平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



由比ヶ浜通りから鎌倉消防署長谷出張所横の道を進むと、
甘縄(あまなお)神明宮があります。

もとは甘縄神明宮あるいは甘縄神明社と称しましたが、
昭和7年(1932)に甘縄神明神社に改められました。
ただ、いまだに甘縄神明宮と呼ぶ人が多くいます。

左手が鎌倉消防署長谷出張所。



当社は鎌倉時代以前からある古い神社の一つで、
頼朝・北条政子・実朝など源氏将軍家の尊崇が篤い社でした。
長谷の鎮守であり、鎌倉大仏の鎮守でもあるという。

鳥居傍に甘縄神明宮の石標が建っています。
甘縄神明宮の裏山が御輿嶽(見越岳=みこしがだけ)と
呼ばれたことから石標右上にも「見越嶽」と刻まれています。


甘縄神明宮の鳥居を入ったあたり一帯は、
安達藤九郎盛長の館跡です。

安達盛長(1135~1200)は『吾妻鏡』や物語類には、
藤九郎盛長の名で登場していますが、奥州合戦の後、
陸奥国安達荘を領して安達氏を名のります。

頼朝の乳母比企尼の長女・丹後内侍の
婿であったことから、頼朝の配所蛭が島に
生活物資を運び、身辺の世話を受け持ったのが盛長です。

比企尼は平治の乱で義朝が敗れ、頼朝の伊豆配流が決まると、
夫の比企掃部允(かもんじょう)とともに京から
所領のある武蔵国比企郡に帰り、以後、
旗揚げまで頼朝の生活を支え続けた功労者です。

『吾妻鏡』には、頼朝が盛長の館を
しばしば訪れたことが記されています。
文治2年(1186)6月、病気の丹後内侍を
頼朝はひそかに見舞い、その回復を祈願したという。

治承4年(1180)8月の挙兵の際に頼朝は、盛長を
関東武士たちのもとに遣わし挙兵への参加を勧誘させました。

重要な任を負った盛長は、河内源氏と深いつながりのある
波多野氏(神奈川県秦野市)、山内首藤氏(鎌倉市山ノ内)らを
勧誘に回りましたが、色よい返事は得られませんでした。

頼朝の兄の朝長(ともなが)は、波多野遠義(とおよし)の
娘を母に持ち、波多野氏のもとで養育されました。
頼朝の乳母であった山内尼の夫、
山内首藤(やまのうちすどう)俊通(としみち)は、
平治の乱で子の滝口俊綱とともに討死しています。
源頼朝の乳母山内尼  

波多野氏・山内首藤氏ともに源氏譜代の家人でしたが、
山内首藤経俊(つねとし)は、頼朝の乳母子でありながら
石橋山合戦では頼朝に弓を引いたため、山内尼は頼朝に
敵対した我が子経俊の命乞いを行っています。
朝長の伯父の波多野義常も頼朝に協力せず後に滅んでいます。

盛長は石橋山敗戦後、頼朝とともに小船で安房国に逃れ、
下総国(千葉県北部・茨城県西部)の大豪族である
千葉常胤への使者に立ち、常胤を説得して味方につけました。

安房国を出て、房総半島を北に鎌倉を目指して進む頼朝は、
大武士団で在庁官人の地位にあった上総国(千葉県)の
上総広常に和田義盛を、やはり在庁官人の
千葉常胤(つねたね)には盛長を密使として送り、
軍勢への参加を呼びかけたのです。

『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は、安達盛長の出自を
藤原北家魚名流の小野田三郎兼盛(広)の子としていますが、
『保暦間記(ほうりゃくかんき)』は、
盛長を先祖知れずと記すなど明らかではありません。

拝殿



石段を上りつめて振り返ると、由比ヶ浜が眺望できます。

拝殿の背後に本殿があります。

石段の左手前には、「北条時宗公産湯の井」があります。

建長3年(1251)に生まれた時宗の産所は、
安達邸内の一角にあった松下禅尼の甘縄の第でした。
松下禅尼は安達景盛の娘で時宗の祖母です。
こんなところから安達邸にごく近くゆかりの深い
当社境内の湧き水に「産湯の井」の伝承が生まれたようです。

松下禅尼や北条時宗・貞時・高時らの夫人たちは、
安達氏の出であり、鎌倉幕府の重臣安達氏と
北条氏との関係が親密であったことがうかがわれます。
北条氏と婚姻関係を結んだ安達氏は、関東武士団の有力者が
次々と倒れた後も最後まで生き残りますが、
鎌倉末期に霜月騒動で滅ぼされました。


甘縄神明宮の境内に入ってすぐ右側に鎌倉町青年団によって
建てられた
足達盛長邸址の碑があります。

足達(安達の誤り)盛長邸址 碑文
盛長は藤九郎と称す 初め頼朝の蛭が島に在るや 
克く力を勠(合)せて其の謀を資(たす)く 石橋山の一戦 
源家がト運の骰子(さい)は全く暗澹(あんたん)たる前途を示しぬ 
盛長 頼朝に尾し扁舟(小船)涛(波)を凌(しの)いで安房に逃れ 
此処に散兵を萃(集)めて挽回を策す 

