平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




阿古屋は平家の侍大将悪七兵衛景清の思い人で、五条坂の遊女です。

阿古屋塚は六波羅蜜寺の本堂南に清盛塚と並んであります。



阿古屋塚は阿古屋の菩提を弔うため、鎌倉時代に建てられた石塔と伝えています。
花崗岩の石造宝塔で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いています。
この辺りは鳥辺野墓地への入口にあたり、死者と最後の別れをしたあの世の入口であったことから、
一説には、下火(あこ)が阿古屋(あこや)と結びついたものだろうともいわれています。
下火とは、火葬の時に導師が棺に火をつけることをいいます。

阿古屋は室町時代の幸若舞の『景清』・浄瑠璃『景清』などに登場します。
幸若舞『景清』の中では、阿古王(阿古屋)は、景清指名手配を記す立て札を見て、
景清を裏切ることで二人の子供が出世できると考え、景清を役人に密告する
悪女として描かれています。江戸時代になってこれを改作し、
近松門左衛門が『出世景清』を作ります。この作品をさらに巧みに改作して、
ほぼ同時代に長谷川千四(せんし)と文耕堂の合作で
浄瑠璃『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』を書きあげました。

これは悪七兵衛景清を主人公とした五段物の芝居ですが、
通しでの上演はほとんどなく、三段目にあたる「阿古屋の琴責め」で知られる
一幕だけが、歌舞伎・文楽ともに上演されています。

ここで「阿古屋の琴責め」のあらすじをご紹介させていただきます。
平家滅亡後、平家の残党、悪七兵衛景清は捕らえられ土牢に入れられますが、
牢を破って逃走し頼朝の命をつけ狙います。景清の行方を問いただすため、
鎌倉幕府の役人岩永左衛門は京の五条坂の遊女阿古屋を堀川御所に引き立て、
白状させようとしますが、阿古屋は頑として「知らぬ」と言い張り、
遊女の意地と心意気を見せます。同じく役人の畠山重忠はそれをとどめ、
一風変わった拷問を用意します。
それは
琴・三味線・胡弓の3種類の楽器を順に演奏するというものです。

岩永はあきれかえり、阿古屋も重忠の真意が計りかねて当惑します。
重忠は彼女が景清の行方を心に秘めていることを知っていましたが、
これらの楽器は、心にやましさがあると音色に乱れがあるので、
阿古屋が弾く曲を聴いて、彼女の心のうちを推し量り、
嘘偽りを見極めようというのです。
重忠は弾かせた筝、三味線、胡弓の調べに一点の乱れのないことに深く感じ入り、
阿古屋の言葉に偽りはないと、「阿古屋の拷問ただ今かぎり、
景清の行方知らぬということ、ここに見届けたり。」と阿古屋を釈放しました。
岩永は異を唱えますが、重忠は仔細を言って聞かせます。

阿古屋は京の五条坂の傾城ですから、演じる役者はその気位の高さと心意気、そして
景清を思う気持ちを見せながら、三つの楽器を弾きこなす芸と技巧が要る難役です。
五代目坂東玉三郎が演じるまでは六代目歌右衛門の独壇場でした。
最大の見せ場は、阿古屋を演じる役者の筝・三味線・胡弓の生演奏ですから
演じたくても演じられないのです。

午後五時過ぎということもあって、境内には入れませんでしたが、
阿古屋塚は何とか撮影できました。
平成二十三年十一月吉日、坂東玉三郎が奉納し、風雨による劣化防止を目的に、
阿古屋塚と平清盛塚を屋根で覆うなど周辺が整備されました。




