平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 








みもすそ川公園から国道9号線を前田方面へ進むと
「海響れすとらん  しずか」の手前に「平家の一杯水」の石標が建っています。

ここから石段を下ると、海岸に鳥居と覆い屋のある井戸があります。

平家の人々が末期の水を飲んだという平家一杯水の遺跡。

壇ノ浦の戦いで深手を負い、前田の海岸に命からがら泳ぎついた
平家の武将が、火の山山系より湧き出る水を一杯口にして喉を潤しました。
あまりの美味しさにもう一口飲んだ時は塩水になっていたという。
入潮の折の敗戦であり、真水が海水に混じる頃でした。

これは、「末期の水」という考え方によるとされ、

壇ノ浦で滅びた平家の哀れさを物語る伝承史跡です。
この湧水は今もあり、若水として汲み赤間神宮の神前に供えられます。

平家の一杯水 
寿永四年(1185)三月二十四日、源義経を総大将とする源氏と
平知盛が率いる平家は、最後の一戦を壇ノ浦でくりひろげました。
開戦当初は、東向きの流れに乗った平家が有利に戦っていました。
やがて潮の流れが西向きに変わり始めると、
源氏方は反撃を始めました。
潮流に乗った源氏は、
平家の船を操る水夫と舵取りを弓矢で狙いました。
こぎ手を失った平家の船は潮の流れに引き込まれ、完全に
自由を失いました。
そうなると、勝敗はもうはっきりしています。
平家方のある者は捕らえられ、または海に沈み、
または傷を受けてようやく岸にたどり着いた者もありました。
そのうちの一人の平家の武将は、全身にひどい傷を受け
海に落ちましたが、命がけで泳ぎ岸にたどり着きました。
その武将は傷の痛みと疲れで喉がカラカラに渇ききっていました。
あたりを見渡すとわずかな水たまりを見つけたので、
武将は痛む体を引きずって水たまりに近づき、その水を
手のひらにすくい喉をうるおしました。その水の美味しいこと、
武将にとっては命の水とも思えるものでした。
あまりの美味しさに夢中になって二度目を口にしたところ、
大きくむせて吐き出してしまいました。
不思議なことに真水は塩水に変わっていた、といわれています。

関門海峡沿いにある前田の海岸。
門司にもあります。門司の産湯井・平家の一杯水 
 『
アクセス』
「平家の一杯水」山口県下関市前田2-1-1
みもすそ川公園より徒歩約5分。 
JR下関駅からバスで15分 
前田バス停下車徒歩4分。
『参考資料』
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年

 

 



 



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寿永4年(1185)3月24日、源義経を総大将とする源氏の水軍と
平知盛率いる水軍が、
源平最後の決戦を関門海峡で繰り広げました。

みもすそ川公園は、壇ノ浦古戦場が一望できる場所にあり、
みもすそ川の名は、壇ノ浦で入水した
二位の尼辞世の和歌から名づけられたといわれています。

源平合戦は海上での戦いだったので、当時の面影を偲ぶものは、
公園内の松林の中に義経・知盛像や
安徳帝御入水之碑(二位尼辞世の歌)などがあるだけです。

目の前に広がる海は、早鞆(はやとも)の瀬戸と呼ばれ、
関門海峡で最も狭いところで(約700m)、
潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。

潮流は1日に4度も向きを変え、満潮時の流れは、瀬戸内海側の
周防灘(すおうなだ)から日本海・玄界灘側の響灘(ひびきなだ)へ、
逆に干潮時は響灘から周防灘へと流れます。

この一帯を「壇ノ浦」と呼んでいますが、それは白村江の敗戦後、
唐・新羅の追撃に備えて長門国(山口県)豊浦に
軍団(壇)を置いたことに由来する地名と思われます。

「安徳帝御入水之処」碑には、源氏軍に追い詰められ、
8歳の安徳天皇を抱いてみもすそがわ沖に身を躍らせた
二位尼の辞世の歌が刻まれています。

今ぞ知る  みもすそ川の 御ながれ 
          波の下にも みやこありとは  長門本平家物語
(今こそわかります。伊勢神宮の五十鈴川(みもすそ川)の流れをくむ
安徳天皇にとって、その流れを注ぐ波の下にも都があることを)

