常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

梅雨明け

2022年06月30日 | 日記

昨日、東北南部が梅雨明けした、と気象協会が発表した。タチアオイの花が、先端まで咲くと梅雨が明ける、言い伝えられているが、まだ先端まで4、5個蕾が残っている。先日もこれを見て、梅雨明けはもう少し先、と思っていた矢先である。やはり、先人の言い伝えというのは、間違いもあるのか。しかし、気象庁が常に正しいという訳でもない。梅雨入りや明けの発表の後に、それが違っていたと訂正を入れることも間々ああることだ。これほど、太平洋の高気圧が勢力を張り、晴れが続く見通しである以上、梅雨明け宣言もしかたのないところだ。

梅雨の雷黴くさき廊うちひびき 加藤楸邨

人は何故日記を書くのだろうか。今年初めて咲いた花を見ると、感興がおきるし、ブログに書きとめてみたい気にもなる。紀田順一郎が日記について語っている。「大きな自然の動の真只中に漂いつつ、そのなかで人生の年輪を一つ一つ重ねていく。」こんな心の動きが人に日記を書かせているらしい。スイスの哲学者アミエルは、生涯の日記を書き残している。岩波文庫に全4巻に収められている。今度、この日記をアマゾンあたりで求めて座右の書にしたい。彼の格言がある。忘れられないものの一つだ。「心が変われば行動が変わる/行動が変われば習慣が変わる/習慣が変われば人格が変わる/人格が変われば運命が変わる/運命が変われば人生が変わる」先ず、こんな格言を心にとどめて置くことが、日記を書くことの効用であろう。
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進化するスマホ

2022年06月28日 | 日記
ホリエモンの本を読んでいたら、スマホの進化がすごく、もはや持ち運ぶコンピュータで、もうパソコンも必要がなくなったと書いていた。確かにホリエモンのように外に出て仕事をする人にはそうかも知れない。パソコンとスマホを併用する身には、パソコンは捨てがたい。ブログを書くにしても、ユーチューブを見るにしても、家にいつもいるのでパソコンが便利だ。文字の入力も、スマホのキーボードに馴れるにはまだまだ時間を要する。

ユーチューブを見ていたら、お勧め動画として東大TVが目についた。コンテンツを見ると、「宇宙からの脅威」、安富歩「道」とは何か?『論語』と『老子』の世界観。長谷川寿一「ヒトの心はどのように生れ、進化してきたか」などなど、興味ある題名が目白押しだ。山行を遠ざかり、人生の楽しみを見直しているだけに、パソコンでこんな時間を持つのもありか。

朝、気温が上がる前に散歩。筋トレをしてから、以前のように歩くことが当面の目標である。どうしても、姿勢が前かがみになっている。胸を張って、姿勢を正すこと。以前勉強したインターバルウォーキングを実践。今朝は6500歩ほどの歩きであったが、家についてさほど疲れが出ない。朝食も普通に食べる。血圧、心拍数、睡眠などの基本的なところも、このところ異常なく経過している。

失敗について。福原麟太郎。「失敗するとやや賢くなる。「お気に召すまま」のセリフに「こうして私は毎日毎日賢くなってゆく」というのがある。これが私の心に最もふさわしい感慨である。」
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六の宮の姫君

2022年06月27日 | 読書
先週から、日本列島に熱波が来ている。昨日は群馬県の伊勢崎で40℃を超える気温が報告された。6月に40℃を超えるのは、気象観測が始まって初めての事態だ。加えて、6月中というのに東海や関東地方で梅雨明けが発表され、当地方に大雨警報、土砂災害警報が合わせて発表されている。ヨーロッパの熱波はもっと強烈でらしい。ベルギーなどはしばらく40℃を超える日が続いているらしい。テレビの情報番組が、1時間以上にわたってこの現象を特集していた。この現象は、地球の温暖化が背景にある。地上に住む全ての人々がに影響があり、これを阻止するには全ての人々が、今の生活レベルを下げる以外にない。政府や国家を批判しても、結果は変わらない。
昨日、光禅寺の境内に花を見に行ったが、すでに花は咲き終わり、鐘楼の上の空が真夏の到来を告げていた。

菊池寛の続きになるが、畏友志村有弘氏に、芥川と菊池が今昔物語に題材を取った「六の宮姫君」という論考がある。志村氏は大学で「古典と近代作家」や「説話文学」を専修、特に芥川龍之介の文学への論考が研究の基礎になっている。菊池寛の『半自叙伝』や『新今昔物語』を読みながら、志村氏のこの論考を再読するのは、この上ない贅沢である。志村氏がかって北海道の高校で同じ教室で机を並べた仲であることは、その興味をさらに奥深いものしてくれる。

