常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

桜カウントダウン2

2016年03月31日 | 日記


本日の気温18℃。雨があがって、まさしく春の陽気。坂巻川の土手の桜は、一段と蕾をふくらませた。土手を固めてあるコンクリートの近くにある枝は、照り返しの温度で、一枝が花を4、5輪開いた。これをもって開花宣言というわけにはいかない。ほかの枝は蕾がふくらんでいるが、まだ開いていない。

初花をみせてては雲の閉ざすなり 水原秋桜子
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京銘菓 俵屋吉富 龍鳳

2016年03月31日 | 日記


デパートで京都展が開かれる。京銘菓が売っていたらしく、デパートへ行った知人から俵屋吉富の銘菓、龍鳳をいただいたので、お茶うけにいただいた。粒あんの食感が老舗の味を出していておいしくいただいた。本店は室町上売立とあり、今出川駅から徒歩5分のところあると書いてある。

京都の今出川といえば、その西北に西陣がある。応仁の乱で西軍の総帥山名宗全が本陣を置いた場所である。この故事によって、この地区が西陣と呼ばれるようになった。今は織物問屋が軒を連ね、織物の街のたたずまいになっているが、あの戦乱の本拠であったというのは、京都の歴史の積み重ねをあらためて知らされる。

俵屋吉富は、宝暦5年(1755)の創業で、代々禁裏御用の菓子匠。その代表的銘菓雲龍は、絵師狩野洞春の雲龍図をイメージした棹物菓子、と由来書に説明されている。このような伝統のある銘菓を食べられることに感謝。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜カウントダウン

2016年03月30日 | 


桜前線が北上するなか、山形市の坂巻川畔の桜の蕾が日を追ってふくらんでいる。4月中旬なみの陽気が続いている。桜の開花までの様子を、カメラに収める。名付けて桜カウントダウン。きょうの午後は、幼児を連れて散歩する若いお母さんが見守るなか、一昨日と比べてよりより開花に近づいている。夜になって雨になった。桜にとっては、花を美しく咲かせる条件がまたひとつ追加された。

桜花夢かうつつか白雲の絶えてつれなき峰の春風 藤原 家隆
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クロッカス

2016年03月30日 | 


光禅寺の庭にクロッカスが植えられている。カモメの水兵さんよろしく、参道に行列して、早春に白い花を咲かせる。スイセンなどがようやく咲き始めるころ、土の中から花茎を伸ばして、花を咲かせるので、この花を初めて見るとやや異様な感じがする。秋にも同様の花があるが、ものの本によると春咲きをクロッカス、秋咲きをサフランと言うとのことだ。

日が射してもうクロッカス咲く時分 高野 素十

鉄砲町は義母が住んでいたが、もう40年ほど前に一年ほどここに住んだ。子どもたちは小学生と幼稚園で、隣の光禅寺は家の西側が畑になっていて野菜を栽培していた。畑などを知らない子どもたちは、そこを遊び場にしてどんどん畑に侵入して野菜を踏み荒らした。野菜を作っている人から注意されて、ほとほと困った顔をしている妻の姿が忘れられない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸田露伴

2016年03月29日 | 


先日、将棋のことを書いたが、明治の文豪幸田露伴は将棋を趣味にしていた。その実力も本格派で、プロの小野名人から4段を許されたいた。露伴の家に木村義雄名人が、しばしば訪ねてきて露伴と将棋を指した。木村名人は露伴を指すときは、角を引いて対局した。甥の高木卓の懐旧談によれば、2局指して1勝1敗であったが、名人は露伴に花を持たせたと述べている。

高木は名人の対局姿勢を見て感嘆している。駒台に駒を置くだけでも、露伴が雑然と置いているのに対し、名人は整然と並べて置いた。駒の種類によって、駒台に置く位置すら決まっていたであろう。差し手を案ずるとき、露伴が盤面を凝視したが、名人はふと目を盤から話して瞑目した。その落ち着いた姿勢を、高木は心にくいものがあったと、述べている。

露伴は昭和22年7月22日に死去するが、この死の直前の病床にあったとき、木村名人は塚田8段の挑戦を受けて名人戦を戦っていた。病床の露伴の関心事は、唯一この名人戦の成り行きであった。木村名人は、塚田8段に4敗を喫して名人位を奪われた。病床でこれを聞いた露伴は、「馬鹿野郎!」と大声で叫んだ。病床の周りいる人々が震え上がるほどの大声であったという。木村名人という不動の王者がその地位を失ったことへの、満身からの哀惜であった。このときから、ほどなくして露伴は死に就いた。その2年後、木村が名人位に復帰したことを露伴は知らない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする