平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




熊谷次郎直実は武蔵の私市(きさいち)党に属し、戦時には命をかけて
勇猛果敢に戦い、平時には一貫して 実直な生きざまを貫いた東国武士でした。
手柄を強く求めていた直実の姿がよく描かれているのが、
「巻九・一二之懸(かけ)」の先陣争いです。

一の谷の戦いで、熊谷直実は搦手の義経別動隊に属していましたが、
この隊は馬で一ノ谷背後の難所を一団となって駆け下りるので、
戦功が挙げられないだろうと、夜中にこっそり隊を抜け出し、
息子の小次郎直家と旗持ち(郎党)を伴い、一ノ谷の先陣を狙って、
多井畑(須磨区)から平忠度が守る西ノ木戸に向かいます。

やはり義経別動隊を抜け駆けし、郎党と僅か二騎で先陣をめざしていた
平山武者所季重(すえしげ)は、横山党の成田五郎に声をかけられます。
「一番乗りを早々となさるなよ。味方の兵が後ろに続いて来なければ、先陣の
功名の確認をしてもらえないぞ。」と引き留めるので、それもそうだと思い
一緒に馬を進めていると、その隙に成田はさっと駆けだしました。
季重は馬に一鞭あて成田を追い抜き、おりから来合わせた
熊谷次郎直実父子とともに先陣手柄を競って西の木戸口に向かいました。

「武蔵の国熊谷次郎直実、小次郎直家一ノ谷の先陣ぞや!」と
大声で名乗りをあげますが、西木戸の総大将薩摩守忠度は、
まだ夜が明けてないので取り合いません。
そのうち平山季重も到着し、共に夜明けを待っている時、城内から
かすかに管弦の調べが聞こえてきたことが『源平盛衰記』に見えます。

次第にあたりが明るくなると、うかうかすると平山季重に、
一番乗りの手柄を奪われかれないと焦った熊谷直実は、
自分が先陣であることをアピールするために、再度名乗りをあげます。
これを聞いて「一晩中名乗っている熊谷父子を引っ捕えてこよう」と
木戸口の柵を取り外し、越中次郎兵衛盛嗣(越中前司盛俊の子)、
上総五郎兵衛忠光(上総介忠清の子)、悪七兵衛景清(忠光の弟)ら20余騎が
躍り出ると、平山季重はすかさず熊谷直実より先に木戸口へ駆け込みました。

敵中に突入したものの、郎党を含めて僅か5騎であった熊谷、平山らは
平家方の猛攻を受け、小次郎直家が負傷し、平山の郎党が討死にしたという。
ちょうどそこへ土肥実平率いる搦手本隊七千騎が駆けつけ、
源氏の白旗と平氏の赤旗が入り乱れての激戦となりました。

熊谷直実が先に先陣の名乗りをあげましたが、
敵陣の中に先に入ったのは平山季重です。
季重は城内には先に入りましたが、名乗ったのは直実の後です。
これを「熊谷、平山一二の駆け」といい、
のちに二人の間には争いまで起きたようです。

戦いでは、一番初めに敵陣に乗り込んで名乗りを挙げることや
敵将の首を討ちとることが功名手柄につながります。
その見返りに与えられる恩賞(土地・地位の保障)をめざし
時には味方をだしぬいてでも武者たちは命がけで働きました。
「人に勝る功をたてねば、生きて帰るまじ。」の
意気込みで東国の武士は故郷をあとにしたといいます。

いざ出陣といっても息子の他には、旗持ちの郎党一騎伴う程度の
直実のような
小領主は多少の危険を冒しても、
手柄を狙わねばならなかったのです。

平山季重は父の直季(なおすえ)の頃から源為朝・義朝に仕え、
保元の乱には、義朝勢の一員として後白河天皇方について功名をあげ、
後白河院の武者所となりました。
平治の乱の際は、熊谷直実とともに悪源太義平に従った
気鋭17騎の中の1騎でした。
治承4年(1180)11月、頼朝の佐竹氏征伐、金砂城(きんさじょう)の戦
いでは直実とともに目覚ましい軍功をたてた。と
『吾妻鏡』にあり、季重と直実は長年のライバルでした。

