平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




小坪路とは、鎌倉から小坪(現、逗子市)を通って逗子、葉山へと抜ける道をいい、
乱橋材木座村の光明寺前から和賀江・飯島を通って海岸沿いに小坪に行く道です。

『源平盛衰記』治承4年(1180)8月の由比ヶ浜・小坪合戦によると、
「畠山次郎は五百余騎にて、由井浜・稲瀬川の端に陣を取って、赤旗天に輝けり。
和田小太郎は白旗差させて二百余騎、小坪の峠より打下り」とあります。

平治の乱で伊豆に流された頼朝は、20年余を流人として過ごしていました。
以仁王が挙兵し、伊豆の国守源仲綱(頼政の嫡男)が宇治川で戦死すると、
国守は清盛の義弟平時忠に代わり、頼朝に対する監視は厳しくなりました。

京で検非違使として活動していた山木兼隆は、伊勢平氏の一族平信兼の子で、
父との不和により山木郷に蟄居(ちっきょ)させられていましたが、
時忠は兼隆を伊豆の目代に任命していました。
兼隆は北条にほど近い山木(伊豆の国市韮山町)に館を構え、
次第に清盛の威光を借りて周囲の郷に勢を振りかざすようになっていました。
治承4年(1180年)8月17日、伊豆で挙兵した源頼朝は、
まず手始めに山木兼隆を討ち取り、緒戦を飾りました。

そのあと頼朝は味方の軍勢を伊豆に集結させて、鎌倉に進軍する
手はずとなっていましたが、源氏累代の家人三浦一族は折からの暴風雨のため
出発が遅れ、本拠地の衣笠城(三浦半島中央部)を出たのが8月22日のことです。

頼朝三百騎は頼みとする三浦氏を待ちきれず8月20日に出発し、
三浦半島から西に進んでくる三浦一族と合流するため、23日に
石橋山(小田原市南西部)まで兵を進めました。ところが、そこで平家方の
大庭景親と伊東祐親の大軍に囲まれ、身動きがとれなくなりました。

そのころ、三浦義澄(よしずみ)らは酒匂(さかわ)川に到着しましたが、
大雨による増水のため、進軍を阻まれ、夜になったので酒匂川(小田原市)の
辺りで宿をとり、大庭景親一族の館に火をつけました。空を覆うばかりの
黒い煙を見て、景親は敵がすぐ近くにきていることを知り、
明日になって川の水が引けば、三浦軍が頼朝方に加わるだろうからと、
雨が降りしきる午後4時ごろに戦闘を開始しました。
手勢の少ない頼朝勢はたちまち壊滅状態となり、
頼朝はこの辺りの領主土肥実平(さねひら)に案内され、
石橋山背後の土肥の椙山(すぎやま)に逃げ込みました。

平氏から頼朝追討の命を受けた弱冠17歳の重忠は、父に代わって一族郎党を率いて
出陣しましたが、武蔵から相模まではかなりの距離があり、合戦に間に合わず、
石橋山合戦は平家方勝利と知り、本拠地に引き返すことにしました。

畠山氏は秩父一族の武蔵の豪族です。
秩父氏は源義家に従って前九年・後三年合戦に出陣し武功をあげ、
平治の乱後、重忠の父重能は平氏に仕え、この時、大番役で京都にいるため、
重忠がこの出動要請に応じたのは当然のことです。

一方、三浦軍は頼朝が大庭景親(かげちか)の軍勢に大敗したという悲報を
酒匂川の向こう岸から頼朝勢の大沼三郎の手真似によって知らされ、
やむなく本拠地の衣笠城(神奈川県横須賀市衣笠)に引き上げることとし、
海岸沿いに稲村ヶ崎を経て、由比ヶ浜から小坪(逗子市)に差しかかった時、
運悪く重忠軍と遭遇しました。

