あれは祭りだった。
え? 僕が今どうしてるかって? 日常へ帰っただけさ。
(1947年夏、ジェームズ・ブロゴスフィア)
なんかボーガスニュースみたいな始まり方だな(主幹さん、怒ってないよね?)。ええと、リンクをあれこれたどりながら、「ブログはもう山を越えた。下り坂だ」みたいな議論をボーッと数日ながめてた。すると愛・蔵太さんのコメント欄で、おもしろい意見を見つけた。
エントリ自体は確かリアルタイムで読んだと思うが、コメントはなぜか記憶になかった。してみると一度読んだエントリを再読するって、けっこう有意義かもしれない。さて本題だ。Tigerさんなる方のコメントである。
考えてみたらブログ・ブームだったんだから、確かに祭りだ。だけどこのコメントの場合、「祭りと日常」という組曲で攻めたのがキモである。
もうひとつ「祭りと日常」って、生活に密着した昔からあるふつうの言葉だ。であるがゆえに批評した対象の現象が、リアリティをもって感じられた。
自分を大きく見せたがる学者や評論家は「ハレとケ」なんていう手アカ系の言葉を使いたがるが、ふつうっぽい日常語で表現したのがよかった。座布団三枚である。
■面白いものを書く人は全員ブログを始めてるぞ幻想
さてここからは私自身の深読みなのだが、実際の図式はこんなにわかりやすくはないだろう(もちろん一面は鋭く突いているが)。
どうゆうことか?
「ブログ(ブーム)は終わった」みたいな議論がされるときって、論者はたいてい面白いものを書く人はすでに参入し終わっているというのを前提にしてる。だけどホントにそうだろうか?
そうじゃないと仮定した場合、少なくとも2種類の人間(ブロガー予備軍)が想定できる。
タイプ1は、仕事で文章を書いてる人たちだ。彼らはふだん書くことで収入を得てるから、「お金にならないのになぜブログなんか書くの?」って考える。(私も以前はそうだった)
この種の人は往々にして、書くだけじゃなく書いたものを元にコミュニケーションするのが面白いんだってのがわかってない。(私も以前はわかってなかった)
たとえば紙の媒体に書いてると、情報はほとんど一方通行だ。読み手の顔が見えないし、見えてないくせにステレオタイプの読者像を想定してたりする。彼らに伝わる読み手の反応はせいぜいこんなふうだ。
「自分の本が○万部売れたなあ。きっとおもしろいと思ってもらえたんだなあ」
「自分が書いた雑誌『○○』の11月号が売れたらしい。ひょっとしたらオレの原稿がウケたのか?(思い込み)」
売れた、売れないの単純な反応ばかり。「あなたの原稿はここがこう面白かったよ」とか、「あそこがイマイチだった」的な情報はフィードバックされない。しかもネットとちがってリアルタイムじゃなく、数字が出るまでにはタイムラグがある。
彼らはある意味、虚像に向かって書いているのだ。だから実像を相手に書くおもしろさに気づけば、ブログにハマる可能性は高い。もちろん彼ら全員が、おもしろいものを書く人ばかりであるはずはないんだけれども。
■「ブームにゃ乗らないぞ症候群」の人はまだ書いてない
かたやタイプ2は、「人と同じことをするのが大きらいだ」って人だ。このテの人は個が確立しており、自分をもっている。だからマスコミが寄ってたかって取り上げるモノやコト(つまりブーム)を見ると、拒否反応を起こす。死んでもブームになんか乗るもんか、って層だ。
「ほう、そうか。ブログなるものが流行ってるのか。じゃあおれは死んでも書かないぞ」
人と同じになりたくない。埋没したくない。だからわざと逆のことをやっちゃったりする。このテの人もまだ参入してない可能性がある。彼らは強い個をもってるから、視点がハッキリしている。「オレはこうだ」、「こう思う」的な個性や主張のあるものを書く確率が高い。
