常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

九月尽

2020年09月30日 | 登山
千歳山の山道は、小国の大境山にも増して、秋の風情を感じさせる。ツツジの返り花が咲く傍らに、ガマズミの赤い実や紅葉が見られた。昨年の小又峡でも紅葉に少し早かったが、ここのところの暑い9月が季節をやや遅らせているようだ。しかし、秋の日は確実に短くなっている。3時ころの千歳山は、日は高く、山道の奥の方まで日がさし込んでいたが、3時半を過ぎる頃、斜光は早くも日没を予告するするように弱々しくなった。

夜は虫のおとろへしるし九月尽 相馬遷子

山里には栗の実が売り出され、やがて夜には名月も見られる。この季節になると、国上山の一人暮らしの草庵で、行く秋を惜しんだ良寛のことが偲ばれる。良寛の寂寥を慰めようようと、酒と肴を携えて友人が草庵を訪れる。「うま酒にさかなしあれば明日もまた君が庵をたづねても来む」と歌づくりのうちに過ごす楽しい宵は、釣瓶落としに暗くなっていく。

もう庵には火が欲しいころだ。楽しい宵は友人を早く帰したくもない。いましばし、この庵のとどまって欲しいという思いから名歌が生まれた。

月よみの光りをまちてかへりませ
 山路は栗のいがの多きに 良寛

折しも、その夜は仲秋の名月であったらしい。栗のいがを踏まぬことに加え、この秋一番の満月を見ながら、夜道を帰ることを友に勧めたものだ
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うれしい言葉

2020年09月29日 | 日記
先日、歯科に行ったときである。治療を終えて次回の診療の日程の予約があった。「この日は午前中しか空いていないのですが」「結構ですよ、どうせ毎日が日曜日の身ですから。」まだ20代の女性の衛生師さんだ。自分の孫のような年代である。カレンダーから、目をこちらへ向けて「それは、お働きの長い実績がおありです。」と、真顔で言った。自分の現在が、そのようなものに支えれているなどと、思ってもいなかったので、「ん?」と思い、しばらくかみしめると若い人からの労りの言葉のように思えてうれしくなった。

だが、よく考えてみると、老人が自分の時間を「毎日が日曜日」などとと考える生活態度は戒めねばならない。兼好法師の『徒然草』に、牛の売り買いの話が出てくる。その売買の約束が成立して実行しようする日の前の夜に牛が急に死んでしまう。ある人は、「牛に死なれた持ち主は損をした」と言ったが、別の人は、「思わざる死の到来を目の当たりにして生の尊さを知ったのだから、損ではない」と反論した。さらに加えて

「されば、人、死を憎まば生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」

また別の項に

「寸陰惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか」

と書き、「ただ今」の一刹那の大切さを説いている。兼好法師のこうした考えは、この草紙を書いた当時の人から受け入れられてはいなかった。それはむしろ、今日を生きる人々にこそ大切は言葉になっている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋空

2020年09月28日 | 日記
朝、戸外に出ると、青空の朝日をうけて近所の垣根の萩が、ひときわ美しかった。こんな秋を感じると、一日が幸福感で満たされる。ところが、朝食を終わって外を見ると、雨雲が広がり始めている。秋の空は変わりやすい。以前のブログで「男心と秋の空」、男の愛情は移ろいやすい、と書いたところ、それは「女心と秋の空では」という突っ込みが来た。確かにそれも、普段から使われる。ことわざ辞典に当ってみると、「男心・・・」はしっかりと意味を含めて載っている。結局、男も女も、心変わりに大差がないということが、諺が立証している。ヴェルディの歌劇に「風の中の羽のように、いつも変わる女心」という詞があるが、大抵の人が口ずさんでいる。行司は軍配をどちらに上げてよいのか迷ってしまう。

「死のことは考えるに及ばない。我々が手伝わなくても、死は我々のことを考えてくれるから」(シェンキエビチ)

女心の変わりやすさを考えるより、こんな言葉が心にささる。秋空に萩が咲き、道ばたには咲き終えた花びらが散りしいている。以前、ある人のブログに散った花を好んで写される方がいた。もうその方のブログは終わりになって見ることができないが、地面に散って、そこら中を美しく染め上げる花びらが、いつまでも記憶の底に残っている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大境山

2020年09月27日 | 登山

国道113号線を小国方面に向かうと、県境近くの関川の辺りにくると、大きな山が左右に見える。左には光兎山、右には大境山(1103m)が眼前に迫るように聳えている。いずれも山の会に入って、複数回頂上を踏んだ山だ。今週はそのうちの大境山へ、しばらくぶりに登ることになった。折から台風12号が、東の海上を北上し、前日まで風と雨に見舞われた。予報では、天候は回復し登山可となったが、台風一過の快晴というわけにはいかなかった。停滞している秋雨前線、次々に現れる低気圧、雷と大雨がいつ発生するか分からない不安定な条件のなかでの山行であった。

大境山は新潟と山形の県境にあって、飯豊三角の一郭を占め、山頂からは飯豊の素晴らしい眺望がほしいままとなる。山形百名山に選ばれ、そのグレイドは体力度B、技術度は3に位置づけられている。登りのコースタイムは3時間30分となっているので、百名山の内でも30番以内のグレイドの山ということになる。登山口は小国町中田山崎にあるバス停の裏になっている。ダム手前の堰堤を渡る登山道へと続いている。この小国の集落は長い歴史がある。越後への交通の最奥の要衝であったため、御役屋と呼ばれるところへ警備の役人が詰めていた。越後へは交通は越後街道13峠と呼ばれる急峻な山道であり、今に残る黒沢峠の古道などが当時の俤を今に残している。

大境山の山中では、麓ではなお夏の季節を残していた。登山道ともいえぬ広い道は、集落の人々が山に入り、山菜やキノコ、薪や木材など山の幸を求めて入山していた道のようにも思える。ただ、歩く道はしっかりつけられており、ヤマップでは登山道として記載されていて、道迷いなどの心配はない。ブナの深緑はまだ秋を感じさせない。山道は急登の連続で、休みながら登っていく。日は雲に遮られて山中に届かない分暑さは凌げるが、湿度が高く汗が吹き出してくる。風はほとんどなく、蝉や鳥の声もない静かな山中である。本日の参加者12名、内男性5名。仲間の談笑の声のみが響いている。
高度を上げて1000㍍の尾根道には、少しづつ秋が忍びよっている。ウルシの葉の紅葉が所々に見られる。見晴らしのきく尾根道にでても、深い霧で展望はない。迫力満点の飯豊の山並みが迫ってくるはずだが、深い霧が流れ、葉についた水滴が時おり落ちてくる。先週の燧ケ岳に比べると、はるかに歩きやすい道だ。筋肉の疲労もさほどではない。登り始めて4時間ほどで、頂上に辿りつく。グレイドの高い山であるだけに、その4時間の中身は重いものがある。うっすらと見える高みが頂上かと思うが、そこへ着くと更にその先に頂上が見えている。誰が呼んだか偽ピーク。急登なるが故に、疲れ始めた登山者が都合のいい解釈をするためであろう。

頂上には山頂を示す標識もなく、三角点を示す小さな石柱があるのみ。しかも狭い頂上である。シーツを敷いて身を寄せるようにして昼食。早朝に出てきたため、みな空腹になっている。それにしても山中で会った人は、若い男性が一人だけ。登山口に置いてあって新潟ナンバーの車はこの人のものであったであろう。昼食を終えると、展望も得られず、雨も予想されるので下山。いつも感じるが、下山の時に山の勾配が急であることを実感させられる。転倒に注意しながらゆっくりと下る。今日の歩きは、次週の会津駒ヶ岳の急登につながっている。4時下山して梅花皮荘の露天風呂で汗を流す。登山の後の温泉の心地よさは、なにものにも変えられない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英語学者の長唄

