平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




六波羅は、北は五条大路(現、松原通)から南は七条大路(現、七条通)、
西は鴨川東岸から東は東山麓に及ぶ広大な地域をいいます。
最盛期には、清盛の邸宅泉殿を中心に鴨川の東、
五条から六条付近にかけて平家一門の館が建ち並んでいました。
小松殿とよばれた重盛の邸は、小松谷の入口
(現、東山区馬町交差点辺)から東にかけてあり、一門の邸宅の中では
後白河院の法住寺殿に一番近いところにありました。

当時、この地は郊外で、古代からの葬送地である鳥辺野に隣接し、
鳥辺野への道筋でした。五条大路末が清水寺へ通じていたこともあり、
信仰の場として発展し、六波羅蜜寺・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)・
念仏寺などが建ち並び、冥界への入口といわれていました。
六波羅密寺や六道珍皇寺、六道の辻の碑などは今も残っています。

この地に目をつけた
清盛の祖父・正盛が天仁3年(1110)に
六道珍皇寺の土地の一角を借り、常光寺(正盛堂)を建てたのが始まりです。
清盛の父の忠盛そして清盛へと受け継がれ、
平氏一門の邸宅が軒を連ねる六波羅へと展開していきました。

正盛時代には一町四方ほどの地でしたが、平治の乱勝利後、平家の勢いが
急速に強大となり、最盛期には二十余町(約9万坪)に及ぶようになり、
平安時代末になると、六波羅密寺付近一帯には平家一門の館が建ち並んでいました。
死者を葬る鳥辺野に近い土地を敢て選んだのは、地価が安かったことや
渋谷越を経て東国、伊賀、伊勢へ行くのに便利な場所だったからです。

伊賀伊勢地方は伊勢平氏の出身地で、一族が勢力を築いた地です。
平家都落ちの朝、邸宅は一門の手で焼き払われ、
今はわずかに残る町名が当時を偲ぶよすがとなっています。

(京都アスニー展示・京都市歴史資料館蔵 『平清盛院政と京の変革』より転載。)
南から見た状況。中央近くに見えるのが六波羅蜜寺、西側の池がある邸宅が頼盛の池殿です。
六波羅邸の西側は鴨川東岸の河原まで広がっていたと推定されています。



平安時代の葬送の地、鳥辺野の入口にあたる六道珍皇寺門前の「六道の辻」の碑。
珍皇寺の門前は賽河原(さいのかわら)と伝えられ、
あの世とこの世の境界とされていました。

京都の人たちは、珍皇寺で行われる精霊迎えの六道詣りのことを
「六道さん」とよんでいます。
普段はひっそりしている境内も露店がたち並び、
迎え鐘をつく人や高野槙(こうやまき)を求めて精霊迎えする人々で賑わいます。

西福寺前、鳥辺野への道筋に建つ「六道之辻」の碑。
この辻を南へ曲がると、すぐに六波羅密寺が見えてきます。
西福寺は六道物語の絵解きで知られています。

◆三盛町(柿町通六波羅裏門通西入)は、もと泉殿町とよばれ、
広い庭園がある清盛の邸・泉殿跡です。

泉殿南方の◆池殿町(六波羅裏門通西入)は、忠盛が晩年住んでいた邸で、
忠盛の死後、後妻の頼盛の母(池ノ禅尼)が
伝領した池殿があった所です。
後に頼盛が住み、この邸宅はしばしば御所となりました。
池殿は泉殿より規模が大きく、
清盛の娘徳子が安徳天皇を生んだのも
高倉天皇が崩御したのもこの邸です。安徳天皇産湯の井(妙順寺)  


多門町・北御門町・西御門町・弓矢町も平家ゆかりの町名といわれています。
◆多門町(六波羅裏通東入)
六波羅の総門は東に向って開かれており、多門町 は総門にちなむ地とされています。
◆北御門町(大黒町通松原下一丁目)は、平氏六波羅の北の総門跡。

◆門脇町(六波羅裏門通二筋目西入)には、六波羅総門脇に
清盛の弟の
平教盛(のりもり)の門脇殿(かどわきどの)があったとされています。

清盛の嫡男重盛の小松殿は六波羅の東南、
現在の馬町交差点から渋谷通の東側辺にあったと推定されています。
小松谷正林寺の阿弥陀経石 平重盛(2)  
小松殿の庭園跡と推定されている積翠園
積翠園 平重盛(3)  

 
建仁寺勅使門 
六波羅の重盛邸(教盛邸とも)から移したといわれ、
扉に戦乱の矢傷があるので矢ノ根門とも矢立門ともよばれています。

ちなみに建仁寺の町名は小松町です。
また、東福寺本坊伽藍の南にある総門は、平氏の六波羅門とも
六波羅探題の門とも伝えています。

門脇町・池殿町の東側には、洛東中学校があり、
校門傍に「此附近平氏六波羅第 
六波羅探題府」の石碑がたっています。
この付近一帯には平氏一門の邸宅六波羅第とその後、
鎌倉幕府によって設置された六波羅探題がありました

現在、この碑は六波羅蜜寺の境内に移されています。


平家滅亡後、源頼朝は池殿跡に邸を新築して上洛の際の宿舎とし、
これが後の鎌倉幕府の六波羅政庁(探題)となり、京都を抑える拠点となりました。

六波羅蜜寺境内に移された「此附近平氏六波羅第 六波羅探題府」の石碑(平成28年10月撮影)

六波羅密寺は平安中期に浄土教を広めた空也上人開基の寺で、
当初は西光寺とよばれていましたが、
空也上人没後弟子中信が六波羅蜜寺と改めました。その後、清盛の時代になると、
六波羅密寺の境内地を中心にして平家一門の邸宅が建ち並びました。

六波羅での発掘調査は少なく、まだ建物などの跡は見つかっていませんが、
六波羅密寺旧境内の調査で、平安時代後期の瓦などが出土しています。


経を読む入道姿の清盛坐像のポスター

寺は西国三十三ヵ所霊場の第十七番札所としても知られています。



本堂南側に平清盛の塚と平景清の恋人阿古屋塚が並んでいます。

景清の行方を詮議される「阿古屋の琴責め」は
浄瑠璃や歌舞伎の題材となり、人気を博しています。
景清伝説地(阿古屋塚)  

追記:平成23年11月、坂東玉三郎が奉納し、風雨による劣化防止を目的に、
阿古屋塚と平清盛塚を屋根で覆うなど周辺が整備されました。






六波羅蜜寺のある轆轤(ろくろ)町は、六道の辻にあたり、昔は
髑髏(どくろ)町という町名でしたが、江戸時代に現在の名に改められました。

産経新聞2019年5月17日(金)朝刊より追記
京都市東山区で見つかった平安時代末期の
武家屋敷の遺構とみられる堀跡


 京都市東山区で平安時代後期から末期にかけて平家一門が設けたとみられる
武家屋敷の防御用の堀跡が出土したと、
民間調査会社「文化財サービス」が16日に発表した。

平家が拠点として整備した「六波羅(ろくはら)」と呼ばれる一帯にあり、
六波羅から平家に関連する遺構が見つかったのは初めてという。
 現場は世界遺産・清水寺から西に約1キロの地点で、堀跡は幅3メートル、
深さ約1・3メートルの逆台形で東西約15メートルにわたる。
堀の南側を沿ったかたちで堤防状の土塁跡も出土。
堀の西側の約5メートルが土で埋められており、

倒壊防止用の石垣が組まれていた。
石の積み方はほぼ同時期の白河天皇陵の石垣に類似しているという。
 出土した土器や瓦などから、堀は平清盛の祖父、正盛が邸宅を構えるなど
六波羅に拠点を置いた12世紀前半に整備されたと推定される。
当時は世情が不安定で、
平家一門を守る目的だったとみられる。その後、
清盛が政治の実権を握ったことで戦乱が治まり、

堀は13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に
「六波羅探題(たんだい)」を設けたころにはすべて埋め戻された。
 中井均・滋賀県立大学教授(日本考古学)は
「堀は区画を示す考え方もあり、
武家屋敷を方形に囲む
後世の手法につながった可能性もある」と話している。

調査地(東山区五条橋東4丁目450-1他
平氏の拠点六波羅邸の堀跡発見  
『アクセス』 
「六波羅蜜寺」京都市東山区松原通大和大路東入轆轤町 市バス清水道下車 徒歩10分
「建仁寺」京都市東山区大和大路通四条下ル小松町・市バス清水道下車 徒歩10

