懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

井笠鉄道

2012年03月20日 | 鉄道
岡山県に笠岡と井原を結ぶ鉄道があった。
鉄道なので急な登りは避けて山のないコースを走っていたいた。
明治44年7月1日に開業した井笠軽便鉄道である。昭和46年4月1日に廃止となっている。
路線は東は矢掛、西は広島県神辺町まで伸びていたが本線以外は昭和42年に廃線になっていた。

軽便は在来線の軌道より狭いものをさす、井笠鉄道の場合は762mmで通称ナローゲージと呼ばれている。

廃止されることを知って何度が撮影に出かけた。
今回の写真は笠岡市の籤場(くじば)駅の風景です。
籤場駅がどのあたりにあったか地図を見ても痕跡が残っていないのでわからない。
消えたものを再び訪れる事はしたくない。
行って幻滅するより 42年前の記憶のままのほうがよい。

大正時代の木造客車がギコギコ軋ませながら走ったのが懐かしい。
貨物用の木造貨車も味がある。
鉄道ばかり撮るのでなく駅の周辺や沿線の風景も撮るべきであつた。

ホームページを検索すると日本国中の軽便を撮影している人がいる。
世の中には凄い人がいるものだ。昭和30年代から軽便は廃止されているので中学生、高校生の頃から興味を持って行動して撮影しているが素晴らしい。
私はカメラに興味も無かったし買ってもらえる状況でもなかった。








昭和の古い町並み写真展 「通り」 その11  倉敷市茶屋町

2012年03月19日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 「通り」 その11  倉敷市茶屋町

茶屋町の水路脇に古い民家が残っている。
中国銀行の茶屋町支店もこの一角にあった。
本瓦葺きの古い建物だった。今は茶屋町駅前に移転したが、現在のような物騒な時代ならユンボを持ってきて壁を壊され金庫ごと盗まれそうだった。

茶屋町はかっては児島湾の海や干潟で江戸時代には干拓が進んで陸地になっていた。
妹尾から金毘羅往来の道沿いで旅の休憩場所の茶屋が並んでいたのでこの名が付いたと書いてある。

干拓地は水路が縦横に張り巡らされている。田の塩抜きや灌漑、排水、舟による運搬に利用されたと思われた。
杭を打ち造られた水路もコンクリート化され整理集合されたと思われる。
住宅化されるとむしろ排水路としての役割を担っている。

茶屋町はJR瀬戸大橋線の快速も停車し岡山、倉敷にでるのも便利なので住宅化が進んでいる。


茅葺き民家 草棟

2012年03月18日 | 茅葺き民家
茅葺き民家の棟仕舞のひとつに草棟がある。

茅葺き民家を葺き上げてきて棟の部分は接合部なので覆いをしないと雨漏れを起こす。
瓦葺民家でも棟には棟瓦を乗せて雨が降り込んだり沁み込んだりするのを防いでいる。

茅葺き民家は六ツの方法で雨仕舞をしている。
1.置き千木による方法
2.草棟
3.笄棟(こうがいむね)
4.瓦巻き
5.針目覆い
6.竹簾巻き

各雨仕舞の方法について今後写真で紹介します。

今回の草棟は棟に草や植物を植える方法です。別名を芝棟ともクレグシとも言われています。
棟の上が緑の草で覆われている。冬は草も枯れ色ですが五月中ばになると緑になる。
茅葺きの棟に杉皮を敷いて土を乗せ芝やイチハツ、イワヒバ、ユリを植えるものです。
杉皮と細かな根が張り巡らし防水する方法です。
かっては日本各地にあったようですが今は関東や東北に残っているだけです。
耐久性がない事と茅葺き民家の激減で姿を消そうとしている茅葺き民家です。

私は岩手の草棟民家に懐かしさと愛着を感じるが綺麗に形を残している民家が少なくなっているのが残念です。





写真はすべて岩手県

蒸気機関車 倉敷踏切

2012年03月16日 | 蒸気機関車
山陽線の倉敷駅の東の踏切で伯備線からきたD51蒸気機関車の貨物列車を撮影する。

この当時は倉敷駅の北側には改札口がなく寂れた風景だった。
行き交う人はあったのに道は狭く車が脱輪などしなかったものだ。その後、倉敷駅は地上駅になり北側にも改札口ができた。チボリが出来て道も広くなった。

