英; 仏en et pour soi
das Ansichはan sichを名詞化して出来た言葉。
ドイツ語では an sichという言葉は普通に使われている。「~自体」「~自身」という意味で、「~をそれだけとして見れば」ということである。例えば Die Idee an sich ist nicht schlecht, nur lässt sie sich kaum realisieren.(その考え自体は悪くないが実現の可能性がほとんどない」という風に使われる。従って、カントがDing an sich(物自体)という言葉を作ったのは言葉としては特別な事ではなかった。
しかしこの意味では für sichも、また an und für sich も使われうる。つまりこの3つには違いがないのである。
ヘーゲルはしかしこの3者を区別した。an sichだけをその本来の意味を強めて使い、für sich は「~自体」ということではなく、「自己に対面している」という意味に特化した。そこから、「自己だけに対面している」=独立している、孤立している、という意味が出てくる。又、自己に対面していることは意識の特徴だから「自覚している」という意味も出てくるし、「顕在している」という意味も出てくる。
an sich はそれとの対で「自体的」「本来的」「潜在的」といった意味になる。
an und für sichは元々「絶対的」という意味も持っているが、「顕在化したものが本来の姿になっている」という意味で「絶対的」という意味にもなる。
一般にはヘーゲルの翻訳では、an sichは「即自的」「自体的」、für sich は「対自的」「向自的」、an und für sichは「即かつ向自的」などと訳されることが多いが感心しない。その場の一番近い意味を出して訳した方がいいと思う。
なお、「精神現象学」でも「論理学」でもヘーゲルは an sichと区別してan einemという表現を使っている。an sich がむしろ「潜在的」を意味するのに対して、an einem は「表面に出て身につけている」状態を意味する。etwas an einem habenという言い回しを金子武蔵氏は「自分で具えている」と訳しているが、私はたいていの所で「身につけて持っている」と訳した。寺沢恒信氏もこの違いに気づいていてその訳書『大論理学』1の388頁以下で詳しく論じている。その結論は、後者の場合は「それ自身のもとに」という直訳の下に「〔顕在的に〕と入れる」というものでした。これも間違いではないと思います。
01、Im Herrn ist ihm das Fürsichsein ein anderes oder nur für es; in der Furcht ist das Fürsichsein an ihm selbst; in dem Bilden wird das Fürsichsein als sein eignes füs es, und es kommt zum Bewusstsein, dass es selbst an und für sich ist. (Pänom. S.149)
金子訳・自分だけでの存在は主においてあるときには奉仕する意識にとってひとつの他者であり、言いかえると、自分に対してあるものにすぎないし、また畏怖においては自分だけでの存在は己れ自身に即してあるにすぎないのに、造形においては自分だけでの存在は自分自身のものとして自分に対してあるようになり、かくしてこの奉仕する意識自身が即自且つ対自的にあることを自覚するに至るのである。
牧野訳・〔今までのことをまとめると〕召使の意識が主人の中に自覚的独立存在を見た時、それは他なるものであった。あるいは自覚的独立存在はただ召使の意識の向う側にあっただけである。恐怖を感じた時、自覚的独立存在は〔召使の向う側からこちら側に移ってきて〕召使の意識自身と一体となっていた〔が、まだ対象的に自覚されていなかった〕。形成することによって〔はじめて〕、自覚的独立存在であるということは召使の意識自身のものとなり召使の意識の対象となり、召使の意識自身が絶対的なものだと自覚されるにいたるのである。
2-1、Das Sein ist das unbestimmte Unmittelbare; es ist frei von der ersten Bestimmtheit gegen das Wesen und von der zweiten innerhalb seiner. Dieses reflexionslose Sein ist das Sein, wie es unmittelbar an und für sich ist. (Große Logik, S. 47)
