平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



八十島(やそしま)祭は、即位大嘗会(だいじょうえ)が行わわれた
翌年、勅使が難波の海に遣わされ催行される宮廷儀式です。
新天皇の乳母で内侍(ないし)に任命された者が
祭使(まつりのつかい)になり、
生島巫(いくしまのみかんなぎ)や神祗官(しんぎかん)の
役人とともに難波を訪れ、大八洲(日本国土)の霊である
生島の神と足島(たるしま)の神それに住吉の神、
大依羅(おおよさみ)の神、海(わだつみ)の神などを祀るものです。

時代が下るにつれて禊(みそぎ)・祓(はらい)の要素が
強くなっていきますが、本来は海辺に祭壇を設け、
祭使が持参した天皇の御衣を納めた箱を開いて、
神祇官の弾く琴に合わせて海に向かって御衣を揺り動かし、
最後に祭物を海に投じるというものです。古代、
この淀川河口に浮かぶ島や中洲のことを八十島とよびました。
万物に精霊が宿っていたと信じている時代ですから、
その八十島を国土に見立て、島々の神霊を
新しく即位した天皇の体内に遷すという呪術的な祭祀です。

八十島祭は奈良時代には、天皇自身が難波津に赴き
挙行していたともいわれていますが、記録に残っているのは、
文徳天皇の嘉祥3年(850)の記事からで、
鎌倉時代に入って武家が勃興すると
公家は貧窮し断絶しました。

最初は祭場を「熊河尻(くまかわじり)」に置いていましたが、
長暦元年(1037)以後は住吉大社神主の申し出により、
住吉大社に近い「住吉代家浜」に変更して祀られたという。
(『平記』長暦元年9月25日条)
住吉の浜は大和川の付替え以降、土砂が堆積しさらに明治以降
行われた埋立開発事業・港湾整備によって海岸線は遠ざかり
現在、「住吉代家浜」は存在しません。

平安時代も半ばなると、住吉大社は多くの社領・荘園を持ち、
八十島祭の費用なども負担して
いつしか祭神も神威が高い住吉の神となっていったようです。

当初、この八十島祭の行われた熊河尻については淀川の
支流と考えられていますが、その所在地は
定かではありません。

永暦元年(1160)12月15日、二条天皇の八十島祭が行われました。
この時、典侍(てんじないしのすけ)を務めたのは清盛の妻時子です。

「時子が乳母になった時期は不明だが、
おそらくは平治の乱後であろう。」(『平清盛福原の夢』)

八十島典侍の賞として時子は、永暦元年12月24日に
従三位に叙されています。(『山槐記』同日条)

祭使の一行は、京を牛車を連ねて出発し淀から船に乗り換え、
難波津に至るのが通例でした。
神宝を入れた韓櫃(からびつ)2個、
勅使とその随行、次に平家一門の殿上人、地下人13人。
清盛の異母弟尾張守頼盛、常陸介教盛、伊賀守経盛のほかに、
時子の弟の右少弁時忠、異母弟蔵人大夫親宗(ちかむね)
それに14歳の息子淡路兵衛介宗盛がつき従います。
この日、美しく着飾った時子は唐車の左右につく8人の従者に
守られて車に乗り、騎馬で伊予守重盛が供奉し、
清盛腹心の郎党検非違使平貞能(さだよし)がそれに従います。
さらに6両の女房車が続き、警備のための衛府の武者が93人、
大型の長持4個等々という参加人数のきわめて多い華美な行列でした。
この豪奢な儀式には莫大な費用がかかりますが、
それを支えたのは平家一門の財力でした。
このことから清盛が後白河院の院司である一方、
二条天皇の有力な後盾であったことが明らかとなります。

