平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




旧長崎街道の北に位置する石宝山法勝寺(臨済宗)の境内に俊寛の墓があります。
寺伝によると、「開山は俊寛、開基は源頼朝とも平教盛とも伝え、
鹿ヶ谷の謀議に荷担した京都法勝寺の執行俊寛は、
藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島に流されたが、
成経、康頼が赦免されて帰京する時、ひそかに教盛の領地であった
肥前(佐賀県)嘉瀬津に戻り、ここで没したという。」

佐賀市郊外の嘉瀬町は、嘉瀬津の地名があるように、
中世の頃は有明湾にのぞむ港でした。
嘉瀬庄は成経の妻の父、門脇大納言教盛(清盛の異母弟)の
所領であったので、いつもここから衣食を鬼界ヶ島に送らせ、
のち成経・康頼が赦されて都に帰る途中にも立ち寄った。」と
『平家物語』にもみえます。辺境の地で三人が
生きながらえることができたのは、教盛のおかげでした。

俊寛らが配流された鬼界ヶ島には三つの説があります。
鹿児島県鹿児島郡三島村の「硫黄島」、鹿児島県大島郡喜界町の
「喜界島」、長崎県長崎市の「伊王島」です。
そのひとつ伊王島には、俊寛の墓と傍にはその死を悼んだ
北原白秋の歌碑もありますが、島の名が硫黄島と
聞こえることから生まれた伝説だと思われます。
享保4年の『長崎夜話草』は、長崎市深堀町に
有王・亀王兄弟の塚があることと関係があろうと記しています。

慈円の『愚管抄』などの史料によると鬼界ヶ島とは
硫黄島のことで、『源平盛衰記』『延慶本』『長門本』などの
読み本系には、このことがはっきりと記されています。
『長門本平家物語』によれば、「鬼界ヶ島には12の島があり、
そのうち黒島・硫黄島・永良部(えらぶ)などを総称して鬼界ヶ島という。
俊寛ら三人が流されたという鬼界ヶ島は、この中の硫黄島のことである」

また、『吾妻鏡』正嘉2年(1258)9月2日条には、
平康頼の孫俊職が(としもと)が祖父康頼と同じ硫黄島に
流罪になったと感慨深げに記していることからも明らかです。

俊職は康頼の嫡男清基の嫡男として生まれましたが、
父が承久の変で後鳥羽上皇方に味方し、阿波国麻殖(おえ)保の
保司を解任され、領地も没収されたため、上京して賊徒となり
殺人事件に関わって捕らえられました。

硫黄島は薩摩半島の南端から約40㎞のところに浮かぶ周囲14・5㎞、
人口120人ほどの今なお盛んに噴煙をあげる硫黄岳がそびえる小さな島です。
鹿児島港から硫黄島(三島村)への船便をインターネットで検索したところ、
平成28年10月1日(土)より、鹿児島港⇔三島各島区間の運航を、
週3便から週4便に増便しますとのことでした。
現在でも鬼界ヶ島はアクセスが不便で遠い島です。


俊寛・有王の墓といわれるものは九州各地に数多くあります。
中でも肥前嘉瀬庄(現、佐賀市内)の法勝寺の二人の墓、
長崎西方の伊王島の俊寛の墓などが有名です。さらに四国、
関西、北陸などにも俊寛の墓や住居跡、有王の墓などが何ヵ所もあり、
俊寛は鬼界ヶ島で亡くなったのではなく、有王に伴われこの地に来て
生涯を終えたという伝承をそれぞれに持っています。
それは高野聖(こうやひじり)によって俊寛の物語が語り広められた跡が、
そういった遺跡になって残っているのだろうと考えられています。