「六の宮の姫君」という物語は、その梗概を記すと、出世から見放された公家の娘が、越前の前司の長男に見染められ貧しい家に通って来る。全く世間知らずの親から期待され、可愛がられるのみの娘であったが、男の魅力に次第に目覚めていく。ところが、男は父が陸奥守に任じられ、遠国に行くことになる。5年の任期だが、その間だけ待つようにと言い残して男は去って行った。男のいない間、父母を亡くした姫君は、家財を売り食いしながら、泣きながら男の帰りを待った。約束の5年が過ぎた。男には常陸守の娘との結婚があり、手紙での姫君とのやりとりも途絶えがちになった。京に帰って男が、待っている六の宮の屋敷を訪ねたが、荒れ放題の家。わずかに人のいる気配の対屋にいたのは年老いた尼であった。かって姫君の身の回りを世話をしていた下女の母で、姫がこの家を出たことを聞く。男は京中を探しまわり、乞食の集まるような場所で姫を見つける。男を見て娘は縋りついたが、その胸の内に儚く死んで行った。

芥川の「六の宮の姫君」が書かれたのは大正11年であるのに対し、菊池が「六宮姫君」を書いたの昭和21年である。書かれた時代も違えば、一読してその文体が大きく異なっていることに気づく。ちょっと男が、京へ帰ったときの部分を記して見る。

六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足の門も、檜皮葺の寝殿や対も、悉今はなくなつてゐた。その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土だけだつた。男は草の中に佇たたずんだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。其処には半ば埋もれた池に、水葱が少し作つてあつた。水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉を簇らせてゐた。(芥川)

が、その邸は変わりはてていた。築地は半ば崩れてしまっていた。四足門の柱は、ただ一つしか残っていなかった。庭には、雑草が、人の背ほども生い茂っていた。泉水の水は乾れて水草が水面一杯に生えていた。寝殿は屋根がなくなったばかりか、床板までが剥がれている。(菊池)

志村は芥川の文体を評して、「彫琢の美」と述べ、また菊池が物語を、男女の相思相愛の話とし、姫君の悲恋物語に仕立てたのに対して、芥川は姫君の臨終の場面を、哀れな女の末路をものの見事に作りあげた、と述べている。新聞や雑誌に受ける話を志向していた菊池の発想は、戦後間もない昭和22年にすでに大衆にアピールする方向に向かっていた。
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菊池寛

2022年06月26日 | 
あのアクシデントから山行がなくなってしまった。登山ロス、仲間たちとの気がるな会話もできなくなっている。戸外の散歩も余りの高温と雨天で思うようにできない。勢い、近所のブックオフの100円コーナーを漁ることになる。河盛好蔵の『作家の友情』のなかに、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄の話が出てくる。3人は第一高等学校の同級生だが、中学時代に経験を積んだ菊池が24歳で、芥川と久米は20歳。年が離れて、なかなか、心が溶けあうところまでいかなかった。一高で事件が起き、菊池は冤罪を被る形で京都大学へ行く。久米と芥川は東大にすんなりと入学した。

当時の京大には,詩の翻訳で名をなした上田敏がおり、菊池はその伝手で文壇への登場を夢にみたようだが、偏狭な上田教授の姿勢に失望する。京都で孤独に沈んでいた菊池を救うのは、東大の芥川や久米などの仲間である。大正5年に、彼らは同人誌「新思潮」を立ち上げ、京都の菊池へも投稿を促した。求めに応じて菊池は「坂田藤十郎の恋」を書き送ってきた。その発刊に芥川は「鼻」を書いて夏目漱石に激賞されることになる。この7月、芥川は東大を卒業すると、海軍機関学校の教官となって、横浜に住んだ。菊池も京大を卒業し、友人の成瀬の家に寄食し、時事新報に入社した。芥川は月給60円を得ることになったが、菊池は25円の月給で下宿もままならず、当面寄食せざるをえなかった。

大正6年から7年にかけて、菊池を待ち受けていたのは流行作家への道である。大正5年、戯曲「父帰る」を新思潮に発表。この年漱石の死去に伴い新思潮は「夏目漱石追慕号」をもって廃刊となる。その後、自身の結婚を経て、「暴君の心理」20枚を書いて初めて稿料を取る身になった。大正7年に「帝国文学」に「悪魔の弟子」、中央公論に「無名作家の日記」を発表。最初の単行本「恩を返す話」を春陽堂から刊行。同年9月には「忠直卿行状記」を発表した。大正8年には、時事新報を退社、芥川龍之介とともに大阪毎日新聞の客員となり、給料を得ながら執筆し、出社という拘束は受けない身となった。1月
、「恩讐の彼方に」を中央公論に発表。同年7月には、芥川とともに長崎の旅を楽しんだ。