平成28年10月撮影。



畠山重忠は源頼朝が挙兵したとき、父重能が平家に仕えていたため、
平家軍に加わりましたが、のち、頼朝に従いました。その後の重忠は、
木曽義仲追討の戦い、平泉の藤原氏と戦った奥州合戦などに数々の軍功をあげています。
武勇・教養・人格を備え、『吾妻鏡』には、鎌倉武士の典型として
美談・佳話が数多く記されています。静御前が鶴岡八幡宮で舞を見せた時、
舞にあわせて銅拍子をうつなど、歌舞音曲の才にも恵まれていたことが知られ、
さらに、鎌倉永福寺(ようふくじ)庭池の大石を一人で持ち運んで据えつけ、
宇治川先陣争いや一の谷合戦でも大力振りが描かれています。
しかし、『平家物語』や古典芸能などで知られる華やかで
立派な姿とは裏腹に重忠の最後は悲劇的でした。
頼朝の死後、北条氏の策略によって有力御家人が次々と謀殺されていくなかで、
重忠も謀反の疑いをかけられ、武蔵国二俣川で非業の死を遂げました。
景清伝説地(平景清の墓)  
宇治川の先陣争い(2)宇治川先陣之碑  畠山重忠邸跡(鎌倉)  
『アクセス』
「六波羅蜜寺」
京都市東山区松原通大和大路東入ル下ル轆轤町
バス停「清水道」下車、約500m 約7分

『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と芸能)」吉川弘文館2009年  
加納進「六道の辻あたりの史跡と伝説を訪ねて」室町書房、1998年
 赤江漠「赤江漠の平成歌舞伎入門」学研新書、2007年 「最新歌舞伎大事典」柏書房、2012年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 



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名古屋市熱田区には、祭神を平景清とする景清社があります。
この地は景清の屋敷跡といわれ、現在、熱田神宮に所蔵されている
太刀癬丸(あざまる)は、景清が奉納したと伝えています。









能には、景清を主人公にした作品が二番あります。「大仏供養」と「景清」です。
 「大仏供養」は、東大寺の大仏供養に頼朝が参拝する事を知った景清が
転害門に潜んで命を狙いますが、見つかり春日の山中に姿を消すという物語です。
『平家物語』諸本に記された平家残党の逸話や各地に残る平家残党伝説が
景清の物語として置き換えられ、英雄化された景清が描かれています。
もう一方の「景清」は、「大仏供養」の続編のような作品で、
頼朝に許された景清が自らの両目をえぐり、盲目となって日向へ赴き、
そこへ景清の娘が訪ねて来るところから始まります。
景清は熱田の遊女との間に生まれたのが女の子だったので、何の役にも立たないと
鎌倉亀ヶ江谷(やつ)の長者にあずけておいたとしています。


ここでそのあらすじをご紹介させていただきます。
「景清は平家方の勇将で悪七兵衛として知られる人物ですが、
実像ははっきりしないようです。能における景清は、平家没落後、
両眼を失い日向国(宮崎県)に流されているという設定です。
物語は景清の娘・人丸が、父恋しさに鎌倉から日向に向かう場面から始まります。
その頃、景清は粗末な草庵で乞食生活を送りながら、落ちぶれた我が身を
嘆いていました。そこへ人丸と従者が偶然通りかかり、景清に父の行方を尋ねます。

景清は人丸が自分の娘であることに気づきますが、娘の方はまさか眼前の
やつれ果てた老人が父とは思いもよりません。景清は娘のためを思って名乗らず、
他へ行って尋ねるよう言いますが、内心では薄い親子の縁を悲しく思うのでした。
人丸と従者が今度は近辺の里人に景清の居所を尋ねると、何と先ほどの
盲目の老人こそその人だと知れます。事情を聞いた里人は哀れに思い、
二人を草庵に伴って、景清に声を掛けます。悲しみから立ち直れない景清は
自分の名を聞いて耳を塞ぎますが、平家語りの「日向の勾当(こうとう)」
(勾当とは平家琵琶の官名)としての自分の境遇を思い出し、
物語をしましょう、と言い出します。その時、ついに、
里人は黙していた娘と父を対面させます。娘は名乗らない父を涙ながらに責め、
父は名を隠すしかない自らを恥じながら娘を抱き寄せるのでした。