(三浦党の面々は)三浦へ通らんとて、馬を早めて行く程に
八松原(やまつがはら)・稲村崎・腰越浦・由井浜をも打ち過ぎて、
小坪坂を上らんとぞしたりける。(『源平盛衰記』)

相模の豪族三浦義明は、重忠の母方の祖父にあたります。
和田義盛は三浦義明の長男義宗の子、
どちらも義明の孫ですから、双方とも本気で戦う気はなく、
何となく和解が成立したところに思いがけない手違いが起こりました。

兄和田義盛から危急の知らせをうけた和田義茂(よしもち)17歳が
和睦を知らずに
杉本城から駆けつけ、畠山勢にわっと襲いかかりました。
気を許していた畠山重忠は激怒し、
由比ヶ浜から小坪にかけて行われた合戦は熾烈でした。

杉本城というのは、杉本寺(鎌倉市二階堂903)の裏山一帯がその址です。
三浦義明が一族の進出拠点として築き、杉本義宗の居城としたと伝えています。





由比ヶ浜

稲村ケ崎

稲村ヶ崎から小坪坂方面を遠望

この合戦で三浦勢は、三浦義明の孫、多々良重春、その郎党の石井五郎ら4名
失っただけでしたが、畠山側は綴(つづき)党ら50余名が犠牲となりました。
綴党というのは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国に生まれた小武士団・武蔵七党
(横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党)の一つです。

武蔵七党という名はあとからつけられたもので、その数は必ずしも七つではなく、
いざ合戦ともなれば
武蔵の有力武士、畠山氏や河越氏などの指揮下に入って出陣しました。
直属の家来ではなく、動員されれば応じる程度の間柄だったようです。


御霊神社前の合戦では、血気にはやる和田義茂が大男で力自慢の連太郎とその子、
郎党を一気に3人討ち取り、三浦義明が恩賞として太刀を与えたという。(『延慶本』)


 思いがけない合戦で多くの犠牲者を出したため、
重忠はその無念を晴らさねばならない立場にありました。
畠山重忠、その一族の河越重頼、江戸重長を大将軍として、武蔵七党ら三千余騎が
小坪合戦の屈辱を晴らすため、また平氏の重恩に報いるため、
三浦氏の衣笠城へ攻め寄せたのは治承4年(1180)8月26日の早朝のことです。
衣笠城址(2)衣笠合戦  
『アクセス』
「御霊神社」神奈川県鎌倉市坂ノ下3-17 江ノ電「長谷駅」下車徒歩約5分
『参考資料』
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
三浦一族研究会「三浦一族の史跡道」横須賀市、2008年
「新定源平盛衰記(3)」新人物往来社、1989年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
「神奈川県の地名」平凡社、1990年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 新定「源平盛衰記(3)」新人物往来社、1989年
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年 「検証・日本史の舞台」東京堂出版、2010年
「歴史人」(2012年6月号)KKベストセラーズ 
 

 

 



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畠山重忠(1164~1205)
の館は、秩父氏一族の畠山重能(しげよし)が
武蔵国男衾(おぶすま)郡畠山郷(現、埼玉県深谷市畠山)を本拠とし、
居館を構えたのが始まりとされています。

現在、その付近一帯が「畠山重忠公史跡公園」として整備され、
重忠の銅像や重忠とその家臣の五輪塔、重忠産湯の井戸などがあります。

荒川に架かる長い重忠橋を渡ると
あたり一面、長閑な田園風景が広がっています。





公園を入った所には、昭和63年に建てられた重忠の銅像があります。
愛馬「三日月」をいたわろうと鵯越の崖を背負って下りたという
『源平盛衰記』の話を描いた重忠の勇姿です。
重忠の豪力と優しい人柄からこのような話が創作されたと思われます。



