常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

ポイント生活

2022年10月31日 | 日記

10月が終わる。秋の日は、つるべ落としというが、日の経つのも同じような感覚だ。立ち止まる日もないまま10月が終わる。公園のカエデが最後の光芒を放ち、ヒヨドリがその枝に遊ぶ。親水公園のせせらぎは、もう止められて流れを止めた。そもそも、この人工的な流れは、朝の7時を過ぎないと流れないし、冬の季節はお休みになる。朝の散歩のいっときを癒してくれるが、時間や季節によって流れを止めてしまうのは、興ざめというほかはない。

秋の風万里見るべき手だてなし 飯田龍太

若い山の仲間が、遠い浄の滝の紅葉の写真を送ってくれた。山深い人跡稀な滝と、水に映る紅葉がみごとというほかない。清少納言の言葉。「ただ過ぎに過ぐるもの。人の齢。春、夏、秋、冬」


電気をドコモ電気に変えてポイント生活が始まった。電気代の支払いをⅮ払いにすると、一定のポイントが付く。新規加入などで、12000ポイント。Ⅾ払いやⅮヘルスのアプリに歩いた歩数がポイントに加算される。ささやかなポイントではあるが、値上がりの波に抵抗するには、こんな手だてしか方法がない。政府の光熱費支援を含めて、これからの冬を乗り切りたい。
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ハロウィン

2022年10月30日 | 日記
韓国のソウルで悲しい転倒事故が起こった。繁華街のイテウォンにハロウィンの集いに10万人もの若者が繰り出し、狭い路地で人津波が起こり、149名もの圧死者が出た。ここ数年、コロナの感染者が出て、繁華街の人出は規制されて3年振りで規制がゆるんだ矢先のことであった。日本でも1960年の安保デモで国会に入ったデモ隊、近年では花火大会で歩道橋での圧死事故など悲惨な記憶がある。

何故、古代ケルトの祭りが、ソウルや日本で盛り上がりを見せるのか、理解に苦しむ。先日、散歩の途中、カボチャのジャック・オー・ランタンをかたどった置物を飾った庭があった。こんな田舎町でも、ハロウィンのシンボルが置いてある。ハロウィンがそれだけ人々に浸透しているのであろうか。このカボチャは目や口をくり抜いて、中でローソクを灯し、悪霊を驚かして家に入ること防ぐものだ。

10月31日がハロウィンを祝う日である。アイルランドのケルト人の間で行われていた風習だ。ケルトではこの日が一年の終りで、この日に死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。日本のお盆のような行事だが、キリスト教ではこの祭りを認めていない。子どもたちが仮装して、家々を回り「お菓子をくれる?それとも悪戯」といいながら回った。日本でのコスプレは、この時代の仮装が伝えられているのか。司祭は焚火を焚いて作物や動物の生贄を捧げた。この焚火の残り火を家々に与え、この火が新年の火種になった。古代のこんな風習が現代によみがえり、10万人もの人が集まる大きな祭りになろうとは、古代ケルトの神様も驚いているのではないか。
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秋の歌

2022年10月29日 | 日記
俳人の長谷川櫂に『日めくり四季の』がある。かって日本の家庭にはどこの家にも日めくりがあった。365日、大きく日にちがあり、干支や六曜などの暦にその日の格言などが書かれていて、朝新しい日をめくると何か新しい気分になったものだ。長谷川はこの本で、その日の一年分のうたを入れて言葉を添えている。季節感と人の暮らしの匂いが立ち上がってくる。時々、この本を手にとると、自らの体験と重なることもあって驚かされる。

秋の山ところどころに烟たつ 暁台

暁台は江戸時代の俳人だが、詠んだ山村の景色は今も変わらない。稲刈りの済んだ田では、モミや稲わらを焼く烟が立ち上がる。先日、山登りで通った山近くの田では烟が見え、江戸から続く山村の景色が懐かしかった。

10月の日めくりには、悲しいうたも見える。

秋山の黄葉を繁み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも 柿本人麻呂

柿本人麻呂が妻を亡くしたときに詠んだものだ。霊となって、黄葉の山へ上がって行くのだが、人麻呂には妻の霊が道に迷っているのではと心配する。妻を探しに行こうと思うのだが、その道さえ自分には分からないと悲嘆にくれている。一日一詩、日付を見ながら開くページに人間の哀しみや喜びが詰まっている。
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木に会いに

2022年10月27日 | 登山
一気に気温が下がった。だが、空はこれ以上はないだろうという青空。計画していた里山に、木に会いに行く。与蔵山、あまり聞いたことのない山だが、この季節最後の紅葉の里山を見にでかけた。鮭川村、名が示すように、庄内の海から鮭川に鮭が遡上する村である。ここで名高いのは、巨木の存在だ。トトロの木と呼ばれる小杉地区の大杉。かご山の大桂は幹回り104m。藤九郎沢の大桂は、かご山の倍もある幹回り20m。与蔵山のブナの巨木は、山道の道しるべになっている。幹回りは10mを越えたと思われる大木で、黄色く色づいた葉が、きらきらと陽ざしを遮っていた。

羽根沢温泉を過ぎて与蔵峠の長い林道を行くと、与蔵山の登山口に着く。ここから沢筋の道を与蔵山へ進む。見晴らしのよい山道では、息を呑むような紅葉である。ここの標高は500~600mと低いのに、すでにブナの林が現れる。まだおおきくならない若い林である。海からの雪が積もるせいなのか、ブナがほかの樹種にたいして優勢である。ブナの寿命は300年ほどと言われている。自らの寿命を悟ったブナは、林床に子ブナが育たないと、木いっぱいに実をつけて辺りをブナの稚樹を繁らせる。二次林といわれるが、若いブナの林は整然として、美林という名がふさわしい。
ヨーロッパのブナは、日本のものよりも寿命が長い。この林を塒にしたジプシーが、木の下で焚火をし、宴のひとときを楽しんだ。シューマンの名曲「流浪の民」の舞台は、ブナの林のなかだ。
見晴らし台からは鳥海山の姿が。紅葉と青空、そして出羽富士。こんなぜいたくな取り合わせを満喫することができたのは望外に幸せである。鮭川村ののどかな風景のなかには、忘れ去られた絶景がある。そして樹々の逞しい生命力。はかない人間の生に、励ましの刺激を与えてくれる。
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秋の憂愁

2022年10月24日 | 日記
山登りで疲れた日の睡眠は深い。夜中に目を覚ますこともなく、朝までひと眠りだ。翌日は、足に疲れが残っているが、今朝は足の動きも軽くなっている。睡眠がいかに疲れを癒すものかは、この一事で知ることができる。目にする秋の花も、ひときは鮮やかに見える。

夕映えが美しいように、老人の場所から見た世界は美しいのです。

伊藤整の『変容』に出てくる言葉だ。霜降の季節を迎えて、この季節にさく花や木の実は、本当に美しく見える。このところ妻を整形外科のリハビリに連れて行っている。そこで、しばらくぶりに会った人が二人いる。学生時代の後輩で元気印のK君だが、身体に癌が見つかり、以後2年間病院へ通い詰めと話していた。話す声も弱々しく、元気だったころから見違えるような様子であった。

詩吟の仲間で突然、病のため退会したNさん。どこから出るのか、美声の詩吟は聞くものに吟じる度に感動を与えた女性だった。変形性の膝関節症、高齢になると避けて通れない骨の病だ。病とどう折り合いをつけるか、高齢者の余生には、それなりの覚悟必要だ。趣味の会も参加できなくなるのは淋しいこと。病院で再会するというのは、あまりにも切ない。元気でいることができる時間を大切にしたい。


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