ちなみに後白河上皇の皇子安徳天皇が即位した時には、
八十島祭の典侍に任命されたのは
重盛の妻経子(藤原成親の妹)でした。

後白河天皇の第1皇子の守仁親王(二条天皇)は、母が早世したため
美福門院得子(鳥羽院の皇后)の養子になっていました。
崇徳天皇が鳥羽院によって譲位させられ、
わずか3歳の近衛天皇が即位しましたが、この天皇が
跡継ぎのないまま若くして亡くなったため、鳥羽院や
美福門院らが次の天皇にと選んだのは聡明な守仁親王でした。
しかし、父の雅仁(まさひと)親王を差し置いて実現できず、
中継ぎとしてひとまず後白河天皇が即位したのでした。

その後、後白河天皇は退位し、二条天皇を即位させ
院政を開始しましたが、自分で政治を行おうとする二条天皇との
間には当初、政治の覇権を争う激しい対立がありました。
清盛は「あなたこなた」して、
すなわち「状況を見ながら双方に気配りをして
どちらにもいい顔をしていた」と『愚管抄』は伝えています。
こうしてその対立をうまく利用しながら清盛は出世していきました。
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
梅原忠治郎「八十島祭綱要」プリント社、昭和9年
三善貞司編「大阪史蹟辞典(八十島祭)」清文堂、昭和61年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社、2007年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書、平成24年



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住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や
交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより
大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、
その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る
「潮掛け道」は大社の表参道でした。

住吉公園

汐掛道東から

鎌倉時代の元寇の時は、西大寺の叡尊が再三当大社に参詣して
異敵降伏の祈祷を行い、また
住吉公園の前に広がっていた
住吉の浜では、住吉大社による住吉大明神への
大規模な「蒙古調伏の祈祷」が修せられました。



汐掛道の記
ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、
社前から松原が続き、
すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。
 松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、
「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、
遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。
 古くから白砂青松の
歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、
大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 財団法人 住吉名勝保存会

汐掛道西から

江戸時代には、徳川将軍家はじめ各大名の尊崇も篤く、西国諸大名は
参勤交代ごとに住吉大社で参拝するのが慣例となっていました。
また文人墨客の参詣も多く、芭蕉は当社の「宝の市」に詣でて
この祭の名物である「升」を購入し、
♪升買うて 分別かはる 月見かな と詠んでいます。





元禄7年(1694)9月、芭蕉は大坂で派閥争いをしていた門人、
酒堂(しゅどう)と之堂(しどう)の仲を仲裁するために
故郷の伊賀上野から奈良を経て大阪に入り、同月13日、住吉近くの
長谷川畦止(けいし)亭で月見の句会を予定していました。
その日は住吉大社で宝の市(升の市)が立って賑わう日でしたから、
この市に出かけ名物の升を買っています。去る9日来阪以来
何となく気分のすぐれなかった芭蕉は、その夜急に悪寒を覚え、
句会をすっぽかして早々に帰ってしまいました。
翌日にはすっかり快復して、芭蕉の不参加で延期されていた
会に出かけて詠んだ挨拶の発句です。
参加者一同が不参加の理由(気が変わったのではない)を
知っていることを承知の上で正面切って謝らず、
それを風流に詠んだのがこの句であると云われています。
芭蕉はその後間もなく病に伏し、大阪市内南御堂付近で亡くなったのでした。

 毎年10月17日に行われる宝之市神事(たからのいちしんじ)は
御神田で育った稲穂を刈り取り、五穀と共に神様にお供えする行事です。
昔は9月13日に行われ、黄金の桝(ます)を作り新穀を奉り、
農家で使用する升を売っていたので升の市ともよばれ、
相撲十番の神事が盛大に行われたので相撲会(すもうえ)ともいいました。
松尾芭蕉終焉の地(南御堂) 



古くは住吉津の河口部の入江に細井(細江)川が注ぎ、
入江は住吉(すみのえ)の細江とよばれ、住吉社の高燈籠が立ち、
風光明媚な海岸として知られていました。入江付近の浜を
出見(いでみ)の浜といい、『万葉集』にも詠まれています。
今、昔の名残を感じさせるものはありませんが、住吉大社参道と
国道が交差する角に立つ高灯籠がわずかに往時の港を偲ばせます。