畠山重忠公の墓  所在地 大里郡川本町大字畠山
鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、
長寛2年(1164年)秩父庄司重能(しげよし)の二男として、
現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、
後に畠山庄司(しょうじ)次郎重忠となった。
剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く
県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)
奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として
尊敬されてきたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、
元久2年(1205年)6月22日に二俣川にて一族とともに討たれた。
時に重忠42歳、子重秀は23歳であった。この畠山館跡には、
重忠公主従の墓として6基の五輪塔がある。

また、館跡には嘉元2年(1304年)の紀年号がある
百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による
重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、
通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在はこの地一帯が
重忠公史跡公園として整備されている。 平成11年9月 埼玉県

重忠の墓は高さ約2㍍の五輪石塔で、重忠が北条時政父子の謀略により、
二俣川(横浜市)で討たれた時につけていた八幡座(兜の頂上にある穴を飾る金物)を
埋めて造られたものという。(県指定史跡)

木曽義仲が多太神社に奉納した斎藤実盛の遺品と伝えられている兜
八幡座は矢印のところです



 江戸中期の『新編武蔵風土記稿』によると、宝暦13年(1763)に
満福寺の僧が重忠の墓を満福寺に移したと記されていますが、
明治17年に現在地に戻されています。



右側の板石塔婆(いたいしとうば)は、板碑ともいい中世に建てられた供養塔の一種で、
仏教の諸尊を梵字(ぼんじ)一文字で表した種子 (しゅじ) 、
キリークなどと呼ばれる古代インドのサンスクリット語の文字や
供養者、造立年月日、趣旨などが彫ってあります。




 椎の木の根元に重能の墓という自然石があります。



畠山重忠顕彰碑

畠山氏が秩父にいた頃、先祖の墓地にあった伽羅の木です。



碑に刻まれた文字は摩滅し読み取れません。

「畠山重忠公産湯ノ井戸 
 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は
武蔵国男衾郡畠山村(現、大里郡川本町畠山)に館を構えました。
のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・
三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、
その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。
又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、
古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります。
 平成十六(西暦二00四)年十一月吉日建立
 畠山重忠公史跡保存会」説明碑より

重忠は平治の乱の5年後、平家全盛時代の長寛2年(1164)に
この畠山に生まれ、後に菅谷(すがや)館に移っています。

清盛が三十三間堂を建立し、平家納経を厳島神社に寄進したのも
重忠が生まれた年の事です。

畠山重能
桓武平氏の流れをくむ秩父氏は平安時代中期頃から
現在の秩父市一帯を本拠として秩父盆地を開いた豪族です。
重能は秩父重弘の長男で畠山を氏とし畠山庄司と称し、妻は相模の豪族三浦介義明、
姉妹の夫が下総(千葉県)の豪族千葉介常胤と、ともに源義朝の家人でした。
両者が名のる介(すけ)は、朝廷が任命する国司の二等官の「介」ではなく、
在庁官人の地位を示しています。

重能の叔父の秩父重隆は、婿の源義賢(義朝の弟)と組み
さらなる勢力拡大を図りましたが、義平(義朝の長子)が大蔵館を急襲した
大蔵合戦で敗れ、義賢とともに戦死しました。
重能はこの時、義平率いる軍勢に属していました。これは当時、秩父一族の
庶流である秩父重隆が家督を継ぎ、武蔵国総検校職(そうけんぎょうしょく)を
掌握していることに嫡流である重能が不満を持っていたためと見られています。
こうして義朝は、秩父一族はじめ武蔵の武士団をその配下に入れることに成功しました。

『源平盛衰記』によると、義平は後難を恐れ、重能に義賢の子の駒王丸(義仲)を
探し出し殺害するよう命じましたが、重能は2歳の幼子を殺すのは不憫だと、
斎藤実盛に密かに託し、実盛が母に抱かれた駒王丸を木曾へ連れていったという。


平治の乱後、武蔵国が平家の知行国となると、重能はその家人となり20年余が過ぎました。

治承4年(1180)頼朝が挙兵した時、重能は弟の小山田有重や宇都宮朝綱とともに
大番役のために在京中でしたが、頼朝に縁のある者として
帰国を許されず、平家の北陸遠征軍に従い戦っています。