屋島合戦での父の手柄について聞きたいという娘の所望により、
景清はかつての体験を生々しく思い出し、強敵・義経を討つため、
一人で源氏の軍に立ち向かい、敵方の三保谷(みほのや)の兜の錣
(兜の一部分)を引きちぎった(「錣引き」)、その勇猛さを語るのでした。
語り終えて心乱れた景清は、自らの死後の弔いを頼んだ後、
娘を故郷・鎌倉へと送り出します。二人の今生の別れの言葉が、
親子の形見となったのでした。」

平成19年9月9日 於:京都観世会館 
能「景清 鑑賞の前に」を転載させていただきました。

勾当は盲僧の官位で、検校(けんぎょう)・別当の下、座頭の上の位です。
平家の侍大将であった景清は、勾当を自称しています。
宮崎市生目の生目(イキメ)神社は、主祭神に応神天皇と藤原景清を祀り、
古くから眼病に霊験あらたかな神社との信仰を集めています。
江戸時代中期に刊行された『日向見聞録』によれば、
「頼朝に許された景清は鎌倉で目をえぐって怨念を断ち、日向勾当という
僧となって日向に下り、その両眼を祀ったのが生目神社だという。」

日向国は古くから琵琶が盛んな地で、景清の名を語る盲僧団の拠点があり、
彼らは景清を始祖と仰ぎ、源平合戦のさまを語り歩いていました。
生目神社の周辺にある景清伝承は、この集団によるもので、その中で景清伝説は
大きく成長していき、生目神社の縁起として勧進活動に利用されています。
平景清伝説地(平景清の墓)  
『アクセス』
「景清社」名古屋市熱田区神戸町41
名古屋市営地下鉄名城線「伝馬町」駅より徒歩6、7分
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承)」吉川弘文館、2009年 
「愛知県の地名」平凡社、1990年 日本古典文学大系「謡曲集」(2)小学館、昭和54年 
福田晃「軍記物語と民間伝承」岩崎美術社、1987年



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藤原景清(?~1195年?)は伊勢を本拠とした上総介藤原忠清の子で、
上総判官忠綱・上総兵衛忠光の弟にあたります。
上総七郎兵衛とも悪七兵衛ともよばれ、体は大きく、公達そろいの
平家一門の中では、異色の勇猛果敢な豪傑として知られています。
本姓は藤原ですが、俗に平景清といわれます。
父の忠清は小松家(重盛やその息子たち)の有力家人で、
源氏が挙兵すると侍大将として各地を転戦し活躍します。

景清は頼政軍との宇治川の橋合戦に侍大将として初登場し、以降、義仲追討の
北陸合戦には、父忠清や兄忠光とともに侍大将として出陣し大敗します。
新宮十郎行家との播磨室山合戦、一ノ谷合戦など平家方の主要な武将の
一人とし
数々の合戦に参戦しました。
屋島合戦では、十人力のもち主という源氏方の
美尾屋(水尾谷、美穂谷)十郎と死闘を繰り広げ、何とか逃げようとする十郎の兜の錣を
素手で引きちぎる「錣引き」の場面は、屋島合戦のハイライトのひとつとなっています。
錣(しころ)は、首回りを守るために革や鉄板をつづり合わせて
作ったもので、
非常に丈夫に出来ていま

景清の一族はみな、頼朝暗殺に執念を燃やします。父忠清は一門の都落ちには
同行せず、本国の伊勢にとどまり、元暦元年(1184)に平家継(平家貞の兄
総大将となって
伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こすと、平家残党の
平家清(平宗清の子)、平家資(家貞の弟家季の子)らとともに参加します。
反乱軍は近江に向かい追討軍と近江国境付近で激突し、佐々木氏の
礎を築いた鎌倉軍の佐々木秀義や反乱の首謀者平家継が戦死するなど、
両軍とも多くの犠牲者を出し乱は鎮圧されました。(元暦元年の乱)