成田五郎の父成田野三成綱は、流人時代の頼朝に安達盛長らとともに仕え、
『吾妻鏡』によると、平家追討後、阿波国麻植保地頭職を与えられ、
京都で刑部丞に任じられ、
建久6年(1195)頃には尾張国の守護となるなど、
武蔵武士の中では破格の待遇を受けていました。
長子義成も頼朝に仕え、
京都守護一条能保(頼朝の同母姉妹)の家人となっています。
熊谷次郎直実の本拠地(熊谷市の熊谷寺)
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社 「図説源平合戦人物伝」学習研究社
成迫政則「武蔵武士(上)」まつやま書房 「検証日本史の舞台」東京堂出版
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館




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西行は弘川寺の座主であった空寂上人に心酔し、この地を
終焉の地に選んだといわれています。南北朝時代には、
楠木正成の戦場となり、戦国時代には家督相続をめぐり
河内国守護
畠山氏兄弟による河内国の争奪戦で堂塔はことごとく焼失してしまいました。
江戸時代に「今西行」
と呼ばれた似雲(じうん)法師が
この地を訪れ、諸堂を再建しました。

弘川寺をはじめて訪ねたのは平成14年春のことでした。
近鉄電車上太子駅から14Kの道を竹の内街道から叡福寺、小野妹子の墓、
磐船神社、高貴寺など寄り道しながら、葛城山系の麓を通って
ウォーキング仲間とともに
満開の桜をくぐり辿りつきました。
手入れの行き届いた庭園に面した方丈で、ご住職から西行、似雲、
待賢門院璋子、美福門院などのお話を聞いた後、西行、似雲ゆかりの
資料を
集めた西行記念館に案内していただきました。

再び弘川寺に参拝したのは、山全体がまだ薄茶色に染まっている
平成19年の春まだ浅い頃でした。
花にはまだ早いこの季節、不便な場所に位置する
この山寺に上ってくる人影はまばらです。

やはり以前訪ねた春の華やかな時とは、だいぶ様子が違っています。


弘川寺本堂
「弘川寺 当寺は天智天皇四年役行者によって創建せられ、天武・嵯峨・後鳥羽
三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来であります。
この上に西行堂が、更に
丘上に西行墳と似雲墳があります。本坊には西行に関する文献を保存し、
庭園に天然記念物「海棠」の老木があります。」(現地駒札より)


本堂の右手に回って少し上ると似雲法師が建てた西行堂があります。
堂内には西行坐像が安置され、お堂の左手には川田順筆の歌碑がたっています。
 ♪年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 
この歌は西行が東大寺再建の砂金を勧進するため、奥州へ赴いた時、
難所で有名な掛川の小夜の中山で詠んだものです。

さらに山道を上ると、本堂裏山の広場に西行の墓があります。

西行の墓は小さな円墳です。傍らに西行の歌碑があり、
その前には人の背丈の二倍はありそうな塔婆が立っています。

西行墳
西行(円位)上人は晩年空寂座主の法徳を慕って登臨され、
文治六年二月十六日七十三歳当寺において入寂されました。(現地駒札より)
2月16日は現行暦でいうと、3月23日にあたります。
春には桜の花が供えられ、この辺一帯似雲の植えた桜で埋め尽くされます。

似雲法師が亡くなると遺言により弘川寺に遺骨が送られました。
その墓が西行の墓を見守るように向き合ってあります。
似雲は江戸中期広島に生まれましたが、やがて出家し京都で和歌を学び、
各地を彷徨した後、60歳のころ弘川寺にやって来ました。
ここから続く周遊路にも多数の桜が植えてあります。

広場からの桜山への周遊路を辿ると、西行庵の跡があります。
♪麓まで唐紅に見ゆるかな さかりしぐるる葛城の峰
♪訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて  煙を立つる弘川の里  西行 

似雲法師の庵址 
♪ 須磨明石窓より見えて住む庵の うしろにつづく葛城の峯  似雲
当時は空気が澄んでいたのでしょうか。ここから須磨明石まで見渡せたようです。

西行の墓を見つけたのは歌僧似雲です。『円位上人古墳記』を綴って
弘川寺に納め、
西行のお墓の周囲に桜を千本植え、
西行庵のあった裏山に「花の庵」を結んで住んでいました。