大番役とは諸国の武士が京都に滞在し、三年間宮廷警護などの役にあたったものを
いいますが、地方分離を防ぐ懐柔策のひとつで危急の時には人質にもなります。

次いで平家都落ちの時、東国では畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱の一族が
源氏に寝返ったため、一門の中に三人を斬捨てるべしという声がありましたが、
知盛(清盛の4男)は彼らを故郷に帰すよう宗盛を説得したという。
『吾妻鏡』文治元年(118577日の条によると、
宇都宮朝綱と姻戚関係にあった平貞能(さだよし)が
宗盛に口添えをして、この三人を助けたとしています。


『源平盛衰記』によると、平家一門の都落ち際、畠山重能・小山田有重・
宇都宮朝綱は淀までお供して下りました。宗盛は三人を近くに召し寄せ、
「何処までも伴いたいけれども、汝らの子息・家人は皆東国に在って頼朝に従っている。
ぬけがらだけを供に連れていくこともあるまい。早く故郷へ帰れ。」といわれ、
「長い間御恩を賜って妻子を養ってきました。今更妻子が恋しいと
帰るわけにはいきません。落ち着かれる所までお供します。」というと
「親の子を思う心は、身分の上下に関係なく皆同じである。
子は東国にいて源氏に従い、親は西海に下って身を滅ぼすことは不憫である。
すぐに帰って頼朝に従うがよい。」と暇をとらせました。
三人にとって平家は長年の主であるので名残を惜しみつつ、
涙ながらに別れを告げました。
これ以後、重能は歴史の表舞台から姿を消しています。
重忠に家督を譲って隠居し、頼朝には仕えなかったものと思われます。
畠山重忠の菩提寺(満福寺)  
畠山重忠館跡(菅谷館跡)  
『アクセス』
「畠山重忠公史跡公園」深谷市畠山510-2
秩父鉄道「永田駅」下車 南東方面に進み、重忠橋を渡り徒歩約20分。
駐車場は、公園北側入り口付近にあります。
毎年4月には、重忠まつりが開催されます。
『参考資料』
「新定源平盛衰記(4)(5)」新人物往来社、1994年 1991年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年 
「郷土資料事典 埼玉県」ゼンリン、1997年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年 
上杉和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年

 



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畠山重忠(1164~1205)は畠山重能(しげよし)の嫡子、
母は相模の豪族三浦大介義明の娘です。
その上、重能の伯母が義明の妻という重縁にありました。

武蔵国男衾郡(おぶすまごおり)畠山荘(現、埼玉県深谷市畠山)に生まれ、
幼名を氏王丸(うじおうまる)といいました。

畠山氏は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の嫡流で、秩父武綱の時に八幡太郎義家の
後三年合戦の先陣を務め、その子、秩父権守重綱以来、重忠に至るまで、
代々武蔵国の総検校職(そうけんぎょうしょく)などをつとめました。

畠山と称したのは重能からで、畠山庄司と称し、重忠は畠山庄司次郎と呼ばれました。
当時中央の貴族たちは、国司に任命されても遥任(ようにん)といって現地に赴任せず、
目代を派遣して租税を徴収し、在庁官人が国守の実務を代行していました。
そのトップが総検校職と考えられ、在庁官人として武蔵国における棟梁の地位にありました。

多くの武蔵武士と同様に源義朝に従っていましたが、平治の乱で義朝が敗死すると、
武蔵国は平知盛が武蔵守となり、総検校職の地位にある重能は当然平家に仕えます。
この頃になると、武蔵武士も次々平家の家人となっていきます。


畠山は熊谷市の西方約10㎞、奥秩父山地から流れ出た荒川の南岸にあたり、
昔は一面の桑畑で、今でも水田の少ない殆んどが畑地帯です。
この地には、重忠が再興したという白田山満福寺があり、
その近くに畠山館跡と伝えられる地域が公園として整備されています。