伊勢神宮の周囲を流れる清流、五十鈴川には、記紀に伝わる
古代日本の皇族倭姫命(やまとひめのみこと)が御裳の
すその汚れを濯いだという伝説があり、御裳濯川
(みもすそがは=御裳川・御裳裾川・御裳濯河)という別名から転じて、
皇統の流れなどを表す場合に使われることばです。
ちなみに二位尼辞世の和歌は、読み本系の『長門本』
『延慶本』『源平盛衰記』に収められています。

語り本系の『平家物語・先帝身投』は、この和歌をカットし、
二位の尼は幼帝に「あの波の下にも極楽浄土という
すばらしい国がございます。そこへお連れ申しあげましょう。」と
さまざまにお慰めすると、泣きながらも天皇は、
まず東に向かって伊勢大神宮にお別れをし、
次に西に向かって念仏を唱えられた。と語っています。



みもすそ川公園は関門海峡と国道9号線に挟まれて細長く広がっています。

火の山から流れ出た小さな流れのみもすそ川、その河口付近は、
今では暗渠(あんきょ)となり、「壇の浦古戦場址」碑近くの
「みもすそがわ」橋の下を流れ、関門海峡に注いでいます。





関門橋をバックに、碇(いかり)を振り上げている知盛と
八艘(はっそう)飛びの
義経像が対峙するように設置されています。

日本史の節目を刻む関門海峡 
西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。
せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、
潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります。
また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、
日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。

寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、
源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。
当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると
源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。
最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、
二位尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。

日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。
なお、この戦いにおいて義経は平教経(のりつね)の攻撃を
船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を
見せたといわれています。 下関市(解説プレートより)

歌舞伎『義経千本桜』 や能『碇潜(いかりかづき)』では、
平知盛は巨大な碇を担いで最期を迎えます。

身軽な義経は、敵将を道連れにと追う教経(清盛の甥)をかわし、船から
船へと飛び去り(八艘飛び)、さらになんと敵方の船の動きを止めるため、
船を操る漕ぎ手や舵取りに弓を引くよう味方の兵に命じたという。
義経は牛若丸時代にも、京の五条の橋の上で弁慶に襲われ
五条大橋の欄干にひらりと身をかわしたとされています。
牛若丸・弁慶像(五条大橋)  



早鞆の瀬戸に関門橋が架かり、大型貨物船や漁船などが
ひっきりなしに通りすぎていきます。
海岸には、「壇の浦古戦場址」の石碑が建っています。

安徳天皇縁起絵図

第七巻(壇の浦合戦)
長門の国壇之浦の舟いくさが全面に描かれている。
源氏をあざむく為の大きな唐船には、
帝は御乗りにならず多くの兵士がまちかまえている。
 
第八巻(安徳天皇御入水)
寿永四年三月二十四日、源氏平家の最後の戦が画かれ、
画面中央が安徳天皇御座舟、能登守教経に追われて、
逃げる義経の八艘飛び、建礼門院の入水等々こまやかに画かれている。

ロープウェイで火の山(標高268m)公園へ上ると、
展望台から壇ノ浦の全景が見渡せます。
かつて外敵襲来にそなえて、
のろし台が置かれたためにこの名がついたという。

古戦場を見渡すと、まず海峡の狭さに驚きます。
下関から対岸の九州まで手の届きそうな近さです。

ところで、
みもすそ川公園に建つ「御裳川碑」は、
明治34年に有志によって赤間神宮の境内に設置されたもので、
その後、移転を経て、現在地に至るという。








去此地東七丁餘有一小渓流之入海者御裳川是也川者安徳帝崩御之遺跡而滄桑之變
今也歸湮滅我等憂之將建碑傅之于後(一部摩耗していて読み取れません)
因移建于〇亦以鹿幾乎表一〇之徴哀哉 康文書
〇表示できない漢字