寺沢訳・存在は無規定な直接的なものである。それは本質に対する第一の規定態をも・それ自身の内部での第二の規定態をもまぬかれている。この反省の欠如している存在が、直接にそれ自身で独立してあるがままの存在である。
牧野訳・〔始原を為す〕存在は〔存在なのだから〕直接的なものであるのはもちろんだが、規定を持たない直接者である。そこには〔第二段階の〕本質との対比で表面化する規定もなければ、自己自身の内部での規定もない。この反省無き〔外への反省も内への反省も無い〕存在が完全に無媒介に所与として在る存在である。
感想・これは「大論理学」の本文の冒頭の句です。最後のan und für sichはschlechthinと同じではなかろうか。再版ではan ihm selberと替えられています。つまり、何の根拠もなくただ「そういう事がその存在の表に出ている」という事でしょう。
2-2、Das Sein ist das unbestimmte Unmittelbare; es ist frei von der Bestimmtheit gegen das Wesen sowie noch von jeder, die es innerhalb seiner selbst. Dieses reflexionslose Sein ist das Sein, wie es unmittelbar nur an ihm selber ist. (Suhr. Bd.5, S. 82)
山口訳・存在は無規定な直接的なものである。それは本質に対する規定性から自由である。それ自身の内部でそれが持ちうるどの規定からもまだ自由であるのと同様にである。この反省を欠く存在は、直接にただそれ自身のもとにのみある存在である。
牧野訳・〔ここで謂う所の純粋〕存在は〔存在なのだから〕直接的なものであるのはもちろんだが、規定を持たない直接者である。つまり、それは本質との対比で規定を持たないのみならず、自己自身の中にもいまだに規定を持っていない。〔更に言い換えるならば〕この反省無き〔外への反省も内への反省も無い〕存在が自己の表面に出てきただけの存在である。
2-3、寺沢の解説・B版ではここ〔2-1の下線部〕は「直接にただそれ自身のもとに(an ihm selber)あるがままの存在」というように改められている。A版には"an und für sich"というという表現をB版よりも気軽に使う一般的傾向がある。ここもその一例で「それ自身で独立して」という位の軽い意味だと考えて、そう訳した。だが1831年のヘーゲルにとっては、この表現はもっと重々しい意味をもつものになっていたので、ここのような場合にこの表現を用いることをふさわしくないと考えて、訂正したのであろう。小さな表現上の改変であるが、ヘーゲル哲学の重要な術語の用法に関することであるから、注目しておきたい。(寺沢1、385頁)
2-4. 牧野の感想・①私は初版と再版の詳しい対比的検討をしたことがありませんので、「A版には"an und für sich"というという表現をB版よりも気軽に使う一般的傾向がある」という寺沢の指摘は、感謝してそのまま受け入れます。
②初版のここのan und für sichが再版でan ihm selberと変更されていて、内容は同じだと思うならば、再版のように訳すべきではないでしょうか。それと断った上で。
③ヘーゲルがan sichの代わりにan ihmを使うことはかなり知られていますが、完全に同じ意味かと言うと、そうではないと思います。私見は訳に出しておいた通りです。この一番肝心な点で寺沢も山口も理解が不正確だと思います。