ここは踏切番のいた踏切であったが踏切番の人を入れた写真は撮っていない。
鉄道写真はどうしても線路を向かって走ってくる機関車電車の写真が多い。
街中のゴタゴタ風景のなかでの写真はあまりない。
民家の建ち並ぶところは敬遠される。

しかし、この歳になるとそんな人々の生活くさい風景の中の鉄道がかえって面白いと思う。
看板や人々の服装や乗りもので時代がわかるからである。
こんな場所ならば時間が少しあれば度々撮影できたのにそれをやっていないのはおしい。
なにも蒸気機関車でなくても走ってくる電車や電気機関車を撮っておけば40年もすると面白い写真になったと思う。

投稿動画を見ている踏切ばかり撮影している人がいる。
警笛音と列車の通行風景や音もあって数を撮影すれば面白いものだとおもった。
私鉄のローカル鉄道の踏切が面白い。警笛音が懐かしい。なんでもテーマになるものだ。








昭和の古い町並み写真展 「通り」 その10  倉敷市阿知

2012年03月15日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 「通り」 その10  倉敷市阿知

倉敷の古い旅館、奈良萬の細い路地で撮影していた。
乳母車を押した祖母と孫が通りかかった。
こんな乳母車は見かけなくなった、こんな大きな乳母車は団地住まいでは置き場がない。
折り畳めないので車にも乗らない。
今、こんな乳母車が残っているのは保育所である。乳幼児を五人程乗せて運んでいるのを見る。
乳母という言葉も死語になった。
昔は高貴な人は子に乳を飲ませず乳母にやらせた。
天皇家も美智子妃殿下の時代になりこの悪しき慣習は廃止された。
春日の局は三代将軍、家光の乳母であったと言われている。(見たわけでもないのでないので怪しい事は言えないが)
乳母車は子守役が乗せた車というところからきているのか

減殺はベビーカーと呼ばれているがこれは和製英語でイギリスでbaby carというと小型自動車をさすのだそうだ。アメリカではベビーカーの事はbaby carrigeと言われているそうだ。
折り畳みのベビーカーがアメリカで売り出されたのが1967年だそうだ。昭和40年後半には折り畳みのベビーカーが普及していた。

まだ倉敷の美観地区に観光客は少なかった。観光客は写真に撮りたくない。地元に暮らす人でないと風景に溶け込まない。

美観地区を廃品回収の段ボールを押す老人


茅葺き民家  篠山地方の民家

2012年03月14日 | 茅葺き民家
兵庫県篠山地方の民家を投稿します。

篠山はかって丹波地方の中心地であった。
丹波篠山の名で丹波グりや黒大豆が有名である。
山の中に広い盆地が広がる、高度は150mから180メートルだそうだ。
山の間にどうして広い平地ができたたのであろうかと疑問におもう。
山間部の盆地で平坦な土地はかって土砂でせき止められて湖になりそこへ土砂が流れ込み湖から川が出来て干上がり盆地になるところが多いようだ。
岡山県に蒜山高原というところがあるかっては湖で珪藻土がとれる。珪藻土が産出することでここがかって湖であった事がわかる。
ボーリングをして地質を調査すればむその土地の歴史が判る。

篠山地方は日本の田舎の落ち着きがある。茅葺き民家も点在していたので好きな土地のひとつであった。
茅葺き民家を沢山描かれた向井潤吉氏が篠山の風景が好きで何度も訪れている。

篠山の茅葺き民家の特徴は
1.玄関は妻入りの民家が多い。
2.端正な入母屋で棟には棟木と置き千木を置いている。
 棟木は杉の丸太を二本、置き千木は栗の木が多い。
3.倉には丸い窓がある。
4.丹波地方特有のころびの大きい過分数に見える屋根もある。





山陽新幹線 岡山開業四十周年

2012年03月13日 | 鉄道
三月十五日で山陽新幹線岡山開業が四十周年を迎える。

山陽新幹線岡山開業の日、私は東京駅で始発列車のテープカットを撮影していた。
東北の米坂線を撮影して夜行で早朝に東京駅に着き新幹線ホームでテープカットをまった。

出発ホームは報道陣が大勢いたので向かいのホームから撮影した。
鉄道ファンが10名ほど待っていた。
三月十五日の東京の日の出は五時五十二分だった。
まだ薄暗く三脚にカメラをセットして撮影した。