菊池寛が「文藝春秋」創刊したのは大正12年のことである。菊池のポケットマネーで始めたもので、ペラペラ紙の28頁、定価10銭、3000部印刷の小雑誌であった。その後この雑誌の売れ行きは驚異的だ。3000部から始まった小雑誌は翌13年の1月に17000部、14年には26000部、15年には110000部という大部数になった。編集者に直木三十五、菅忠雄、斎藤竜太郎らの辣腕を迎え、それを指揮する菊池寛の目利きが物を言っている。時代の流れを読む感覚、人々の心の赴く処を見抜く感の鋭さが雑誌の売れ行きに貢献した。集まってくる文壇のなかで、菊池に愛される者は成長し、彼に疎まれる者は没落していった。菊池は文壇の大御所の地位を築き、大きな勢力を振るうようになる。

文藝春秋社の芥川賞、直木賞が制定されたのは昭和10年のことだ。直木が亡くなった翌年である。芥川が自死を遂げたのは昭和2年である。菊池は『半自叙伝』の最後に、芥川の死に触れた一文がある。「その頃から大正12年頃までが芥川と最も親しく往来した時代で、地震後殊に芥川の死の一、二年前はあまりに芥川を放りぱなしにしておきすぎた。死んでから、今更すまなく思っている。」その頃とは、長崎の旅を指している。若手作家の登竜門としての文学賞に芥川の名が冠されたのは、彼の死についての思いがそうさせているのではないか。直木の死の翌年に両賞が制定されたのは、なおその思いを強くする。
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塩こうじ

2022年06月24日 | グルメ
しばらくぶりにキャベツとキュウリにワラビの塩こうじ漬けを食べた。そのおいしさを改めて知らされた。特にキュウリはその食感、ついた味など絶品であった。初夏の浅漬けの味である。塩こうじがブームになったのは10年ほど前であったろうか。近所の奥さん連中も、スーパーの売り場に少ない塩こうじを競うようにして求めたものだ。その時に買った本が『塩こうじのおかず』。本棚の奥に眠っていた。ブームが去っても、この本にあるレシピで塩こうじを作り続けている。主に魚や肉に塩こうじをまぶしておいて柔らかにするのが目的である。しかし、初夏のキャベツやキュウリの時期になって、塩のかわりに塩こうじを使った浅漬けは、はっとするほどの美味しさだ。

母が唯一のこしたレシピに『三升漬け』というのがある。これは、これから出る辛ナンバン1升、こうじ1升、醤油1升の等量で漬け込むものだ。ナンバンの辛みが効いたこうじの辛みそである。味噌汁に少したらしたり、納豆の醤油がわりにしたり、用途は広い。こうじは日本人が見つけたすばらしい食材である。コロナ禍で免疫力が見直されたが、こうじがこの免疫を増やしてくれるたのもしい味方だ。腸内には体に有益な働きをする善玉菌、有害物質を作る悪玉菌、状況に応じて優勢な菌に見方をする日和見菌の3種類が勢力争いを繰り広げている。そこで取り入れたいのが、善玉菌を増やしてくれる乳酸菌などの発酵食品である。腸内環境を整えるのに塩こうじを使うことは有益である。

塩こうじは野菜の浅漬けばかりではない。豆腐やチーズを塩こうじをまぶしておくだけでおいしい食べ物になる。免疫力の増大に取入れたい食べ物だ。「塩こうじ豆腐」。豆腐はガーゼに包み、皿において重しをして20分ほど水を切る。ラップを広げてその上に塩こうじを平に薄く敷く。豆腐をこのラップで包み、2、3日置いて出来上がり。食べやすい大きさに切って皿に盛り、好みでミョウガの千切りなどを薬味にしてもよい。「チーズ漬け」プロセスチーズ1個。正味200g。チーズに塩こうじをまぶしてラップに包み冷蔵庫で1週間ほど置いて出来上がり。漬かり具合を見る。塩味が馴染んで美味しく感じられのが食べごろ。

冒頭の写真は散歩道で見つけたワルナスビ。ナスの仲間だが、野菜のような実はつけない。花はきれいだが、雑草で、畑にはびこって悪さをするのであろう。
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