03、寺沢の注解・an sich, für sich, an und für sichはヘーゲルの独自の用語で、大変にやっかいなことばである。きわめて形式的にとらえれば、弁証法的発展の三つの段階をそれぞれ指示しているといえる。すなわち、「アン・ジッヒ」は発展の第一段階としての未分化の統一を、「フュール・ジッヒ」は発展の第二段階としての区別・分離・または否定を、「アン・ウント・フュール・ジッヒ」は発展の第三段階としての、分離を克服した統一・区別によって媒介された同一・否定の否定を意味する。しかし、以上に述べたことは、ただ形式的にこれらの用語の基本的な意味を述べたにすぎず、実際にこれらの用語がヘーゲルによって使われている場合には、それぞれのコンテキストの中でさまざまのニュアンスを含ませて使われているので、そのことを無視して、これらの用語をただ「即自的」、「向自的」、「即かつ向自的」などと訳したのでは、ただ横文字を縦文字に置きかえただけのことで、翻訳したことにはならない。本訳書では、それぞれの場合についてそこで使われている意味をできる限り表現するような訳語をあて、その原語が「アン・ジッヒ」等々であることを示すためにルビをふるという方針をとった。だが、なにぶんにも多様なニュアンスを含んでいる場合が多いので、苦労したわりにうまくいっていないことをおそれている。──
以上は本訳書でこれらの用語を訳すにあたってとった方針であるがしかしどうにも仕方のない場合もある。ここなどがその一例であって、"An-sich"と名詞化して大文字で書いてあり、「即自」と訳す以外に手がない。ここで「客観的な即自」といっているのは、「主観(思考)と無関係に、それだけで独立して、何ものにも影響されないで、しかも運動・変化・発展することなしに、客観的に存在しているもの」というほどの意味である。(寺沢1、381頁)
04、、寺沢の注解・ヘーゲルは、an sichとan ihm(男性または中性名詞をうける場合。女性名詞や複数名詞をうける場合にはan ihrやan ihnen。さらにselbstをつけてan ihm selbstなど)を使いわけている。しかしその区別についてのはっきりした説明をどこにも述べていないので、使用例からその意味のちがいを考えるほかない。これらのことばの使い方はA版でもB版でもことなっていないと思われるので、その区別がもっともわかりにくいと思われる箇所・すなわちB版132頁にでてくる・一つの文のなかに両者が用いられている使用例について考察することによって、両者の意味のちがいを明らかにしたい。
B版132頁は「規定」というカテゴリーについて述べているところであるが、そこにつぎの表現がある。"... sondern die 〔Identität〕, durch welche das Etwas, was es an sich ist, auch an ihm ist;" "Die Bestimmung enthält dies, dass was etwas an sich ist, auch an ihm sei."どちらも大変わかりにくく、従ってまた訳しにくい表現であるが、問題のことばをそのままにしてかりに訳をつけてみるならば、「……そうではなくて、或るものが、よってもってその或るものがan sichにあるところのものでan ihmにもまたあるゆえんの同一性」、「規定は、或るものがan sichにあるところのものがan ihmにもまたあるべきだ、ということを含んでいる」と訳せよう。
まずan sichは、副詞的に使われる場合には「本来的に」とか「それ自体で」と訳すことができ、名詞に直接にくっつけてDing an sichというように使われる場合には「物自体」とか「物そのもの」と訳されるのが普通である。だが「本来的に」ということは、前後関係によっては、「本来はそうなのだけれどもまだ実際にはそうなっていない」という意味をもち、こういう場合には「可能的に」とか「潜在的に」と訳すと意味がよくわかる。an ihmと区別して使われる場合のan sichには、この「可能的」ないしは「潜在的」というニュアンスがあると思う。いっそうわかりにくいのはan ihmのほうである。ところで前記の二番目の表現のすぐつぎに、B版はパラグラフを改めてつぎのように述べている。──
「人間の規定は思考する理性である。思考一般は人間の単一な規定態であって、人間はこの規定態によって動物から区別される。思考が人間の向他存在から・すなわち人間がそれによって直接に他者と連関するゆえんの人間に固有の自然性や感性から区別されてもまたいる限りでは、人間は思考そのもの(Denken an sich)である。しかし思考はまたan ihmにもある。人間そのものが思考であり、人間は思考するものとして定在しており、思考は人間の現実存在(Existenz)ならびに現実性(Wirklichkeit)である。そしてさらに思考が人間の定在のうちにありかつ人間の定在が思考のうちにあることによって、思考は具体的であり・内容と充実をともなうものとしてとらえられるべきであり・思考は思考する理性である。このようにして思考は人間の規定である」(B版132-3頁)。
これは人間を例にとって「規定」の説明をしている叙述であるが、同時にan sichとan ihmとのちがいの説明にもなっている。すなわち前半で「思考そのもの」といわれているのは、人間が動物から区別されるゆえんのものであり、したがってそれは「思考能力」のことだと解せられる。だが人間は、つねに思考能力をもつからといって、つねに思考能力を働かせているわけではない。その限りで「思考そのもの」は「可能的」であり「潜在的」である。──
「思考はまたan ihmにもある」からあとの叙述では、「思考する人間」すなわち「思考能力を現に働かせている人間」のことがいわれている。人間が現実に思考している場合に、思考は「思考一般」ではなくて、内容と充実をともなった具体的思考になるのである。このことを考えると、「思考はan ihmにもある」とは、思考が単に可能性としての能力ではなく、人間が現実に思考することによって思考活動として顕在化していることをいうものと解せられる。
an ihmをそのように解釈して、はじめにあげた二つの使用例にもどると、前者は「或るものが、よってもってその或るものが本来的にあるもので顕在的にもまたあるゆえんの同一性」と、後者は「規定は、或るものが本来的にあるところのものが顕在的にもまたあるべきだ、ということを含んでいる」と解釈することができて、意味が明瞭につかめると思う。わたしはヘーゲルのan sichとan ihmの区別をこのように理解するので、an ihm, an ihm selbstなどがこの意味に使われていると解釈される場合は、例えばここの場合のように、「それ自身のもとに」という直訳の下に〔顕在的に〕と入れることにした。(寺沢1、389-390頁)
参考
01、anの基本的な意味は「~の表面と接触して」ということである。(趣味S.91)
02、名詞の後に付いて、例えば der Begriff an sichとなると、der Begriff als solcher と同じで、「概念そのもの」の意。つまり、「概念を厳密に考えると」という際に使う。(大講座中巻190頁)「それ自体においては」「やかましく言うと」(1956年06月04日)
03、etwas an sich haben = ある事柄を性質として持つ。(初等463頁)
das Ansichはan sichを名詞化して出来た言葉。
ドイツ語では an sichという言葉は普通に使われている。「~自体」「~自身」という意味で、「~をそれだけとして見れば」ということである。例えば Die Idee an sich ist nicht schlecht, nur lässt sie sich kaum realisieren.(その考え自体は悪くないが実現の可能性がほとんどない」という風に使われる。従って、カントがDing an sich(物自体)という言葉を作ったのは言葉としては特別な事ではなかった。
しかしこの意味では für sichも、また an und für sich も使われうる。つまりこの3つには違いがないのである。
ヘーゲルはしかしこの3者を区別した。an sichだけをその本来の意味を強めて使い、für sich は「~自体」ということではなく、「自己に対面している」という意味に特化した。そこから、「自己だけに対面している」=独立している、孤立している、という意味が出てくる。又、自己に対面していることは意識の特徴だから「自覚している」という意味も出てくるし、「顕在している」という意味も出てくる。
an sich はそれとの対で「自体的」「本来的」「潜在的」といった意味になる。
an und für sichは元々「絶対的」という意味も持っているが、「顕在化したものが本来の姿になっている」という意味で「絶対的」という意味にもなる。
一般にはヘーゲルの翻訳では、an sichは「即自的」「自体的」、für sich は「対自的」「向自的」、an und für sichは「即かつ向自的」などと訳されることが多いが感心しない。その場の一番近い意味を出して訳した方がいいと思う。
なお、「精神現象学」でも「論理学」でもヘーゲルは an sichと区別してan einemという表現を使っている。an sich がむしろ「潜在的」を意味するのに対して、an einem は「表面に出て身につけている」状態を意味する。etwas an einem habenという言い回しを金子武蔵氏は「自分で具えている」と訳しているが、私はたいていの所で「身につけて持っている」と訳した。寺沢恒信氏もこの違いに気づいていてその訳書『大論理学』1の388頁以下で詳しく論じている。その結論は、後者の場合は「それ自身のもとに」という直訳の下に「〔顕在的に〕と入れる」というものでした。これも間違いではないと思います。
01、Im Herrn ist ihm das Fürsichsein ein anderes oder nur für es; in der Furcht ist das Fürsichsein an ihm selbst; in dem Bilden wird das Fürsichsein als sein eignes füs es, und es kommt zum Bewusstsein, dass es selbst an und für sich ist. (Pänom. S.149)
金子訳・自分だけでの存在は主においてあるときには奉仕する意識にとってひとつの他者であり、言いかえると、自分に対してあるものにすぎないし、また畏怖においては自分だけでの存在は己れ自身に即してあるにすぎないのに、造形においては自分だけでの存在は自分自身のものとして自分に対してあるようになり、かくしてこの奉仕する意識自身が即自且つ対自的にあることを自覚するに至るのである。
牧野訳・〔今までのことをまとめると〕召使の意識が主人の中に自覚的独立存在を見た時、それは他なるものであった。あるいは自覚的独立存在はただ召使の意識の向う側にあっただけである。恐怖を感じた時、自覚的独立存在は〔召使の向う側からこちら側に移ってきて〕召使の意識自身と一体となっていた〔が、まだ対象的に自覚されていなかった〕。形成することによって〔はじめて〕、自覚的独立存在であるということは召使の意識自身のものとなり召使の意識の対象となり、召使の意識自身が絶対的なものだと自覚されるにいたるのである。
2-1、Das Sein ist das unbestimmte Unmittelbare; es ist frei von der ersten Bestimmtheit gegen das Wesen und von der zweiten innerhalb seiner. Dieses reflexionslose Sein ist das Sein, wie es unmittelbar an und für sich ist. (Große Logik, S. 47)
寺沢訳・存在は無規定な直接的なものである。それは本質に対する第一の規定態をも・それ自身の内部での第二の規定態をもまぬかれている。この反省の欠如している存在が、直接にそれ自身で独立してあるがままの存在である。
牧野訳・〔始原を為す〕存在は〔存在なのだから〕直接的なものであるのはもちろんだが、規定を持たない直接者である。そこには〔第二段階の〕本質との対比で表面化する規定もなければ、自己自身の内部での規定もない。この反省無き〔外への反省も内への反省も無い〕存在が完全に無媒介に所与として在る存在である。
感想・これは「大論理学」の本文の冒頭の句です。最後のan und für sichはschlechthinと同じではなかろうか。再版ではan ihm selberと替えられています。つまり、何の根拠もなくただ「そういう事がその存在の表に出ている」という事でしょう。
2-2、Das Sein ist das unbestimmte Unmittelbare; es ist frei von der Bestimmtheit gegen das Wesen sowie noch von jeder, die es innerhalb seiner selbst. Dieses reflexionslose Sein ist das Sein, wie es unmittelbar nur an ihm selber ist. (Suhr. Bd.5, S. 82)
山口訳・存在は無規定な直接的なものである。それは本質に対する規定性から自由である。それ自身の内部でそれが持ちうるどの規定からもまだ自由であるのと同様にである。この反省を欠く存在は、直接にただそれ自身のもとにのみある存在である。
牧野訳・〔ここで謂う所の純粋〕存在は〔存在なのだから〕直接的なものであるのはもちろんだが、規定を持たない直接者である。つまり、それは本質との対比で規定を持たないのみならず、自己自身の中にもいまだに規定を持っていない。〔更に言い換えるならば〕この反省無き〔外への反省も内への反省も無い〕存在が自己の表面に出てきただけの存在である。
