懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺き民家 島根県三刀屋町の民家 モノクロ

2015年01月31日 | 茅葺き民家
国道54号線を広島県から宍道町に走っていると三刀屋町に入り道路から見た民家
敷地内に入らせてもらい撮影していたら知り合いの方がきてゴルフクラブを借りに来たもよう。
田舎の茅葺民家に住む人も金を持っている人や事業をやっている人はゴルフもするであろう。
撮影している私を気にせずゴルフ談議、ゴルフのコースやコンペの事の話に夢中だった。
面白い光景と思い撮影する。

ここでC級川柳をふたつ

1.地下足袋をシューズに替えて芝を読む。

2.鍬を持つその手で明日はクラブ振る。

現役で仕事をしている時に職場の若い女性に地下足袋は地下鉄が開業した時に履いていたからこの名が付いた言ったらウソ―知らなかったとなんでも信じるのだから、冗談も言えない。

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日本茅葺紀行 NO,191  滋賀県永源寺町政所

2015年01月30日 | 日本茅葺紀行
永源寺町に行ってみようと思ったのは川島宙次氏の茅葺民家本の写真を見てからである。
川島氏の時代はほとんどがモノクロであった。
永源寺町の山間部に残る茅葺民家を上から撮ったものであった。
平成の時代に残っているか不安もあったが行ってみると撮影に困らないほど民家があった。
現在も何軒か残っているようだ。
政所の地名が嬉しい。最近は字の付く地名もなくなり、878-1とか書かれた味気ないものになっている。番号で管理する方がパソコンや事務処理に都合がいいのであろう。

永源寺町の民家も平地にある民家は滋賀県の民家である。入母屋で前垂れも付いていた。
しかし、政所に来ると寄棟である。三重県かの影響を受けている。大工や茅葺職人は三重県からきていたのであろうか
それでも面白いのは寄棟で片屋根である。片屋根は滋賀県で時々目にする。
半分が茅葺で半分が瓦屋根、こんな民家は雨仕舞が難しいとおもうが真意の程をしりたいものだ。

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蒸気機関車 井倉周辺

2015年01月29日 | 蒸気機関車
岡山県新見市 伯備線井倉周辺

井倉駅に停車の蒸気機関車の写真を見ていた。
石灰岩の大きな壁が見える。左側には石灰の採掘場がある。
正面は井倉洞である。鍾乳洞の観光地になっている。
岡山のB級グルメを訪ねて玉子かけごはん、津山のホルモンうどん、蒜山焼そばと巡っていた、次は「いくらどう」と聞かれもう私は「いくら」はいくらなんでも食べられないと言ったとか
井倉洞は食べ物ではありませんと大笑いになったそうだ。
写真の正面の頂上は草間台地になっている。
蒸気機関車の煙の上部に蕎麦処の田舎屋がある。
美味しいので新見に来たら立ち寄る。
上から見ると断崖絶壁の上でぞっとする。眼下に井倉の町が見える。
そば屋以外に蕎麦道場があり50人、100人が蕎麦を打てる施設と駐車場を持っている。
この前、イノシシ肉を買いに行く前にも蕎麦を食べに立ち寄った。
ざる蕎麦を食べていた人がいたので冬でも蕎麦はザルとばかり頼んだが山の冷水で洗った蕎麦で味がわからない程冷えていた。冬は暖かいけんちん蕎麦にすべきだった。

雪の降った日に兵庫県の出石蕎麦に立ち寄った。出石は暖かい蕎麦はメニューにない。
雪が降ろうと皿蕎麦のみだ。まだ若かったので美味しく食べたが今だったら厭だろう。

この前訪れた時にここで蒸気機関車を撮ったと昔の事を回想した。
岩壁をバックに走る蒸気機関車を撮った河原は地形が変わり河原が無くなっていた。

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岡山の茅葺き民家  阿波村の民家

2015年01月28日 | 茅葺き民家
岡山県阿波村(現在は津山市)に尾所(おその)桜と言われる大桜がある。
大桜と言っても醍醐桜のような巨木ではない。
大桜は500年は経過しているので日本に古来からある山桜で現在の改良された華やかさはない。去年も見に行ったが健在であった。この頃は阿波村では桃や翁草も咲くので出かける事が多い。
尾所に一軒茅葺民家があった。今はトタンを覆ってしまった。阿波村の中心地より山に登る桜があるので寂しい集落にも人が訪れてくれる。
これからは過疎地は花を沢山植えて人を呼ぶのがいいと思う。
銀杏や藤やモミジを個人が植えているところがある。何かしないと寂しくなるだけだ。




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茅葺き民家 広島県東広島市の民家

2015年01月27日 | 茅葺き民家
東広島市も県道沿いにある茅葺民家、三世代の家族で子供のいる家だ。
人間関係の煩わしさもあって三世代同居も珍しくなった。この家には手押しポンプもある。。
男の子が遊んでいたので撮らせてもらった。
民家は寄棟ので棟は箱棟になっている。