♪いくたびの春の思い出西行忌 青波野青畝句碑

周遊路を辿り西行堂に戻ってきました。
お賽銭でしょうか。茅葺屋根の上には硬貨が沢山置かれています。



北面の武士として共に鳥羽上皇に仕えた同年の清盛が64歳で亡くなり、
1185年に壇ノ浦で平家が滅亡、1187年には東大寺再建のため沙金の勧進を
頼んだ奥州の藤原秀衛が亡くなり、翌年には源義経が藤原泰衛に衣川で襲われ、
その泰衛も源頼朝の追討軍に破れ、西行の一族であった
奥州藤原氏三代の栄華もあえなく滅び去ってしまいました。


空寂上人を慕って来山し、生涯最後の日々を弘川寺で過ごした西行は、
それらを見届けるように
安らかに亡くなりました。
♪願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ
(私の望みは咲き誇る桜の下春に死ぬこと
2月釈迦の亡くなったあの満月のころに)
この歌は西行が辞世の句として詠んだものでなく
以前に詠んだ桜の歌の中の一首ですが、
西行が亡くなったという
知らせに人々が即座にこの歌を思い浮かべ
感動し評判になったものです。
あまり知られていませんが、西行は
♪仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
(死んで仏になった自分を弔ってくれる人は桜の花を供えてくれ)
とも詠んでいます。そして西行の死後、15年経た後、
『新古今和歌集』が完成し、
西行の歌が94首も選ばれています。

西行の終焉地(平成28年10月3日追記)
五味文彦氏は『西行と清盛』の中で、藤原俊成の私家集
長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう』に収められている♪願はくは…の歌にある
詞書から「弘川寺で病を得た西行は、少しよくなったので年末に京に上ってきて、
やがて先年に詠んだ歌の通り翌文治六年二月十六日に亡くなった。
京へ上ったとあっても河内に戻ったとは記されてないので、
弘川寺で終焉を向かえたのではなく、
京で亡くなったことになる。」と述べておられます。

この詞書を抜粋してご紹介させていただきます。
「河内の弘川という山寺にてわずらふ事ありと聞きて、
いそぎつかはしたりしかば、かぎりなく喜びつかはして後、
少しよろしくなりて、年の果てのころ京に上りたりと
申ししほどに、二月十六日になんかくれ侍りける。
彼の上人先年に桜の歌多く詠みけるなかに、」

西行記念館(開館期間)
春季4月1日~5月10日 秋季10月10日~11月20日
開館時間午前10時~午後5時

吉野山西行庵 苔清水   勝持寺(西行)   
西行と崇徳天皇(白峯) 崇徳院ゆかりの地(西行法師の道)  
西行(高野山蓮華乗院・三昧堂・西行桜)  
西行井戸     西行寺址・観音寺(西行)  
江口の君と西行  
『アクセス』
「弘川寺」大阪府南河内郡河南町弘川
近鉄電車「富田林」駅より「金剛バス」河内行終点「弘川」下車
バス停から案内に従って徒歩約5分。
(桜のシーズンはバスの本数が増えますが、
通常は少ないのでご注意ください。)

『参考資料』
桑子敏雄「西行の風景」NHKブックス、1999年 「西行のすべて」新人物往来社、1999年
白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年 五味文彦「西行と清盛」新潮社、2011年
 


 





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古くから沙沙貴(ささき)郷・佐々木庄と称されたこの辺りは
近江源氏(宇多源氏)佐々木発祥の地です。

沙沙貴神社には
少名彦(すくなびこ)神・ 大彦(おおびこ)神・仁徳天皇・
宇多天皇・敦実親王(宇多天皇の皇子)を祭神として祀っています。
はじめ古代の豪族佐々貴山公(ささきのやまきみ)一族の氏神でしたが、
平安時代中期以降は、佐々木氏の氏神として
崇拝されてきた『延喜式』式内社の古い社です。
佐々木氏が別の系統の氏族であった佐々貴山公との間で、
婚姻関係を結びながらしだいに勢力を広げていったと考えられています。

この辺を本拠地とした佐々木秀義は、保元の乱で源義朝に属し勝利しましたが、
続く平治の乱で敗れ、関東に息子らを連れて落ち延びました。
その後、源平合戦で頼朝に従い手柄を立てた秀義の子、
定綱が近江の守護に任じられて本拠地に戻り近江各地を治めました。
その子孫は六角氏・
京極氏に分かれ、戦国史にもその名を残しています。
 