岡山は開業駅ため始発ホームは東京より人手がはるかに多く一般の見学者は乗降ホームから締め出されていた。
岡山の日の出は六時十五分で東京より二十三分遅い。
まだ暗く写真を見るとフラッシュをたいている。

私は始発列車を撮影してそのあとの列車で岡山に帰った。開業日だったので乗車客には記念絵ハガキが配られた。これをもらうために初日の列車に乗り込んだ。後楽園や岡山城の絵ハガキだった。

新幹線はすべて0系で新幹線を撮影する人も少なかった。
(0系は1964年から1986年まで3216両造られた)
新幹線が出来て間が無かった事で骨董価値がなかった。あの当時のフィルムはフィルム感度が低く新幹線の走行をブレずに撮るのは難しかった。
蒸気機関車など骨董価値のある鉄道風景が沢山あり新幹線は人気がなかった。

しかし、人間不思議なものでなくなるとなると異常な人気になるものだ。
0系新幹線しかりブルトレ、あれだけ走っていた気動車しかりである。
情報手段が発達して情報に左右される人が増えた。人気のある情報が正しいのだと判断する人が増える傾向がある。一杯走っていた頃には将来なくなる事が想定できないものだ。

テープカット


鉄道ファン

昭和の古い町並み写真展 「通り」 その9  鴨方

2012年03月12日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 「通り」 その9  鴨方

撮影場所 岡山県浅口市鴨方町

鴨方には江戸時代陣屋があり玉島から金光、鴨方に抜ける道を鴨方往来と呼ばれている。
現在の鴨方は国道二号線やJR山陽線のある鴨方駅周辺が栄えている。
鴨方往来は国道二号線より北に何キロも離れているので忘れ去られた町並みになっていた。
地元の人は旧来の鴨方を本鴨方と呼んでいる。
私は玉島から金光、鴨方へと田舎道を走った。
昔の道や集落は山に沿って並んでいる事が多い。
山を背にすると北風も強風からも避けられる事や日当たりのよさもあるのであろう。

昭和40年代は土地の用途規制で田の真ん中に新興住宅を建てる事が少なかった。
走っていても古い町並みの判別が容易であった。
本鴨方も大きな庄屋であった民家を改修して公園として整備している。


茅葺き民家 雪降る日

2012年03月11日 | 茅葺き民家

撮影場所 広島県三原市大和町


寒波のさそうな寒い日であった。雪のあるところは避けて雪のない広島県の南部に行った。
しかし、ここは賀茂高原の中、黒い雲と共に粉雪が降ってきた。
傘で粉雪をしのいで茅葺き民家を撮影した。
広島県は寄棟造りで棟仕舞は箱棟が多い。
大和町は三原市に併合されたが高原になだらかな平野の続く日本の農村風景を残す土地である

蒸気機関車  給水塔のある風景

2012年03月10日 | 蒸気機関車
山陰線 豊岡機関区 C57.D51型蒸気機関車


蒸気機関車の時代には給水のため給水塔があった。機関区には必ずあった。
機関区の間隔の長いところでは途中の駅で給水設備があった。
機関区が80km程度にあった。
蒸気機関車の燃料と水はテンダーといわれる貨車を機関車の後ろに牽引している。上段に石炭を搭載し下が水のタンクになっている。
小型の機関車は機関車とタンクが一体になっているのでタンク車と呼ばれている。
タンク車は燃料水の積載量が限られているので走行距離が限られている。

長距離を走る機関車は給水給炭のため20分以上の停車時間があった。

この給水塔は蒸気機関車が去って無用の長物になってしまった。
古いのはレンガ造りのもあって味わいがある。
いまだに撤去もされずに鉄道ファンの撮影対象になっているところもある。
フィルムカメラの時は必要な物しか撮影しなかった。給水塔自体は撮影の対象ではなかった。
蒸気機関車を撮影したらその脇に給水塔があった程度で意識して撮影していない。
いまさら言っても仕方がないが将来消えてなくなる物、大きく変わるものは記録としてむ残すべきだった。

デジカメの時代、給水塔を撮影している者はいないかと検索したら物好きがいる。
日本給水党(塔)というサイトもあった。飲料水の給水塔を撮影している人がいた。

姫路機関区 C57型蒸気機関車


函館本線 倶知安機関区 D51型 蒸気機関車



行橋機関区 9600型無蒸気機関車