壇之浦 東七丁 伊崎王城山 西一里
平家一杯水 東九丁 柳浦内裏 南二里(碑文より)
「壇之浦東七丁」は、赤間神宮から約760mということを示しています。
一丁=約109.09m  
七丁=約760m 一里=約4km

伊崎王城山は、小門(おど)海峡(下関本土と
彦島の間を流れる海峡)の
本土側の山を王城山と呼び、
壇ノ浦で敗れた平家の残党がたてこもったと云われています

赤間神宮小門御旅所(安徳天皇の遺体を仮安置した場所)  
平家の一杯水    柳の御所・御所神社  
『アクセス』
「みもすそ川公園」山口県下関市みもすそ川町1番 
JR下関駅からバスで12分 「御裳川」バス停下車すぐ。
「火の山公園」下関市みもすそ川町
 JR下関駅から火の山行きバス15分「火の山ロープウェイ」下車、
ロープウェイ4分、又は
徒歩30分。(山頂に立体駐車場があります)
火の山ロープウェイは季節運行となります。
お問い合わせ 下関市観光施設課(☎0832-31-1838)
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年

 冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
完訳「源平盛衰記(8)」勉誠出版株式会社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
いのぐち泰子「歩いて楽しむ平家物語」風媒社、2007年
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年

 

 



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下関市の本土と彦島(平家最後の砦の地)を隔てる
小門(おど)海峡沿いに赤間神宮小門御旅所があります。

かつてここには、中島組という漁業を営む一団がありました。
その中島組が寿永4年(1185)の壇ノ浦合戦後、
丸太船四隻に分乗して網で出漁中、
安徳天皇の遺体を網で拾いあげたといわれています。
中島組はすぐに漁を中止し、安徳天皇の遺体を安置しました。
その時に舟をつけたところが「水揚げ場」、
遺体を安置したのが「御浜殿」でした。
現在、「御浜殿」は赤間神宮小門御旅所となっています。

以来、中島家はますます隆盛し、
この地域の漁業権を得ることとなりました。

その後、安徳天皇を弔うために紅石山(べにしやま)麓の
阿弥陀寺(現、赤間神宮)境内に安徳天皇阿弥陀寺陵が造られました。

現在、赤間神宮先帝祭の上臈参拝の際には、中島家一門が
先頭に立ってお参りし、お供えなどを行います。

上臈参拝の翌日(5月4日)に御神幸が行われ、中島家の子孫が
小門御旅所で御神幸の行列を迎えて祭事が行われます。

かつては上臈道中は、安徳天皇の遺骸を網で引きあげたという縁で
伊崎町の中島家から出ていましたが、
今は同町の西部公民館から出発しています。

「第八十一代安徳天皇は寿永四年(1185)三月二十四日
源平船合戦において、平家一門と下関壇ノ浦に入水し給えり。
そのご尊骸はここ小門海峡に流れ着き、
中島組のいわし網に引き上げられしと伝う。
 その後、関門海峡に臨む阿弥陀寺境内(現阿弥陀寺町赤間神宮)に
陵を築き、天皇殿を建立せり。すなわち、この小門の地は先帝祭
御神幸祭お旅所として『先帝祭上臈参拝』の翌日(五月四日)
中島家の子孫賑々しく御神幸祭の行列を奉迎して、
厳粛なる祭事が執行され、今に絶ゆることなし。

 當地伊崎町に中島家と称するあり、傳う云う是れ正しく
平家の遺裔にして、代々名を四郎太夫と称せり、先帝會には古来、
先ずこの四郎太夫参拝し、次に女郎の参拝焼香するを常とす。
 若し中島四郎太夫にして、参拝せざる間は、何人も之を為すことを得ざる
今もこれ然りを、以て其の由緒深きを知るべきなり。
中島家 赤間神宮 建立」(説明板より)

中島四郎大夫正則について、赤間神宮発行『先帝祭』には、
次のように記されています。
「壇之浦に平家滅亡の祭、中島四郎大夫正則(伊崎町、中島家の祖)と
言へる武士郎党を率いて赤間関西端王城山に籠り、再興を謀りしも
機運遂に至らず、漁業を営むに至れり。やがて例年先帝祭御命日には
威儀を正して参拝を続け、今日に至りぬ。」