2020年09月25日 | 日記
秋雨である。今日は戸外には出ず、運動は昨日に続いて階段を歩くことにする。こんな日は、本棚を探して読む本を見つけるのが楽しい。大学に入って期待していたのは英語の授業であった。高校で自分が得意にしていた学科が英語であったからだ。しっかりと英語を身につけ、できれば英語の教師になることが当時の目標でもあった。英語の授業は二人から受けたが、その一人が田中菊雄先生であった。田中先生は北海道の生まれで、自分を熊といい北海道から
きた学生を熊と呼び、この学生たちを集めて「熊の会」をつくり、折に触れてコンパを開いて懇談した。「君たち、試験の答案には隅に小さく熊と書きなさい。必ず合格点をあがるから」と冗談を言って笑わせた。学生が使っていた岩波英和辞典の表紙には、著者として先生の名が書かれているのが、先生から直接授業を受ける学生のちょっとした誇りであった。

謡ふべき程は時雨つ羅生門 漱石

夏目漱石が謡を習っていたのは、『吾輩は猫である』の主人が後架に入っては謡いだすので、後架先生と呼ばれたり、俳句に詠んでいることでも知られるが、その謡は下手の限り、という評がついている。英語研究に碩学に、邦楽、なかでも謡曲という異次元の取り合わせが興味を引く。

本棚から田中菊雄先生の『英語研究者のために』という難しい本が出てきた。講談社の学術文庫の一冊であるが、巻末の付録が面白い。戦後間もないころ、先生は大学の教授であったが、GHQで通訳や翻訳の仕事をしておられた。NHK放送局から依頼されて「リレー放送」という放送があったが、放送を文字にして収録している。題して「英語学者から見た邦楽」。そのなかで、岩波英和辞典の編集が8年ほど続いて、ようやくその仕事が終わったとき、矢も楯もたまらなくなって謡曲を習いたいという気になったという。謡曲の方は8年ほど続いたが、戦争が激しくなって中断した。先生が謡曲を始められたのには、漱石の影響があったであろうと思う。外国を長く旅して、帰国してお茶漬けやお寿司を食べるという心境でもあったのだろうか。

GHQの同僚に、やはり英語教授の尾形先生という方がいた。仕事の帰りにその先生から「僕は長唄をやっている」と告げられた。かねて長唄をやりたい思っていた田中先生は、すぐに師匠を紹介してもらい、早速通い始めた。ついた師匠は杵屋喜美栄さん。長唄と同時に三味線も習った。あの英語以外には、何も興味はないという外見、使い過ぎた目にぶ厚い眼鏡をかけた田中先生の意外な一面を知らされた。ただ声だけは大きく、広い教室でも隅々まで響く声であった。長唄でも静かで低い声が、遠くまで通っていくような気がする。

師匠の指導は厳しかったらしい。「一ふしでも、一ばちでも間違ったら絶対に先に進まない」。芸に安売りはないという激しい気象の方であった。習う田中先生も、習う以上は真剣でなければ気がすまない、ということでどんなに忙しくても、大雨が降っても練習に通い続けた。そして、邦楽の美しさに気づかされる。「何という優雅典麗な、しかもいうにいわれぬさび、幽玄の趣き」。これは適切な英語に欧米に紹介すれば、世界の文学に十分に匹敵すると強調されている。

田中先生の長唄の言葉の解釈をひとつだけここに紹介してみる。長唄の名曲に
『越後獅子』があるが、その一節に「そこのおけさにいなこといはれ、ねまりねまらず待ちあかす」とあるが、ねまりは本には寝があてられ、通例「寝たり起きたりして待ち明かす」と解されているが、この方言は尾花沢地方にもあり、芭蕉に「涼しさをわが宿にしてねまるなり」を引き、方言のくつろいで座ると解釈したい、と言っている。つまり、座ったり立ったり、いまかいまかと待ち明かす、と解釈されている。長く山形で暮らした先生ならではの解釈である。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする