懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺民家 坂を登る

2011年09月30日 | 茅葺き民家
茅葺民家を撮影にお邪魔した。撮影場所は差し控えさせてください。
奥さんが荷物を担いで自宅への坂を登ろうとしたので後から撮影しながら追った。
山間地域の暮らしは厳しい。
健康なうちは暮らせても歩けなくなると病院や老人ホームに入らないと暮らせない。
山間地域で暮らすのもまずは水がある事
水は背後に50メートル程の高さの山があれば山が岩清水をふくんでいる。
井戸は縦に掘り下げる方法と横に掘るのがある。
横に掘るのは横穴水と呼ばれている。岩山を人間が入れる高さで横に横に10メートル程掘り進む。
奥を漬物や味噌の貯蔵場にしているところもある。古墳などの石棺のところ夏場は大変涼しい。土の中は一年中気温は18度から20度位で変動は少ない。

削岩機の無かった時代に先人はコツコツとノミと金づちで掘り進んだ。
人が住み暮らすには血の出る苦労をしている。
畑の開墾にしても棚田を造るのは人々の生活の歴史である。
わたしのような会社員だった人間はカメラを持って安気に撮影しているだけである。
それでいて暮らす人々の苦労が判ったような気になる。
恥ずかしい事である。所詮我々のすることは遊びである。









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古い町並み  呉服屋

2011年09月29日 | 古い町並み
撮影 倉敷市東町

呉服屋の前で犬がうろうろ、暑い昼下がり、どこで寝ようかと場所をさがしていた。
店の前で大男が犬の座るのを待ち構えているのでは落ち着いて休めない。
犬は迷惑そうな顔をして店に入った。店に入られては困る、暖簾だけの写真では味わいがない。犬がいてくれないと困る。私も我慢比べ炎天下で石になったつもりで待つ事とした。
なかなか動かないYes We キャンといわせてでも連れてこようとしたがじっと待つ事とした。三十分してやっと看板犬らしく暖簾の脇で座ってくれた。
関東織物の暖簾が見えますが絹織物はやはり関東なんですね。
ところで呉服屋てなぜ言うでしょうか、調べたところ呉機織物(くれはたおりもの)からきているそうで、中国の呉から職人が来て綾織物を織ったのに由来するのでしょうか。
北陸道を走っているといつも気になっていましたが呉羽パーキングエリアというのがあります。呉羽は呉羽紡績のあったところのようです。この名の由来は中国から織物職人が来日し大和朝廷に帰化したとなっています。
呉服屋は絹織物を扱う店だったようです。一方、麻織物や綿織物を扱う店を太物商と言っていたようです。池波正太郎の時代劇を読んでいますと太物商と言う言葉がよくでてきます。絹織物に比べて反物の巻きが太いので太物の言葉が生まれたのでしょうか。
布は昔、租税として納めていたそこから調布の名が生まれたそうです。東京の調布市は布の生産の盛んであった。調はしらべなどの他に「みつぎ」とも読みます。貢物にした布だから調布の名が生まれた。広島県に御調町というのがある。みつぎ町と読みます。(今は尾道に併合された)
和菓子に調布というのがありますが布を折りたたんだ反物のように見えるのでこの名がついたそうです。
話は余談だが租税には他に穀物や労働(力仕事)もあった。赤穂浪士の大石内蔵助の嫡男、大石主税、主税を「ちから」と呼ぶのは多くの人が労働を税として納めていたのに由来するのではと一人考えています。








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茅葺き民家 最上川

2011年09月28日 | 茅葺き民家
最上川は1県1河川の川である。他県に流れていると水利権も問題があり調整が難しい。この川は吾妻山に端を発して山形県の75パーセントを流域面積にして主要都市をほとんど流れている。総延長距離229km
源流は吾妻連峰、私は飯豊山が源流と思いこんでいたが飯豊山からの水は新潟県の荒川に流れている。
最上川の上流、中流域にあった茅葺き民家の写真を添付します。