国道26号に面して立つ住吉高燈籠は、住吉大社の灯篭で、
鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされています。
現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、
元は現在の位置より200mほど西側にありました。
その後埋め立てが進み高燈篭も海から遠ざかり、昭和49年に
現在地に石垣積みを移してコンクリート造で再建されました。

内部は資料館になっています。 開館時間 第1・3日曜日 10:00~16:00

高燈籠復元の記
昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神
 住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は
 数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし
 船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた
寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 
夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時
◆中略◆
この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 
往時の面影が偲ばれる 旧高燈篭はここより二百メートル西にあって
 明治の末年迄度々大修理が行われた
戦後台風のため
木造の上部は解体され 更に昭和四十七年道路拡張のため
 基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた
この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成し
 その復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 
その他地元会社有志の寄附を仰ぎ 大阪府 市の援助を得て
 このゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである
昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会



 高燈篭より二百メートルほど西の民家前(
住之江区浜口西1)に
「住吉高灯籠跡」の碑が立っています。



「住吉高灯籠跡」碑のすぐ近くに「従是北四十五間」の碑があります。
側面には「剣先船濱口村 立葭場請所」
「天保三年辰十一月」と彫られています。
濱口村の名の由来はかつて海浜に近かったことによるといわれています。

剣先船は、江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。
宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。
住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。
船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたという。
剣先船の説明は、大阪市HPより転載しました。)
大阪市住之江区浜口西1-7
市バス「住吉公園」下車西約300m・南海本線「住吉大社」下車西600m


住友灯籠は江戸時代から昭和初期にかけて、
住友家の歴代当主によって奉献された灯籠です。
この灯籠は海辺に続く道「汐掛の道」に建てられ、海上安全と
家業の繁栄を願って寄進されたといわれています。

住友燈籠の記
古くからこの地を長狭(ながさ)と称し、海辺へ続くこの道は
汐掛道と呼ばれていた
 ここに並ぶ十四基の燈籠を始め、
公園内の住友家の燈籠は、江戸時代から昭和初年にかけ、
 住吉大社正面参道である汐掛道に添って
代々奉献されてきたものである。
 江戸時代の
大阪は日本における銅精錬・銅貿易の中心地であり、
その中核をなしたのが住友家であった。
 銅は主に伊予(愛媛県)の別子銅山から海路運ばれ、
大阪で精錬され、日本の経済を支えていた。
この燈籠も海上安全と家業の繁栄を願って寄進されたが、
長い年月を経て、一部は移築され、また周辺の
道路事情も変わったため、地元住民の意向を受け、
新たな考証に基づきここに年代順に移転再配置した
天下の台所「大坂」を偲ぶ貴重な歴史遺産として、
今後とも長く守り伝えて行かなければならない。
  平成六年六月  財団法人 住吉名勝保存会

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年
「平成22年 住吉暦」住吉大社、平成21年
大谷篤蔵「芭蕉晩年の孤愁」角川学芸出版、平成21年
『アクセス』
「住吉高燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車徒歩約4分
住友燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車すぐ



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住吉大社前を通り抜ける昔懐かしいチンチン電車 (阪堺電気軌道)

住吉大社は古来、海上安全の神として信仰が篤く
王権と密接に関わってきた格式高い摂津国一宮です。

住吉は現在の大阪市南部の住吉区一帯で、
平安時代以前は「すみのえ」と読んでいました。

住吉津(すみのえつ)は、住吉大社の門前に広がる港で早くから
天然の良港として、外港としての機能を果たしていましたが、
干潮時には船底がついてしまうという難点がありました。
そのため依網池(よさみのいけ)から掘割水路で水を引いていました。
この池は近世の大和川の付替えによって大幅に縮小しましたが、
かつては10万坪もあったという。

住吉大社の南を流れる細江(細井)川の河口には、漁船や
外交船が発着する「住吉細江」という港津があったと推定され、
この沿岸一帯の入江には、同様の港がいくつかあり
外交や交易の場として栄えていたと考えられています。
遣唐使船は住吉大社で海上安全の祈願を行い、住吉三神を
船の舳先に祀り、住吉津(住吉細江)から出航したとされています。