最寄りの鍋島駅









森林公園北の国道207号線沿いに「俊寛僧都の墓」と刻んだ碑がたっています。
ここから北に50㍍ほど入っていくと法勝寺があります。



法勝寺は近隣の寺院が住職を兼務する無住職寺院ですが、
運よくご住職がいらっしゃったので、
本堂を拝観させていただきました。

 本尊は聖観世音菩薩



源頼朝の位牌と俊寛僧都の位牌

「小松内大臣平重盛公」の位牌も出してくださいました。

 
俊寛僧都の墓
治承元年(1177)、京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で、平氏討伐の謀議、
鹿ヶ谷事件に荷担した丹波少将成経、平判官康頼、京都法勝寺俊寛僧都は、
鬼界ヶ島(薩摩)へ配流された。翌2年、成経、康頼は赦免され、
帰京することとなった。その帰途、平教盛の領地、肥前鹿(嘉)瀬庄まで
俊寛を伴い、この地に俊寛をとどめ京都へ上った。
俊寛は、荒木乗観入道の保護をうけながら配流生活を過ごしていたが
治承3年、この地で没した。と伝えられている。
その墓がここ法勝寺にあり、また、「俊寛僧都塔」
「治承四年三月二十三日」と刻まれた碑が建立されている。(現地説明板)

説明板に書かれている荒木乗観(じょうかん)入道について、
柳田國男氏は「後に法勝寺と名のったこの寺は盲僧の道場であり、
荒木はその世襲の氏の名であろうと思う。」と述べておられます。
(『柳田國男全集』)

右が俊寛の墓、左がその供養塔とご住職に教えていただきました。
俊寛の供養塔には、「俊寛僧都之塔」
「治承四年三月二十三日」と刻まれているそうですが、「俊寛」の文字が
かろうじて読める程度で、あとは風化していて読み取れません。


供養塔の左は有王の墓

俊寛に仕えていた有王という童が『平家物語・巻3』に登場し、
鬼界ヶ島にひとり残された俊寛をたずねてやがて島に渡り、
その悲惨な
最期を看取り遺骨を高野山奥の院に納めました。
そのまま蓮華谷の法師(高野聖)となって諸国を遊行し、
主の亡魂を弔いながら俊寛の悲劇を語り広めました。
俊寛の死を見届けた者は有王だけですから、
有王の目や心を通してその死が語られています。

実在が危ぶまれる人物ですが、『平家物語』以外の記録として
『高野春秋編年輯録(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)』の
治承3年(1179)の項に「夏5月□日、前法性寺執行家大童子有王丸、
鬼界島より俊寛の灰骨を□ち来たる。奥院に斂埋す。
而して発心入道し専ら追薦(追善供養のこと)を修す」と記されています。

蓮華谷は信西の息、明遍(みょうへん)が開いた
高野山僧坊集団のひとつで、神仏の奇瑞譚を説きながら
諸国を巡る高野聖の本拠としてよく知られていました。
高野聖の主な仕事は布教と寄付募集ですが、
その際に効果を発揮する宗教色ある物語を語るのが常でした。
俊寛の物語は、蓮華谷聖の主要な演目でそれを語る時、
自身を有王の生まれ変わりとして語るのが決まりだったという。

肥前は琵琶法師が活躍していた赤間が関に近く、
古くから盲目の僧たちの活動の拠点でした。柳田國男氏は、
それらのことが俊寛有王説話を生んだと考えられるとして
「俊寛・成経・康頼の三人が鬼界ヶ島に流されたこと、1年後に成経と康頼は
都に戻されたが、俊寛だけが帰って来なかったという事実をもとにして、
それが大きく脚色されて『平家物語』にみるような説話ができあがり、
『平家物語』の作者は、この高野聖が語る話を作品に吸収していった。
肥前嘉瀬庄には、蓮華谷の聖と繋がりをもった者が住んでいて、
俊寛の物語を法勝寺の盲僧たちに供給したのであろう。」と考察されています。

ところで『愚管抄』によれば、鹿ヶ谷謀議の舞台となった山荘は
俊寛のものではなく、信西の息、静憲(じょうけん)の所有であり、
さらに俊寛は赦免状が届く前に亡くなっていたと記されています。
真実がどうであれ、俊寛の悲劇は後に能や文楽・歌舞伎などの
作品となって甦り、多くの人々の涙を誘っています。