こんなふうにまだ潜在層がいるのだ。気が向いたら続編を書いて「まだこんなやつも残ってるぞ!」ってやるかもしれんが、今日はもう疲れたんで寝るわ。
いや寝ない。まだ全部書き終わってないんだ。
しかもアーリーアダプタ(早い時期に新しいものを取り入れる人)って、私のイメージでは新しいものをおもしろがりはするが、キャラ的に飽きっぽい感じだ。気がつくともう次の新しいものに行ってる、みたいなところがある。なら発掘はしても、カルチャーとして熟成させる機能は果たすのかなあ、てな疑問もわく。
だとすればアーリーアダプタの一部が飽きてブログをやめちゃってても、もう大勢に影響ないんじゃないの? むしろタイプ2みたいな人のほうが、定着させ、発展させるには向いてるはずだ。
そもそも文章を書くって行為は、3年や4年で終わったり始まったりするもんじゃない。スパンが短すぎる。そんなのは社会現象をこれすべて、ブームの構造でしか見られない人の言説だ。
その典型が、ネタのほしいマスコミやマーケッターであり、短サイクルで「次」が来ないと買い替え需要で儲け損ねる業界人なのだ。「○○は終わった」とか言ってる人は、すでに彼らに洗脳されてる可能性があるぞ。あぶないぞ。だいいち私を見ろ。20年も書いてんのにまだ修行中だぞ。(ああそれ才能がないのか)
いやそれはともかく。
狂騒的な祭りは終わったけど、熟成させるための日常はむしろこれから始まるんじゃないの?
え? 僕が今どうしてるかって? 日常へ帰っただけさ。
(1947年夏、ジェームズ・ブロゴスフィア)
なんかボーガスニュースみたいな始まり方だな(主幹さん、怒ってないよね?)。ええと、リンクをあれこれたどりながら、「ブログはもう山を越えた。下り坂だ」みたいな議論をボーッと数日ながめてた。すると愛・蔵太さんのコメント欄で、おもしろい意見を見つけた。
エントリ自体は確かリアルタイムで読んだと思うが、コメントはなぜか記憶になかった。してみると一度読んだエントリを再読するって、けっこう有意義かもしれない。さて本題だ。Tigerさんなる方のコメントである。
読んでておもしろい人って、そもそも、そんな沢山いるものか、と思うわけで、初期の頃はその密度がやはり高かったのではないかと思うのです。
しかし、今は、云い方は悪いですが「たいしておもしろくもない沢山の人々の『それこそ普通の』ブログ」^^; がわらわらわらと出てきていて、その中で、キラリキラリと光るブログがごくごくたまにいくつかあるという、いわば、日常の状態になりつつある、というように思います。
それを終わったと云うならそうかもしれませんが、正確には、終わりを迎えつつあるのは「祭り」で、その後には、長い「日常」の始まりがあるのだと思います。
●愛・蔵太の少し調べて書く日記『ヤバい、というかブログ全体がもうヤバい』コメント欄より
考えてみたらブログ・ブームだったんだから、確かに祭りだ。だけどこのコメントの場合、「祭りと日常」という組曲で攻めたのがキモである。
もうひとつ「祭りと日常」って、生活に密着した昔からあるふつうの言葉だ。であるがゆえに批評した対象の現象が、リアリティをもって感じられた。
自分を大きく見せたがる学者や評論家は「ハレとケ」なんていう手アカ系の言葉を使いたがるが、ふつうっぽい日常語で表現したのがよかった。座布団三枚である。
■面白いものを書く人は全員ブログを始めてるぞ幻想
さてここからは私自身の深読みなのだが、実際の図式はこんなにわかりやすくはないだろう(もちろん一面は鋭く突いているが)。
どうゆうことか?
「ブログ(ブーム)は終わった」みたいな議論がされるときって、論者はたいてい面白いものを書く人はすでに参入し終わっているというのを前提にしてる。だけどホントにそうだろうか?
そうじゃないと仮定した場合、少なくとも2種類の人間(ブロガー予備軍)が想定できる。
タイプ1は、仕事で文章を書いてる人たちだ。彼らはふだん書くことで収入を得てるから、「お金にならないのになぜブログなんか書くの?」って考える。(私も以前はそうだった)
この種の人は往々にして、書くだけじゃなく書いたものを元にコミュニケーションするのが面白いんだってのがわかってない。(私も以前はわかってなかった)
たとえば紙の媒体に書いてると、情報はほとんど一方通行だ。読み手の顔が見えないし、見えてないくせにステレオタイプの読者像を想定してたりする。彼らに伝わる読み手の反応はせいぜいこんなふうだ。
「自分の本が○万部売れたなあ。きっとおもしろいと思ってもらえたんだなあ」
「自分が書いた雑誌『○○』の11月号が売れたらしい。ひょっとしたらオレの原稿がウケたのか?(思い込み)」
売れた、売れないの単純な反応ばかり。「あなたの原稿はここがこう面白かったよ」とか、「あそこがイマイチだった」的な情報はフィードバックされない。しかもネットとちがってリアルタイムじゃなく、数字が出るまでにはタイムラグがある。
彼らはある意味、虚像に向かって書いているのだ。だから実像を相手に書くおもしろさに気づけば、ブログにハマる可能性は高い。もちろん彼ら全員が、おもしろいものを書く人ばかりであるはずはないんだけれども。
■「ブームにゃ乗らないぞ症候群」の人はまだ書いてない
かたやタイプ2は、「人と同じことをするのが大きらいだ」って人だ。このテの人は個が確立しており、自分をもっている。だからマスコミが寄ってたかって取り上げるモノやコト(つまりブーム)を見ると、拒否反応を起こす。死んでもブームになんか乗るもんか、って層だ。
「ほう、そうか。ブログなるものが流行ってるのか。じゃあおれは死んでも書かないぞ」
人と同じになりたくない。埋没したくない。だからわざと逆のことをやっちゃったりする。このテの人もまだ参入してない可能性がある。彼らは強い個をもってるから、視点がハッキリしている。「オレはこうだ」、「こう思う」的な個性や主張のあるものを書く確率が高い。
こんなふうにまだ潜在層がいるのだ。気が向いたら続編を書いて「まだこんなやつも残ってるぞ!」ってやるかもしれんが、今日はもう疲れたんで寝るわ。
いや寝ない。まだ全部書き終わってないんだ。
しかもアーリーアダプタ(早い時期に新しいものを取り入れる人)って、私のイメージでは新しいものをおもしろがりはするが、キャラ的に飽きっぽい感じだ。気がつくともう次の新しいものに行ってる、みたいなところがある。なら発掘はしても、カルチャーとして熟成させる機能は果たすのかなあ、てな疑問もわく。
だとすればアーリーアダプタの一部が飽きてブログをやめちゃってても、もう大勢に影響ないんじゃないの? むしろタイプ2みたいな人のほうが、定着させ、発展させるには向いてるはずだ。
そもそも文章を書くって行為は、3年や4年で終わったり始まったりするもんじゃない。スパンが短すぎる。そんなのは社会現象をこれすべて、ブームの構造でしか見られない人の言説だ。
その典型が、ネタのほしいマスコミやマーケッターであり、短サイクルで「次」が来ないと買い替え需要で儲け損ねる業界人なのだ。「○○は終わった」とか言ってる人は、すでに彼らに洗脳されてる可能性があるぞ。あぶないぞ。だいいち私を見ろ。20年も書いてんのにまだ修行中だぞ。(ああそれ才能がないのか)
いやそれはともかく。
狂騒的な祭りは終わったけど、熟成させるための日常はむしろこれから始まるんじゃないの?
今は、日常はコンビニ弁当ばかりだけど、選べばいつでも美味しいものを食られる、って感じでしょうか。
売り場が広すぎて、
なかなかコンビニ弁当しか視界に入らないんですよね。SBMとか使ってても。
で、たまたま手当たり次第、アトランダムにリンクを辿ってみると、
1ブックマークもされてない未知の当たりエントリにぶつかったり。
そう考えると発掘の問題って、実はシステムや技術の話じゃなく
「偶然」って要素が大きいのかなあ、と逆説的なことを考えてみたり。
いやむずかしいですねえ。