住吉大社は海の神、航海の神として広く崇拝され、
津守氏一族が明治に至るまで代々宮司を勤め、
遣唐使船にも神主として乗りこみました。
当時は航海技術が高くなかっただけに、派遣された船の三分の一が
遭難するという
命がけの船旅の中で精神的な支えが必要だったようです。
「津守」の姓は田裳見宿禰(たもみのすくね)より
住吉の津を守るの意から賜ったという。

『万葉集』には、住吉という地名が41首も詠われています。
天平5年(733)の遣唐使に贈られた長歌に
 「住吉(すみのえ)の御津(みつ)に船乗り」とあり、
多治比(たじひ)広成を大使とする遣唐使が今まさに
住吉津から出航しようとしていることが『万葉集』に見えます。

♪そらみつ大和の国 青丹よし平城(なら)の都ゆ
 おし照る難波に下り
 住吉の御津に船乗り 直渡(ただわた)り
 日の入る国に 遣(つか)はさる わが背の君を(後略)
 作者未詳 巻19・4245
 (大和の国奈良の都から難波に下り、住吉の御津で船に乗って
まっすぐ海を渡り、
日の入る国唐に赴くよう命じられた私の大切な人よ)

池に架かる反り橋(太鼓橋)の左側に
埴輪古代船をかたどった万葉歌碑がたっています。







♪住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と
 行(ゆ)くとも 来(く)とも  船は早けむ 
 多治比真人土作(たぢひのまひとはにし) 巻19・4243 

(住吉の神のお告げによると、行きも帰りも
船はすいすいと進むでしょうとのことです。)
住吉神社に幣帛を奉り、航海の安全を祈願したところ、
つつがなく旅を終えるとの神託を受けたというのです。

 ♪草枕 旅行く君と知らませば 岸の黄土に にほはさましを
 清江娘子(すみのえのをとめ) 巻1・69

 (あなたが旅行くお方と知っておりましたならば、
記念にこの岸の黄土で
 お召し物を彩ってさしあげましたのに。)
岸の黄土(はにふ)は、住吉の台地から採れる黄土のことで
染料に用いられ、
衣を黄金色に美しく染め上げました。

万葉時代の住吉地形には、万葉歌に詠まれた「しはつ道・得名津(えなつ)・
遠里小野(おりおの)・粉浜(こはま)・敷津の浦・出見の浜・
玉出・あられ松原・浅沢小野など」の地名が記されています。

住吉津の周辺には、得名津や敷津などの港が存在し、現在の
粉浜辺りまで潟(ラグーン)が延び、淡水と海水が入り混じっていました。
鎌倉時代末まで、住吉大社の前は潟をなしていましたが、
その後池となり、江戸時代の『摂津名所図会』には、
独立した池に朱塗りの太鼓橋が架けられている図が描かれています。

大阪平野を東西に直進する「しはつ道」によって、
大和地方と密接に結ばれ、あられ(安良礼)松原は、
今の住之江区安立(あんりゅう)町付近であったとされています。
古くは細江(細井)川は住吉津に注ぎ、河口部の入江付近の浜は
出見(いでみ)浜とよばれ、古来名所として歌に詠まれました。

手水舎の傍に「誕生石」があります。

丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ちかつね)によって
難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、
雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、
局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍の大石を抱いて男児を出産した。
これを知った
住吉の神人田中光宗(みつむね)は湯茶をすすめて
介抱し保護したという。是を知った
源頼朝は本田次郎を賞し、
若君に成長した男児は後に薩摩・大隅二か国をあてられた。
これが島津氏の初代・島津三郎忠久公である。この故事により、
住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。

丹後局は頼朝の乳母・比企尼の長女で、丹後内侍と称して
二条院に仕え優れた歌人として知られていました。
惟宗広言(これむねのひろこと)に嫁いで島津忠久を生み、
その後、離縁し関東へ下って安達盛長に
再嫁したとされています。盛長は妻の縁で頼朝に仕え、
頼朝の挙兵前からの側近であったという。