荒川に架かる重忠橋  重忠が愛馬三日月を背負う姿が彫られています。
橋の右手に見えるのは、川をせき止め用水路に取り入れる
施設の頭首工(とうしゅこう)です。





満福寺(まんぷくじ) 所在地 大里郡川本町大字畠田
白田山観音院満福寺は、真言宗豊山派の寺院で鳥羽天皇(1110年頃)の
御代に弘誓房(ぐせつぼう)深海上人が草創した。
後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩提寺としたものである。
本尊は不動明王、制吒迦(せいたいか)、矜羯羅(こんがら)両脇侍の
三尊立像で彩色の宮殿に安置され、須弥檀、
前机とともに町指定文化財になっている。
現本堂は、以前は講堂で間口十間、奥行七間あり、
寛政4年(1792)建立のものである。
重忠公の菩提寺として
実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、
長刀、大般若経、御朱印状等が伝えられている。
別棟の観音閣には、重忠公の守本尊(等身大)である六尺三寸の
千手観音像が安置され、秩父坂東西国百番観音像、算額絵馬
(和算家が自己の発見した数学の問題や解法を書いて奉納した絵馬)等がある。
また、当寺の裏には、彰義隊士水橋右京之亮の墓、重忠廟の碑もある。
平成11年9月 埼玉県



 本堂には、重忠の位牌「実山宗真大居士(じつざんそうしんだいこじ)」があります。


本堂西に観音堂があり、重忠の守り本尊だったという
等身大の十一面観音像が安置されています。

畠山重忠は知性と武勇を兼ね備え、鎌倉武士の鑑と讃えられました。
しかも桁外れの豪力の持ち主で、
それを物語る逸話も数多く残っています。
一の谷合戦で義経軍に属した重忠は、ここは難所であるから怪我させてはいけないと
鎧の上に七寸の愛馬を背負い、平家一の谷の陣背後の崖を椎の木を杖にして
下っていきました。「重忠は東国一の大力といわれているが、
これは人間わざではない、鬼神のしわざである」と人々が舌を巻き、そして
馬をいたわる重忠のやさしさに感心したという話が『源平盛衰記』にみえます。

当時の馬の丈は前脚の先から垂直に肩の高さまでを測り、
四尺を標準とし、それより1寸大きい馬を1寸(ひとき)、2寸大きい馬を
2寸(ふたき)、7寸大きい馬を「七寸(ななき)」といいます。
近藤好和氏は「当時の馬の体重は300キロ前後と考えられ、
どんな怪力でも300キロを担いで前に歩くことは至難の業であり、
あり得ない話である。」とされています。(『源義経』)
重忠は義経別動隊ではなく、安田義定が率いる本隊に属していたとあり、
このような話は創作以外の何ものでもない。(『武蔵の武士団』)


ただ重忠が大力であったことは事実だったようで、
鎌倉軍と義仲軍の宇治川合戦で、
重忠は川を渡るうち、敵に馬を射られ急流の中を泳いで対岸に上ろうとした時、
後ろから腰にすがりつく者がいます。あまりに流れが速いので馬を流された
横山党の大串重親です。「いつもお前達は重忠を頼るのだから。
怪我をするではないぞ。」と重親を鷲づかみにすると岸に放り投げました。
重親はすぐに起き上がり、あつかましくも「武蔵国大串次郎重親、宇治川の
徒歩(かち)立ちの先陣ぞや。」と名乗ったので敵も味方もどっと笑ったという。

永福寺(ようふくじ)庭園造営の際、誰も動かすことのできない
庭の巨石を重忠が一人で持ち上げ池の中に指図通りにおき、
見るものを感心させたという話もあります。
永福寺(廃寺)は頼朝が文治5年(1189)12月から5年の歳月をかけて
奥州合戦の戦没者の菩提を弔うため、今の鎌倉宮の裏手の谷に
建立した大寺院で、この工事には御家人たちも多く手伝いました。
これは平泉中尊寺の大長寿院(二階大堂)を模したもので、
二階堂と呼ばれ鎌倉宮付近の地名にもなっています。

