マキペディア(発行人・牧野紀之)

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否定的統一、die negative Einheit 。cf. 直接的統一

2011年12月20日 | ハ行
 01、寺沢恒信氏の説

 「否定的統一」とは、一般に、統一されている諸要素の自立態が否定されているような統一である。

例えば、水は酸素と水素との統一であるという場合に、水の要素としての酸素と水素とは水という化合物の中で自立態を失っている。だから水(水蒸気)だけを肺の中に送りこんでも、人間は水(水蒸気)から酸素を吸収することができない。これに反して空気は酸素・窒素等の統一であるという場合に、空気は混合物であるから、酸素・窒素等は空気の中で自立態を保っている。だから空気を肺の中に送りこめば、人間は酸素を吸収することができる。この事実に「否定的統一」というヘーゲルの用語を適用するならば、水は酸素と水素との否定的統一であるが、空気は酸素・窒素等の否定的統一ではない、といえよう。

 否定的統一であるような「或るもの」もあれば、そうではない「或るもの」もあるわけであり、だから「或るもの一般」は否定的統一ではない「或るもの」を含んでいる。「或るもの一般の一」とはしたがって「否定的統一」に特有の性格規定ではないということを意味している。(寺澤訳「大論理学2」352-3頁)

  参考

 01、実際、諸種のカテゴリーはそれが数多であるということで純粋カテゴリーと矛盾している。従って純粋カテゴリーはその本質上諸種のカテゴリーを止揚しなければならず、それによって純粋カテゴリーは区別されたものの否定的統一として立ち現れることになる。しかるに、そのようにして否定的統一として立ち現れる時、純粋カテゴリーはそれらの区別〔諸種のカテゴリー〕でもなくなると同時に、先の最初の直接的な純粋な統一でもなくなり、個別となる。(牧野訳「精神現象学」399頁)

 感想・ヘーゲルの用語で分かりにくいものの一つはこの「否定的統一」だが、ここから分かるように、それは「直接的な純粋な統一」と対立した概念で、「区別を否定するという媒介をへて生まれた統一」ということである。(牧野訳『精神現象学』400頁)

 しかし、これはまだ調査中で、最終的な考えではありません。

 02、diese negative Einheit des Denkenns(ズ全集第3巻228頁)

 感想・「運動を含んだ統一」「自己内二分しつつある単一性」ということか。

 03、成そのものにおいては存在も無も、おのおのが等しい仕方で、むしろそれ自身の無としてのみある。成は消失運動としての統一である。無の規定における統一である。──この統一は存在するものとしてあり、換言すれば、存在と無の直接的統一という形態を持っている。これが定在である。(寺沢訳「大論理学1」 114頁。127 頁)

 04、或る物は規定されたものであり、規定態との単一な直接的な統一の内にある。(寺沢訳「大論理学1」 134頁)

05、大きさはまずはじめに連続性と離散性との直接的統一である。量としてそれ〔大きさ〕は、これら両契機の自己へと還帰した統一である。これら両契機のこの否定的統一として大きさは、直接的な(大きさ)すなわち連続的な大きさにおいてはただ消失してしまった区別、ないしは可能的にすぎない区別を身につけて持っている。

 第1に、それは抽象的な連続性と離散性との統一であるだけでなく、連続的な大きさ及び離散的な大きさと見なされた両者(両契機)の統一。第2に、大きさからその統一へと移行していくような規定態ではなくて、大きさが自分の身につけている規定態。(「大論理学1」 219頁)

 感想・ここでは「自己へと還帰した統一」の言い換えである。

06、本質は自己内への無限の還帰だから直接的な単純性(Einfachkeit)ではなく、否定的な単純性である。即ち、区別された契機を通って行く運動であり、自己との絶対的な媒介である。(大論理学第2巻23頁)

 07、相等性と不等性とは外的反省の契機であり、従って自己自身にとって外的なものだから、合体して両者の相等性となって消える。しかし、この相等性と不等性の否定的統一[としての両者の相等性]はそれらの表面に定立されてもいる。即ち、相等性と不等性は潜在的な反省を自己の外に持っており、自己とは違った第3者の相等性及び不等性なのである。(大論理学第2巻37頁)

 08、区別一般はすでに潜在的に矛盾である。というのは、区別は、両規定が一体ではない限りでのみ存在する・そのような両規定の統一であり、──また同一の関係のうちで分離されている規定としてのみ存在する・そのような両規定の分離であるからである。だが肯定的なものと否定的なものとは、否定的統一としてのそれらがみずから自分自身を定立する運動でありながら・この同じ観点において〔両者の〕おのおのが自分を揚棄しておのれの反対のものを定立する運動であるのだから、定立された矛盾である。──両者は排除する反省として規定的反省をなしている。排除する運動は一つの区別する運動であって、区別されたもののおのおのが排除するもの自身として全体的な排除する運動なのであるから、おのおのはそれ自身のうちで自己を排除しているのである。(大論理学第2巻49頁、寺澤訳)

 09、〔二つの〕対立したものは、それらが同一の観点で相互に否定的に関係しあうもの・換言すれは相互に揚棄しあいながらしかも互いに無関心的なものであるその限りで、矛盾を含んでいる。表象は、諸規定の無関心態の契機へと移行するものであるから、この点で諸規定の否定的統一を忘れ、そしてそれとともに諸規定を差異されたもの一般としてのみ保持するのであるが、この差異されたもの一般の親定においては右はもはや右ではなく、左はもはや左ではない、等々である。だが表象は右と左とを実際に自己の前に持つのであるから、表象はこれらの〔両〕規定を、相互に否定しあうものとして、一方の規定が他方の規定のなかにありながら・しかもこの統一のなかで同時に相互に否定しあわないで・それぞれが無関心的に独立して存在しているものとして自己の前にもつのである。(大論理学第2巻60頁、寺澤訳)