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日本茅葺紀行 NO,190 京都市左京区久多

2015年01月25日 | 日本茅葺紀行
久多は落ち着いた集落である。ここにいるとホットするほど落ち着く。
観光地らしいものが何も無いのがよい。あるのは山間の田園と茅葺民家
もう一度訪れたいが日帰りでは無理だ。
民宿もあるが私は滋賀県か福知山まで戻らないと泊まれるところがない。
京都市と言いながら滋賀県側に抜けるのが楽だ。
京都市内に行くには幾ら峠を越えなければならないか。
残ってもらいたい土地の風景だ。
行くのが不便だからこの風景が残るのかもしれない。



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懐かしい物  背負い篭

2015年01月24日 | 懐かしい物
撮影場所 島根県松江市

島根半島の中央を農免道が横断している。その道路を松江市から一畑薬師の方へ走っていたら背負い篭を置いて作業をしていた女性がいたので声を掛けて撮影させてもらう。
旅の三要素は「見る、探す、話す」地元の人と話す事でいろいろな発見やヒントをもらう。
聞いて知らない事を耳にするのもあるが、聞いた事からヒントを得て自分の活動に生かすのが重要だ。普通の紀行文の作家はこんな事を聞いたの紹介で終わるが司馬遼太郎さんの街道を焼くは見聞きしたことをヒントに入念に調べその背景にあるものも洗いだしている。

背負い篭と使っている人を一緒に撮らせてもらう、篭だけではなくどんな人がどんな格好をして使っているのかが記録てどきたらと撮影させてもらう。
姉さん被りも珍しくなった。地下足袋も珍しい高所作業の鳶職の人しか履かなくなった。
姉さん被りの言葉も死語となった。
円タク、鉄管ヒール、テクシー、寝押しなども聞かなくなった。

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岡山の茅葺き民家  勝山町の民家

2015年01月23日 | 茅葺き民家
岡山県勝山町の古々呂尾にあった茅葺民家
お爺さんの一人暮らしの民家、時代を感じさせる縁側を撮った。
材木には割れが入り時間の長さが分かる。
障子紙も何回貼りかえられたのであろうか
裸の白熱電球がいまとなっては懐かしい。昭和の風景である。
こんな天然素材で生活の痕跡を残す光景もすくなくなってきた。

昔の民家は礎石の上に柱を乗せただけけである。コンクリートで基礎を
造りボルトで固定しないで怖い気もする。
これで地震にも台風にも耐えてきた。
山間部で地盤が硬いので地震が来ても一緒に動くので耐えるのかもしれない。
地震は富士山も高層ビルの乗った地盤全体を揺らすエネルギーを持っているので
個人の家の基礎を少し強固にしても屁の突っ張りだりのように思う。
それより被害は建っている地層の強さと活断層が近くにないかできまる。
私の住んている都市部の洪積平野は土が軟弱なのでどんな被害になるか心配だ。



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茅葺き民家 島根県瑞穂町の民家 モノクロ

2015年01月22日 | 茅葺き民家
島根県瑞穂町は中国山地を越えて浜田道沿いにある。
山間地だが高速道路が走っているので私のところから三時間もかからない。
茅葺民家も少ない地域だが道のあるところ人の住んでいるところは走ってみる。
意味もなく無駄走りも多い。
冬は雪も降るし戦後人口流出の多かったところだ。
石見町の日貫というところに保存家屋がある。それを撮影に行く途中に茅葺民家を探す。
まず二度と来ないであろうと思った。断魚渓という渓谷に立ち寄った。
日本国中、これからどう変化していくかテーマを持って歩けばよいがこれから寿命や身体的なハンディを考えると新しいテーマは思いつかない。
私には茅葺民家しかないのである。
写真は瑞穂町にあった民家、このあたりは棟の下の屋根の上層部を厚く葺くようだ。
現在は石見町や瑞穂町などが合併して邑南町になったようだ。

この夜は浜田市まで足を伸ばし泊まる。
ここの奥さんが浜田漁港で魚を買う時は観光センターではなく少し離れた卸市場で買うと安いと教えてくれた。業者や旅館の人が買うのだが一般の人にも売ってくれる。
観光センターより三割、四割安いと思った。

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日本茅葺紀行 NO,189 京都府網野町の茅民家

2015年01月21日 | 日本茅葺紀行
丹後半島に茅葺民家を探しに行く。
ここは熊笹で葺いた笹葺きが見られる。
天然素材として地域で確保できる茅や笹を使っている。
笹葺の民家も僅かに残っていた
丹後半島の中央部に網の町がありここに茅葺民家が2軒残っていた。
一軒は切妻か入り母屋か判らない形であった。
もう一軒は入母屋だった。基本的には入母屋かと思う。

網野町と言えば南海で選手監督で活躍した野村克也氏の出身地でもある。
野村監督がどんなところで少年期を過ごしたかも興味があり訪れた。
高校ではほとんど無名、契約金はなしで南海にテスト生で採用された。町で初めての
プロ野球選手とし祝ってくれたがプロに入って初めで採用の実態を知る。
ブルペンキャッチャーとしての採用だった。
ブルペンでピッチャーの投球を一生受ける-のが仕事だった。
これはバッティングピッチャとして採用された稲尾和久投手とよく似ている。
ブルペンキャッチから三冠王を取る大打者に成長した。
努力と知恵で勝ちとった浪花節的人生である。
長島や王とはスポットライトの浴びるかたが違う道を歩んだ。



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