
かつては今よりも東方の金城山(古高松)にあり、坊舎が軒を並べていましたが、
室町時代、嘉吉の乱の兵火にあい伽藍僧坊すべて焼失し、寺地を現在地に移したという。
今は宝光院・宝仙院・仲正院の三ヶ寺と多くの坊屋敷跡があり、往時を偲ばせます。

頼政は摂津・伊豆など各地に荘園をもっていました。
この地方もその所領のひとつで、西脇市の高松には
頼政に関わりのある地名や伝承が数多く残っています。

平治の乱では、当初頼政は源義朝側についていましたが、
最終的には清盛に味方して勝利に貢献しました。
このことから清盛の信頼を得て、源氏としては破格の従三位にまで昇進し、
「源三位(げんざんみ)頼政」とよばれました。
しかし平家の専横を良しとせず、平家打倒に立ち上がります。
計画はすぐに露見し、武運つたなく宇治川の戦いで敗れました。
自害する際に郎党の渡辺長七唱(ちょうしちとなう)に自分の亡骸を
播磨国高松山の麓に葬るように命じ、
その遺言にしたがって塚と阿弥陀堂が造られたと伝えています。
江戸時代の地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』は、
長明寺本堂の裏山に頼政塚があると記しています。

天正11年(1583)には、羽柴秀吉の家臣小堀正次は寺領37石を寄進し、
池田輝政の家臣中村主殿助(とのものすけ)正勝が
寺領3町5反余を寄進しています。

戦国時代、この地は豊臣(羽柴)秀吉によって平定され、
秀吉の天下統一の後には兵庫県のほとんどが秀吉の領地となります。
江戸時代になると、関ヶ原合戦に功のあった
池田輝政が播磨国を与えられました。

北はりま田園空間博物館(頼政公ゆかりの里を歩く頼政公と高松)によると、
「頼政は宇治平等院の戦いで敗れ76歳の時自害、一旦宇治平等院に葬られますが
遺言に従って郎党により遺骨の一部が長明寺阿弥陀堂の近くに葬られました。
時たって慶長年間(1600年頃)池田輝政が長明寺境内に
溜池の造成を命じたことで墳墓と石槨が破壊、その折、
頼政の人骨とひと振りの剣が発見されおおよそ100年後に
円形古墳上部に頼政公の墓が再建されました。」とあります。

最寄りのJR加古川線「西脇市」駅

⇒長明寺









山門の両脇にたつ仁王像



正面の本堂には、本尊の十一面観世音菩薩像が祀られています。




『平家物語・巻4・鵺』には、鵺が夜ごと宮中に出没し天皇を悩ませていましたが、
弓の名手頼政が見事射落としたという話を二つ載せています。

本堂の向かって左手に阿弥陀堂があります。



源三位頼政公鵺退治之像

昭和五十五年五月二十五日 源三位頼政公奉賛会による
頼政公八百年記念事業として鵺退治の勇姿を再現した像と
源三位頼政公像建立由来のプレート

毎年4月29日には頼政公をしのび地元住民により「頼政祭」が開催されます。

頼政の鵺退治は二度あり、一つは怪獣、一つは鵺という化鳥(けちょう)です。





明治年間に近隣篤志家の寄進による玉垣。

「源三位院院殿建法澤山頼圓大居士」
墓碑は部分ごとに年代が違うようで、
墓石の基部には、元禄13年再建立と刻まれています。

頼政の側室菖蒲(あやめ)御前の供養塔
源頼政の歌碑・矢竹(長明寺2)  
源頼政の史跡(平等院扇の芝・頼政の墓)  
『アクセス』
「長明寺」 兵庫県西脇市高松町504-1
 JR加古川線「西脇市」駅で下車、徒歩約20分
 『参考資料』
「兵庫県の地名」平凡社、1990年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(上巻)」角川書店、昭和62年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
「源三位頼政公ゆかりの歴史の里見て歩き」源三位頼政公奉賛会
NPO法人 北はりま田園空間博物館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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左手に見えるのは、JR熊谷駅北口ロータリー広場に建つ熊谷次郎直実のブロンズ像。
北口から朝日バス「太田駅行・西小泉駅行」または「妻沼(めぬま)行」に乗車。

「井殿橋」停下車 西へ約400m(福川沿いに進みます)



埼玉県大里郡妻沼町西野村(現、熊谷市西野)は、利根川右岸の氾濫原
(河川の氾濫によって形成)に位置し、北部を福川が東流しています。
この地は斎藤実盛のゆかりの地で、福川右岸の古くから堀の内と称され
実盛館跡と伝えられる地に実盛塚があります。



 
熊谷市指定文化財
 一、種別 史跡
 一、名称 斎藤氏館跡実盛塚
 一、指定年月日 昭和五十二年九月十三日

 福川の河川改修等により形状が変わっているが古代長井庄の
中心的な位置にあたり水堀の跡や出土品のほか、古くから
「この辺、堀内という所は長井庄の首邑にて実盛の邸跡なり」との伝承や、
長昌寺の椎樹にまつわる口碑その他史実などからして大正15年3月
埼玉県指定史蹟「斎藤実盛館跡実盛塚」として指定されたが、
何時の日か誤って「史蹟実盛碑」となったため
昭和38年に県指定史蹟を解除された。 中央に残る板碑は、
実盛の孫である長井馬入道実家が死去しその子某が
建てた供養塔である。  熊谷市教育委員会  実盛館跡史跡保存会

実盛塚には板碑が建っています。
板碑とは、中世に多く使われていた板状の石で造った卒塔婆です。
13C前半(鎌倉時代)に発生し17C(江戸時代)に入ると消滅します。

正嘉(しょうか)元年(1257)

「長井庄斎藤別当実盛館阯」側面には「大正十五年十月十五日建之」と彫られています。

斎藤 実盛(?~1183)は斎藤実直(さねなお)の子で、
祖父実遠(さねとお)の猶子となりました。越前国の出身で、
後に武蔵国長井庄(埼玉県熊谷市)に移住し源為義・義朝父子に仕え、
久寿2年(1155)の大蔵合戦で悪源太義平(義朝の長子)が
おじの源義賢(よしかた=義朝の弟)を討った際、義平から義賢の遺児
駒王丸(義仲)の殺害を命じられますが、幼子を殺すに忍びず、
木曽の豪族中原兼遠にその身柄を預けました。

平治の乱(1160)では、義朝軍に加わり、待賢門の戦いで
義平麾下(きか)十七騎の一として奮戦しました。
東国に敗走する途中、義朝は琵琶湖畔の瀬田で郎党らに暇を出し、
実盛は長井庄へ帰り、義朝の没後は平宗盛に仕えることになりました。
やがて源頼朝が挙兵し、武蔵武士の多くが頼朝に帰属しましたが、
一旦の恩義を思って態度を変えず平家に属しました。その後、
木曽義仲追討軍に参加、越前篠原の戦いで死を覚悟していた実盛は、
錦の直垂を着け髪を黒く染めて一人踏みとどまり、壮烈な最期を遂げました。
実盛は荘園を管理し武蔵国に住むとはいえ、もとは越前国の生まれ、
「故郷には錦を着て帰れ」ということわざ通リ、平宗盛から錦の着用を特別に許され、
大将軍かと見まがうばかりの赤い錦の直垂を着て戦場に現れたのでした。

『平家物語絵巻 実盛最期の事』より転載。
床几に座る義仲に手塚太郎光盛(首の右)が首を差し出し、
実盛と旧知の樋口兼光(首の左)が、その首を実盛と確認した場面です。


かつて実盛が一命を助けた義仲(駒王丸)が挙兵し、
実盛は義仲と敵味方に別れて戦うことになりました。

駒王丸を助けて28年後のことです。
倶利伽羅峠で大勝利した義仲は加賀篠原で再び平家軍と戦い、
平家はここでも惨敗を喫しました。平家一門みな敗走する中を
とっては返して戦う武者がいました。
義仲勢の中から手塚太郎が進み出て奮戦の末、
その首を討ち取り、義仲の陣中に運びました。
むざんやな甲の下のきりぎりす(小松市多太神社)  
木曾義仲が奉納した斉藤別当実盛の兜が残る多太神社。
篠原古戦場(首洗池・実盛塚)  
『アクセス』
「斎藤実盛館跡実盛塚」埼玉県熊谷市西野
『参考資料』
「埼玉県の地名」平凡社、1993年 「埼玉大百科事典」埼玉新聞社、昭和50年 
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年
林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年 
日下力「いくさ物語の世界 中世軍記文学を読む」岩波新書、2008年 
関幸彦編「武蔵武士団」吉川弘文館、2014年 「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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早川城跡は、地元では古くから城山(じょうやま)と呼び、
鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。
城は早川地内を南北に貫流する目久尻(めくじり)川の東方、
相模野台地の南に突き出た部分を利用して築かれ、
その東・南・西側は急峻な崖で、天然の要害の地となっています。





綾瀬市教育委員会によって平成元年から平成6年にかけて行われた発掘調査の結果、
曲輪・土塁・空堀・物見塚などが確認されています。
これらの遺構と遺物などから判断して早川城は室町時代初期ないし
鎌倉時代にまでさかのぼる可能性のある城郭であることが明らかとなりました。
鎌倉幕府の御家人であった渋谷一族により築城され、
14世紀から15世紀にかけて使用されたものと考えられています。
明治19年の早川村の地誌には、
「鎌倉時代、渋谷荘司居城廃跡なり」と記されています。

日本のお城といえば壮麗な天守閣や積み上げられた巨大な石垣、
連なる櫓(やぐら=天守以外の建物)群などを思い浮かべるかもしれませんが、
中世の城は、戦国時代以降の城とは異なり、周囲に堀切を巡らし、その内側に
掘った土を積み上げ土塁を築いて、主郭(本丸に当たる部分)が造られました。

城跡は現在中世城郭の遺構を残した状態で保存され、
桜の広場・遊具広場・幼児広場・日本庭園などがつくられ、
城山(しろやま)公園として市民に親しまれています






桜の広場

遊具広場

堀切と土塁 現在も往時の姿をとどめており、その様子がはっきりとわかります。

発掘された早川城の画像は、綾瀬市役所市史だより第31号
「城山公園ぶらり歴史さんぽ」よりお借りしたものに一部文字入れしました。

早川城跡では三方を崖に囲まれた地形が利用され、北側の台地へと続く部分に深い堀切を設け、
内側に土塁を築き、さらに周囲の急斜面にも堀切と土塁が巡らされて主郭が形成されています。
主郭西部には物見塚があり、西側斜面二カ所では曲輪(くるわ)が確認されました。
この城郭は、常駐して城を守っているような性格でなく、
有事の際に防衛拠点として使われた山城であると考えられています。

「渋谷氏と早川城跡(じょうせき)
渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という
荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、
平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を
渋谷重国が保護したとの記事があることから、
この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、
その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、
早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。
1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ
多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、
その軍功により薩摩国入来院(いりきいん)ほかに所領を得、
地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。
しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、
その一族が早川城を築城したものと考えられます。」

「堀切と土塁  鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、
天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を
周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。
堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、
さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は
急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。
しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という
大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、
外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、
権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。」
 

物見塚跡には、東郷平八郎が昭和7年(1932)に建てた
「東郷氏祖先発祥之地」の石碑があります。 日露戦争時の日本海海戦(1905年)で
ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた際の、 日本連合艦隊司令長官東郷平八郎は、
当地から薩摩国東郷へ移った渋谷氏の子孫です。

渋谷氏略系図は、渋谷氏と早川城跡説明板より転載

「物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。
南北21メートル、東西23メートル、高さ約2メートルの塚です。
発掘調査の結果、表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が
見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。
また塚の作り方が土塁と同様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの)であることから、
城郭の関連遺構の一つであり、外敵の進入を見張るために築かれた塚であると思われます。
物見塚の上には、昭和七年に祖先発祥地東郷会により建てられた
「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な
旧海軍元帥である東郷平八郎の祖先の地であることを記念して建てられたものです。
東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。」

早川城跡では、中世城郭遺構のほかに
縄文時代および古代の竪穴住居址も多数確認されました。

『アクセス』
「早川城跡(城山公園)」神奈川県綾瀬市早川城山3-4-1
相模鉄道・JR・小田急線「海老名」駅よりバス(約15分)「城山公園」下車すぐ

『参考資料』
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年
「神奈川県の歴史散歩(上)」山川出版社、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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