さらに佐々木氏の子孫には、大名家の黒田氏や旧財閥の三井氏、
乃木希典らがいて、一族は全国で300万人にのぼるとされ、
例年10月第2日曜日に行われる近江源氏祭には、
全国から佐々木氏ゆかりの人々が集まり、
宇多天皇が愛護したという舞楽を奉納し、先祖を偲んでいます。

JR安土駅南側から沙沙貴神社への道順を追って画像にしました。

駅前にたつ織田信長像





駅から15分ほどで鎮守の森に囲まれた沙沙貴神社に到着しました。

表参道の鳥居の「佐佐木大明神」の神額は源頼朝の筆と伝えていますが、
文字は風化されて読み取れません。


境内の所々で神紋であり、佐々木氏家紋の四目結紋が目につきます。







江戸時代中期に再建された楼門や19C中期再建の本殿・拝殿他八棟は県指定文化財、
茅葺の楼門からは東回廊・西回廊が延びています。


舞殿

拝殿

拝殿の背後に本殿

ここで源平合戦で活躍した佐々木一族を辿ってみましょう。
宇多天皇の末裔にあたる佐々木秀義(高綱の父)は、宇多源氏、
近江源氏を称します。秀義は源為義(頼朝の祖父)の娘を妻とし、
平治の乱では義朝軍として戦います。
敗戦後、平家に従わなかったため、先祖からの相伝の土地である
佐々木荘(現、滋賀県安土町南部一帯)を没収されます。
仕方なく藤原秀衡に嫁いでいる伯母を頼って息子たち(太郎定綱・次郎経高・
三郎盛綱・四郎高綱)とともに奥州に奥州に向う途中、
相模国まで来たところ渋谷庄司重国が秀義の勇敢な行動に感心し
勧められるままそこに身を寄せ二十年を過ごします。
息子たちはこの間に逞しく成長し、ひそかに伊豆の頼朝の許に出入りし、
頼朝が挙兵の際には伊豆国目代山木兼隆攻めの主力となって戦い、
兼隆を討取り緒戦を飾りました。

『平家物語』には、佐々木高綱・盛綱が活躍する様子が描かれています。
◆佐々木四郎高綱「平家物語・巻九・宇治川の事」
以仁王の令旨を受けた木曽義仲は木曽で挙兵、平家を都落ちさせ
都に入った義仲はまもなく
後白河院と対立し、院は頼朝に義仲追討を命じます。
院宣を受け源範頼・義経兄弟が京へと
二手に分かれ東と南から攻め上り、
範頼が瀬田川に義経は宇治川に迫ります。

義経勢の中の佐々木四郎高綱・梶原源太景季が頼朝に賜った名馬で
どちらが先に
宇治川を渡って敵陣に突入するかと争います。
佐々木高綱は梶原景季を騙し、
先陣をきって宇治川の流れを渡り
向こう岸に駆け上がりました。
これを機に義経勢は一斉に川を渡り
義仲勢は総崩れ、
高綱と景季の宇治川先陣争いは、平家物語名場面の一つです。

◆佐々木三郎盛綱「平家物語・巻十・藤戸の事」
一ノ谷合戦で平家に大勝した源氏軍は西国へと兵を進め、吉備国児島
藤戸海峡を挟んで
源平両軍は陣どりました。盛綱が平氏のいる対岸に渡れる
浅瀬を知る
漁師に案内させると、なるほど騎馬で渡れる浅瀬があります。
手柄を独り占めしたい盛綱は、口封じのためその場で漁師を刺し殺し、
郎党とともに海に飛び込み一番乗りを果たします。
これを見た源氏軍は続々と海峡を渡り児島を占拠、敗れた平氏は屋島へと退きました。
このエピソードを元にして作られたのが謡曲「藤戸」で、
盛綱が殺した漁師の老婆に恨まれ、懺悔し供養するという物語です。

『アクセス』
「沙沙貴神社」近江八幡市安土町常楽寺2 JR安土駅下車 
主な祭礼 4月第1土~日沙沙貴まつり 10月第2日曜日近江源氏祭 
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社 「滋賀県の歴史散歩(下)」山川出版社
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館