忠清は戦場から敗走しましたが、翌年、捕われ六条河原でさらし首にされました。

景清の兄忠光は
ノ浦の戦場から脱出し、魚の鱗で左目をおおって盲者を装い、
人夫となって永福寺(ようふくじ)の工事現場に紛れ込み
頼朝暗殺の機会を窺っていました。しかし、その容貌を怪しまれて捕われ
和田義盛に身柄を預けられた後、湯水を絶っていたが、
六浦海岸(横浜市金沢区)で晒し首になったという記事が『吾妻鏡』に見えます。


一方、景清も一門が入水する中、ノ浦から逃れて各地でゲリラ活動を続け、
源氏追討に並々ならぬ闘志を燃やします。これについて多くの諸本が
紀伊国湯浅氏のもとに潜んでいた重盛の子息、忠房を擁して兄の忠光らと
戦ったことや伊賀大夫知忠の謀反に与したことを記しています。

あちこちさまよったあと、叔父の能忍を頼って身をよせますが、
源氏の追跡は厳しく、能忍は土蔵に隠して下男と二人で世話をします。
ある日、能忍は景清が小さい頃からそばが好きだったのを思いだし、
下男に「そばを打て」と命じました。ところが土蔵の中にいた景清には
「首を討て」と聞こえたから大変です。叔父が自分の首にかかった賞金に
目がくらんだと思い込み、いきなり蔵から飛び出し能忍を一刀のもとに
斬伏せたところに、下男がそばを運んできて、はっと気づいた景清。
いずこともなく去っていきました。大阪市のかぶと公園(豊新4丁目)には、
叔父を過って殺害したのを悔やみ、この辺りでかぶとを脱ぎ捨てて立ち去ったことや
摂津国島下郡吹田に三宝寺という大寺院を建立した大日坊能忍が
平家一門の景清を匿ったという伝承が『大阪伝承地誌集成』に記されています。
三宝寺は焼失したとみられ、現在はありません。

その後のことは諸説ありますが、『百二十句本・平家物語』には、
絡めとられて鎌倉に送られ、武勇を惜しんだ頼朝は、
宇都宮に身柄を預け帰順を勧めますが、景清は断食のすえ、
東大寺大仏供養の日に死んだとされています。

『平家物語』における景清は平家方の主要な武将の一人にすぎませんが、
その運命や過酷な逃亡生活を続けながら、執拗なまでに頼朝の命を狙い続けた姿に
能や歌舞伎・浄瑠璃などの作者は、魅力を感じたのでしょうか。
景清は古典芸能の主人公に仕立てられていき人気を集めました。
古典芸能において、景清が題材に取り上げられ、彼が登場する一連の作品を
「景清物」とよび、『平家物語』に描かれた姿からは大きく外れ、英雄化されていきます。

平家滅亡後、建久六年(1195)三月、大仏供養に加わるため将軍頼朝が
東大寺に到着した時、頼朝を狙う男が近くに潜んでいました。
『長門本』には、「大仏供養の日、南大門の東のわきに怪しげな侍がいた。
梶原景時が捕えてみると、平家の侍、薩摩中務丞宗助という男で頼朝を
殺害しようとひそんでいたと白状したので、頼朝は供養が終わった後、
六条河原で斬るよう命じた。」とあり、
また、元暦元年の乱で逃亡した小松家家人の平家資(いえすけ)は、
東大寺落慶供養に参加する頼朝の命を狙って東大寺転害門(てがいもん)
付近に潜んでいたところを捕らえられ処刑されたという。
これらの逸話が謡曲「大仏供養」や舞曲「景清」に発展し、
景清が執念深く頼朝の命を狙う様子を描いています。

景清は清水寺の音羽山に身を潜め、せめて景清一人なりとも頼朝に一太刀振おうと、
自然石に爪で観世音菩薩を彫りながら機会を待っていると、奈良で大仏供養が
行われるという情報が入り、頼朝を討とうと東大寺の転害門に隠れて
待ち伏せしますが、畠山重忠に見破られ逃亡します。