「洛東中学校」京都市東山区六波羅裏門通り東入多門町 
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂  竹村俊則「鴨川周辺の史跡を歩く」京都新聞社
石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社 井上満郎「平安京再現」河出書房新書
加納進「六道の辻」室町書房  別冊太陽「平清盛」平凡社 
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン
 

 



コメント ( 5 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
六波羅とは広い地域を差したのですね! (yukariko)
2009-08-02 21:39:35
見せて下さった地図よりももっと広い一帯に主要人物の邸宅をはじめ、平氏の軍事施設が集まっていたのでしょうね。
平氏の勢いがいかに盛んだったかがよく分かります。

六波羅蜜寺には歴史を詳しく知らなかった頃、友人が西国33番札所の掛け軸を買うのに付き合ってお参りしただけなので、今思えば残念な事をしたものだと思います。
近くに六道珍皇寺などもあるのだから一度に見学出来たのに(笑)

でもこうして色々ないわれを教えて貰ってから改めてお参りする方がありがたいというものかも知れません。
 
 
 
歩いて廻ると広さが実感できます! (sakura)
2009-08-03 17:32:06
六波羅は、六波羅蜜寺周辺に昔を物語る町名と僅かな史跡が残るだけですが、
近くの六道珍皇寺が面白いですね。
また地図にある池殿町傍の妙順寺境内には
安徳天皇産湯ノ井も残っています。

源氏のように一族の中で骨肉の争いをするのと違い、平家は一門で揃って栄え、
滅びる時も全てを焼いて揃って都落ちするところなど好感がもてるのですが…

 
 
 
Unknown (Unknown)
2020-05-22 17:38:34
2020年2月半ばに六波羅と清水寺を駆け足で回りました。40年近く前に修学旅行では清水だけささっと見ましたが、平家に興味があり六波羅蜜寺まで歩きました有名な割には静かなお寺さんでした。平家の皆さんはずいぶん坂の多いところに住んだんだなあ、もう当時から川向こうのいいところは貴族が抑えていたのかと思いながら歩きました。今のたたずまいのようにぎゅうぎゅうだったのか、庭付きのゆーったりした邸宅だったのか、興味あるところです。
 
 
 
ご訪問ありがとうございます。 (sakura)
2020-05-23 15:22:05
清水寺・六波羅・六波羅蜜寺をお回りになったそうですが、
清水寺から六波羅蜜寺までは結構な距離がありますね。

平家都落ちに際して六波羅は焼き払われたので、平家を偲ぶよすがは、
六波羅蜜寺の名や境内にある清盛塚や宝物収蔵庫の清盛像、町名くらいしかありませんね。
六波羅蜜寺は、平氏がこの地に住む以前からあり、
平氏が館を建てるようになって縁ができたといわれています。

ところで、NHKテレビブラタモリ「清水寺周辺の高低差」という番組で、
100万年ほど前、両側から地層に力が加わり、嵐山・清水寺周辺が盛り上がって
断層が出現したといっているのを、清水寺の周辺には、
坂が多いのでなるほどと思いながら見ていました。

さて、六波羅は20余町という広大な地に一族郎党の平家館が建ち並ぶ大邸宅街でした。

六波羅での発掘調査は少なく、各々の邸の大きさは明らかではありませんが、
手もとの資料に「六波羅邸復元模型」の写真があったので、
この記事に載せておきます。

貴族の大邸宅の多くは、内裏にも近い三条以北、
その次が六条界隈に集まっていた といわれ、
敷地の広さには身分規制があり、三位以上の位階に許されたのが一町の広さです。

陰陽家として有名な賀茂忠行の息子、慶滋保胤(よししげのやすたね)という
大内記を務めた下級官人(内記は中務省の役職)、
その保胤が左京の六条に構えた邸の広さは4分の1町と規定どおりだったそうです。


 
 
 
Unknown (あき)
2022-08-20 00:27:09
こんにちは。大変お詳しくて勉強になりました。先日お盆でちょうど六波羅を歩いて参りました。平時忠の邸宅跡は平家没官領になったあと、頼朝が再び時忠の妻子に居住を許したと吾妻鑑にありますが、どのあたりだったんでしょうね。六波羅の屋敷に火をかけて都落ちした、とよくいわれるので、焼け残っていたとすると西八條邸のほうだったのかな?と興味深く思っています。ロマンがありますね。
 
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