白旗鎌倉に還り天下を風靡するに及び 
其の旧勲に依って頗(すこぶ)る重要せらる 
子 弥九郎盛景(景盛の誤り) 孫 秋田城介義景 邸を襲ぐ
  頼朝以来将軍の来臨屡々(しばしば)あり 此の地即ち其の邸址なり
 大正十四年三月建  鎌倉町青年団

大意
盛長は藤九郎と称します。源頼朝が伊豆の蛭が島にいる時、
頼朝の計画が成功するように助けました。石橋山の戦で敗れ、
源家の前途が真っ暗になったときも、盛長は頼朝と共に
小船で安房に逃れ、そこで軍勢を建直して策を練りました。
白旗が鎌倉にはためく時がくると、 その功績により、
重要な地位に就きました。盛長の子の景盛(かげもり)、
孫の秋田城介義景(よしかげ)が家を継ぎました。

(実朝の代になって出羽介となり秋田城を掌握して
武門の栄誉とされた秋田城介と称し、
秋田城介は、安達氏の世襲の職となりました。)
頼朝やその後の将軍がしばしば訪れました。
この場所がその屋敷のあった場所です。

甘縄神明神社略誌
御祭神 
天照大神 伊邪那岐尊(白山)倉稲魂命(稲荷)
 武甕槌命(春日) 菅原道真(天神)

御由緒
和銅三己酉(約1250年西紀710年)染屋太郎大夫時忠の創建です。
永保元年酉年(約880年前西紀1081年)源義家公が社殿を再建せらる。

源頼朝公政子の方實朝公など武家の崇敬が篤く古来
伊勢別家と尊称せられている鎌倉で最も古い神社です。
 社殿の裏山は 御輿ケ嶽(見越ケ嶽とも書く)と云い
古くから歌によまれています。

源頼義は相模守として下向の節当宮に祈願し
一子八幡太郎義家が生れたと伝えられています。
都にははや吹くぬらし  鎌倉の御輿ケ崎秋の初風
(当神社略誌より)

この和歌は宗尊(むねたか)親王が詠んだもので、
親王の瓊玉(けいぎょく)和歌集に収められています。
御興ケ崎(みこしがさき)
社殿の裏山は神輿ヶ岳(見越ヶ嶽とも)と言い、
古くから歌に詠まれています。

宗尊親王(1242~74)は、後嵯峨天皇の皇子です。
九条家出身の第5代将軍頼嗣に代わって第6代将軍となり、
皇族出身で初めて鎌倉幕府の征夷大将軍となった人物です。

鎌倉太刀洗の水(頼朝はなぜ上総介広常を殺害したのか) 
平治の乱で敗走の途中に負傷した朝長は、美濃国青墓で
自害したとも
父の手にかかったとも伝えられています。
青墓(源朝長の墓・元円興寺)  

『アクセス』

「安達盛長館跡」神奈川県鎌倉市長谷1-12-1 江ノ電長谷駅より徒歩約5

『参考資料』

「神奈川県歴史散歩(下)」山川出版社、2005
神谷道倫「鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24

現代語訳「吾妻鏡・頼朝の挙兵」吉川弘文館、2007年 
元木泰雄「源頼朝 武家政治の創始者」中公新書、2019年 
水原一「新定源平盛衰記(2)文覚頼朝に謀叛を勧むる事」新人物往来社、1993

本郷和人「人物を読む日本中世史」講談社、2006

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« 源範頼館跡(...   
 
コメント
 
 
 
お元気ですか? (yukariko)
2021-08-22 18:22:25
新型コロナがひどくなって警戒宣言も延長されました。
予防接種は六月から7月初めに完了し、息子の職場接種したので少し安心ですが、習い事もお休み、買い物以外では出かけることもない日々。
編み物をだらだらとしながら、オリンピックばかり毎日見てこの夏を過ごしました。
自分のブログも月イチ、お友達のサイトも訪ねることもたまにしか…という情けない毎日です。

 友人に久しぶりに残暑見舞いの代わりにコメントを書いています。
我が身を反省しつつ、シャッキリとお元気にお過ごしだろうなぁと思いながら。
 
 
 
アニメ平家物語 (揚羽蝶)
2022-01-07 22:30:26
 いつもブログを、拝見しておりましたが、最近更新が、ないので、さみしく思います。パソコンの調子が悪いのでしょうか?それとも体調がよろしくないのでしょうか?
また、たまにでも良いので更新していただくと、嬉しいです。この場をお借りして申し訳ないのですが、1月14日の夜中から関西テレビで初めてのアニメーションの平家物語が、始まります。豪華キャストで面白そうです。若い人たちも平家物語に興味を持っていただけたら良いと思います。NHKの大河ドラマも始まります。少し時代がずれますが、源平を取り上げて良いと思います。もし良かったら無理をなさらず、たまでいいので、更新よろしくお願いいたします。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。