また重忠が長居という相撲取りを打ち負かした話も
『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』(巻10・相撲強力)にあります。
あるとき、長居が頼朝の前に現れ、自分は東国一の大力であると自慢しました。
ちょうどそこへ重忠が出仕してきたので、2人に相撲を取らせると、
長居は重忠にあっさり肩をつかまれ、肩の骨をくじかれて
尻もちをついて気絶したので、居並ぶ御家人達は皆目を丸くしたという話です。

芭蕉が ♪昔聞け 秩父殿さえ 相撲取り
(昔はかの有名な秩父殿さえ ただの相撲取りだったのだ)と詠んでいます。
秩父殿とは畠山重忠のことです。

重忠は武勇だけでなく歌舞音曲の才にも秀で、鎌倉へ護送された
静御前の舞にあわせて銅拍子をうったのが重忠でした。
天下の名人と謳われた静御前の舞の伴奏を巧みにつとめるなど、
音感に優れていたことがうかがわれます。

『吾妻鏡』によると、鶴岡八幡宮で神楽が催され、頼朝は参詣した後に
八幡宮別当の坊に招かれ酒宴が開かれました。
その席で京都から来た今様達者の稚児の吹く横笛に合わせて
重忠が今様歌を披露すると、頼朝はさかんに面白がって
暗くなるまで楽しんだという話もあります。

重忠は少年の頃、大番役の父重能に従って京都に滞在した時に
都の文化を身につけたと推測されています。
『アクセス』
「満福寺」埼玉県深谷市川本町畠田  秩父鉄道永田駅下車 徒歩約17分
『参考資料』
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年 
 福島正義「武蔵武士 そのロマンと栄光」さいたま出版会、平成15年
 成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年 「新定源平盛衰記(5)」新人物往来社、1991年
近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年

 

 

 



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児玉党は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で誕生した武蔵七党の一つ、
その中で最も規模の大きい党でした。
主に武蔵国最北端地域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡一帯)を中心に入間・秩父郡
さらに上野国(群馬県)にまで広がった党で、本宗家は児玉、庄などと称し、
児玉経行の娘は秩父重綱の妻となり、悪源太義平の乳母でもあったという。

当時の東国には、千葉氏・小山氏・畠山氏などの大武士団があり、
それに比べれば武蔵七党は、手勢も少ない小さな存在でしたが、
一の谷合戦で、平家方の名のある武将を討ち取り活躍したのがこの武士団でした。

西ノ手の大将軍薩摩守忠度が敗戦となって落ち延びようとしているところを、
猪俣党の岡部六弥太が討取り、猪俣小平六は山ノ手の侍大将平盛俊に
一旦押さえ込まれましたが、隙をみて首をとりました。
敦盛は沖合の助け船に乗ろうとしているところを、私市党の熊谷直実に
呼び止められ引き返したところを、首をとられ人々の涙をさそいました。
父平知盛の窮地を救った知章とその家来の
監物(けんもつ)太郎頼賢(方)を児玉党が討ち取っています。

平安時代頃には、さまざまな理由で敵を助けた例があります。
宇都宮朝綱(ともつな)は姻戚関係にある平貞能(さだよし)が平家一門を離れ、
朝綱を頼って来たとき、頼朝に貞能の助命を申し出で許されています。

一の谷合戦で私市党の熊谷直実と先陣争いをした西党の平山季重は、
源平合戦での功で、降人となった原田種直から没収した
土地の地頭職を賜り、その身柄を預かりました。
九州における平家重臣の筆頭、種直の罪は重く、当然処刑されるはずでしたが、
季重は頼朝に種直の助命嘆願をし、赦免されることになりました。
季重は若いころから源氏方の勇猛果敢な人物として活躍し、
実朝が生まれる時には、鳴弦の役を仰せつかるなど頼朝に重用されています。