 


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西行(1118~1190)は俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、鳥羽上皇の北面の
武士として活躍しました。また家人として徳大寺家に仕えますが、
23歳の時に出家、諸国を行脚し、多数の和歌を詠み後世に影響を与えています。

崇徳天皇(1119~1164)は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、
母は徳大寺家、権大納言藤原公実の娘・待賢門院璋子で、
雅仁(後白河天皇)は、同母弟にあたります。

崇徳天皇の出生について、鎌倉時代の説話集『古事談』には、
「実は天皇は鳥羽天皇の祖父・白河法皇と璋子の間に生まれた子で、
人々はこれを知っていて、鳥羽天皇も崇徳を叔父子とよんでいた。」とあり、
これが保元の乱の一因になったとされています。
この間の事情は、角田文衛氏が『崇徳天皇の生誕』、『王朝の残像』、
『待賢門院璋子の生涯』で、詳細な研究結果を発表されています。
崇徳天皇は優れた歌人で、ひとつ違いの西行とは和歌を通じて親交がありました。

西行が歌人として始めて認められたのは34歳の時です。
勅撰集『詞花和歌集』に読み人知らずとして一首入りました。当時、
西行はまだ歌人としても名をなさず、身分も低いため名をかくされたものです。
この歌集は、当時、歌壇の中心的存在であった崇徳上皇が、
藤原顕輔(あきすけ)に命じて選ばせ、仁平元年(1152)に完成しました。

その後、藤原俊成が撰者となった勅撰集『千載集』に18首入りましたが
千載集が完成した時には西行は71歳になっていました。
崇徳上皇も勅撰和歌集に77首も入っています。

生まれながらにして暗い影を負わされた崇徳上皇は悲しい歌を数多く詠んでいます。
西行と崇徳上皇は歌の上だけでなく、身分の違いをこえて
互いに親しい感情をいだいていました。

ある時、西行に縁のある人(一説に藤原俊成とも)が崇徳上皇の勘気にふれたので、
西行が許しを願う歌を上皇に送ると西行の願いを聞き入れて許されたことがあります。
上皇から西行が深く信頼されていたことがうかがわれるエピソードのひとつです。

皇位をめぐる争い、保元の乱で弟の後白河天皇に敗れた崇徳上皇の許へ、
いち早く西行は馳せ参じています。上皇は仁和寺の同母弟、覚性法親王を
頼って仁和寺に入ったのです。敵方に囲まれた仁和寺の上皇を訪ねることは、
身の危険をともないますが、それを承知で西行は思い切った行動をとっています。
二人の間には深い心のつながりがあったことが知れます。

そして崇徳上皇は讃岐に配流され、西行は心を鎮め仏道修行に励まれることを
願った歌を上皇の許に数多く送りましたが、

たずねて行くことはしませんでした。その心中は分かりません。
♪その日より落つる涙を形見にて 思い忘るる時の間もなし 西行
(讃岐へ配流された日から、別れの日に流した涙を形見にして、
上皇のことは片時も忘れたことはありません。)


配流の九年後の長寛二年(1164)八月、崇徳上皇は46歳で崩御、
の死は狂死、病死、自殺他、
二条天皇(後白河法皇の子)の命を受けた
三木近安によって
御子たちとともに柳の木の下で暗殺されたともいわれ、
そこには「柳田」という碑が立っています。
大魔王となって子々孫々まで皇室を滅ぼさんといわれたことが都に伝わり、
始末されたとしても不思議ではありません。これも崩御にまつわる伝説の一つです。

崩御の段階で崇徳上皇という謚(おくり名)は、まだなく
「讃岐の院」とよばれていました。
十四年後の安元三年、鹿ケ谷の謀反が勃発した時、
これは讃岐の院の祟りであるとされ、
その霊を慰めるため「讃岐の院」の院号が「崇徳院」と改められ、
保元の乱の古戦場、春日河原に「粟田宮」が祀られました。