最上の名前は安土桃山から徳川の時代に山形57万石を治めた最上義光に由来するものであろう。
また最上川を有名にしたのは松尾芭蕉であろう。「五月雨を あつめて早し 最上川」の句であろう。この句も句会で詠んだのは「五月雨を あつめてすずし 最上川」であったそうだ。奥の細道には推敲された句がおさめられている。
他に芭蕉が最上川を詠んだ句には「暑き日を 海にいれたり 最上川」がある。
山形県の宣伝大使は松尾芭蕉しかいないでしよう。山梨に行けば絶対的に武田信玄だし鹿児島は西郷隆盛である。こんなのを持っている県はありがたい。岡山県は桃太郎と有森裕子でしょうか。
福島は野口英世でしょうか
山寺も芭蕉の句で観光客をよんでいるのでしょう、奥の細道に収められている句は「閑ずけさや岩にしみいるセミの声」ですが最初の句は「山寺や岩にしみいるセミの声」だったそうです。
毎日暇していますので図書館から奥の細道のビデオ14巻を借りてきて見ました。
最初は気合を入れていましたが古文で難しいし、この朗読がいい睡眠薬になり寝るくせがついていけません。
芭蕉の奥の細道は神社仏閣、滝や海岸の景勝地、歌枕に詠まれたところを中心に立ち寄っていますが、出羽三山や山寺は江戸時代から多く参拝にきていた古刹だったのが伺えます。
奥の細道は素晴らしい紀行だと思いましたが過去の人の業績を参考にしているのが伺えます。芭蕉に一番影響ほしたのは漂白の西行ではないでしょうか、それと万葉集ではないでしょうか。人間はいきなり独創的になるわけでなく何かにひらめきを貰っていると思います。ピカソはアフリカ原住民の彫刻や絵画に岡本太郎さんは縄文時代の遮光器土偶のデザインに感動したといいます。







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蒸気機関車 花輪線

2011年09月27日 | 蒸気機関車
蒸気機関車 花輪線


花輪線は岩手県の東北本線の好摩駅から秋田県の花輪を経て大館への路線です。
現在、盛岡以北は東北本線の名前も消えてさびしい限りです。
龍ケ森はその当時は駅ではなく昇降の出来る信号所だった、列車は盛岡駅発車だった。
龍ケ森は勾配の厳しい峠になっていて重連、三重連の編成となっていた。
蒸気機関車は線路の規格が低いため大型機関車は入れず8620型が運行されていた。
8620型はハチロクの愛称で呼ばれている。
8620は大正時代の機関車で今も人吉号で頑張っている。

私もその当時は若く鉄道写真はガイドブックを見ながらの撮影が多く、鉄道をどんなテーマで撮影すべきか個性をだす工夫がなかったとおもっている。
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古い町並み  倉敷市下津井

2011年09月26日 | 古い町並み
倉敷市児島下津井のメイン道路です。
昔からの町並みの特徴は道の狭さにあります。
道が狭いということは開発から逃れそれだけ古い風景が残されていると言うにもなります。
海岸沿いの狭い土地に民家が連なっているのが下津井の町並みでした。
昔の道は大八車が交差できる広さがあれば十分でした。
この当時でも町並みの家々はかなり傷んでいます。
木造家屋は100年以上経過すると痛みが目立ち瓦を降ろし垂木の交換などが必要です。
法隆寺や東大寺が今も残るのは再建や解体修復する加護者がいたからです。
財政難で補修するのはやめようことする人がいたら朽ち果てた事でしよう。
姫路城はまた解体修理していますが私が子供の頃にも解体修理して50年後にまたやらなくてはならない。木造建築の維持の難しさ、文化財の維持には金の掛かるものです。
下津井の町並みにも古い家屋が沢山ありましたが保存の動きはなく解体されていきました。
本四連絡橋の建設で下津井は埋め立てられ外周に広い道路が大きく風景がかわりました。。

写真の風景は昭和の匂いをのこしています。
買い物が女性、エプロン姿で買い物籠がお母さんの姿でした。
スーパーに車てで買い物に行くようになってエプロン姿は姿を消しました。
まだレジ袋が一般的でなく籠を持っての買い物でした。

子守する老婆、子供を背負風景が少なくなりました。核家族になりおばあちゃんが子守する風景がすくなくなりました。
動物はすぐに親になり子供を産めなくなると死にます。しかし、人間は長生きで子供を産む期間と産まない期間が同じになりました。嫁への遠慮もあり孫の子育てに関与しなくなれりました。





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茅葺き民家  鏡野町越畑

2011年09月24日 | 茅葺き民家
岡山県鏡野町越畑

鏡野町越畑は岡山県のふるさと村に昭和50年に指定された。
ふるさと村は昔の農村風景が残されている地域を選び農村振興のために設定された。制定されて10年や15年は興味もあり訪れる人もあったが茅葺民家も個人では維持が出来ずトタンを貼った。次第に客も減り民宿や店屋も閉めている。
行政の旗振りをやった人も定年や移動でいなくなり、財政難で経費を大幅削減されている。
リピーターがくるための企画やイベントを手を替え品を替えてやらないと何十年も継続するのは難しい。自然と農村だけがあればいいという人と土産売り場や特産品や自然を利用した遊びがないといやという人がいる。
気まぐれで移り気な客を相手にするのは難しいものだ。観光客と猫の糞は新しい土地を好むし。








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蒸気機関車  伯備線倉敷郊外

2011年09月23日 | 蒸気機関車
伯備線の倉敷駅から1キロほど清音側にいったところでは田園地帯になっている。そこを走る蒸気機関車を撮影した。秋の頃には案山子も立つので一緒に撮影した。
あれから40年以上経過したら風景が一変している。
どこで撮影したのか思い出せなくて車で走ったが住宅が立ち並び送電線の鉄塔や遠くに工場の煙突もあったがそれも眼につかなくなった。

案山子は雀に効果があるのでしょうか、ほとんど効果はないと思う。
生活の慣例としてやっているように思う。

鳥が一番嫌がるのは細い糸、特に透明の釣り糸が一番効果がある。鳥が羽根を痛めると命とりになる。
少し羽根を痛めるだけでバランスがとれず飛べない。飛べない雀は猫やカラスの餌食になる。
鷺が池の鯉を夜食べにくるのでステンレスの細い針金を張ったらぴたりと来なくなった。
雀を追い払うためのガスやカーバイトによる爆音機は騒音が迷惑だった。子供のころは板や竹の筒をぶら下げて紐を引きガラガラと鳴らし雀を追い払った。
雀やカラスには細い紐は効果があってもハトには効果がない。
鳩は飛び上がり着地が垂直に出来る。まるでヘリコプターの離陸、着陸が可能な鳥である。
紐を避けてうまく着陸して豆の芽をちぎって食べる。











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古い町並み  醤油屋

2011年09月22日 | 古い町並み
醤油屋

岡山県高梁市に古い醤油屋があり撮影させてもらった。
店屋の醤油の販売は瓶からの量り売りである。
子供の頃の情景がそのまま残っていた。しかし、瓶には蓋がない。ゴミや蛾、蝿が入らないのか心配になる。
昔は一升瓶を持って買いにいった。一升枡で量り漏斗で一升瓶に移してくれた。
樽や瓶に黄の木栓がしてあってそれを抜いて容器に移すほとんどこぼさず栓をする様子に大人ってこんなことができるのだと妙に感心した。

醤油は味噌と原料がほぼ同じ、味噌の上にたまった液体を調味料として使ったのが醤油の始まりと言われている。一般的に使われだしたのが江戸時代と言われているので比較的新しい調味料である。
夏は冷やしたきゅうりに「もろみ」をつけて食べるのが好きだ。そのもろみは味噌もろみより醬油もろみの方がすきだ。醬油もろみは醬油の絞りカスである。

昔は産業が少なく造り酒屋や味噌屋、醤油屋、材木屋が製造業であった。少し人口の多い町には醬油屋はあった。一万軒はあったと言われている。そんな中で三大醤油産地と言われているのは野田市のキッコウマン、銚子市のヤマサ醤油 ヒゲタ醤油、竜野市のヒガシマル醬油、他にも小豆島のマルキン醬油や和歌山の湯浅町の湯浅醤油が有名である。湯浅町や香川県の引田町には醤油製造にかかわった古い町並みも残っている。
全国的にはキッコウマンが有名だが関西以西ではすこぶる人気がない。塩辛いだけでコクがないという。地元には地元の醬油が一番口に合うのかもしれない。







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茅葺き民家 トウモロコシ

2011年09月20日 | 茅葺き民家
長野県信濃町はトウモロコシ作りが盛んである。
トウモロコシは玉蜀黍と書くそうだ。
トウモロコシはポルトガルから16世紀に持ち込まれたものらしい。
日本にはトウモロコシより先に中国から唐黍が入ってきていた。
唐黍はキビ、コウリャンの類と考えられる。唐から来た黍なので唐黍、蜀黍と書きモロコシと呼ばれるようになった。
唐黍と書いてどう見てもモロコシとは読めない。モロコシは唐土と書き中国の古名である。私の想像では中国からの物なのでモロコシと呼ぶようになったのではと思う。
初めて見るトウモロコシに唐唐黍と付けた。外国から来る舶来品には何でも唐の字をつけた時代である(唐辛子、唐芋)
しかし、唐の字が二つ並ぶのと玉のように光輝く実にモロコシ(蜀黍)を付けて玉蜀黍になった説が強い。
玉蜀黍は三大穀物のひとつで玉蜀黍を主食にしている地域も多い。
三大穀物の年間生産量は米6億1000万トン、小麦6億590万トン、トウモロコシ6億9500万トンでトウモロコシが一番多いが食用油やバイオ燃料になっている物もあり主食にどれほどなっているか不明。
日本にも古くから主食の穀物、五穀、十穀の言葉がある。
五穀豊穣を願った慣わしがあるように食べられる穀物は何でも口にしてきた。
五穀とは米、麦、粟、稗、豆を指す事が多い。不思議と日本にはトウモロコシは穀物として受け入れなかったようだ。東北の岩手などでは米の不作に備え雑穀を植える習慣があり今でも植えているのを目にする。