奥州合戦で頼朝軍と戦い捕虜となった藤原泰衡の郎党由利八郎は、
尋問にたいして堂々たる態度で答え、許されて本領を安堵されました。

児玉党の庄三郎忠家は義経に仕え、弟の庄四郎高家は木曾義仲に仕えました。
元歴元年(1184)正月、義仲は頼朝が送った範頼・義経軍に攻められ、
粟津の戦いで討死しましたが、高家は生き残りなおも激しく戦っていました。
兄の忠家は使いを遣わして木曽殿はすでに戦死なさった。
忠家がよきに計らうので義経殿のところへ参上するよう申し伝えましたが、
「命を助かりたいと敵に従うことは、武士の面目にかかわることである。」と
二度までも辞退したので、忠家は弟を捕えて義経にお目にかけようと、
名馬に跨り真っ先に進み来る弟を待ち受け馬を馳せ寄せむづと組み、
郎党の手を借り高家を虜にして義経の前に引き立てていきました。
義経は忠家の弟を思う心に動かされ、高家の命を助けました。

高家はその後の一の谷合戦では、義経に従い命をなげうって戦い、
逃れる平経正(敦盛の兄)を明石の大蔵谷で追い詰め自害させ(『源平盛衰記』)、
高家の馬上から射った矢が西を指して落ちていく生田森の副将軍平重衡の
馬に命中して生け捕りにしています。(『百二十句本』)

木曽義仲の四天王のひとり、樋口兼光と児玉党との間には姻戚関係があったため、
義仲戦死後、児玉党の人々は自分達の手柄と引き換えに兼光の命を助けようと奔走し、
朝廷に助命を乞いましたが、その罪科は軽くないとして許されませんでした。

「巻9・樋口被斬」によると、樋口兼光は義仲を裏切った源行家を討とうと、
紀伊国名草(現、和歌山市)に向かっていましたが、都に戦ありと聞き、
急ぎ引き返したところ、淀の大渡の橋
(現、桂川・宇治川・木津川合流点よりやや下流付近)の辺りで
今井兼平の家来とばったり会い、義仲と兼平の最期を知りました。
樋口は涙を流し、「もはやこれまでである。お前たちは生きて
いづこへでも落ち行き、出家して義仲殿の後世を弔え。兼光は都へ上り討死して、
あの世で主君にお目にかかる。」と言ったので、500余騎の兵は
落ち行く先々で隊を離れて行き、
とうとう20騎ばかりになってしまいました。

かねて縁戚関係のある児玉党の人々が寄り合い、「弓矢とる者同士が広く
人とつきあうのは、万一合戦の時にも、敵方に知人がいれば、ひとまず身の
安全がはかれるし、命を助けてもらえるかも知れないと思ってのことである。
我らの今度の手柄とひきかえに、命だけは助かるようとりなしてやろう。」と考え、
兼光に降人になるよう言い送りました。

兼光は日ごろは武勇の聞こえ高い武士でしたが、運の尽きであったのか、
児玉党の説得に応じ捕虜となりました。児玉党は自分たちの勲功の賞として、
兼光の命を賜りたいと朝廷に申し出で、これを義経が後白河院に伺いをたてたところ、
一度はお許しがでましたが、公卿、殿上人、局の女房、女童までも
「木曾が法住寺を焼き滅ぼし、多くの人々が亡くなったのは今井と
樋口によるものであり、これを助けることは口惜しい」と口々に申したため、
死罪と定められました。法住寺合戦で兼光が御所の身分ある女房たちを
捕えて加えた乱行が、今は捕虜となった兼光の命とりとなったようです。