石碑は風化していて読みとりにくいのですが、
一金七拾圓 伊崎町中島家  一金六拾圓 稲荷廓組合中
赤間神宮 御濱殿地所 
寄附主 小倉喜六衛門 と刻んであるようです。

現在の下関市赤間町・幸町・宮田町1丁目一帯には、
下関屈指の花街があり、そこに
末広稲荷神社があったため
「稲荷町」と呼ばれていました。
源平合戦後、辛うじて生き延びた平家の女官たちが生活のために
ここで遊女になったと伝えられ、稲荷町は格式高い遊郭として栄え、
遊女が座る位置は、上座(客席)に座るのが習わしでした。

先帝祭は、安徳天皇の命日に女臈に身をおとした平家の官女たちが
潔斎して
御陵に詣でたのが始まりといわれ、かつては平家伝説と結び付き
遊女
上臈道中をつとめました。今は下関舞踊協会の人達が行います。

(林雲鳳筆「海の浄土」岐阜県美術館蔵 
「図説・源平合戦人物伝」より転載。)
どこに連れていくのかと尋ねる幼い帝に二位尼は、「あの波の下にも
極楽浄土という都がございます。」となぐさめて波間に消えたのでした。
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓  
先帝祭・しものせき海峡まつり  
壇ノ浦合戦(安徳天皇入水)  
『アクセス』
「小門御旅所」山口県下関市伊崎町2-9-16
JR下関駅からバス2分「竹崎」下車、徒歩約10分
 JR下関駅から西へ徒歩約15分
『参考資料』
「赤間神宮略記」赤間神宮 「先帝祭」赤間神宮
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
中石孝「平家れくいえむ紀行」新潮社、1999年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 

 

 



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赤間神宮は文治元年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れ、
わずか八才で入水した安徳天皇を祀っています。
その遺骸は紅石山(べにしやま)麓の阿弥陀寺に葬られ、
その後、建久2年(1191)に後鳥羽天皇は御影堂を建立し、
阿弥陀寺を勅願寺としました。

江戸時代までは真言宗の寺で聖衆山阿弥陀寺と称していましたが、
明治の神仏分離令によって赤間宮となり、
昭和15年(1940)官幣大社となって赤間神宮と改称されました。





竜宮の城門のような水天門から拝殿まで臨時に
天橋(てんきょう)が設置されています。これは今日5月3日に行われた
先帝祭で女臈(太夫)、稚児たちが練り歩いた花道です。

二位の尼(時子)が安徳天皇を抱いて入水する際、
どうして海に飛び込むのかと訝る幼い天皇に
「波の下にも都の候ふぞ(波の下にも都があるのですよ)」と、
身をひるがえしたのでした。
水天門はその願いを写したものといわれています。



門前には国道9号線が通り、目の前に関門海峡が広がっています。


大安殿(外拝殿)の中に入ると、廻廊の中には水が張られ、
能舞台、奥に唐破風内拝殿、その背後に神殿(見えませんが)があり、
海の都を模した宮殿かと思わせる美しさです。








安徳天皇阿弥陀寺陵は水天門の西、白塀に囲まれた中にあります。




陵墓は円墳です。

赤間神宮神殿(本殿)左手には、水天供養塔が三基並び、
そのむこうに芳一堂があります。


水天供養塔の由来
安徳天皇は御位のまま御入水され水天皇・水天宮と申し上げます。
吾が国民は天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。
同時に亦国民同胞の中に或は海難に水難にと幾多の水歿者の方々は
即ち水天皇さまの御膝元に冥りたく、
此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。
人は名を留むる事に依り安心を得るもので
即ち是を水天供養塔と申します。
 一.昭和二十五年三月建立 二.今次大戦中水歿者霊位 