景清が爪で彫ったという小さな観音像は、
清水寺随求堂前の石灯籠の火袋内に安置されています。

清水寺には、景清の足型石とも弁慶のものともいわれる仏足石が残っています。

平家再興を企て江ノ島の岩牢から脱出し、怒りの荒事を見せる「景清」は、
歌舞伎十八番のひとつとして、江戸庶民に大人気でした。

景清を押し込めたと伝わる岩窟の跡が、
鎌倉市の化粧坂(けわいざか)と山王ヶ谷の分岐にあります。

「景清土牢」「水鑑景清」「景清窟」などともよばれている洞窟ですが、
あたりは薄暗い上に説明板もなく、うっかりすると通り過ぎてしまいます。

平景清伝説地(平景清の墓)  
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承)」吉川弘文館、2009年 
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂、平成20年 白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年
 歴史群像シリーズ「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
   別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社、2004年 「大阪府の地名」平凡社、2001年
 京都新聞社編「京都伝説散歩」河出書房新社、昭和59年 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館、2009年 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館、2009年

 



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京都国立博物館の中庭に建つ馬町十三重塔は、
かつて渋谷越とよばれた街道沿いにあり、継信・忠信の墓と
いわれていました。石塔は昭和十五年(1940)に
所有者佐藤氏の依頼で川勝政太郎氏
立会いのもと解体され、現在の十三重塔の姿に復元されました。

南塔には、永仁三年(1295)二月、願主法西(ほうせい)の
銘がありましたが、願文はなく二基の
十三重石塔が造られた目的は明らかにされていません。
しかし継信・忠信は義経に従い戦死しているので、
鎌倉時代の永仁では年代があわないこと
や塔内に納められた多数の
金銅仏などから、
法西が願主となり多くの助成者とともに何らかの目的で
鳥辺野墓地近くに建立された供養塔のひとつであることが判明し、
この石塔は戦後すぐに馬町から撤去されました。
現在、その旧地を示す佐藤継信・忠信塚が渋谷通り沿いの
路地入口にたち、奥には佐藤継信・忠信の墓があります。

路地入口にたつ「佐藤継信忠信之塚」

背面に刻まれた文字は、かなり風化し読みとりにくいのですが、
昭和2年3月 佐藤政治郎建立 」と彫られています。

安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』には、
十三重塔を「継信忠信塔」とし、上部を欠損した塔の
挿絵が載せられ、周囲を石垣で固めた高さ2メートルほどの
塚の上に二基の石塔が並んでいる様子を描いています。

『都名所図会』には、「継信忠信塔 佐藤氏の兄弟は
忠肝義膽の人にして
漢乃紀信宋の天祥にもおとらざるの英臣也
美名後世にかゝやきて武士たらん人ハ慕ひ
貴むへき也 此石塔婆葉昔ハ十三重より星霜かさなりて
次第に崩れ落 今ハ土臺の廻りの圍あり」と書かれ、
佐藤兄弟の忠義ぶりは武士の鑑であると讃え、
この石塔はもとは十三重塔でしたが、月日を重ねるうちに
いつの間にか崩れ落ち、落ちた石が塚周辺の
石垣に使われていることを挿絵とともに伝えています。

佐藤継信・忠信兄弟の子孫と伝えられていた佐藤政養氏は、
二基の十三重の塔があったこの土地を購入し、明治6年、
十三重石塔の横に佐藤継信・忠信の墓碑を建て、同9年には
父佐藤文褒翁の功績を顕彰した顕彰碑を建立しました。
さらに明治10年に政養が亡くなると、翌年遺族により
この地に佐藤政養招魂碑(題額勝海舟)が建てられ、
昭和2年には、佐藤政治郎により、十三重石塔および
政養招魂碑の所在を示す佐藤継信・忠信塚が建てられました。

 佐藤文褒翁顕彰碑と佐藤政養招魂碑(左側 碑文は剥落しています。)