『島津正統系図』によると、島津忠久は惟宗広言と
丹後内侍の間に生まれたとされていますが、
近年、広言の養子ではないかという説もだされています。

当時、妻以外に愛妾を迎えて子孫を増やしていくのが
一般的でしたが、北条政子は妾の存在を許しませんでしたから、
その嫉妬深さを伝説的に語る数々のエピソードが残っています。
流人暮らしの頃から仕え、丹後内侍が頼朝に近い
女性であったことや住吉大社が中世には和歌の神として
広く知られるようになっていたことから
こんな伝説が生まれたのではないでしょうか。

 住吉大社には、「一寸法師」も伝わっています。
難波の里に住むおじいさんとおばあさんには子供がいませんでしたが、
住吉大明神に参拝し子宝祈願をしたところ、
親指ほどの子を授かったというお話が『御伽草子』に記されています。

住吉大社(義経の親戚にあたる神主津守長盛)  
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
南海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ
開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
金子晋「美しい水都が見えた」アド・ポポロ、平成23年
小笠原好彦「古代の三都を歩く 難波京の風景」文英堂、1995年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
「平成二十二年 住吉暦」住吉大社、平成21年「大阪府の地名」平凡社、2001年
犬養孝「万葉の旅(中)」社会思想社、昭和49年
駒敏郎「万葉集を歩く」JTBキャンブックス、2001年
富田利雄「万葉スケッチ歩き」日貿出版社、2000年
斎藤喜久江・斎藤和江「比企遠宗の館跡」まつやま書房、2010年
脇田春子「中世に生きる女たち」岩波新書、1988年
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年

 



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住吉大社は創建当時、海辺にあったと推定され、
明治期にも、すぐ近くの住吉公園の西まで海が迫っていました。
海上安全や港の神として信仰を集め、遣唐使も出航の際には、この社に
航海の安全を祈願して住吉津(大阪市住吉区)から出航しています。
住吉社(現、住吉大社)神主津守氏の中にも
遣唐使の一員となって唐に渡った者がいました。
また同氏は代々箏(そう)や笛、和琴などの音楽に優れ、
勅撰集に載せられる歌人も輩出しています。

『住吉松葉大記』は、43代神主津守国盛(長盛の父)の母を
源為義の娘としています。ということは国盛は義朝の甥にあたり、
頼朝や義経にとって従兄弟という関係になります。

『保元物語・為義最後の事』には、「為義の多くいた子女の中に、
住吉の神主に嫁がせた、あるいは養女となった娘がいた。」とあります。
「諸本で記載に差があるが、時代から見てこの神主は国盛と考えられる。
国盛の妻となって長盛を生んだのか、国盛の養女となり、
長盛と兄弟姉妹のように育ったのか、国盛養女から
長盛の妻となったのかはよく分からない。」
(新潮日本古典集成『平家物語下』240頁頭注)

生駒孝臣氏は、「長盛は国盛と源為義の娘との間に生まれた」と
述べておられます。(『大阪春秋第39巻4号』)

『義経記・
巻4』は、義経が九州へ渡ろうとして
大物浦から船出し遭難した時、渡辺津から住吉へ赴き、
その夜は神主の津守長盛のもとで過ごしたとし、
義経と津守氏との関係が深いものであったことを記しています。

津守長盛は、住吉社の神主でありながら、武士としての側面をもち、
従四位下に昇り、北面(院への昇殿を許された上北面)として
後白河上皇に仕えていました。


屋島合戦では、
義経船出の文治元年(1185)2月16日、住吉社から
鏑矢が西方に飛び去り、神の助けによって無事阿波に着いたといわれ、
海の神として崇敬されているこの社の神威が広められました。