帰洛した成経と康頼はその後、それぞれの道で活躍しています。
成経は都に戻った後しばらく蟄居していましたが、
平家都落ちの直後の寿永2年8月、右少将となって官界に復帰しました。
平家の権力が急速に弱体化したため、後白河院は成経の登用を
誰にも遠慮する必要がなくなったものと思われます。
以後成経は右中将、蔵人頭と暦任し、正三位皇太后宮大夫と
順調に出世し、建仁元年3月、47歳で亡くなりました。
帰洛後の平康頼は次の記事でご覧ください。
 平康頼の墓(双林寺) 
『アクセス』
「法勝寺」佐賀市嘉瀬町大字荻野212
JR九州「鍋島駅」下車 徒歩約30分
または鍋島駅から佐賀市営バス「森林公園前」停下車約2分
『参考資料』
「郷土資料事典 佐賀県」(株)ゼンリン、1998年
 「佐賀県の地名」平凡社、1988年 
「長崎県の歴史散歩」山川出版社、1989年
「柳田國男全集9(有王と俊寛僧都)」ちくま文庫、1990年 
五来重「増補=高野聖 庶民仏教をささえた聖たち」角川選書、昭和50年
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
水原一「平家物語の世界(上)」日本放送出版協会、昭和51年
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土研究会、平成2年
「検証・日本史の舞台」東京堂出版、2010年
高橋昌明編「別冊太陽平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年

 

 



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慈眼山(じげんざん)玉林寺(臨済宗妙心寺派)は、阿波国麻殖(おえ)
保司(ほじ)となった平康頼が創建したと伝えられています。
寺はもと、鴨島町山路(さんじ)字東寺谷にありましたが、兵火にかかり、
江戸時代、現在地(吉野川市同町山路寺谷)に再興されました。

かつて康頼が目代として尾張に赴任していた時、
知多半島の野間庄(現、愛知県知多郡美浜町野間)に
ある
荒れ果てた源義朝の墓を弔い、小堂(大御堂寺の塔頭か)を建て、
6人の僧に義朝と鎌田正清・その妻の霊を供養させました。
その上、
水田30町を寄進して、堂を維持管理するよう計らったことがありました。

その恩に報いるため、源頼朝は平氏滅亡後の文治2年(1186)閏7月、康頼を
阿波国麻殖(おえ)保の保司(ほじ)に任命したと『吾妻鏡』は伝えています。
康頼が鬼界ヶ島から帰京して七年目、41歳の時のことです。

麻殖保とは、吉野川市鴨島町字森山付近の荘園の名です。
吉野川市は徳島県東部に位置する吉野川沿いの地で、
対岸北側には西光の故郷柿原があります。

天下を平定した源頼朝は父義朝の廟所に詣でています。
それを『吾妻鏡』建久元年(1190)10月25日条は、
次のように記しています。
「頼朝は康頼が義朝の墓を整備したのは昔のことであるから、
墳墓は荒れ果て供養は途絶えているだろうと、
日頃気にかけていました。
上洛の途次、尾張国の御家人・須細治部大夫爲基の案内で野間庄に立ち寄り、
義朝の廟所に詣でると、廟堂が荘厳で立派に飾られている光景が目に映り、
僧侶の読経の声に満ちていました。墓がしっかり守られている様子に感激し、
康頼の篤い志に改めて感謝しました。」
 

最寄りのJR徳島線鴨島(かもじまえき)駅

石灯籠の傍にある熊野神社南へ150米、→玉林寺と記された道標。


⇐玉林寺入口と記された道標






麻殖保司(荘園の長官)に着任した康頼は、職務のかたわらで、
まず、保司庁を建て、次いで後白河法皇から賜った一寸八分(約6㎝)の
千手観音を本尊とする玉林寺と補陀落寺(ふだらくじ)の二寺を建立しました。

天正年間(1573~92)、この二寺は土佐の長曾我部の戦火で焼失し、
両寺を合併して一寺として堂宇を建立し曹洞宗としましたが、
再び荒廃し江戸時代に僧宗本が玉林寺として再興し臨済宗に改めました。

玉林寺門前に大きく枝を広げ葉を茂らせるモッコク





「昭和七年三月 史跡平康頼隠棲之趾」の標柱


大悲殿



本堂

康頼が鬼界ヶ島から帰京できたのは、熊野権現に毎日赦免を祈願した
お陰だとしてこの地に熊野神社を勧請したとされています。

 うっそうと木々が茂る山道を上っていきます。

「熊野神社 山路西寺谷 山路寺谷にあり旧村社である。
祭神は伊弉諾(いざなぎ)神、伊弉冉(いざなみ)神、
熊野権現である。
平康頼が文治年間(1185~1190)に紀州熊野権現を勧請したと伝えられている。
康頼が京都の鹿ヶ谷における平家追討計画が発覚し、鬼界ヶ島へ流されたとき、
熊野権現に祈って許されたためと伝えられている。
また、境内南西隅に経塚跡があり、神木「ナギ」がある。」(現地説明板)