トウモロコシは各地で呼び名がいろいろあり面白い。
例を挙げると、キビ、トウキビ、セータカキビ、ふくろキビ、コウライ、モロコシ、タカキビ、トウタカキビ、なんばん、ナンバなどである。
近畿圏や四国の一部、岡山はナンバと言う。
ナンバは大阪難波ではなく南蛮の略である。トウモロコシをナンバンと言う地域もあり、ナンバンと言えば唐辛子や「しし唐」を指す地域もある。
南蛮は南蛮菓子や南蛮漬けから南蛮キセルなどの花の名前まであり舶来品の代名詞でもある。
南蛮の言葉は中華思想の四夷の一つで南方の野蛮な国を指す。四夷は周辺の国々を見下し侮辱した言葉でどれも悪字が使われている。
四夷とは東夷(とうい)、北狄(ほくてき)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)
日本でも蝦夷と言うのは未開発の野蛮な土地の差別用語でもある。
差別用語はどこの国にもある。欧米人は日本人のような黄色人種は人間と思っていなかった時代もあった。日本も欧米人を毛唐やアメ公、ロスケと呼んでいた時代もあった。

食物は伝播してきた国や土地、人の名前が付くことが多い。
ジャガイモはジャガタラからかぼちゃはカンボジアからと良く言われている。
サツマイモは九州では唐芋(とういも、からいも) 、鹿児島の人間は言葉を略すので「といも」というので最初はわからなかった。それと甘いのに何で辛イモなのか。
よく笑い話のネタになる。九州の人間は「牛肉食ってうまかという」「これは馬とちがう牛肉じゃ」、「この牛肉うまか」、「何回言えば分るのかこれば牛じゃ」、方言の誤解から生まれる逸話は多い。
我々のところではサツマイモは琉球イモと言っていた。唐→琉球→鹿児島と伝播してきたところの名前がつく典型である。
関西では関東でいうオデンを関東煮(かんとだき)という。伝播元が食べ物に付いた例である。一般的にはオデンは味噌田楽をさしていたと思う。サトイモ、こんにゃく、豆腐を竹櫛に刺し甘味噌をつけたもの。オデンの由来は御田楽(おでんがく)のがくを略した言葉ではないかと思う。







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蒸気機関車 勇払平原を行く石炭列車

2011年09月19日 | 蒸気機関車
撮影場所 北海道 室蘭本線沼ノ端周辺
国産の石炭は閉山寸前で辛うじて夕張や美唄炭鉱が採掘をしていた。石炭列車はどれも長い。
デコイチは1500トンを牽引していた。1500馬力なのでⅠ馬力で1トンを牽引する。
トラックは400馬力で10トンがいいところである。エネルギーの観点から見ると鉄道輸送は省エネである。それは線路と道路の摩擦抵抗の差である。鉄同士の接触の鉄道は摩擦抵抗がない分、坂道では空転を起こす。勾配的には1キロメートルで35メートル登る勾配が限界である。それを35パーミルの勾配という。鉄道勾配の単位はパーミル(‰)千分率で標記されている。 道路ならばパーセントの百分率標記
省エネ的には鉄道だが家から家へのトラック輸送には時間的に勝てず貨物輸送は苦戦を強いられている。。
勇払平原に30年ぶりに訪れた。時期はゴールデンウイーク、流れのある川岸に白い花が沢山咲いていた。なんと水芭蕉ではないか。国道脇に沢山あった。家内は水芭蕉は尾瀬沼に行かないと見えない思い込んでいて、しきりに連れていけと催促していた。その後、東北では民家の脇の小川にごく普通に咲いているのを見て水芭蕉を見に尾瀬沼に行きたいとは言わなくなった。




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