住吉社の44代神主である津守長盛(当時46歳)が都へ上り、「去る16日の
丑の刻(午前1時から3時までの間)平家追討のお祈りを行っている時、
当社の第3神殿より、鏑矢(鏑をつけた矢で射ると大きな音を立てる)の
音がして、西方へ飛んでいったという霊験を後白河院に奏聞したので、
院はたいそう感じ入って、御剣(ぎょけん)以下さまざまな神宝を
長盛に持たせて、住吉大明神に奉納しました。『平家物語・巻11志度浦合戦』
この住吉神矢の話は、『吾妻鏡』文治元年(1185)2月19日条や
『玉葉』元暦(げんりゃく)2年(1185)2月20日条にも記されています。

南海電車住吉大社駅を降りると、すぐ東に住吉大社の境内が広がり、
鳥居から美しいアーチを描く朱塗りの反橋(そりばし)が見えます。

太鼓橋(たいこばし)とも称され、
慶長12年(1607)に淀君寄進の住吉大社を象徴する橋です。






住吉信仰の中心的存在となっている住吉大社。
住吉鳥居とよばれるこの鳥居の特徴は、
柱が円柱ではなく、四角柱になっていることです。

 その奥にある国宝の4棟の本宮は檜皮葺(ひわだぶき)、妻入切妻造りで
住吉造りとよばれ、西面して建ち古代建築の風を今に伝えています。

住吉大社御由緒
  御祭神 
 第一本宮 底筒男命   第二本宮 中筒男命  
第三本宮 表筒男命
 第四本宮 息長足姫命 神功皇后
 御由緒
 底筒男命 中筒男命 表筒男命の3神を総称して
住吉大神と申し上げます
 住吉大神の「吾が和魂をば宜しく大津渟中倉長峽に居くべし
便ち因りて往來ふ船を看む」との御神託により
神功皇后がこの地に御鎮祭になりましたのが
皇后の摂政十一年辛卯の歳(西暦211年)と伝えられています
 御神徳
 住吉大神は伊弉諾尊の禊祓に際して海の中でお生れになった
神様でありますから禊祓、海上守護の御神徳を中心とし
古来産業 文化 外交 貿易の祖神と仰がれ
常に諸願成就の名社として広く普く崇敬されています
 御社殿
 第一本宮より第三本宮までは縦に 第四本宮は第三本宮の
横に配列奉祀され各本宮ともに本殿は住吉造として
神社建築史上最も古い様式の一つで妻入式の力強い直線形をなし
 四本殿とも国宝に指定されています


第三本宮:表筒男命(うはつつのおのみこと)

現存の本宮は、江戸時代の文化7年(1810)に造営されたものです。
住吉三神とよばれる底筒男命(そこつつおのみこと)、
中筒(なかつつ)男命、表筒(うわつつ)男命と
息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと・神功皇后)の
四柱を祭神とし、それぞれ第1本宮より第4本宮に祀っています。

住吉三神は、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が
禊祓(みそぎはらえ)時に生まれた神とされています。
(伊弉諾尊は黄泉の国から現世に戻って死の穢れの祓いを行った)

第四本宮:息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
神功皇后の三韓遠征に住吉の神が先導したことが、
『古事記』『日本書紀』に見えます。

毎年6月14日に境内の田圃に早苗を植える際に行う
「御田植(おたうえ)神事」は、
神功皇后が五穀豊穣を祈願し、長門国から植女を召して
御供田を植えつけられたことに始まるといわれ、
国の重要無形民俗文化財に指定されています。

第四本宮  

第二本宮:中筒(なかつつ)男命


第二本宮の側面
拝殿背後にある本殿の住吉造り

本を開いて伏せたような形をした屋根の切妻(きりづま)造り、
屋根のない妻側を出入口とした妻入(つまいり)
形式です。
間口が2間、奥行きが4間の長方形で、
内部は内陣(ないじん)と外陣(げじん)に分かれています。


本殿は大嘗祭の時に造営する大嘗宮正殿の様式に類似しています。
大嘗祭は即位儀礼の一環として即位直後に行われる新嘗祭のことです。


住吉社は海の神・航海の神、さらに玉津島神社、柿本神社とともに
和歌三神(さんじん)の一つとして、
古来より天皇や上皇、貴族など、
和歌の上達を願う人々の崇敬を集めてきました。とくに平安時代には
京都の貴族がしばしば参詣して和歌を献じています。
貴族社会において、和歌は文化的素養としてだけではなく会話の一種でもあり、
その上手・下手が大きく取り上げられることが多かったのです。