玉垣に寄進者の名と寄進額が刻まれています。

拝殿

本殿



玉林寺、熊野神社のある寺谷集落。

建久2年(1191)3月、正治2年(1200)に石清水八幡宮若宮社において
催された奉納歌合に
康頼は「沙弥性照(康頼入道)」として和歌を作り、
また建久6年(1195)1月の「民部卿家歌合」にも参加していることから、
康頼は60歳を過ぎると保司職を嫡男清基に譲り、
引退後は阿波と京都を往来して過ごしたものと思われます。
玉林寺から北西に700メートルほど進むと、山麓に壇(だん)とよばれる地があります。
康頼は75歳で亡くなると、遺骨はその北麓に埋葬されました。
現在、墓所には後に建てられた康頼神社があります。
遺骨は分骨され、京都市の双林寺にも葬ったとされています。
 平康頼の墓(双林寺)  
『アクセス』
「玉林寺」 徳島県吉野川市鴨島町山路寺谷
麻植塚駅 から徒歩約30分  鴨島駅 から徒歩約35分
「熊野神社」徳島県吉野川市鴨島町山路字西寺谷150
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「吾妻鏡(5)」吉川弘文館、2009年
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土研究会、平成2年
「郷土資料事典 徳島県」(株)ゼンリン、1998年
  「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年

「徳島県の地名」平凡社、2000年

 



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鹿ヶ谷の平家討伐の陰謀は多田行綱の密告によって発覚し、
関係者は次々に捕えられました。この謀議に加わった平康頼は、
俊寛と藤原成経とともに鬼界ヶ島へ配流となります。
瀬戸内を船で下る途中、しけにあって周防(山口県東部)の
室積の浦に泊まり、康頼は近くの小寺で
住職の活堂和尚によって仏道に入りました。

昔この寺は、入道寺とか性照(しょうしょう)庵と呼ばれていましたが、
江戸時代に海音山潮松庵と改められ、その後、
明治の廃仏毀釈で普賢寺に合併され、廃寺となっています。
現在、峨眉(がび)山の麓、峨眉山普賢寺(臨済宗)の
境内に平康頼の歌碑が建っています。

普賢寺は播磨国の書写山円教寺の性空(しょうくう)上人開基とされ、
室積湾を見下ろす山中にありましたが、室町時代後期に
現在地に移され天台宗から臨済宗にかわったという。
本尊普賢菩薩には、性空が室積の海から引き揚げたという伝承があり、
古くから「海の守護仏」として広く信仰を集めてきました。
江戸時代には、毛利家の祈願所として寺領9石5斗、俸禄(ほうろく)米
5石を支給され、藩直営の普請寺として格式の高い寺でした。

毎年、性空上人の命日にちなむ5月14・15日の普賢祭には、
盛大な露店市がたち、多くの人出で賑わいます。


JR山陽本線光駅

漁民や航海者の信仰が篤く、かつては船での参拝が多く見られ、
参道は海に向かって東面しています。



参道にたつ常夜灯 

 波静かな室積の浦 

仁王門をくぐると、平康頼と性空上人の石碑が五基並んでいます。
平康頼の碑と歌碑(碑に刻まれた文字は風化してしまって読みとれません)


萩藩主毛利吉就(よしなり)が性空上人の事績を偲び墓石と石碑を建立しました。

歌碑には「平判官康頼於此地 出家法名性照
終にかく 背きはてけむ世の中を とく捨ざりしことぞかなしき」と刻まれています。
(平家物語の中では、最後の一節「かなしき」が「くやしき」となっています。)
 
性空上人の墓と平康頼の歌碑背面

康頼の歌碑は潮松庵に建っていましたが、
潮松庵が廃寺になると、現在地に移されました。
この碑はいつしか3つに折れてしまったので、津村精一氏が発起人となり
大正13年(1924)に再建されました。
歌碑の背面にその再建由来記が刻まれています。


折れた歌碑が碑の後側に置かれています。



ボランティアガイドさんに潮松庵は、普賢寺墓地の
井戸辺にあったと教えていただきました。

墓所はバス道を隔てて、境内の向かい側にあります。




潮松庵があったという井戸の辺
 
周防の室積で出家し、法名性照(しょうしょう)と改めた康頼は、
♪つひにかくそむきはてける世の中を とく捨てざりしことぞくやしき
(こうして結局出家してしまう身を、なぜもっと早く
出家しなかったのだろうかと悔やまれることだ。)と出家して
安心が得られた思いを詠んでいます。
(『平家物語・巻2・三人鬼界ヶ島に流さるる事』)

本尊普賢菩薩が安置されている普賢堂
 時間がなくて拝観できませんでしたが、普賢堂の南方に本堂があり、
雪舟作と伝えられる枯山水の庭園(県指定名勝)があります。 

  さて平氏打倒の謀議に加わったのは、藤原成親をはじめとし、
西光、近江中将入道蓮浄、法勝寺の俊寛、山城守基兼、
式部大輔(しきぶのたいふ)雅綱(まさつな)、平判官康頼、
新平判官資行(すけゆき)などの顔ぶれでした。 
首謀者でもない康頼が遠く南海の孤島・鬼界ヶ島(きかいがしま)へ
流罪となったのは、『源平盛衰記・巻7』によると、
次のような理由だったとしています。

鹿ケ谷の山荘に故信西の息静憲法印をお供に後白河法皇が訪れた時、
宴の席で静憲は平氏討伐の謀を初めて聞き、「用心なさいまし、
このことが漏れたら大事件になります。」と騒いだので、
藤原成親は顔色を変え、思わず立ち上がった拍子に、
酒を入れる瓶子(へいじ)を袖に引っかけて倒してしまいました。
法皇が「何としたことか。」と尋ねると、成親は
「事の始めに平氏(瓶子)が倒れました。」と答えたところ、宴会は
大いに盛り上がり、法皇は悦にいって「猿楽を舞え」と命じます。
猿楽とは物真似などの滑稽な芸のことです。

すると平康頼が法皇に近づき、「この頃、あまりに瓶子(平氏)が
多いので酔ってしまいました。」とおどけ、俊寛がすかさず
その言葉を受けて、「さてその瓶子(平氏)をどうしましょうか。」と
煽り立てます。今度は西光法師が「ならば瓶子(平氏)の首を
とるのがいいでしょう。」と言って瓶子(平氏)の首を折り取ったという。
康頼は折れた首を持って大路を渡すように広縁を三度廻り、
「獄門の栴檀(せんだん)の木に懸ける」といいながら、
それを大床の柱の烏帽子掛けに結びつけました。
清盛はこれを聞いて従犯にすぎない康頼を重く処罰したという。

芸達者な後白河法皇の側近たちが平氏を馬鹿にしている様子や
芸能狂いといわれた法皇の一面がよく描かれている有名な場面です。

 なお、『平家物語』は周防の室積で出家したと語っていますが、
『源平盛衰記・巻7』は、康頼出家の地を摂津小馬林としています。
その一節をご紹介します。
「康頼は都を出て配所に向かいましたが、
小馬林(こまのはやし)を通る時、こう読みました。
♪津国や こまの林を きてみれば 古は いまだ変わらざりけり
(摂津の国の小馬の林まで来てみれば、昔の面影が今も変わらずに残っている)
やがてここで出家し、法名を性照といいました。」

小馬林とは現在の神戸市長田区駒ヶ林で、寿永の頃までは
小島を形づくっていたため、小馬島といいました。
一ノ谷の戦いで敗れた平氏の多くが沖に待機する船へと逃れたところです。
駒ヶ林めざして落ちて行く途中、岡部六弥太忠澄の郎党に討たれた
平忠度の腕塚が神戸市長田区駒ヶ林にあります。
『アクセス』
「普賢寺」山口県光市室積八丁目6-1 TEL: 0833-79-1223 
 JR光駅からバスで約30分(室積公園口行き)「室積公園口」下車すぐ
バスの本数が少ないのでご注意ください。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年 
 「完訳源平盛衰記(1)(2)」勉誠出版、2005年
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
神戸史談会編「源平と神戸福原遷都から800年」神戸新聞出版センター、昭和56年



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