2-3、寺沢の解説・B版ではここ〔2-1の下線部〕は「直接にただそれ自身のもとに(an ihm selber)あるがままの存在」というように改められている。A版には"an und für sich"というという表現をB版よりも気軽に使う一般的傾向がある。ここもその一例で「それ自身で独立して」という位の軽い意味だと考えて、そう訳した。だが1831年のヘーゲルにとっては、この表現はもっと重々しい意味をもつものになっていたので、ここのような場合にこの表現を用いることをふさわしくないと考えて、訂正したのであろう。小さな表現上の改変であるが、ヘーゲル哲学の重要な術語の用法に関することであるから、注目しておきたい。(寺沢1、385頁)
2-4. 牧野の感想・①私は初版と再版の詳しい対比的検討をしたことがありませんので、「A版には"an und für sich"というという表現をB版よりも気軽に使う一般的傾向がある」という寺沢の指摘は、感謝してそのまま受け入れます。
②初版のここのan und für sichが再版でan ihm selberと変更されていて、内容は同じだと思うならば、再版のように訳すべきではないでしょうか。それと断った上で。
③ヘーゲルがan sichの代わりにan ihmを使うことはかなり知られていますが、完全に同じ意味かと言うと、そうではないと思います。私見は訳に出しておいた通りです。この一番肝心な点で寺沢も山口も理解が不正確だと思います。
03、寺沢の注解・an sich, für sich, an und für sichはヘーゲルの独自の用語で、大変にやっかいなことばである。きわめて形式的にとらえれば、弁証法的発展の三つの段階をそれぞれ指示しているといえる。すなわち、「アン・ジッヒ」は発展の第一段階としての未分化の統一を、「フュール・ジッヒ」は発展の第二段階としての区別・分離・または否定を、「アン・ウント・フュール・ジッヒ」は発展の第三段階としての、分離を克服した統一・区別によって媒介された同一・否定の否定を意味する。しかし、以上に述べたことは、ただ形式的にこれらの用語の基本的な意味を述べたにすぎず、実際にこれらの用語がヘーゲルによって使われている場合には、それぞれのコンテキストの中でさまざまのニュアンスを含ませて使われているので、そのことを無視して、これらの用語をただ「即自的」、「向自的」、「即かつ向自的」などと訳したのでは、ただ横文字を縦文字に置きかえただけのことで、翻訳したことにはならない。本訳書では、それぞれの場合についてそこで使われている意味をできる限り表現するような訳語をあて、その原語が「アン・ジッヒ」等々であることを示すためにルビをふるという方針をとった。だが、なにぶんにも多様なニュアンスを含んでいる場合が多いので、苦労したわりにうまくいっていないことをおそれている。──
以上は本訳書でこれらの用語を訳すにあたってとった方針であるがしかしどうにも仕方のない場合もある。ここなどがその一例であって、"An-sich"と名詞化して大文字で書いてあり、「即自」と訳す以外に手がない。ここで「客観的な即自」といっているのは、「主観(思考)と無関係に、それだけで独立して、何ものにも影響されないで、しかも運動・変化・発展することなしに、客観的に存在しているもの」というほどの意味である。(寺沢1、381頁)
04、、寺沢の注解・ヘーゲルは、an sichとan ihm(男性または中性名詞をうける場合。女性名詞や複数名詞をうける場合にはan ihrやan ihnen。さらにselbstをつけてan ihm selbstなど)を使いわけている。しかしその区別についてのはっきりした説明をどこにも述べていないので、使用例からその意味のちがいを考えるほかない。これらのことばの使い方はA版でもB版でもことなっていないと思われるので、その区別がもっともわかりにくいと思われる箇所・すなわちB版132頁にでてくる・一つの文のなかに両者が用いられている使用例について考察することによって、両者の意味のちがいを明らかにしたい。