上田秋成の『雨月物語』の巻頭を飾る白峰の「逢坂の関守に許されてより、秋来し山の
紅葉見過ごしがたく、浜千鳥の跡踏みつくる鳴海潟、不尽(富士)の高嶺の煙、
浮島が原、清見が関、大磯小磯の浦々、紫にほふ武蔵の原、塩釜の凪たる朝景色、
象潟の海士が苫屋、佐野の船橋、木曽の桟橋、心のとどまらぬかたぞなきに、
なほ西の国の歌枕見まほしとて…」という道行き文に誘われて、
白峯御陵を
参拝したのはあちこちに山藤が咲き始める平成14年の晩春、
「西鉄旅行四国霊場巡礼」四国遍路のバスツァーでした。

四国八十八ヶ所の八十一番札所「白峯寺」は高松市の少し西、

青、白、黒、紅、黄の峰々が連なる五色台の中、白峰(337m)にあります。
白峯寺の石段下、杉木立の奥に白峯御陵はありますが、
お遍路さんで賑わう境内と違って、ここは訪ねる人もない寂しい御陵です。



崇徳天皇白峯陵(平成28年3月撮影)

頓証寺殿(とんしょうじでん)は崇徳院の御廟所で
傍には参詣した西行をあらわした石像や西行と崇徳院の歌碑、
勅額門(勅使門)には保元の乱で崇徳院方について戦った源為義、為朝の像、
頓証寺殿後方には源頼朝寄進の燈籠や、
皇室、幕府が崇徳院の霊を慰めるために寄進したものも多く残っています。

♪啼けば聞く聞けば都の恋しさにこの里過ぎよ山ほととぎす

♪浜ちどり跡は都に通へども身は松山に音(ね)をのみぞ啼く
(浜ちどりの足跡のような文字だけは都に行くけれども、
我身は遠い松山に都が恋しくしのび泣いている。)
(上皇が写経を都に送った時添えた歌)


西行が
讃岐へ行ったのは、上皇の死から四年後の仁安三年(1168)の
秋のことで、
御陵参拝と弘法大師修行の地巡礼のために旅立ちます。

西行は讃岐につくとまず上皇が住まわれていた「雲井の御所」や

崩御される迄過ごされた「鼓ヶ岡行在所」を訪ね歩きますが、
その遺跡は跡形もなくなっていました。

♪松山の波に流れて来し舟の やがて空しくなりにけるかな
(松山で波に流され着いた舟がやがて朽ち果てたように
崇徳院は崩御されてしまったのだなぁ)


♪松山の波の景色は変わらじを かたなく君はなりましにけり
(松山に寄せる波は変わっていないのに、崇徳院は跡形もなく
なってしまわれたのだなぁ)
と落胆した気持ちを詠み、
御陵へ向かいますが、粗末な御陵は荒れはてて
蔦や葛がからまり見る影もない有様です。
♪よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん
(かって都でお住みになりました金殿、玉楼といってもこのように
崩御された後では
何になりましょか、何の役にも立たぬものなのです。)

西行の詠んだこの三首の和歌が、崇徳上皇の亡霊と西行が
語り合ったとの
伝説を生み、文学や芸能に大きな影響を与え、
『保元物語』、『撰集抄』、『沙石集』や謡曲『松山天狗』などがつくられ、
さまざまに語られてきました。
『保元物語』、『松山天狗』では、西行が「よしや君 昔の玉の…」の歌を詠むと
やがて廟所が鳴動したとあります。 

江戸時代になると上田秋成は、『雨月物語・白峰』の中で、
崇徳院の御陵に詣でた西行が、あまりの荒廃ぶりに嘆き、
そこで読経しながら、
一夜を過ごしていると「円位(西行の法号)」
「円位」と崇徳上皇の霊が呼びかけ、
保元の乱の経緯や配流後の宮廷や
平家一族への恨みを盛んに語ります。そして
大魔王と化した上皇の霊と
西行との論戦を伝説を交えながら幻想的に描いています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道)  
崇徳院ゆかりの地(白峯御陵)  
崇徳院ゆかりの地(白峯寺)  
『アクセス』
白峯寺」「白峯御陵」 香川県坂出市青海町
JR予讃線坂出駅よりバス20分 「高屋」下車 徒歩約1時間
『参考資料』
高木きよ子「西行」大明堂 白洲正子「西行」新潮社 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
佐藤和彦・樋口州男「西行のすべて」新人物往来社 「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館
新潮日本古典集成「雨月物語 癇癖談」 新潮社 「香川県大百科事典」四国新聞社
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 



 

 

 

 

 






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