兼光は義仲、並びに残党5人の首が大路を渡される際、供をつとめることを
頻りに申し出たので許され、
藍摺(藍で模様を染めたもの)の水干、
立烏帽子の姿で一緒に引き廻され、それを一目見ようと、群衆が市をなしたという。
その次の日、兼光は渋谷次郎高重(渋谷重国の子)に斬られました。

樋口次郎兼光は木曽義仲を養育した中原兼遠の次男で、信濃国西筑摩郡樋口谷
(現、長野県木曽町日義)に領地をもっていたため、樋口と称しました。
児玉党の婿となって往復の途中、斎藤別当実盛とたびたび会っていたため、
白髪を黒く染めた実盛が篠原合戦で義仲軍に討ち取られた時、
首実検に呼ばれその首級を一目見るなり、「あなむざんや、斎藤別当にてそうろう。」と
そのまま涙にくれたと「巻7・実盛」に記されています。

武蔵生まれの義仲(駒王丸)は誕生の翌年、父の義賢(よしかた)が勢力争いから
義朝(義賢の兄)の長子、悪源太義平に討たれたため、
斎藤実盛に送られ、木曽の豪族中原兼遠を頼って逃れてきたのです。
それで兼遠と実盛は旧知の間柄だったのです。

兼光は弟の今井四郎兼平、根井行親、その六男盾親忠(たてちかただ)とともに
木曽義仲四天王と呼ばれました。四天王の名前は諸本によって異同があり、
読み本系の『平家物語』には、四人のきり者として、
樋口兼光、今井兼平、根井行親、高梨忠直を記しています。

兼光と兼平は義仲と幼いころから木曽で一緒に育ち、共に側近として仕えました。
義仲の強みは木曽勢との団結と固い絆です。
兼光は恥辱を受けても義仲の首の供をし、木曽四天王と呼ばれた人たちは
義仲と最期まで運命を共にしました。

木曽義仲四天王(日義村義仲館にて)


根井大弥太行親は現在の長野県佐久地方に勢力を誇った豪族です。
中原兼遠の菩提寺林昌寺の記録によると、
行親は兼遠の兄兼保が養子となった佐久の豪族滋野氏で、
根井滋野行親とも称し、義仲の後見役のような存在でした。

若いころ、保元の乱に後白河天皇方の義朝勢として参戦し、
崇徳上皇方が籠る白河殿を襲撃しましたが、大鎧の胸板を射られて重症を負い、
戦線を離脱したことが『保元物語』に見えます。

治承4年(1180)頼朝の挙兵に続いて木曽義仲が平家打倒の旗を揚げると、
根井行親は息子の盾親忠ら一族を率いて真っ先に義仲のもとに駆けつけ、
倶利伽峠で平家の大軍を破り、義仲とともに京へ入りましたが、
攻め上ってきた義経勢との宇治川の戦いで奮戦の末、戦死しました。

信濃で挙兵した義仲に対して、越後の平氏方の雄、城一族が大軍を率いて、
信濃に攻め込み、横田河原(長野県篠井村千曲川畔)に陣を布いて合戦となりましたが、
義仲軍は奇襲攻撃で敵を越後国へ退け、横田河原合戦は実質義仲のデビュー戦となりました。
勝因のひとつは、敵状の視察をして城一族の行軍による疲労などを見抜いた
根井行親の嫡男・楯六郎親忠によるところが大きいとされています。
その最期は宇治川合戦に参戦し、六条河原で討ち取られたという。
木曽義仲の里 (徳音寺・南宮神社・旗挙八幡宮)  
『参考資料』
水原一「新定源平盛衰記(3)(5)」新人物往来社、1989年 1991年
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
   冨倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)(下巻)」角川書店、昭和42年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 
「木曽義仲のすべて」新人物往来社、2008年 
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社、2012年 
佐伯真一「戦場の精神史」NHKブックス 、平成16年  
田屋久男「木曽義仲」アルファゼネレーション、平成4年
  成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士 事績と地頭の赴任地を訪ねて」
まつやま書房、(上)第3版2007年 (下)2005年




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