B版132頁は「規定」というカテゴリーについて述べているところであるが、そこにつぎの表現がある。"... sondern die 〔Identität〕, durch welche das Etwas, was es an sich ist, auch an ihm ist;" "Die Bestimmung enthält dies, dass was etwas an sich ist, auch an ihm sei."どちらも大変わかりにくく、従ってまた訳しにくい表現であるが、問題のことばをそのままにしてかりに訳をつけてみるならば、「……そうではなくて、或るものが、よってもってその或るものがan sichにあるところのものでan ihmにもまたあるゆえんの同一性」、「規定は、或るものがan sichにあるところのものがan ihmにもまたあるべきだ、ということを含んでいる」と訳せよう。
まずan sichは、副詞的に使われる場合には「本来的に」とか「それ自体で」と訳すことができ、名詞に直接にくっつけてDing an sichというように使われる場合には「物自体」とか「物そのもの」と訳されるのが普通である。だが「本来的に」ということは、前後関係によっては、「本来はそうなのだけれどもまだ実際にはそうなっていない」という意味をもち、こういう場合には「可能的に」とか「潜在的に」と訳すと意味がよくわかる。an ihmと区別して使われる場合のan sichには、この「可能的」ないしは「潜在的」というニュアンスがあると思う。いっそうわかりにくいのはan ihmのほうである。ところで前記の二番目の表現のすぐつぎに、B版はパラグラフを改めてつぎのように述べている。──
「人間の規定は思考する理性である。思考一般は人間の単一な規定態であって、人間はこの規定態によって動物から区別される。思考が人間の向他存在から・すなわち人間がそれによって直接に他者と連関するゆえんの人間に固有の自然性や感性から区別されてもまたいる限りでは、人間は思考そのもの(Denken an sich)である。しかし思考はまたan ihmにもある。人間そのものが思考であり、人間は思考するものとして定在しており、思考は人間の現実存在(Existenz)ならびに現実性(Wirklichkeit)である。そしてさらに思考が人間の定在のうちにありかつ人間の定在が思考のうちにあることによって、思考は具体的であり・内容と充実をともなうものとしてとらえられるべきであり・思考は思考する理性である。このようにして思考は人間の規定である」(B版132-3頁)。
これは人間を例にとって「規定」の説明をしている叙述であるが、同時にan sichとan ihmとのちがいの説明にもなっている。すなわち前半で「思考そのもの」といわれているのは、人間が動物から区別されるゆえんのものであり、したがってそれは「思考能力」のことだと解せられる。だが人間は、つねに思考能力をもつからといって、つねに思考能力を働かせているわけではない。その限りで「思考そのもの」は「可能的」であり「潜在的」である。──
「思考はまたan ihmにもある」からあとの叙述では、「思考する人間」すなわち「思考能力を現に働かせている人間」のことがいわれている。人間が現実に思考している場合に、思考は「思考一般」ではなくて、内容と充実をともなった具体的思考になるのである。このことを考えると、「思考はan ihmにもある」とは、思考が単に可能性としての能力ではなく、人間が現実に思考することによって思考活動として顕在化していることをいうものと解せられる。
an ihmをそのように解釈して、はじめにあげた二つの使用例にもどると、前者は「或るものが、よってもってその或るものが本来的にあるもので顕在的にもまたあるゆえんの同一性」と、後者は「規定は、或るものが本来的にあるところのものが顕在的にもまたあるべきだ、ということを含んでいる」と解釈することができて、意味が明瞭につかめると思う。わたしはヘーゲルのan sichとan ihmの区別をこのように理解するので、an ihm, an ihm selbstなどがこの意味に使われていると解釈される場合は、例えばここの場合のように、「それ自身のもとに」という直訳の下に〔顕在的に〕と入れることにした。(寺沢1、389-390頁)
参考
01、anの基本的な意味は「~の表面と接触して」ということである。(趣味S.91)
02、名詞の後に付いて、例えば der Begriff an sichとなると、der Begriff als solcher と同じで、「概念そのもの」の意。つまり、「概念を厳密に考えると」という際に使う。(大講座中巻190頁)「それ自体においては」「やかましく言うと」(1956年06月04日)
03、etwas an sich haben = ある事柄を性質として持つ。(初等463頁)