 院政期以降盛んになった熊野詣の途次、歴代上皇や貴族たちは
住吉社に寄って
和歌を奉納するのが習わしとなっていました。
後鳥羽上皇の熊野御幸に随行したときの藤原定家の日記
『後鳥羽院熊野御幸記』によると、
建仁元年(1201)10月、
天王寺に宿泊した一行は、上皇に3首のお題を出され
定家も和歌を奉納しています。

 ♪あひおひのひさしの色も常盤にて 君が代まもる住吉の松
(相生の松の年を経ても変わらぬ様子は永遠を思わせます。
永遠に君の世を守ってください。住吉の松よ。)

住吉、住吉関係の歌枕で松が詠まれることが多いのですが、
これは松が住吉社を象徴する木だからです。

  建久6年(1195)4月27日、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため
上洛していた頼朝は、
梶原景時を使者として、
住吉社に神馬を奉納しています。
 この時景時は、
♪我君の手向(たむけ)の駒を引つれて 行末遠きしるしあらはせ
(私の主君から奉納するための馬を預かってきましたので、
その未来は永遠であると意志表示してください)
という
和歌一首を釣殿(つりどの)の柱に記し付けたのだという。
和歌の神として尊崇された住吉社には、当時、
歌人たちが釣殿に和歌を書きつける風習があったようです。
住吉大社(万葉歌碑 島津忠久誕生石) 
かつて住吉大社の境内であった住吉公園に参道が残っています。
住吉高燈籠 汐掛道 芭蕉句碑 住友燈籠  
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
南海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ
開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)角川書店、昭和42年
 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 現代語訳「義経記」河出文庫、2004年
「大阪春秋第39巻4号」(住吉社と住吉社神主津守氏の軌跡)新風書房、平成24年
「新修大阪市史(第1巻)大阪市、昭和63年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡(6)」吉川弘文館、2009年 「大阪府の地名」平凡社、2001年
「神社の見方」小学館、2004年 「神社とお寺の基本がわかる本」宝島社新書、2007年
神坂次郎「歴史の道 古熊野をたずねて」和歌山県観光連盟、2003年
加地宏江・中原俊章「水の里の兵たち 中世の大阪」大阪文庫、1984年

     

 

 

 



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熊野詣は京都の下鳥羽(草津湊)から船に乗って淀川を下り、
摂津国渡辺の津(江戸時代の八軒家船着場付近)に上陸し、
九十九(くじゅうく)王子の最初の王子社、
渡辺(窪津)王子でお祓いを受けた後、
御祓筋(おはらいすじ)を南下して四天王寺から住吉へ、
それから街道筋に点々とある王子社を巡拝しながら熊野へと向いました。

天満橋の交差点から土佐堀通の南側を西に進むと、
永田屋昆布店(中央区天満橋京町2-10)前に
八軒家船着場跡の石碑が置かれています。
 八軒家船着場跡  
それを通り越し土佐堀通を西に進むとすぐ御祓筋、
御祓筋と土佐堀通との交差点に熊野街道起点碑があります。

『熊野かいどう
熊野街道は このあたり(渡辺津 窪津)を起点にして
熊野三山に至る道である
京から淀川を船でくだり 
この地で上陸 上町台地の西側脊梁(せきりょう)にあたる
御祓筋(おはらいすじ)を通行したものと考えられ
平安時代中期から鎌倉時代にかけては
「蟻の熊野詣」といわれる情景がつづいた
   また江戸時代には京 大阪間を結ぶ三十石船で賑わい
 八軒の船宿があったことから「八軒家」の地名が生まれたという
  平成二年 大阪市』