昭和32年に造営された芳一堂には、琵琶法師耳なし芳一の木像
(山口県防府市出身の彫刻家、押田政夫作)が祀られ、
平曲を語っています。

明治の文豪、小泉八雲はここを舞台に
『怪談』(耳なし芳一)を書きました。



耳なし芳一の由来
 その昔、この阿弥陀寺(現・赤間神宮)に芳一という琵琶法師あり。
夜毎に平家の亡霊来り。いづくともなく芳一を誘い出でけるを、
ある夜番僧これを見、あと追いければ、やがて行く程に平家一門の墓前に端座し、
一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す。
あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛び往うあり。
その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり。
さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き、
こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとはするぞ、とて
自ら芳一の顔手足に般若心経を書きつけけるほどに、
不思議やその夜半、亡霊の亦来りて芳一の名を呼べども
答えず見れども姿なし。暗夜に見えたるは只両耳のみ、
遂に取り去って何処ともなく消え失せにけるとぞ。
 是より人呼んで耳なし芳一とは謂うなり。

芳一堂の横に白壁の築地塀があり、
「平家一門之墓」と刻んだ石標が建っています。
山陰となっている墓地周辺は、
昼間でも薄暗く気味の悪い場所です。

平家一門の供養塔で、平有盛や平清経など14人の名が刻まれ、
名前に「盛」のつく塚が多いことから七盛塚ともいわれています。

あちこちに散らばっていた塚が集められたもので、江戸時代初期の建立です。

前列
 左少将 平 有盛(重盛の子) 左中将 平清経(重盛の子)
右中将 平 資盛(重盛の子) 副将能登守 平 教経(清盛の甥)
参議修理大夫 平 経盛(清盛の弟)大将中納言 平 知盛(清盛の子)
参議中納言 平 教盛(清盛の弟)
後列
伊賀平内左衛門家長(知盛の乳母子)
上総五郎兵衛忠光(藤原忠清の子で平景清の兄)
  飛騨三郎左衛門景経(宗盛の乳母子で飛騨守景家の子) 
飛騨四郎兵衛景俊(景経の弟)越中次郎兵衛盛継(平盛俊の次男)
 丹後守侍従平忠房(重盛の子) 従二位尼 平時子(清盛の妻)

2列に並ぶ14基の自然石の背後には、一石五輪塔がいくつもあります。
都から平家につき従ってきた女官や名もない兵たちの石塔でしょうか。
この墓所と地つづきの紅石山に散在していた五輪塔といわれています。

『ホトトギス』の下関同人らの手により、昭和30年に10月に建てられた
「平家一門之墓」の塀ぎわにある高浜虚子の句碑です。
昭和3年に虚子が赤間宮に詣でた際、
♪七盛の 墓包み降る 椎の露 と詠みました。

赤間神宮   

御祭神 第八十一代 安徳天皇    御祭日 五月三日先帝祭   十月七日例大祭
 寿永四(一一八五)年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる
御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 
昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し
同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 
同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ
御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり

  水天門記
惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は率先多額の
御寄進に加えて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市政七十周年大博覧会
開催の秋 吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み
 水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の
  今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは
に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも 
昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり
赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
 みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり
  
太鼓楼記
 水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長靖原梅義氏は本宮
崇敬会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を 迎うるや
本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ
平成二年一月二十七日元旦を期し見事に竣成す 
蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる
 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡にわたり 国家鎮護世界平和の響き
四海に満ち水天皇の神威愈を光被せむ
 
 水天門 掲額の記
 神門楼上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は
寛人親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ
安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと
思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。
  御神宝類
重要文化財   平家物語長門本  全二十冊
重要文化財   赤間神宮文書      全十巻一冊
山口県文化財  安徳天皇縁起絵図    全八幅
       平家一門画像      全十幅
     源平合戦図屏風 一双ほか宝物殿にて適時公開す
先帝祭・しものせき海峡まつり 
赤間神宮小門御旅所(安徳天皇の遺体を仮安置した場所)  
壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)  
『アクセス』
「赤間神宮」〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−1 
電話: 083-231-4138
JR下関駅からバス10分→ 「赤間神宮前」バス停下車すぐ。
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年 「赤間神宮略記」赤間神宮 
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
日下力監修「平家物語を歩く」講談社、1999年 

 

 

 



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