佐藤政養は文政4年(1821)に出羽国飽海郡升川村(現山形県遊佐町)に生まれ、
寛政元年(1854)、江戸へ出て勝海舟の門に入りました。
海舟の従者として長崎の幕府海軍伝習所に学び、のち海軍操練所では
教授方にとりたてられ、勝海軍塾では塾頭を務めました。
明治維新後は新政府に用いられ、国内初の新橋-横浜間の
鉄道敷設に尽力し、以来日本の鉄道建設を技術面で支えました。

政養招魂碑の周囲にある玉垣は、政養の塾で学んだ
塾生たちから寄進されたものです。

佐藤政養の出身地、山形県佐藤政養先生顕彰会(遊佐町役場内)は、
平成25年(2013)に関係碑の敷地を買い取り、周辺を整備しました。
(説明板の文面を要約させていただきました。)

佐藤兄弟の兄継信は屋島合戦で、義経の楯となって戦死し、
八坂本系『平家物語』、『義経記』には、弟忠信は吉野山中に
逃げこんだ義経一行が吉野山の衆徒に背かれた時、
自害しようとする義経の身代わりとなって奥州から連れてきた
手勢数人とともに、二、三百人の僧兵相手に奮戦しました。
のちに京都の馴染みの女に裏切られて鎌倉方に密告され
北条義時勢に襲われたことやその壮絶な最期を紹介しています。
この兄弟の義経に対する忠節は、のちに謡曲『忠信』、
歌舞伎『義経千本桜』となり世に広く知れ渡りました。


現在の馬町交差点は渋谷越の通る小松谷の入口にあり、
東国への交通路として軍事上も重要視されていました。
清盛の嫡男重盛の邸は、この交差点辺から
小松谷(現正林寺辺)にかけてあったとされています。
渋谷越(現渋谷通)は苦集滅道(くずめじ)ともよばれ、
後に政治の実権を武家から天皇に取り戻そうとする後醍醐天皇の
命を受けた軍勢に鎌倉幕府の六波羅探題府が攻められて壊滅、
北条政権崩壊の引き金となった時、
六波羅探題府を出た北条仲時以下
400人の軍勢が鎌倉目ざして敗走した道筋がこの街道でした。
北条勢は街道沿いに聳え立つ巨大な石塔を
目に
ながら落ちて行ったはずです。
近江の米原近くで一行は蜂起した野伏に囲まれ自害しました。
馬町十三重石塔(佐藤継信 忠信)  
屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
『アクセス』
「佐藤継信・忠信の墓」 京都市東山区渋谷通東大路東入北側常盤町

 市バス馬町下車2分 馬町商店街の「京都とうがらしかむら」横の路地を入ります。
『参考資料』
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社、2007年 
五味文彦編「中世を考える 都市の中世」吉川弘文館、平成4年
高橋昌明編「別冊太陽 王朝への挑戦平清盛」平凡社、2011年
竹村俊則「京の墓碑めぐり」京都新聞社、昭和60年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年
徳永真一郎「物語と史蹟をたずねて 太平記物語」成美堂出版、昭和53年

 





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京都国立博物館の南門を入った中庭には、
高さ6メートルほどの「十三重石塔」が二基あります。
もとは東山区馬町に南北並んであり、「馬町十三重塔」とよばれ、
源義経の郎党佐藤継信・忠信の墓と伝えられていました。

継信・忠信兄弟は藤原秀衡の家臣でしたが、
義経が挙兵した兄頼朝のもとに駆けつける時、

秀衡の命で義経に従い、平家追討の戦いで数々の戦功をあげました。
兄の継信は屋島合戦で義経の身代わりとなり戦死し、
弟忠信は頼朝に追われる身となった
義経と苦楽を共にします。
義経の片腕となって忠義を尽くした佐藤兄弟は後世まで語り継がれ、