土佐堀通をさらに西に進み、北大江公園の西側、
ビルの谷間に坐摩(いかすり)神社行宮の小さな祠があります。

ここは熊野権現の分霊を祀った渡辺王子(窪津王子)社の
もとの鎮座地と伝えられています。
窪津王子はその後、四天王寺の西門近くの熊野神社に
遷座されましたが、
現在は堀越神社(天王寺区茶臼山町1-8)に
熊野第一王子之宮として合祀されています。
 坐摩神社・坐摩神社行宮(渡辺党)  



「平成21年難波宮 大阪 熊野街道連絡協議会」によって建てられた
熊野街道の石碑
(天王寺区大道1-8付近)



熊野権現礼拝石は、四天王寺南大門を入ってすぐの所にあります。



南大門には「四天王寺庚申堂参道 南大門よりまっすぐ信号を
ふたつ越えて歩いて2分」と記した案内板がたっています。

熊野権現禮拝石と彫られています。


 

西大門(極楽門)

西大門・西門石鳥居

『四天王寺縁起』に四天王寺の西門は、
極楽浄土の東門(とうもん)に通じていると書かれていたことから、
ここから西方を望むと極楽浄土に導かれるという信仰が生まれ、
藤原道長・頼通をはじめ鳥羽上皇・後白河上皇・公卿らの参詣が相次ぎ、
源頼朝も東大寺再建供養のため上洛の折、
大勢のお供を連れて参拝しています。

丹後局が所有する船を借り、鳥羽津(草津湊)より船出して
渡辺津で上陸し、そこから車に乗り、
陸路をたどって四天王寺へ参詣。
隋兵以下、供奉の人々は騎馬であったという。
(『吾妻鏡』建久6年(1195)5月20日条)

 熊野は古くから自然信仰の神々を祀る社として知られていましたが、
平安時代に神仏習合が進み、阿弥陀浄土、観音補陀落浄土として、
熊野本宮、速玉大社、那智大社の熊野三山は、
山岳修験の道場ともなっています。
院政期以降、上皇をはじめ女院や貴族の参詣があいつぎ、
鎌倉時代になると、武士や庶民へと広がりを見せ、
絶え間ない旅人の群れが熊野へ続いたのでした。

『平家物語』にも、当時の熊野信仰を背景にし、
その影響を受けた説話がみられます。
「巻1・鱸」には、熊野参詣の途中、清盛の船に出世魚の
鱸(すずき)が飛び込んでくるという吉兆が現れ、
平家一門の繁栄は熊野権現の御利益であると述べています。
「巻2・康頼祝言(のりと)」では、鬼界が島に流された3人のうち
藤原成経、平康頼の2人は熊野信仰に篤く、
島内にそれらしい所を見つけて、熊野三所権現を勧請して
赦免を祈ったという逸話が語られています。

また、「巻3・医師問答」には、父清盛の悪行に苦しみ
一門の行く末を案じていた重盛は、熊野本宮に詣で
わが命と引き換えに父の悪心を和らげてくださいと
祈ったことからその命を縮めたという話もあり、
人々はさまざまな願いをこめて熊野に参詣したのです。
住吉大社の東側を通る熊野街道 津守寺跡 津守王子(新宮社)  
『アクセス』
「八軒家船着場の跡の碑」 大阪市中央区天満橋京町2-1 
地下鉄谷町線・京阪電車「天満橋」下車西へ約100m
「坐摩社行宮」大阪市中央区石町2
京阪電車「天満橋」駅、地下鉄谷町線「天満橋」下車、徒歩約7分

「四天王寺」
大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
 tel. 06-6771-0066
地下鉄 御堂筋線・谷町線天王寺駅 から北へ徒歩約12 分
地下鉄 谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅から南へ徒歩約5 分
近鉄 南大阪線阿部野橋駅から北へ徒歩約14 分
『参考資料』
 週刊古寺をゆく「四天王寺」小学館、2001年
神坂次郎「歴史の道 古熊野をたずねて」和歌山県観光連盟、2003年
現代語訳「吾妻鏡(6)」吉川弘文館、2009年




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