 10、事物・主観・または概念は、それぞれ自分の領域のなかで自己へと反省したものとして、それぞれの解消された矛盾であるが、しかしそれぞれの全領域ほまたふたたび規定された・「他の領域から」差異された領域である。こうしてそれぞれは有限の領域であり、かつこの〔有限の領域であるという〕ことは矛盾した領域であることを意味する。かの有限の領域そのものはこのより高度の矛盾の解消ではなくて、それはより高い領域をそれの否定的統一・それの根拠として持っている。それだから、それらの無関心的な多様態における有限な諸事物〔であるということ〕は、一般にそれ自体でみずから矛盾しており、自己へと折りまげられて自分の根拠へと帰ってゆくことなのである。(大論理学第2巻62頁、寺澤訳)

 11、形式づけられた質料または存立をもっている形式は、いまや根拠の自己とのあの絶対的統一であるだけではなくて、定立された統一でもある。〔以上に〕考察された運動は、絶対的根拠がそのなかで自分の〔両〕契機を自己を揚棄する契機として・同時にまた定立された契機として示した運動である。換言すれは、回復された統一は、それら〔両契畿〕の自己と合体する運動において、自己自身から自己をつきはなすとともにまた自己を規定したのである。というのは両者の統一は、否定によって成立したものとして、否定的統一でもあるからである。だからしてその統一は形式と質料との基礎としての・だがしかしそれらの規定された基礎としてのこれら両者の統一であり、この基礎ほ形式づけられた質料であるが、しかし同時にこの基礎〔形式づけられた質料〕は揚棄されたものならびに非本質的なものとしての形式と質料とに対して無関心的である。このような統一は内容である。(大論理学第2巻74-5頁、寺澤訳)

 12、根拠は規定された内容をもっている。内容の規定態は、すでに明らかになったように、形式にとっての基礎であり、形式の媒介に対する単一な直接的なものである。根拠は自己へと否定的に関係する同一性であり、この同一性は自己へと否定的に関係することによって自己を定立された存在にする。〔すなわち〕この同一性は、この自分の否定態において自己と同一的であることによって、自己へと否定的に関係する。この同一性が基礎ないし内容であって、この内容はこのようにして根拠関係の無関心的ないしは肯定的統一をなしており、根拠関係を媒介するものである。

 この内容においては、はじめには、板拠と根拠づけられたものとの相互に対する規定態は消失している。だが媒介はさらに否定的統一である。かの無関心的な基礎のもとにあるものとしての否定的なものは、根拠がよってもって規定された内容をもつゆえんの・基礎の直接的な規定態である。だがさらに、否定的なものは形式の自己自身への否定的関係である。定立されたものは一方では自己自身を揚棄して自分の根拠へと帰ってゆく。だが根拠・本質的な自立態は自己自身へと否定的に関係し、自己を定立されたものにする。根拠と根拠づけられたものとのこの否定的媒介は、形式そのものの固有の媒介・形式的媒介である。形式の両側面はいまや、その一方が他方へと移行するのであるから、揚棄されたものとして一つの同一性のなかで共通に定立される。このことによって両側面は同時にこの一つの同一性を前提するのである。この同一性が規定された内容であり、したがって形式的媒介は自己自身による肯定的な媒介者としてのこの規定された内容へと関係する。(大論理学第2巻77頁、寺澤訳)

 13、この関係がいまやさらに進んで規定される。すなわち、根拠関係の両側面がことなった内容であるその限りでは、両側面は相互に対して無関心的である。それぞれの側面は直接的な・自己と同一的な規定である。だがさらに、両者は根拠と根拠づけられたものとして相互に関係づけられているから、根拠は自分の定立された存在としての他者のなかで自己へと反省したものである。したがって根拠の側面がもっている内容は、まさに根拠づけられたもののなかにもある。またこの根拠づけられたものは定立されたものであるから、根拠のなかにのみそれの自己との同一性とそれの存立とをもっている。だが根拠のこの内容の外に根拠づけられたものはいまやそれの固有の内容をももっており、だからして根拠づけられたものは二様の内容の統一である。

 さてこの統一はなるほど区別されたものの統一としてそれらの区別されたものの否定的統一でありはするが、しかし相互に対して無関心的な〔二つの〕内容規定が存在しているのだから、この統一はそれらの内容規定の空虚な関係・それ自身のもとに内容を欠いた関係にすぎず、それらの媒介ではない。〔この統一は〕二つの内容規定の外的結合としての一ないしは或るもの〔にすぎない〕。(大論理学第2巻83頁、寺澤訳)

 14、現出存在は止揚されることで定立された直接性だから否定的統一であり、自己内存在である。従って現出存在は先ずは現出存在者即ち物という規定を持つことになる。(大論理学第2巻105頁)

 15、精神ははるかに深い意味で「このもの」(Dieses)である。即ち、精神の諸規定が相互浸透する場としての否定的統一である。(大論理学第2巻121頁)

 16、事柄そのものとは次の事を意味する。即ち、事柄の概念はその概念自身の否定的統一〔自己を否定する中で自己同一を貫徹するもの〕だから自己の概念の普遍性を否定して個別性の持つ外面性の中に身を置くという事である。(大論理学第2巻305頁)

 17、理念の否定的統一の中では無限は有限を、思考は存在を、主観性は客観性を汲み尽す。(小論理学第215節への注釈)
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