謡曲や歌舞伎などにも登場し、武士の鑑として人気を博しました。

「馬町十三重石塔 二基  北塔(向かって右)無銘 
南塔(向かって左)永仁三年(1195)銘 高さ約六メートル 鎌倉時代
この石塔二基は現在地から北東に五百メートルほどの馬町
(東山区渋谷通東大路東入ル)の路地奥にあった。
塚の上に南北に並んで立ち、源義経の家人、佐藤継信・忠信兄弟の
墓と伝えられていた。江戸時代の『都名所図会』に見るように、
北塔は五層、南塔は三層戸なり、地震で落ちたと思われる
上層の石は、塚の土留めとして残されていたという。
昭和十五年(1940)に解体修理が行われ、現在の十三重塔の姿に復元された。
その際、小さな仏像や塔などの納入品が、両塔の初重塔身の石に設けられた
孔の中から発見されている。両塔はともに花崗岩製、南塔(向かって左)の
基礎正面に、永仁三年(1295)二月、願主法西(ほうせい)の刻銘があるが、
北塔に銘文はなく、二基の十三重石塔が造られた経緯は明らかにされていない。」

『都名所図会』、『花洛名勝図会』にも、継信・忠信塔の図が描かれ、
この塔は洛東の名所として広く知られていました。

『都名所図会』に描かれている継信忠信の塔。

画像は国際日本文化センターデーターベース「花洛名所図会継信忠信塔」よりお借りしました。

京都から東国へ向かう道は、粟田口から山科へ抜ける旧東海道とともに、
六波羅の南端から、小松谷を通り山科に出る渋谷街道も
東国への近道としてしばしば利用されました。
馬町は渋谷通を東大路から東へ入ったところをいい、
渋谷街道の入口にあたり、六波羅探題のおかれた鎌倉時代には
馬借たちの馬屋が多いなどの理由で生まれた名とされています。
また、建久4年(1193)に淡路国から源頼朝に献上される9頭の馬がしばらく
ここにつながれてことから馬町とよばれたともいわれています。

昭和15年に所有者の佐藤氏の依頼でこの石塔が解体復元された時、
内部から鎌倉時代の小さな仏像や金銅製五輪塔などの納入物が多数発見され、
南塔には「永仁三年(1295)二月廿日立之、願主法西(ほうせい)」と
刻まれていました。法西がどういう人物であるのか明らかでないため、
この塔を建てた理由も分かりませんが、京都国立博物館は、
「鳥辺野に総供養塔として建立されたという説もある。」とされています。
鳥辺野墓地は、西大谷から清水寺に至る山腹に設けられた
広大な墓地のことで、『都名所図会』に「鳥辺野は北は清水坂、
南は小松谷を限る。むかしより諸宗の墓所なり。」とあるように、
西大谷をはじめ日蓮宗の諸寺の墓石が並んでいます。

高橋慎一朗氏はこの塔が建てられた目的のひとつには、
「渋谷越の脇、六波羅からの出口にあたる場所に建立されていることから、
東国への道中の安全を願う供養塔であったとも思われる。」と
述べておられます。(『都市の中世(六波羅と洛中)』)

この石塔は戦後すぐに撤去され、他所に移されていましたが、
昭和46年京都国立博物館に寄託されました。

平成知新館西側から見下ろした正門。
平成27年4月、狩野派の特別展を見るためこの博物館に入ったところ、
本館前の庭にあるはずの二基の塔がなく、
館内を探すと平成知新館レストラン西側に解体された南塔が展示され、
説明板に
北塔は現在補修中と書かれていました。

平成知新館西側から本館を望む。


馬町の佐藤継信 忠信墓   屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
『アクセス』
「京都国立博物館」 京都市東山区茶屋町527  市バス博物館・三十三間堂前、東山七条下車すぐ
「平成知新館」三十三間堂の向かいの南門を入ると平成知新館へ向かってアプローチが伸びています。
『参考資料』
五味文彦編「中世を考える 都市の中世」吉川弘文館、平成4年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
竹村俊則「京の伝説の旅」駿々堂、昭和47年 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
 井上満郎「平安京再現」河出書房新書、1990年 「京都地名語源辞典」東京堂出版、2013年

 



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